真実の扉・承

28


貴子は夢を見ていた。

物心のついた幼い時からよく見る夢だった。

それは赤い廊下の中を、誰かに追いかけられる夢だ。


夕暮れ時の学校のような多重構造の建物。

中途半端な位置から全く沈まない黒い太陽。

なぜか周囲は赤い。

真っ赤な光景が目の前に広がっている。

貴子は訳も分からず、その赤い廊下を走っている。


黄昏時。窓から眩しい西日が差し込み、著しく視認性に乏しい真っ赤な校舎の中を、貴子は顔の見えない相手にひたすら追いかけ回されている。そんな悪夢だ。


悪夢の主人公である貴子は、なぜか今よりもずっと小さくて幼くて自分の過去のそんな姿が違和感もなしに今の貴子と連続している。


捕まったら殺される。

貴子はなぜかそう思う。


相手がわからない。何をされるか分からないが故の恐怖に幼い貴子は泣き叫び、ただひたすらに逃げ惑う。


ホラー映画を地でいくようなその悪夢はやたらとリアルで、見ている貴子には、それが夢だとはどうしても思えない。

何度も見てるのよ、これは夢なのよ、と幼い自分に言い聞かせても貴子はただ追いかけ回される。


とうとう最後には追いつかれる結末が待っている。


幼い貴子は絶望的な恐怖の中で叫ぶ。相手の顔は最後まで分からない。認識はしているはずなのだが、識別はされない。相手がナイフや拳銃を持っている時もある。


ただただ怖い。


けれど死という終わりはやってこないのだ。どこまでもリアルでいながら、これは夢だ絵空事だ嘘だと必死で言い聞かせながら。


そこで突然、終わる。


死ぬ瞬間に現実に返るというのもおかしな話だが、夢の終わりは大概が追いつかれたところで目が覚める。


始まりもなければ終わりもない、何とも尻つぼみな結末だけが待っている。

それがまた怖い。目覚めた時は大抵が汗びっしょりで、心臓は早鐘を打つようにバクンバクンと高鳴っていた。


夢とはつくづく不思議なものだと思う。


それが夢だと自覚できている以上、痛みも苦しみも目が覚めれば全て忘れるに決まっている。しかし、そうした予定調和を感じさせないのが夢という不可思議な物語の魅力であり、また恐怖だ。


夢の中では目も見えるし耳も聞こえている。匂いも味も、触った感触もある。

感覚器官が突拍子もない刺激を現実の中にいるのと同じように、何の違和感もなしに拾っていく。


もちろん夢は夢。現実は現実でしかない。


けれど、貴子にはその境界が分からない。

夢を見ている人間には、それが夢だとは目覚めるまで絶対に分からない。

ヴァーチャルリアリティのアトラクションに、心の準備も何もなしに臨む感覚に近い。どこからどこまでが現実で、どこまでが嘘なのかは最後まで絶対に見抜けないからだ。


どこかで見た光景を夢と勘違いして現実に感じる現象を、既知感だとか既視感だとかデジャ・ビュなどと呼ぶらしい。貴子にもそんな経験は幾度もある。


貴子にはよく分からないけれど、夢を意識や無意識や前意識と分ける精神分析学や、夢判断だの夢占いだのといったそうした精神に関する分野も、フロイトやユングにとどまらず様々な専門家が残した学説があるらしい。


それ以外にも宗教や哲学、脳科学といった様々な学問の分野から夢の研究というのは昔から行われてきたらしい。


夢や人の意識や心といった形のないものを解明しようとする、そうした学究的なアプローチの手段にも様々な在り方があると知るようになってからは、漠然と夢に対する価値観や見方も変わった。


長じてからは貴子は夢と現実にそう違いなどないのかもしれないと、そう思うようにもなった。


そうすると不思議なもので、悪夢はおろか夢さえも見なくなった。我ながら自分勝手だが、その事を貴子は少し残念に思う。


もちろん記憶していないだけで、夢を見てはいるのだろう。浅い眠りと深い眠りを繰り返す夜の営みの中にこそ夢があるのなら、そこに何がしかの意味を与えたいと思うのは当然だと思う。


