影さえ消えたら

わたなべめぐみ

1.消失

序章

 十歳の秋、隼人はやとは濁流の中にいた。


 それは神宮祭の夜だった。町内のこども神輿を引いたあと、法被を脱ぎ捨てて増水した河を見に来ていた。母親はみな祭りのことで忙しく動き回り、父親たちは陽気に酒を酌み交わしていた。病床にある父の様子を見るため、母は自治会館と自宅を何度も行き来していた。


 友人たちの親は誰もが威勢よく神輿をかついでいるのに、どうして俺の親父は――と考え始めると居心地が悪くなって、大人の目を盗んで抜け出してきた。


 晴れた日には泳いだこともあるその河は、夜の闇の中でうねりを上げていた。

 むかいに住む綾女あやめがしりきに「はよ帰ろうよ」と言っている。


 無視をして隼人は土手を下りていく。聞きなれない激しい水音が隼人を恐怖へ導く。胸の底からじわじわとわいてくる奇妙な震えをこらえようと唾を飲みこむ。遊びなれたこの川べりを歩くことなど、夜でも何ともない、と肩をいからせる。


 綾女が追いかけてくる。「こっちくんなよ」と言ったその時、綾女の帽子が風に舞い上がった。

 ゆっくり宙を舞って河の上へ落ちる。「なんで夜やのに帽子かぶってくるんや」と隼人は怒ったが、綾女は涙ぐんでいた。


 流されたと思った帽子はなぜか流れの上で止まっていた。近よると、何か杭のようなものに引っかかっているのだとわかった。手を伸ばせば十分届く、はずだった――


 次の瞬間、隼人は渦に飲みこまれていた。泥水の中で反転した体を戻そうにも、流れに逆らえない。いつもなら足が届く深さのはずなのに、つまさきさえつかない。かろうじて水面に顔を出しても、満足に呼吸もできないまま、また濁流の中に沈んでしまう。


 ――お父ちゃんのいうこと聞かんかったから、死んでまうんや。


 後悔がふき出しても、今更どうにもできない。がぼがぼと泥水を飲みながら、遠くに祭囃子を聞いた。去年は兄と一緒に神輿を引いた。今年は全寮制の高校に進学したこともあって都合がつかなかったらしい。電話のむこうで「来年は絶対帰るし、一緒に引こな」と言っていた。


 けれどもう体に力が入らない。視界がぼんやりとしてくる。

 全てをあきらめて脱力したそのとき、上半身が水面に引き上げられた。


 身体が反射的に呼吸をしようとして水を吐きだした。胴体に太い腕が回っていることに気づいて、その首根っこにしがみつく。


「隼人、あきらめるな!」


 父親の声でも、兄の声でもなかった。けれどどこか懐かしいその響きが、隼人を安堵させた。


「あきらめたら、そこでしまいなんや!」


 隼人を抱えたその人物は岸にむかって泳ぎ始めた。かろうじて呼吸はできるものの、視界はぼやけたままだった。


 手に赤いリボンの帽子があることを確認すると、隼人は必死になってその熱い体にしがみついた。

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