再会
母の焼いた骨を受け取ったあとは、実家の遺品整理に追われる日々を送った。
母がひとりで暮していたとはいえ、何十年もの月日を経た古い家には膨大なものが山積していた。台所と母が寝起きしていた居間はある程度片付いていたが、放置された和室がいくつかあった。押入れの中からは隼人が暮らしていた頃からある古い石油ストーブや学用品まで出てきて、思わず見ないふりをした。
領収書をためこむ癖のあった母のおかげで、無数の紙切れに目を通すところから始まり、携帯電話やら健康食品やら契約を切るためにあちこちに電話をかけた。
ほとんど外にも出ず作業に没頭していると、綾女が訪ねてきた。東京で生活しているときは自炊もしていたが、葬式以来、その気力もなかった。綾女はため息をついたあと、「そんな腐った顔してんと」と言って、強引に隼人を連れ出した。
綾女がむかったのは近所の居酒屋だった。よく通っていた道なのに、以前何の建物が立っていたのかも思い出せない。
にぎやかに酒を酌み交わす人の姿を眺めていると、黒い靄のようなものが自分の身体を覆っていたことに気づく。人の死は、生きている人間を死の間際まで引きずりこもうとする。肉親の死がこの身をそぎ落とそうとしている。綾女の手がそれをかろうじて食い止めてくれている。
これまでに何度か人生を転がり落ちたことがあったが、死のうと思わなかったのは母がいたからだ。嫌になるほど父とよく似た風貌の自分が死ねば、母の悲しみがどれくらいのものかということは容易に想像できた。
綾女の指が頬に触れた。思わず体を引くと、彼女は眉を下げていた。
「髭くらいそらんと。男前が台無しやで」
そう言って手のひらでわざとらしく髭をこする。「隼人もいつのまにかオヤジやな」と言って笑い出したので、隼人も肩を揺らして笑った。
「ちゃんとしたもん、食べてへんのやろ。うちが作っていったろか?」
喧騒の中で綾女の声が静かに鳴る。優しい響きの中に、彼女の家族の存在を感じる。母親が亡くなってからは父子二人暮らしだった。とっくに愛想を尽かされてもおかしくないくらい金遣いの荒い父親だった。いつも実家ではないどこかへ帰っていくことを考えると、綾女も結婚をして、家を出ているかもしれない――
焼き鳥をほおばる顔を見つめながら勝手に詮索していると、隼人の口に串を押しこんできた。
「なんでそんな顔するんや。うちの作ったもん、食われへんて言うの?」
返答しようにも鶏肉が口の中をふさいでいる。ビールで流しこんで咳をすると、綾女はますます顔をよせてきた。甘い花のような香りに嗅覚が反応する。
「そうじゃなくて、旦那がいるんじゃないかって思っただけだ」
「前はおったよ」
「前?」
隼人が素っ頓狂な声を上げると、綾女はケラケラと笑いながら手のひらをふった。
「おばさんから聞いてない? 半年一緒に住んで、それでしまいや」
初めて聞く話だった。はすむかいの斉藤さんがどうとか、くだらない世間話は延々としていたのに、いつ頃からか母は綾女の話を避けるようになった。先に嫌がったのは高校時代の自分だったかもしれないし、あの頃の記憶はどうにも薄い。
綾女の青春時代を、隼人は知らない。隼人自身も、空白の十六年間を話したいとは思わない。見えない地雷があちこちに埋められていそうで、思うように会話も進まない。
グラスに映る不甲斐ない自分の姿を見つめながら、重い口を開いた。
「今は……誰かいいやつがいるのか」
綾女が目を丸くする。くっきりとした二重瞼の奥から瞳が転がり落ちそうなほどだ。
「うちのこと気にしてくれてんの?」
「そりゃあ、まあ」
胸の奥が何だかもやもやとして、再びビールを流しこむ。するとむかいに座った綾女がおもいきり肩を叩いてきた。
「いややなー。それやったらはよゆうてよ。添い寝しに行ったげるのに」
「おふくろの布団でか?」
そう切り返すと、綾女は笑い声をあげた。その勢いでチューハイを飲みほして追加の注文をする。隼人もうながされてビールジョッキを空にし、同じものを頼む。ほどよく回ったアルコールのおかげで、綾女への罪悪感も少し和らぐ。
幼い頃のくだらない話をしながら、つぶさに彼女を観察する。整えられた眉や、化粧に隠された小さな染みは年相応だけれど、隼人を惹きつけてやまなかった生命のエネルギーは全く損なわれていない。
八重歯を見せて笑う綾女を見つめながら、一度は伴侶になった男も同じ顔を見つめていたのかと考える。あの小さな肩や白い肌をなでたのかと思うと、心臓が焦げつくように痛む。
けれどその痛みも一瞬のことで、アルコールを注げば麻痺してしまう。
ずっとそうやって生きてきた。父が亡くなった時も、叔父が亡くなった時も、悲しみにくれて泣いている余裕などなかった。一日でも早く大人になって誰にも頼らず、自分の足で立ちたかった。東京でひとりになっても、実家に帰ることはプライドが許さなかった。
現実の自分は理想からかけ離れたところに生きている。離職に近い形で有給休暇を申請し、地元に舞い戻ってきた。母の死は口実にしかすぎず、今の職場を辞めたがっている自分がいたのも事実だ。