夜の夢は不思議だ。


どうして意識のない状態を人は心地よいと感じるのだろうか? 意識がないのなら、死んでいる状態とそう変わりなどないはずなのに。


そうしてみると夜の眠りは最も死に近い場所なのかもしれない。


幼い頃は悪夢を見るのが怖くて堪らなかった。怖い夢を見た次の日は、母親に怖いから眠りたくないと無茶な駄々をこねて泣いた事もある。


人がいつか死んでしまうのだという事を、生まれて初めて知ってしまった時もそうだった。


『どうして人は死ぬの?』

と幼い貴子は、父親に泣きながら尋ねた時がある。父親は貴子の頭を撫でながら慰め、母親は貴子の手に小さなロザリオのペンダントを握らせ、小さな貴子を抱きしめてくれた。


貴子は分からなくなる時がある。自分が今生きている世界が、本当に誰しもが現実だと信じている世界なのかどうかが。


たとえ目が覚めても痛みや苦しみしか現実にないと知りながら夢を見るのと、永遠に覚めない怖い悪夢の中にずっといるのとでは、どちらが幸せなんだろうか。

貴子はそう思う。


言葉の上でもそうだ。

夢という言葉は曖昧だ。夢は理想や目標という意味にも使われるからだ。


無根拠な夢想の中で今の現実を変えたいと願う自分がいる一方で、現実を知る度に夢や目標を叶える困難さを思い知らされる。


昔、何かで読んだ記憶がある。今生きている現実が全て夢だという可能性は、そうじゃない可能性と同じだけあるのだ、と。


痛みや苦しみなんて感じたくなかった。現実は辛い事があまりに多すぎる。


今や貴子にとっては夜の幻にしか過ぎなかった悪夢が貴子にとっては今の現実であり、本当の世界なのかもしれなかった。


覚めてほしくない甘美な夢は一瞬で覚める癖に、見たくもない悪夢の方は死ぬまで覚めない現実の方に無限に溢れ却っていた。


死を望むから悪夢を見るのか、死にたくないという現実の方が悪夢を見せるのか、その境界が貴子にはもう分からない。


浅い眠りの中で、貴子は水辺に沈んでいく小さな木の葉になる夢を見た。


さぁっという水の音で、貴子は目を覚ました。


頭が割れるように痛かった。

ひどく朦朧としている。

覚醒と混濁を繰り返す意識の中で、貴子の思考は今やグズグズに淀み、もはやどこからどこまでが悪夢で、どこからが現実なのかも判然としなかった。


起きた途端に体が震えていた。当たり前だった貴子の日常は崩壊し、悪夢の非日常は再びの境界を貴子に突きつけていた。


黒い棺桶の中にあった、あの少女の死体。

腐っていない瑞々しい死体。

相変わらず閉じ込められている悪夢のような現実。貴子は寒さと死の恐怖に震えながら、自分の膝を抱えた。


いつから、こんな普通じゃない世界が始まってしまったのだろう?

貴子はそう思った。現実は今や悪意と死で溢れていた。この現実の方が悪夢だ。

辛い事が多すぎる。いつかは覚めてしまう悪夢の方がよほどいい。


懐かしい顔が次々に浮かんだ。

愛おしい記憶や思い出が、怒濤のように押し寄せ、闇の彼方に消えていく。貴子は暗闇の中で沸々と悲しみと怒りが高まっていくのを感じた。


この世界は夜の夢のように自分一人で成り立っている訳じゃない。きっと誰の為のものでもない。現実は、ただそこにあるものだったはずだ。


世界とは何だ?

社会とは何だ?

犯罪とは何だ?


