土手

 二十二年ぶりの一級河川には、あの頃と変わらない風が吹いている。


 まだ昼前だというのに夏の太陽はじりじりと熱量を増し、隼人の皮膚を焼いていく。住み慣れた東京に比べて空が広く、分厚い入道雲が山のむこうから迫ってくる。湿り気のある風にのって、草のあいだからむせ返るような土の香りが立ちのぼる。


 塾講師という職業のおかげで日中のほとんどを室内で過ごす隼人には、七月の熱気ですら体にこたえる。子供の頃は毎日のようにこの川べりで遊んだというのに、なんと情けないことかとため息をつく。この土地独特の汗をしぼりだすような湿気に負けてネクタイをゆるめると、うしろから女性の声が聞こえた。


「やっぱりここにおった」


 土手を下りてきたのは綾女だった。喪服姿だというのに、陽の光を浴びる彼女の姿は健康的に輝いている。


「明日の段取りがあるから戻ってきてほしいって、式場の人が言うてたよ」

「よくここにいるってわかったな」

「昔っからおじさんに怒られてはここに来てたやん。いっこも変わってへんなあ」


 そう言って綾女は笑う。チラリと見える可愛い八重歯が十代の頃の彼女を思い出させる。

 ぬるい風が吹いて彼女の髪が流れる。土手のすぐ上を車が行き来するせいで、風には排気ガスのにおいが入り混じっている。


 隼人が重い腰を上げて伸びをすると、綾女も同じように腕を上げた。


「あーあ、明日も着なあかんのに、こんなに草つけて」


 そう言いながら隼人の尻をはたいた。幼なじみとはいえ、月日を感じさせないその遠慮なさに驚いて身を引くと、綾女は笑い声を漏らした。


「うちのお母さんが死んだ時も、おんなじやったな」

「あのときも草まみれだったっけ」

「下ろしたての服にくっつき虫つけまくって、おばさんにえらい怒られてたやん」


 そう言って綾女はまた体を叩いてくる。隼人が「怒られてばっかりだな」と笑い出すと、綾女は笑いながら隼人の腕にしがみついて土手を登り始めた。


 綾女は六歳のときに母親を亡くした。実家がむかい同士ということもあって、隼人の母がその後も綾女の世話を焼いていた。


 数日前、東京に住む隼人のもとに母から電話があった。「入院せなあかんらしいけど、たいしたことないから、戻ってこんでええよ」と力のない声で言っていた。

 真に受けていつも通り過ごしていたら、翌日母は亡くなった。あまりに突然のことで病院から「お母様が亡くなられました」と連絡を受けたとき、「誰の母親ですか」と聞き返してしまったほどだ。


 ここからすぐのところに大きな葬儀場があって、地元の人間はみなそこで葬式をあげる。隼人の母も同じく、病院にかけつけたときはすでに手筈が整えられていた。


 最後を看取ったのは親戚の人間ではなく、綾女だった。数ヶ月前から体調を崩していた母のもとに通っていてくれていたことを知ったのは、葬式の段取りがついたあとだった。


「世話ばっかりかけて悪いな」


 隼人がそう言って綾女の黒髪をなでると、彼女は頬をゆるめて笑った。


「隼人が戻ってきてくれて、きっとおばさんも喜んでるわ」


 整えられた眉がゆるやかなカーブを描く。


 綾女と会うのは十六のとき以来だ。その時から今日まで一度もこの地を踏んでいない。あの時期、一度でいいから戻ってこいと母から何度も電話があったのに、隼人は帰らなかった。直面しなければいけない現実が恐ろしくて、綾女から逃げ続けた。


 それなのに彼女の笑顔は変わらない。過ぎた年月の分だけ、肌の色は失われているけれど、女性の色香をました彼女の瞳を、まっすぐに見ることもできない。


 隼人が乗ってきた車のドアを開けると、綾女はすいっと体をかわした。


「うち、これで来たし、先戻っといて」


 そう言ってそばにあった自転車を指さす。今朝、会場に行く時も車に乗るかと誘ったのに、かたくなに断られた。笑顔はゆるやかでも、見えない壁が彼女とのあいだを阻んでいる。


「おいていけよ。あとで俺が取りに来てやるから」

「ええって、すぐそこやし。それより、そのしゃべり方どないかならへんの?」


 喪服のロングスカートをひるがえしてサドルにまたがる。隼人が自分を指さすと、綾女は眉根をよせた。


「そうや、その都会語。顔おんなじやのに、気色悪いわ」

「そうは言ってもなあ。二十年も関東に住んでるんだから、そんなすぐには戻らないよ」

「もうそんなに経つねんな」

「人生の半分以上、東京に住んでることになるな」

「そやけど、中身は変わってへんで安心したわ」


 綾女は黒いハイヒールをペダルにかけると、勢いよくこぎ始めた。往来する車のすき間を鮮やかにすり抜け、あっという間に土手の反対側へ滑り降りていく。


 姿が見えなくなってから、隼人は車に乗りこんだ。


 十歳のときに父が病死し、隼人は叔父を頼って東京の私立中学へ進学した。独身で他に身寄りもなかった叔父は隼人のことを実の息子のように可愛がってくれた。


 彼が生きていて経営していた会社が存続していれば、そのあとを隼人が継ぐはずだった。

 けれど現実はうまくいかない。バブル崩壊後のデフレの波にもまれ、会社は倒産した。当時羽振りのよかった叔父は瞬く間にその身を落とし、自殺とも疑いかねない事故死を遂げた。


 期待していた資産はこれっぽっちも残されていなかった。養子にしてやるという約束も反故になっていたことを、叔父が死んでから知った。


 東京の大学に進学が決まった頃だった。結局、成功することもできず、地元に帰る気にもなれず、だらだらとあの巨大な街に身を潜めるようにして生きてきた。


 綾女のはつらつとした笑顔を見ていると、自分はいったいどこで人生の歩むべき道を踏み外したのだろうかと考えてしまう。


 綾女は「変わってへん」と言うけれど、彼女が期待している過去の自分などかけらも残っていない。三十二になって昇進もせず、結婚願望もなく、未来へのあてもなくただ生きているだけの人間だ。あの大都会の中では、陽の光があるときだけ姿を見せる影のような存在だ。


 サイドガラスを開け放して、車内の熱気を外へ逃がす。音を立てて作動し始めたエアコンの風に、生臭いあの河のにおいが混じっている。


 子供の頃は、台風が来るたびに氾濫していた一級河川も、今はその面影もない。河のあちこちに中洲があり、大きな白いサギが羽根を休めている。「日本一汚い河」の称号を幾度もとったことは、東京に進学してから知った。その汚名を聞かされた途端、自分まで薄汚れている気がした。


 けれど中流域にあたるこの土地では水の透明度も高く、魚の群れを見つけることもできる。釣りをしている人もいる。泳いだってなんてことはなかった。


 春にはツクシやヨモギをつんだし、友人たちと連れだって段ボールで土手すべりをした。

 地元の人間は「汚い河」というよりは、数年に一度は必ず「氾濫をおこす河」として恐れていた。隼人自身も、この河で命を落としかけている。


 あの河は今も生きている。時折、生命を飲みこんでしまう、その生臭ささが漂っている。


 本当の恐ろしさなんて全ての人間には伝わらない――そう考えながら隼人は車を発進させた。

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