真実の扉・転

29


ぼんやりとした満月の淡い光が、黒々とした多重構造の建物を一際明るく照らし出している。異様なほど黒く長い塔の頂には今、どこか不吉な冷たい風が吹いていた。


堅牢な構造を持つ建物は、その姿が強固であればあるほど、ある種の崩壊の予感をも抱えている。

生を持たぬ鉱物である塔は今、その内部に揺らめく赤い炎と黒々と控えた夜の暗闇が複雑に絡まりあい、まるで巨大な水棲動物のごとく、静かに冷たい闇の中で胎動していた。


異形の塔を巡る物語は、いよいよその内部で妖しく蠢く者達によって、静かに最後の時を迎えんとしていた。


「見事な不意打ちだわ。

…やってくれたわね、探偵さんに成瀬さん…。こんな事をして、ただで済むと思っているの?」


間宮愛子は冷たい憎しみに満ちた目で、眼前に立つ女生徒を睨みつけた。


「それに何か忘れてはいないかしら? 校長先生や沢木さんが殺された時には私は保健室にいたし、時計塔の鐘の音だって職員室で聞いているのよ。桂木さんや花田先生だって、それは承知しているでしょう?」


赤い装束に身を包んだ間宮愛子の視線は、ちらりと山内の方向をも窺ったように見えた。


愛子は続けた。


「そもそも昨日の事件は一条さんが覚醒剤を使用した挙げ句、錯乱の末に引き起こした殺人事件だったはずよ?

私が仮にあなた達の言う殺人犯だとしたら、校長先生や一条さん、それに沢木さんまで殺さなければならない動機がどこにあるというの?」


制服姿の成瀬勇樹は精悍な眼差しで、きっと愛子を睨み据えた。


「なら、なぜ貴子まで襲おうとしたんですか? 僕には血に飢えた愛子先生が、貴子に全ての罪を着せて殺そうとしていたようにしか見えませんでした」


「成瀬さん…。貴女は何か勘違いしているのよ。確かに私はこの時計塔の仕掛けの事は、昔から知っているわ。こうみえても学園代表である理事長の一人娘だし、この学園の卒業生でもあるもの。この格好だってそう…。

売春や事件に加担しているかもしれない鈴木さんの反応を確かめようと思えば、教師として当然の事じゃない?」


愛子の言葉に鈴木貴子がビクリとした。彼女は怯えたように彼女を見つめ、微かに震えている。


勇樹は声を荒げた。


「いい加減にして下さい!

先生は僕だって殺そうとしたじゃないですか!…もうやめて下さい。潔く自分の罪を認め、負けを認めるべきです」


あれは正当防衛だわ、と愛子は再び反抗的な女生徒に鎮圧の視軸を向けた。


「私に言わせれば黒ずくめの怪しげな格好までして、いきなり上から現れた貴女の方が、傷害や器物破損の現行犯で逮捕されて然るべきよ。私は鈴木さんを保護する為に、ただ地下に降りただけのことじゃない。貴女にこんな仮面まで被せられて、こんな事までされる筋合いはないわ!」


そう言って愛子は傍らに落ちていた銀の仮面を乱暴に踏みつけた。勇樹が再び抗議しようと何かを言いかけたその時、部屋の端から異質な笑い声がした。


扉の近くに控えていた探偵はククク、と喉を鳴らすようにして肩を震わせ、笑っていた。

愛子はこの男の出方だけはまるで読めないのか、訝しむような当惑の視線を投げかけた。


「何が可笑しいのかしら? 探偵さん…」


「いや、失礼…。

これから説明しようと思っている今回の事件の疑問点を、皆さんの前で次々と挙げて頂けて俺としては大変に手間が省けたと思いましてね。

…私にはアリバイがあるだの動機はどこにあるのかだのと、今さら追い詰められた犯罪者の決まりきった背水の陣で俺をあまりがっかりさせないで下さい、愛子先生」


「何ですって…」


愛子の眉間がピクリと動いた。

探偵を冷ややかに見つめる目元の筋肉が微かに痙攣している。これはヒステリックな女性が、内面の怒りを押し殺した時などによく見られる表情のパターンだった。


冷然と微笑む探偵は、あくまで挑発的な姿勢を崩さずに続けた。


「こうした場に立つ度に俺は思うんですよ。

愛子先生と同様、様々な情念に取り憑かれて犯罪を犯してしまった人達はずいぶんと己の価値を下げる事ばかりするものだ、とね…。

これだけの犯罪をたった一人で企てた貴女だ。

痙攣的な情動ではなく、己の人生と信念を賭けた計画的な犯罪だったという誇りと自負が幾らかでもあるのなら、賭けに敗れたその時は潔く、自らの命を衆人に晒してでも堂々としていてほしいものです」