殺した側にも殺された側にも、傷つけた側にも傷つけられた側にも孤独に死んだ人間にも家族や友達がいるはずだ。誰よりも大切な恋人だっていたかも知れない。


誰かの世界を壊すのも、自分の世界を壊すのも、誰かに壊されるのも貴子は嫌だ。

生きているからだ。現実はただ生きて、ここにあるものだ。こんな悪意に満ちた場所に貴子の世界なんかない。


「私の世界を返して…。勇樹やみんなのところに帰してよぉ…!」


涙が出てきた。

貴子の世界がぐにゃりと歪んだ。無機質な石畳。威圧感ばかりの堅牢な建物群。何もかも跳ね返す、この優しくも何ともない監獄のような学校。


大事な友達は死んで、この上大好きな仲間も、帰るべき家族がいる場所も、みんなみんな自分から取り上げられ、このまま地下で儚く朽ちて壊れていく現実なんて嘘だ…。


貴子は顔を上げた。

水の音。ロッカーと机。

ステンドグラスから見下ろす魔法使い。黒い棺桶。同じだ。ただ忌まわしいだけのロケーションが広がっていた。


その時だった。


ザワリと貴子の皮膚に怖気が走った。


騒々と風の音。

胸騒ぎ。違う。

緊張に体が強張る。

騒々。気配。物音。


キィキィ。声?

誰かいる。何だ?


背後に異様な気配を感じて貴子は振り返った。


“あの人"が立っていた。


「いや…」


“あの人"が赤いマントを着て立っていた。


「いや…いやよ…!」


“あの人"が懐からナイフを取り出した。


「いやあッ!」


怪人は何度も何度も胸を刺すのではなかったか。秘密を知ってしまった報いだというのだろうか。


「いやだああ、もう…もうやめてええッ!」


貴子が叫ぶのとほぼ同時に。



何か大きなものが落ちてきた。



きらきらとした何かが宙を舞っている。

それは石畳の床に真っ直ぐに。風を孕みながら舞い降りてきた。


黒く艶やかな…。

それは黒いマントを着た怪人だった。


スローモーションのように。

やけにゆっくりと。

漆黒の布地をはためかせながら、黒い怪人がスタリと地下に舞い降りて、赤い怪人と向かい合った。


「待ちなよ…」


懐かしい声がどこからか聞こえた気がした。


どうせ幻聴だ…。

これは悪い夢だ…。

いつか覚める…夢だ。


その懐かしい声が、突如として頭上から現れた、その黒い怪人の発した声だとは何も解らないまま。

貴子の意識は三度、無限の闇の中に落ちた。



※※※



間に合った!


どうやら勝利の女神は…。

いや、不敵に笑う死神は最大にして最後のチャンスを再び勇樹にくれたらしい。


あまりの出来事に貴子は気絶したようだ。

だが、拘束されている様子も薬を嗅がされている様子もない。ただ気を失っているだけだ。


…好都合だ。最悪な事態だけは避けられた。


奈美が命を賭して守り抜いたこの証。貴子は僕が守る。このチャンスは本当は奈美がくれたものだ。貴子にはもう、指一本触れさせはしない!


そうだ。今こそ…。

ラスト五秒の逆転ファイターになるんだ!