学習塾での深夜に及ぶ残業、手当の出ない休日出勤、奉仕という名のただ働き――唯一の救いは慕ってくれる生徒たちの笑顔だったけれど、それを心の支えにできないくらい体は疲弊していた。
有給休暇を申請したとき、稼ぎ時である夏期講習の最中に一週間も休めば戻る場所がなくなることはわかっていた。職を失う恐怖はあったが、どこか安堵している自分もいた。
追加のビールが運ばれてきて、あらためて乾杯をした。あれほど傷つけた綾女が以前よりも明るい笑顔で迎えてくれたことに、わずかな違和感をぬぐえないでいる。
もう考えるのはよそう、ともかく明日からも遺品と書類の整理に追われる――と考えていたところに、豪快な笑い声が聞こえた。
思わずそちらをふりむくと、にぎやかな集団の中から、男がひとり立ちあがった。
糊のきいたシャツに袖を通し、ネクタイの首元をゆるめた男が一気飲みを始める。
真っ黒な髪を短く刈り上げたその風貌に見入っていると、ふと目が合った。
男の瞳の奥が光った気がした。次の瞬間、耳をつんざくような大声がとんだ。
「隼人やないか!」
体格のいい男はそう言うなり座敷の集団からとびだして、革靴を履くのもままならないまま、隼人たちのテーブルにかけこんできた。
「なんやあ、おまえら水臭いなあ。戻って来てるんなら、俺にも声かけてくれよ」
なあ綾女、と言いながら彼はなれなれしく彼女の肩に手を乗せた。体は大きいのに口元にえくぼを浮かべる人なつっこい笑顔が、記憶の線を結ぶ。
「……大輔か?」
「小学校卒業して以来やなあ! 相変わらず秀才面して、いっこも変わってへんな!」
そう言って隼人の肩を叩き始めたのは、幼友達の
「おまえんとこのお母さんが亡くなった言うて、うちのおかん、えらいへこんでたんや。急なことで大変やったなあ。東京から来たんか? 仕事はどうしてるんや」
「実家をあのままにしておけないし、少し片づけようと思って有給を取ってきたんだ」
「ここにはいつまでおるんや?」
「週明けには戻るつもりだけど」
「ほんならいっぺん二人で飯行こや。話もたんまりあるしなあ。そや、あいつもきとるんや」
大輔は勝手に話を進めてしまうと、座敷にむかって手をふった。店中に響きそうな大声で「やっぱり隼人やでー!」と叫ぶ。東京では決してなかった慣れ慣れしいやりとりにうんざりしながらも、懐かしく感じている自分がいた。
喧騒のむこうから姿を見せたのはロングの巻き髪をアッシュカラーに染めた、派手な女性だった。
記憶に存在する誰とも像を結べず、綾女に助け船を出すと、彼女はぼそりとつぶやいた。
「琴菜や。黒縁めがねにおさげの、
そう囁いたが、その女性は「それを言わんといてよ」と言いながら隼人に近づいてきた。
店内の照明が薄暗いこともあって、表情がはっきりと見えない。隼人が首をひねっていると、彼女はすぐそばまで顔をよせて、目の上に指で丸を作った。
「小六のとき、一緒に図書委員やったやん。あたしがどんくさくて、かばん忘れて図書準備室に閉じこめられたんや。おぼえてへんの?」
酔いの回った脳で記憶を掘り起こす。小学六年の時、たしかに図書準備室に閉じこめられたことがあった。ひとりではなくて、さめざめと泣く女子がいた。めんどくさいことになったと思って必死になってドアを叩いた。あの時の黒縁眼鏡の女子が、牧琴菜――
「嘘だろ……別人じゃないか」
「あたし、一時期関東に住んでたんだ。だからそっちの言葉も話せるよ」
突然、標準語に切りかわった。わざとらしく髪をかき上げると、大輔が彼女の背中を押した。
「おまえの東京ことばなんか、胡散臭くてかなわんわ」
「うっさいなあ。あんたが弁護士やってる方がよっぽど胡散臭いわ」
眉間に皺を寄せてそう言うと、大輔の腹のあたりに肘鉄をくらわせた。その遠慮ないやり取から、二人がそれなりの仲なのは想像できた。
大輔は無遠慮に隼人の隣に座ると、店員にビールを注文した。綾女の隣には琴菜が座る。大輔の大きな図体のせいで、周囲の酸素が途端に薄くなる。
ビールジョッキが四つ運ばれてくると、彼はテーブルの皿を押しのけて配り始めた。
「今夜は俺のおごりや! 隼人との再会にかんぱーい!」
ひときわ大きな声で叫ぶと、どこからともなく歓声が上がった。座敷の連中どころか店員まで手を叩き始めて、大輔がこの店の常連だということがわかる。
「こいつ酔うたらめんどうなんや。適当に合わしといて」
むかいに座った綾女がこっそり耳打ちをしてくる。うなずこうとした途端、大輔に肩を取られた。うながされるままにビールを一気飲みをする。
炭酸の気泡が喉の奥ではじけている。調子づいた大輔が何やら綾女と話しているが、聞きなれない人名ばかりで隼人はついていくことができない。
彼らとの間に時間の隔たりを感じて、ただ相槌をうつことしかできなかった。
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