来栖要は相変わらず黒いスーツのポケットに手を突っ込みながらも、視線だけは油断なく目の前の女を捉えて離さなかった。

暴論とも取れるような探偵の述懐に、間宮愛子は氷のように表情を凍てつかせていた。両者のただならぬやり取りに周囲の者達は、ただ固唾を飲んで沈黙している。


探偵は続けた。


「引き際を心得た名犯人が相手なら、探偵も最大の敬意を以てライバルの大胆さを賞賛しつつ推理したりもするんでしょうがね…。

あいにくと、そんな『犯罪者』に俺は出会った事がありません。

本来ならこうした秘密の解明など主役である犯人に語らせるのが一番手っ取り早いのですよ。その主役を差し置いて、やれ真実の探究だの、それ真相の解明だのと耳障りのいいお題目を唱えては主役の座を奪ってしまうのが、道化じみた探偵の役目なんですから。

かの名探偵シャーロック・ホームズ氏が仮に現代で探偵業を営んでいたとしたら、大方滑稽さの方が目立つ事でしょうね。

それでも俺は無駄と知りつつ語らなきゃならない。

貴女は殺人犯で、俺は探偵ですからね…」


鼻持ちならぬ探偵の尊大な台詞に、今度は愛子がせせら笑った。


「随分と自分勝手な詭弁もあったものね。

探偵さん…実は貴方の事はよく知っていてよ。貴方の噂を聞いた時は、ただの怪しげな都市伝説だと思っていたけどね。

『新宿の解体屋』といえば謎に満ちた事件を人知れず解き明かす、警察組織に勝るとも劣らない探偵の中の探偵…。ヤクザも裸足で逃げ出すという噂もある謎の人物だそうね。

…意外だわ。貴方がこれほど生温い台詞を吐くような人だったなんて。

…まぁ、いいわ。そこまで言うからには、謎の全てに答えてくれる用意は当然あるんでしょう?

この場は『探偵』である貴方の顔を立てて、私も容疑者らしく大人しくしていてあげる。

そちらもせいぜい『殺人犯』の私をがっかりさせないことね…」


そう言うと美貌の保健校医はバサリと赤いローブを傍らに脱ぎ捨て、額にうちかかり、乱れていた己の長く艶やかな黒髪を妖艶な仕草でかき上げた。真っ赤なルージュに彩られた唇には、微かに笑みすら漂わせている。


文楽のガブ人形のごとくガラリと豹変させた女の表情と、あくまでも余裕に満ちた探偵のそんな応酬に、周囲の者達は相変わらず口を挟む事すら出来ず、ただ一様に戦慄していた。


間宮愛子は一際目を細めて顎を引く、その独特の冷たい眼差しを眼前の探偵へと向けた。


「貴方とて本来は、私と同じく闇の中を生きる人間のはず…。それが人道主義者でもあるというのは納得いかないわね。

成瀬さんも覚えておくといいわ。貴女の言う正義の名の下に人を守るというその行為が、いかに無意味で無駄な茶番にしか過ぎない事かをね。正義だ愛だなんて、実に美しい言葉よね…。人間が内に持つ人格の中で最も罪深く、そして最も邪悪な仮面じゃないかしら。

ふふふ…。笑ってしまうわ。

金や保身や名誉の為に情け容赦なく他人を蹴落とし、罪を重ねる。そんな悪意に満ちた人間達しかいないじゃない。

他人の悲劇を悪戯に騒ぎ立て、正義感ぶった講釈を垂れ流すだけの、そんな善人面さげた獣ばかりの世の中なのにご立派だわ。

こんな虚飾と嘘だらけの世界で今さら無意味な我を張ったところで、一体何になるというのかしら?

…探偵さんも商売とはいえ因果なものよねェ。『依頼の沙汰も謎次第』。

その筋の世界では新宿の解体屋とも呼ばれ、恐れられている貴方ほどの人が慈悲深い事ね…」


嘲笑う愛子に向け、探偵は目を細めて笑った。


「胡散臭い格好はしていますがね、俺も人間なんですよ愛子先生。

許してはおけない事がある。

…それに貴女は一つ勘違いしているようだ。

貴女の言う虚飾と嘘だらけの世界とは、いわゆる個人対世界という無限大に膨張していく図式の中で描かれ、単純化した貴女という個の中に存在する世界観にしか過ぎません。

貴女によって閉ざされた世界は、この聖真学園という一つの構造体と、そこに知らないうちに巻き込まれてしまった人達の中にしか存在しません。

己の内で無限大に広げた世界認識に比べれば、俺の親父が戯れに作ったこんな歪んだ構造物など、砂漠のど真ん中に作った砂の城に等しい、小さく脆いものでしかないでしょう。己の内で飼い育てた、その虚飾と嘘だらけの世界とやらにレジスタントするには先生という器は余りにも小さ過ぎる…。

老婆心ながら忠告しておきましょう。そうした偏った世界認識を丸呑みに抱え込み、声高に何かを糾弾したところで潰れるのは貴女の方ですよ」


「丁寧なご忠告、返す返すも耳に痛いわ。

お礼に私からも何か言わせてもらおうかしら…。

探偵さん。貴方の存在は道を誤った犯罪者と呼ばれる人達にとって、ただ邪魔で目障りなものでしかないわ。

犯罪者によって作り上げられた虚構や欺瞞は確かに、ただのまやかし…。

けれど犯罪者のまやかしを糾弾する為のその真実の言葉で、貴方は守るべき世界の方も同時に壊しているのではなくて?