「それ以上、貴子に近付けば、アンタを殺す。アンタが奈美を殺したように、僕がアンタを殺す…」


勇樹は己を奮い立たせるようにして、赤い怪人に向けて背後からそう言った。

勇樹の冷たく静かなその怒りの声に、背中を向けた赤い怪人はビクリと体を震わせた。


もちろん嘘だ。

自分の身近な人を。愛する人や好きだった人を殺されたから自分も相手を殺してやろうなど、同じ事の繰り返しだ。誤解の果てに一条明日香に殺意を持った勇樹だから解る。

今なら解る。

怒りは時に取り返しのつかない刃となる。

憎しみと怒りと殺戮と。悲しみと後悔と再びの憤怒をただ繰り返すだけの死の螺旋など、誤った戦争やテロと同じだ。

そんな結果など望んでいない。

ただのはったりだった。


死ぬのは怖い。どうしようもなく怖くて堪らない。死にたくない。もう死にたいなんて思わない。前向きに物事と戦う姿勢は好きだが戦争や諍いなど勇樹は嫌いだ。


人は解り合うことは出来ないのかもしれない。けれど、少なくとも憎み合わずに生きてはいけるはずだ。なら、その方がいい。


誰かの死を願うのも自分の死を望むのも、傷つけるのも傷つけられるのも勇樹はもう嫌だ。生きているからだ。生きているから死にたくなんてない。人殺しなど願ってはいない。


沈黙。


赤と黒。冷たく閉ざされた静謐な空間に、この世ならぬ怪人達が対峙している。


振り返らないところはさすがだった。相手は殺人犯だ。一筋縄でいくはずがない相手なのは分かっている。


ゆっくりと近づいた。相手は動かない。こちらの様子を探っているのだろうか?

勇樹の腹は決まっていた。

もう後戻りはできない。


最後の戦いの幕開けとなる一言を、勇樹は告げた。


「お遊びはここまでだ…。

時計塔の魔術師!」


勇樹の言葉に弾かれたように、相手は勢いよく振り返った。赤いマントの懐から、何かが一瞬ギラリと輝くのを、勇樹は見逃さなかった。


後ろに引いて身をかわす。ダガーナイフの鋭い切っ先が勇樹の目の前を下から斜め上に掠めた。


間合いを見誤った相手はすぐさま切りつけてきた。勇樹はさらに上体を後ろに反らしてかわした。


見える…!

自分でも信じられなかった。

見える。


来栖の重くて鋭い、あのリーチの長い拳に比べれば、分かりきった太刀筋で切りつけてくるナイフなど、スローモーションにさえ見えた。装飾の施された銀色のナイフの柄の模様まで確認できる。


一条明日香の死を止められなかった勇樹にはわかる。凶器とは諸刃の剣だ。そのダメージは自分の人生を傷つける。


勇樹はあらゆる凶器を想定し、その軌跡を何度もシミュレーションし、実体のあるこの相手と戦うイメージを時間の許す限り、執拗に頭に刻みつけてきた。


相手にとっては想定外の、この対峙の瞬間をこそ、勇樹は牙を研いで待っていた。

極限まで研ぎ澄ませてきた勇樹の五感と戦う本能は、こんなチャチな凶器などには負けない。臆病な殺人者なんかに…。

殺されて堪るか!