崩壊寸前のギリギリで保たれている砂の城を壊す事は、果たして貴方の本意なのかしら?

それは新たな悲劇の幕開け…。

推理という名の詭弁は、ただ世界を壊す為の引き金にしかならないのではなくて?

だとしたら貴方も犯罪者と同じ事をしているのではないかしら?」


嘲笑う愛子。探偵も口の端をひきつらせ、ニヤリと笑った。


「その通りですよ。俺は探偵という名のただの道化であり、貴女の仰る世界の破壊者だ。

…それが何か?」


微塵も揺るがない探偵の表情とその言葉に、女の目に微かに戸惑ったような色が走った。その隙を逃さず探偵は続けた。


「嘗めてもらっては困りますよ。探偵の言葉に限らず人の言説は悉く、様々な在るべき境界を仕切る為に存在するんです。

場合によっては先生の仰るように、探偵による真相の解明が新たな悲劇の引き金になる事も当然あるでしょう。主体と客体は完全に分離できません。依頼を察知した時点で探偵は事件の当事者になる。他人の世界を壊す事をいちいち躊躇するようなら、俺はわざわざ道化の仮面は被りませんよ」


探偵は淀みのない口調で目の前の女へと己の得物…言葉を繰り出した。


「最初に俺は申し上げたはずだ。皆さんの世界を粉々に壊しに来た、とね…。

通常ではあり得ぬ世界の存在を騙り、まやかしに満ちた世界を壊すのが俺の役目なんです。俺は真実など語りません。貴女の世界をただ騙るだけの事…。

過去の因縁に端を発する歪みが砂嵐のように広がれば、そこに生きる無関係な人間達まで生き埋めになってしまう。

貴女が言うように崩壊寸前のギリギリで保たれている歪みを急激に補正するのは、確かに俺も本意ではありませんよ。

しかし、過去から続く歪みが現在に。そして行く末を生きる無関係な人間達の間にまで影を落としてしまっている以上、俺も涼しい地下の塒(ねぐら)で安穏と寝ている訳にもいかないんですよ。

理由はどうあれ、秘密の解明という役目を負って貴女の父君である理事長から依頼され、この場に立った『探偵』である以上は正義もクソもない…」


きっちりとけりをつけさせて頂きましょう、と来栖要は不吉な眼光も鋭くそう言い放った。


有無を言わせぬ射竦めるような赤い眼光の故か、その視線に何者かの影を見たのか、間宮愛子の目には再び怯えるような色が走っていた。


カシャン、と天蓋の奥から大時計の針が刻む音が、様々な機械音に紛れて聞こえてきた。


さて、と言って探偵は座を見渡した。まるで、予め決まった台詞であるかのように、幾分か芝居がかった口調だった。


「これで役者は全て揃いました。色々ありましたが、改めて最後の舞台に幕を引くとしましょう」


探偵による秘密の解明が。ついに始まった。


「ここには三つの世界が存在します。ここに集う皆さんは、噂の中に隠された真相を新たな噂、新たな真実として語り継いでいく方々といえるでしょう」


赤い瞳の視線がゆっくりと周囲の人間達を。事件の関係者達の間を縫った。


「この事件を公式な事件記録として残さなければならない責務を負った、警察組織の人間が二人…」


大柄な花屋敷優介と小柄な石原智美の両刑事が、探偵のその言葉に微かに身を固くした。


「そして、事件の正しい詳細を詳らかに世間へと公表し、歪められてしまったこの学園を正しき学舎へと変えていくのは、教師であるあなた方です」


教頭の羽賀亮一と体育教師の植田康弘が、花田と桂木が、少し離れて国語教師の山内隆が探偵の視線を受け止めた。


「そして真相を事実として受け止め、新たな真実と共に学園の噂を語り継ぎ、紡いでいくのは生徒である彼女達でしょう」


成瀬勇樹と、彼女に背中を支えられた鈴木貴子が、探偵の言葉に微かに不安な眼差しを向けた。


「その為には、この場所に集まって頂いた皆さんが見誤っている、この一連の事件の本当の姿を知る必要があります。

この学園を覆い隠す霧のような悪夢に霞んでしまった皆さんの世界はここで一度、完全に解体されなければなりません。

最初に俺が申し上げたように皆さんの世界を粉々に壊す…事件を解体するとは、そうした意味だとお考え下さい」


あくまで慇懃無礼な態度で黒衣の探偵はそう切り出した。口調や態度もがらりと変わっている。粗野でぶっきらぼうな言動も見せたが、表舞台に乗り出した今は迫力があまりにも違っていた。自分の容姿や言動を最大限に生かすやり方で、この場に集まった境界を一点に取り仕切っている。


怜悧にして端正。皮膚を針で刺すような、ただならぬ殺気を全身から漂わせながら、黒衣の男は三つの境界の狭間に立っていた。

妖しき夜の持つ優美さと黒さを兼ね備えた、この闇の住人の容姿と立ち振る舞いは扇情的で、どこか蠱惑的でさえあった。

この世のものとは思えぬ妖しくも赤い双眸がゆっくりと刑事達を、女生徒達を、学園に携わる者達の視線の間を、再びゆっくりと這っていった。


その視線は最後に、白いセーターに黒いタイトスカート姿の目の前の女を捉えた。

間宮愛子は探偵の言動を能面のように凍りついた表情で静かに窺っている。


赤と黒。互いに虚飾のヴェールを脱ぎ捨てた赤い魔女と黒衣の死神はここに至り、始めて探偵と殺人犯人という相容れぬ境界の狭間で互いの視線を交錯させているようだった。


ちょっと待てよ来栖、と刑事である花屋敷が突然呼び止めた。


「この事件で俺達が見誤っている事実…と言ったな?

この場に、この人がいきなり現れた時点で俺にはもう何がどうなってるのか、さっぱりわからない。

大まかなカラクリは解ったが、先生方だって恐らく一緒のはずだ。まずはそこから説明してくれよ」


体の大きな花屋敷刑事は、自分の細い目を訝しむようにして旧友である探偵に向けた。


「お前や成瀬君は、この愛子先生こそ一連の事件の真犯人だと言っている。

つまりそれはたった今、世間を大騒ぎさせている事実…。あの芸能人の一条明日香こそが事件の犯人だという警察の見解とは全く異なる、新しい見解が示されたという理解でいいのか?」