素早い一突きを体をひねって勇樹はかわした。やはり見える。


この間合いだ。この間合いで戦うんだ。近すぎても遠すぎても駄目だ。中途半端な距離になれば、相手の向こう側にいる貴子を危険に晒すことになる。


壁際に追いやられながらも勇樹めがけて振り回される凶刃は、ひたすら虚しく空を切っていた。


赤い怪人はフードの下で戦慄の表情を浮かべた。荒い呼吸が勇樹に伝わってくる。空回りする殺意と焦りは、さらなる恐怖を相手の心に呼んだようだ。


来栖が用意してくれた、このコスチュームも効果抜群だった。近接武器を持った相手にひらひらした衣装は、まず距離感を失わせる。

反面、相手とほぼ同じ服装でも勇樹は素手だ。かわす事だけに集中できた。


仮面まで被った、得体の知れない勇樹が怖いのだろう。ピークに差し掛かった疲労は相手の動きをさらに単調にしていた。


視える。読める。判る。


命の瀬戸際にあるというのに、今や恐怖も何も感じない。相手が何をしようが無駄だとさえ感じた。


来栖の言葉が蘇る。なるほど、かのブルース・リーが言った『考えるな、感じろ』とはこういう意味だったのだ。


後ろになぜかロッカーがあった。こちらにはもう後がない。

斬りつける動作から一転して、相手は今度は体ごと勇樹を貫くべく、ナイフを両手持ちに切り替えて突っ込んできた。

だが、それこそ勇樹が待っていた瞬間だった。勇樹は自分から相手に突進していった。


横に逃れ、勇樹はナイフを寸前でかわした。目標を見失って勢いあまった相手の肩口に向け、勇樹は思いきり体当たりを見舞った。


相手は近くにあった机にまで吹っ飛ばされた。ガタン、と派手な音がして椅子が倒れ、黒いデスクライトが揺れた。バラバラと机の中から何か紙のようなものが床に散らばった。


動けない相手の隙をついて、勇樹は即座に倒れた貴子を背にした。体制は完全に入れ替わっていた。

守るべき境界の外へと…。

勇樹はついに相手を追い出した!


憎悪と殺意に満ちた眼差しで、敵は勇樹を睨みつけてきた。銀色の仮面の下で、勇樹はその視線を冷ややかに受け止めた。


まるで別人だった。


これが本当に、僕が知っている、“あの人"なのか?

そう思った。


もはや勝敗は誰の目にも明らかだったが、相手は逃げない。

激情と殺意に駆られた“この人"には今、おそらく勇樹しか見えていない。


憎しみや恐れはここまで自分自身を視野狭窄にするのだ。

今の“この人"は、少し前の勇樹と同じだ。


もっとも簡単な事を勇樹は見落としていた。

見失っていた。いつの間にか、忘れていた。


勇樹は思う。


人間にはきっと心の壁だの境界だのが幾つもある。

それは目には見えないし、その一つ一つを明確に言葉に言い表すことは出来ないけれど、きっとあるのだ。

ことさら自分を探し出す必要なんて初めからなかった。


そう。それはいつだって勇樹の心の中にあったものだったのだ。


何のことはない。自分の中の強さや弱さだのと勇樹の求めていた真実とは、実は同じ感情の上にあるものだったのだ。


勇樹は余計なモノに惑わされ、その上に立っていた自分も見えなかったし、気がつかなかっただけなのだ。

あの探偵が。あの女の子が。

奈美が。そして由紀子が教えてくれた。


長い悪夢から覚めたように、勇樹は生まれ変わったような心持ちで颯爽と黒いマントを翻した。相手はその動きに、再びビクリと体を震わせた。


全く違う自分になりきる事で強くなる。

まさに、こういうのを“変身"と呼ぶのかもしれない。


壁なんて境界は実はない事に気がつけば、その時点で自分の世界は変わっているのだ。そのことを勇樹は今ほど真摯に実感できた時はない。


その境界は簡単に越えられるものではないけれど、ただその境界に気がつくだけでよかったのだ。

ある境界の一線を踏み外した人が時には犯罪者と呼ばれるように。今の勇樹が目の前に対峙している“この人"と、はっきりと対局の位置にあることを理解しているように。


勇樹の場合、目覚めるきっかけがもっとも懐かしく、もっとも子供っぽい感情だったというだけだ。

その感情はやはり、自分でもうまく言い表せない。間違っているかもしれない。

それでもいい。意味や理由は後から作るものだ。誰が何と言おうが、それが勇樹の本質だからだ。勇樹が求めていた勇樹の中の真実だからだ。


本当はこの人も、それを知っているはず。ただ忘れているだけだ。幼い頃に一度は憧れる、誰にだってある感情のはずなのに。


子供じみた稚拙な論理だというのも解っている。それでもこの場には、それは何より相応しい感情のような気がした。


今の勇樹なら何の臆面もなく言える。

声を大にして言える。

あの頃の自分のように。


道を踏み外した、このバカヤロウに言え!

言ってやれ、成瀬勇樹!