探偵は旧友の刑事の問いに、ゆっくりと頷きを返した。


「その通りだ、花屋敷。先ほどの怪しげな魔術の儀式は八割方嘘っぱちだ。この人をただ、この場に誘い出す為に俺と成瀬が仕掛けた壮大な芝居にしか過ぎなかったんだよ」


「警察の監視下で、堂々と魔術の仕込みをしていたのは成瀬君だったんだな…。さっき話を聞きながら俺も確認してみた。この部屋の、この不気味なレイアウトの正体をな」


そう言って花屋敷は部屋全体を見渡した。

自然と全員がつられて、周囲を見渡すような動きを見せた。


「この短時間でよくこれだけ準備できたな。念のいった芝居もあったもんだ。

…まず、照明だ。

こいつは芯が一本で繋がっている、あのマジックショーなんかで使う蝋燭だろ? お前が着ていた黒いローブで覆い隠していた、この床の奇怪な魔法陣は緑色の蛍光塗料。

その辺に落ちてる鳥の羽根はただの黒い羽根飾りだし、床の薔薇や花びらなんかは、おそらく全部本物だ。

かなり怪しげな儀式だったが、仕掛けは腹が立つほど単純だ。鐘が鳴れば、仕掛けが動き出す。それに合わせて用意していた。

その辺のマジックショップか何かで仕入れてきたのかい?」


偽りの黒魔術の全貌を提示した花屋敷は、咎めるような口調で傍らの女生徒を見据えた。勇樹は困ったように長い睫毛を伏せ、再び深々と頭を下げた。


「ごめんなさい…。こっそり鉄柵を乗り越えたり鏡を壊したり、やることなすこと完璧に犯罪ですよね。

あの…やっぱりこの学園の生徒でも不法侵入罪にあたりますか?」


「そんなのは被害届を出す先生方に聞いてくれよ。あの笑い声も鐘の音も、どうせこの上にいる誰かさんの悪戯なんだろう?」


刑事の呆れ返ったような声に、まだ誰かがいるのかと教師全員が驚いた様子で上を見上げた。勇樹は悪戯好きの妖精のように、ペロリと舌を出して上目使いに刑事を見上げた。


「はい。面白そうだと言ってアリサさんも色々と協力してくれました。そういう段取りでしたから。花屋敷さんや初めてお会いする石原さんまで騙したのはやり過ぎでしたね。

本当にごめんなさい…」


「全く子供騙しもいいとこだ。ろくでもない連中に入れ知恵されたんだろうから、君は悪くない」


来栖はくくく、と肩を揺らせて笑っていた。大柄な刑事はどこか憮然とした口調で再び続けた。


「正直、驚いたよ。黒魔術の存在を信じなきゃならなくなるとこだった。…おい、敵を欺くにはまず味方からって訳か?」


花屋敷は来栖要を呆れたように見つめた。

騙して悪かったな、と探偵はニヤリと笑い、改めて居住まいを正した。


「先生方も驚かせてしまったようで、本当に申し訳ありません。全て俺の差し金ですから、修理代や後始末は全てが終わった後に理事長から請求して頂く事にしましょう。

…お嬢ちゃんも怒るなよ。

言っておくが、お前らの捜査責任者には事前に計画の全ては打ち明けておいたんだぜ」


来栖は傍らにいた女刑事にそう弁解した。

童顔でどこか幼い印象を与える石原刑事は微かにかぶりを振り、それから何度も頷いてみせた。


「いえ、怒るどころか私は感心していますよ。全て犯人である、その人を誘き出す為の狂言芝居…。一風変わった事件の再現だったんですね。

そして来栖さん…おぼろげながら私にも見えてきたんですが、これがこの一連の事件の全貌だったんじゃありませんか?」


女刑事は何かに気付いたのか、真剣そのものの眼差しで探偵に問い掛けた。来栖要はそんな聡明な女刑事に深く頷きを返した。


「その通り。こうして実際に、時計塔のこの鐘の仕掛けを目で見てもらわなければ、到底理解してはもらえないと思ったんでね。

それに、わざわざ胡散臭い黒魔術だの悪魔召喚だのを持ち出したのにも理由がある。

まぁ、それも追々わかるだろう。

…とまあ、こういう具合に貴女の手口をそっくりと真似させて頂いていたんですよ。愛子先生…」


愛子は黙したまま、忌々しいとでも言いたげな冷たい表情で眼前の探偵を睨みつけた。その射るような視線を警戒してか、刑事二人は静かに彼女の後ろ側に控えた。


警察をも欺いてみせた黒いスーツの探偵は、再び冷然と微笑んだ。


刑事である花屋敷達とは本来、絶対に相容れぬ存在のはずである。

様々な深い闇をその黒い懐に抱く夜の世界からやって来た住人。

舞台裏で暗躍する黒子のごとき人形使い。

これがこの男のもう一つの顔。秘密の開示者にして新宿の解体屋と呼ばれる私立探偵、来栖要のもう一つの仮面なのだろう。


さて皆さん、と探偵は高らかに言った。


「時計塔のカラクリについて、ある程度理解して頂けたところで、ここで一つ場所移動といきましょう。

今度は成瀬君が壊した、一階の鏡の前で待っていて頂けますか?」


教師達は怪訝な顔で互いに見つめ合っていたが、結局は扉の前におずおずと集まった。今や傀儡師に操られた人形のごとく、彼らもこの探偵の言動に従うしかないようだった。

来栖は花屋敷に何かを耳打ちすると、金網のような赤い床の中央に立った。


「あいにくとこのエレベーターは一人用です。壊れた鏡の前で降りるのは多少危険ですので、皆さんは下で待っていて下さい」


部屋を一塊になった一団が次々と出て行く。


刑事達に挟まれた間宮愛子は冷ややかな目で探偵を振り返った。

そうそう先生、と探偵は思い出したように部屋を出ていこうとする愛子に声を掛けた。


「この天井のステンドグラスの絵をよく覚えておいて下さい…。おぞましいデザインですが、貴女にとってかなり重要な意味を持っているようですのでね…」


愛子はそれ以上は一瞥もくれず、どこか足早に扉から出て行った。


事件の関係者達は階段の暗がりを降りる間、終始無言だった。

カツンカツンという複数の乱雑な足音から構成される硬い反射音が、再び暗闇の校舎に響き渡る。


月明かりだけが煌々と照らす闇の回廊を、探偵以外の関係者達は階下へと向けて前進していた。

一団の先頭を大柄な花屋敷刑事が。その後ろに石原と容疑者の間宮愛子が並んで歩く。その僅か後方に教頭、植田、山内、そして花田と桂木の順番で続く。

一団から少し離れた最後尾には、貴子と勇樹がついていく形となっていた。


間宮愛子は相変わらず黙ったまま、淡々と刑事に付き従っていた。

月明かりを映したその表情は一層に冷ややかで、内面の感情や心の動きを刑事達に一切読ませまいとするかのように、彼女は持ち前の強かさと狡猾な冷静さをもって、努めて無表情を装っているようにも見えた。


その後方を歩く山内は、先ほどから彼女の方ばかりを気にするように、ちらちらと彼女の背中を不安げに窺っている。


二階の踊場に差し掛かった辺りで、花屋敷は鈴木貴子をどこかで休ませるように石原智美に手配させようとしたが、貴子は必死にかぶりを振ってこの提案を固辞した。

事件の真相を知りたいという欲求は、本来は引っ込み思案で気の弱い女生徒を変えるきっかけになっていたのだろうが、その足取りは見た目にもかなり重そうだった。

勇樹に支えられた貴子は、実際かなり憔悴していた。


元が色白の瓜実顔は今や月明かりの中で精彩さを欠き、血の気の失せた蒼白さを湛えている。貴子は寂しげに目を潤ませながら、どこか無理をして気丈に振る舞っているように見える。


校長の村岡義郎。タレントの一条明日香。そして、彼女達のクラスメートである沢木奈美。彼女が知らない間に売春事件に関わったと思われる人間達が、一夜にして三人も死んでいる。


先ほどのやり取りで、期せずして自分の命を狙った間宮愛子本人の口から沢木奈美の死を知らされ、貴子はかなり衝撃を受けたようだった。涙ぐみながら、彼女は毅然として刑事達に向けて強く言った。


「奈美や由紀子がどうして死んだのか…。どうして私が狙われたのか…。このまま何も知らないままでいられません…。私も関係者です。最後まで付き合わせて下さい!」


勇樹は何も言わずにそんな友人の小さな背中に手を添え、刑事達に向けて力強く頷いてみせた。


川島由紀子の事件から数えて僅か一週間余り。17才かそこらの彼女たちが経験するには、あまりに悲惨で救いのない残酷な事件の連鎖と、それによって失われた、身近過ぎる人間達の予期せぬ死。

並大抵の神経ならば到底もつものではない。


…いや、案外に人はこうした非日常の中にこそ、本来的な人格が現れているものなのかもしれない。人の死に対して感覚が麻痺している様子でもない。思うにあの不思議な雰囲気を持つ探偵の存在が、彼女達の精神に思いもかけない安定を齎しているのは確実だった。


喜怒哀楽とは別に人の精神を支えているのはふとした驚きや探究心、単純な好奇心だったりと案外にシンプルな感情の働きだったりするのである。


ともあれ身近な人間の死は様々な紆余曲折を経て、様々な心の在り様を残された者達に齎しているということだろう。成瀬勇樹に鈴木貴子は、完全に巻き込まれ型の被害者だ。


彼女たちが通常の日常を取り戻すには時間がかかるかもしれない。

しかし憎しみや悲しみを越え、肯定的な意味での死を怖れ、そうした恐怖や人の持つ悪意と真剣に真っ向から対峙し、自らの意志で能動的に生きようとしている彼女達はずっと前向きで、強い存在なのかもしれない。


意外だったのは、例の鏡の前で衝撃を受けたであろう植田は元より、あれほど取り乱していた教頭までもが今も悄然と俯いていた事だった。


桂木は片時も花田の傍を離れず、山内は間宮愛子を窺っている。


「これは酷いな…」


鏡の前に着いた辺りで、花屋敷はまず開口一番にそう呟いた。

廊下の鏡は粉々に砕け、暗がりの中で大小の破片があちこちに散らばっていた。その先には一際黒い穴が穿たれている。


それは確かに穴としか形容の出来ないものだった。鏡の中の穴は真下から真上へ貫くように、真っ直ぐに続いている。


その時。


耳をつんざくような音と共に、突然あの荘厳な鐘の音が再び校舎中に響き渡った。

全員がビクリと真上の方を注視した。


キィキィという奇妙な音が聞こえた。


植田の表情が俄かに険しくなる。狭い暗がりの上からは、あの金網のような床が比較的ゆっくりとしたスピードで降りてきていた。


長身の割にかなり身軽で俊敏な動作で、探偵は割れた鏡の向こう側から廊下へと素早く飛び出した。キィキィという蝙蝠の鳴き声にも似た音と共に、あの金網のような床が下の暗がりへと遠退いていくのが解る。


お待たせしました、と慇懃に言ってから探偵は全員を見渡した。再び場を仕切り直すかのように、探偵は血のような緋色のネクタイをしめ直し、居住まいを正した。


「鉄筋コンクリートの学園を貫くように掘られている、この一筋の細い縦穴がどんなものなのか、皆さんも確認できたと思います。

…いやはや、それにしてもこれは酷い。

お転婆なお嬢さんの仕事は、なかなかにやんちゃで手荒です。

…まぁ、壊れたおかげで却って分かりやすくはなりましたがね」


むすっとした表情をする成瀬勇樹をよそに、探偵はおもむろに地面の方向…穴の底を指差した。


「鏡の向こう側は見ての通りエレベーターです。この下には鈴木君が閉じ込められていた地下室が広がっています」


探偵は今度は天井の方向を指差した。


「一方、俺の助手がたった今鳴らした時計塔の最上部には、巨大な鐘を据えた広い部屋のようなスペースがあります。広さとしては、この下にある地下室も同じぐらいのものでしょう。

…さて皆さん、想像してみて下さい。この地下の構造から時計塔の屋上へと続く、この全体の形に何か見覚えはありませんか?」


狭い廊下に雑然と集まった影達は皆、再びの探偵の突然の示唆にそれぞれに押し黙ってしまった。相変わらず闇の中でもよく通る声で、探偵は戸惑っている一同に向けて続けた。


「騙し絵という技法を使った絵画をご存知ですか?最近ではトリック・アートと呼んだ方がわかりやすいかもしれませんが…。

…黒と白に塗り分けられた一枚の絵があります。

白い方はワイングラスの芯を重ねたように縁と底の部分が窄まった同じ形をした壷が描かれ、その中央の細い部分はやや丸みがかった緩い楕円形に膨らんでいます。

しかし、黒い方の側を視点にしてみれば、まるで二人の人間が向き合い、あたかも口づけを交わそうとしているような…そんな有名な絵があるでしょう?」


「まさか…『ルビンの壷』ですか?」


山内の発言に、探偵はこくりと頷いた。


「さすが国語担当の先生だけあってよくご存知ですね、山内先生。まさにその通りなんですよ」


探偵は先ほどと同じように上、下と人差し指で差してから続けた。


「校舎を除き時計塔の頂上から地下へとエレベーターで繋がる、この一連の仕掛けを一つの構造物と見れば、これは皆さんもよく知るあの美術や国語の教科書にも載っている有名なトリック・アートをモチーフに作られたであろうという事が解るんですよ。

時計塔がそもそも校舎の屋上西側の端という、見た目にもかなり不安定な場所に建てられていたのは、この普通なら考えられないようなカラクリ構造を持つ仕掛けの為だったんです。そして、この形は時計塔のもう一つの姿でもあるんです」


「砂時計…ですね?」


と石原が問うた。探偵は再び頷いた。


「その通り。時計塔という言葉が先入観になっていれば、この構造には、おいそれと辿り着けるものではありません。

…まさか、校舎の内部をえぐって屋上から地下へ、エレベーターが繋がっているとは思わないですからね」


確かにこんな絵空事めいた仕掛けが学校の中にあるなど、誰も思うまい。花屋敷が溜め息にも似た感嘆の声を漏らした。

探偵は続けた。


「そして、砂時計は外から砂が見えなければ意味がありません。仕掛けを作った側も誰かに仕掛けの意図が伝わらなければ、わざわざこんな悪戯をする意味がない…」


そう言うと探偵はおもむろに、地面から割れた鏡の破片を拾った。


「ちなみに、ここは昨日の事件の際、植田先生がセーラー服を着た髪の長い女生徒の人影を目撃した場所でもあり…」


探偵は今度は山内の方へと視線を向けた。


「この学園で『後ろに立つ少女』と呼ばれている、怪談話の少女が頻繁に目撃されている場所でもあるんです…」


「…何が言いたい?」


植田が訝しむように問うた。

山内も困惑気味に表情を曇らせている。


探偵は背中を向けて言った。


「夕方一人で誰もいない廊下を歩いていると、誰かが自分を呼ぶ声がする…」


「そ、それは…」


山内が驚きの声をあげた。


「振り返ると、そこには誰もいない…」


探偵は相変わらず背中を向けたまま続けた。


「再び歩こうと前を向くと、そこには血だらけの髪の長い少女が目の前に立っている…」


夕方に学園を一人でうろついてはいけない、と言って探偵は間宮愛子の方を振り返った。


「何かを訴えるような寂しげな少女が、あなたの後ろに立っている…」


探偵の声に植田が呻き声をあげ、貴子が怯えたように顔を背けた。愛子は無表情に探偵を見ている。


「さて…ここで最初の話に戻りますが、悪魔の話や妖怪話、噂話だのと同様に何もないところに怪異は生まれません。

いくら胡散臭い学校の怪談話であろうと、実際にこの少女は幾人かに目撃され、何人もの生徒たちの口の端に上っているんです」


「それがどうしたんだ?

いずれよくある、学校の怪談じゃないか」


花屋敷の述懐に、探偵はゆっくりと首を振った。


「これは俺が怪談話の少女を見たという何人かの生徒に会って実際に確認したんですが、この怪談話の少女には一つだけ、ある奇妙な共通点があるんです」


「奇妙な…共通点?」


「そう。なぜか制服を着ているという事です。植田先生が目撃したという女生徒は、セーラー服でしたね?

一方、怪談話の少女の方の服装は学校のブレザーだったとか、顔は血だらけなんかじゃなかったと答えた生徒はいましたが、セーラー服と答えた人は一人もいませんでした」


「それは些末な違いだろう。

話を面白おかしくする為に嘘をついてる生徒だっているかもしれないぜ?」


「わ、わかりません。来栖さんが一体、何を仰りたいのか…」


花屋敷と石原が困惑したように来栖の不可解な言葉に反応した。


「つまり…こういう事なんだと思いますよ」


そう言って探偵は割れた鏡の破片をひっくり返し、全員に見せた。

鏡の破片を裏返すと、なぜか探偵の指が透けて見えた。

紛れもなくそれはガラスの破片に違いなく、全員は瞬時に探偵の言葉の意味を悟った。


「こ、これって…マジックミラーですか?」


「ああっ! そういう事だったのか!」


刑事の二人ならばよく見る仕掛けなのだろう。探偵は頷いた。


「もはや確認のしようもありませんが、時計塔の鐘が鳴ると一階に着層しているエレベーターのゴンドラ内が、外からも解るように覗ける仕組みになる。

…これがこの仕掛けと“後ろに立つ少女”の正体だったのでしょう。

怪談話の少女の目撃談がなぜか夕方の時間に集中するのも、考えてみれば当然なんです。夕方にならなければ、時計塔の鐘が鳴らないからです」


探偵は続けた。


「そして、12年前の殺人事件では、あの時計塔の鐘はあらぬ時間に鳴らされていたといいます。さらに、最近になって同じような怪談話の目撃談が増えている。

これは間違いなく、この仕掛けを知り、利用していた人間がつい最近存在したという事を示唆しています…」


静寂の闇の中で探偵の声だけが響き渡る。


「そして植田先生、あなたが昨日、目撃したのはセーラー服の少女だった」


うぅ、と植田が呻くような声をあげた。探偵は淀みなく続けた。


「この仕掛けは本当に設計者のただの悪戯としかいいようのないものなんです。これは利用した側ですら知りえなかった事実だったでしょうね。仕掛けを知っている人間は秘密のエレベーターを利用しているつもりでも、実は外側である鏡の向こう側からは、しっかりと見えてしまっている。

ここが肝心なんです。

見ている側はそこに鏡があるからこそ気配を感じて後ろを振り返る。しかし、当然廊下には誰もいない。しかし再び歩こうと前を見た瞬間に、虚像がいつの間にか実像にすり替わっているんです。

…想像してみて下さい。

西日が差し込む、著しく視認性の乏しい夕方の廊下…そこを一人ぼっちで歩いているとします。怪しげな怪談話のある学校なんです。そこに放課後を告げる、あの時計塔の鐘が突然鳴り響く…。

廊下のどん詰まりに、いきなり有り得ない光景を目撃する訳ですから、見た側は二重に驚く。ひたすら怖いと感じる人もいるでしょう。これこそが『後ろに立つ少女』の正体だったのではないでしょうか?」


座は相変わらず静まり返っていた。反論がないのを見てとると、例によって探偵は続けた。


「このマジックミラーという半ば冗談めいた仕掛けや悪戯が、親父らしい悪ふざけなんですよ。

…よく刑事ドラマなどにあるでしょう?

疑わしい事件の容疑者達が何も知らずに鏡の前に立っている。しかし目撃者が実は鏡の裏側にいて、犯人はあの人です、と刑事に名指しする。あれと同じです。

まさに本末転倒。秘密を持つ者が実は見られているという構図。騙されているのは、実は騙している側だという訳です、愛子先生…」


再びの挑発的な探偵の言葉に愛子はしばらくの間、憎らしげに探偵を見据えていた。幾分かの逡巡の後、彼女は再びふてぶてしく、冷ややかに微笑んだ。


愛子は言った。


「はっきり言ったらどうなの?

新宿の解体屋はつくづく回りくどい探偵だというのは了解したわ。

…けれど、これじゃあ事件にどう関係したのか、さっぱり伝わらないわ。

これが推理小説なら、真相がいつまでも出てこない展開に読者は苛々して堪らないでしょうね。この程度じゃ読者は誰一人満足しなくてよ、探偵さん…」


冷笑する愛子に向け、探偵はふっと微かに笑った。


「事実は小説より奇なりともいいますよ。あのステンドグラスと同じです。

魔女を装っても、魔女はしょせん、魔術師の思うがまま…。いずれ貴女も誰かの思うがままに過ぎなかったという事ですよ…」


「随分と侮辱的な言い方をするのね…。

植田先生が見た幽霊が、私だとでも言いたいのかしら?」


「その通りですよ」


「馬鹿言わないで。セーラー服を着た幽霊なんて荒唐無稽もいいとこだわ。おおかた売春していた沢木さんか一条さんを、怖がりな植田先生が見間違えただけでしょう」


「な、何だと!」


怒りに震える植田を勇樹の声が突然遮った。


「ふざけるな! 奈美を殺した癖に!」


我慢の糸が切れたのか、必死の形相で愛子に掴みかかろうとする男勝りな女生徒を、石原が慌てて背後から抑えた。勇樹の隣にいた貴子が愛子を睨みつけた。


「奈美が売春していた事実はあったかもしれません。けど…けど、人殺しなんかよりマシだわ!」


貴子は目に涙を溜め、今にも泣き出しそうな顔で愛子を睨み、植田は憎悪に満ちた眼差しで愛子を見つめている。


愛子は無表情のままで俯き、微かに震えていた。

探偵はそんな愛子に向けて冷然と言った。


「これで解ったでしょう、愛子先生。孤独な殺人者だからこそ引き際が肝心だと言ったその意味が。人だからこそ痛みを感じる。

痛みを感じるからこそ心が乱れる。人は魔女にはなりきれませんよ?」


「私だったという証拠は…どこにもないわ…」


愛子は無表情にそれだけを言って目を逸らした。一瞬だけ、その目が山内の方向を窺ったように見えた。

探偵は注意してみなければ気づかないほどの一瞬だけ、ひどく悲しげに目を細めた。


「いいでしょう…。場合によってはこの先を大勢の前で語るのだけは避けられるかもしれないと考えていましたが、そう来るのでしたら、もはや仕方がない…。

先生がひた隠しにしてきた奈落の底の秘密…。それを皆さんの前で開示するしかないようだ」


「どういう事だよ?」


と花屋敷が問うた。


「いよいよラストステージに向かいましょうと言ってるんだよ、花屋敷。

ショックを受けた鈴木君は元より、妊娠中の桂木さんもいる。あまり大勢の前で見せたいものではないんだけどな…」


「奈落の底の秘密…。この下にある…地下室の事なんですよね?」


真剣な表情で石原が来栖に問い掛けた。探偵はゆっくりと頷いた。


「わざわざこんなところから飛び降りる必要はない。噴水のある中庭に行きましょう。

そこに行けば全て解ります…」


探偵はそう言って黒いスーツを翻し、一同に背中を向けた。

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