火のついた勇樹の闘争心は野獣のような叫びとなって周囲の世界を震わせた。ついに反撃の狼煙を上げた勇樹は相手に突進した。


左の上段回し蹴りで相手のナイフを素早く跳ね飛ばした。

相手は痛みに手首を押さえた。


勇樹は身を翻した。

バサリと黒いマントが相手の視界を奪う。返す刀で勇樹は相手のがら空きの腹部に目掛け、思いきり必殺の後ろ回し蹴りを見舞った。


刹那。


バーンと派手な音がして相手はロッカーに背中をぶつけた。

ぐっと一声呻いて、前のめりにその人物の膝が徐々に折れてゆく。


会心の一撃を見舞い、勇樹は言った。


「アンタに僕は殺せない。

…よく言うだろう? 正義は必ず勝つんだ」


相手は完全に失神していた。

倒れ伏した赤い怪人を見下ろし、黒い怪人となった勇樹はもう一度、漆黒のマントをバサリと翻して犯罪者に背を向けた。


どうだ!


伊達に『魔弾の貴公子』と呼ばれてる訳じゃないんだよ。

ザマーミロ! FUCK YOU!



※※※



突如として、けたたましいほどガンガンと鳴り響いていた、耳鳴りのする時計塔の鐘の音がやんだ。


沈黙。


山内には皆目見当もつかない得体の知れない儀式を終えたのか、黒衣の魔術師…探偵の来栖要はフードの下でふぅと深く息をついた。


揺らめく蝋燭の灯火が、ふしだらなほどに赤々と妖しく漆黒の男を照らしていた。

教頭は鐘の音に完全に腰を抜かしていた。


「な、何が来るんだ! た、助けてくれ! 今すぐここから出してくれ!」


教頭は傍らにいた大柄な刑事に必死の形相ですがりついた。花屋敷刑事は、そんな情けない教頭などよそに、放心したように部屋の隅の一角に釘付けになっていた。

石原という小柄な女刑事が、花田が、彼にすがりついた桂木が、植田までもが、金縛りにあったように部屋の隅を凝視している。


山内はつられるようにしてそちらを見やった。


そこにはいつの間にか、あの赤いローブを着た怪人が倒れていた。


どういう事だ…!?

なぜだ!? なぜ、こいつがここにいるんだ!


赤い魔女は…一条明日香は時計塔の屋上から飛び降りて死んだはずではなかったのか?


山内は、この赤い怪人が暗い地面の底から本当に湧いて出てきたかのように感じた。

いつの間にかそこにいた…。

そうとしか思えなかった。どこから現れたのか、まるで分からなかった…。


その時だった。


ガチャンと音がして、山内達がやって来た背後の扉がいきなり開いた。


そこには目の前の探偵と全く同じ恰好の漆黒のローブを纏い、銀色のマスクを被った異様な怪人が立っていた。その怪人は鈴木貴子を両手で抱えていた!


「す、鈴木!」


驚きと共に、山内は状況も忘れて呼びかけていた。死んではいない。

微かに胸が上下している。どうやら鈴木は気を失っているらしい。


…しかし、一体何があったというのだ!

ようやく姿を見せた鈴木貴子の体は、まるで水でも被ったように濡れていた。

制服のワイシャツは乱れ、ぴったりと彼女の白い肌に張り付いている。しっとりと濡れたショートカットの髪が、頬や首筋に張り付いていた。


黒いローブに身を包み、銀色の仮面を被った黒衣の怪人は、そんな彼女をしっかりと両手で抱き抱えながら、ゆっくりとした動作で部屋の中央にいる、まるで鏡で向き合ったように瓜二つの魔術師の方へと近づいてきた。


常軌を逸したような光景に、教師達は思わず壁際に後ずさった。


黒衣の魔術師…来栖要は真っ黒なローブの頭のフードを外し、ニヤリと不敵に微笑んだ。


「にわか仕込みの黒魔術…。

悪魔召喚の儀式は無事成功したようですね」


淡々と語る探偵の口調に座の緊張感が一瞬切れた。

植田が喘ぐようにして溜め息をついた。


「一体これは…。一体何が、どうなっているんだ…」


傍らにいた教頭が蜥蜴のようにバタバタと這いながら、入口の近くへと後退した。

入口付近にいた花屋敷刑事は、無言で扉の前に立った。


教頭は探偵を指差して叫んだ。


「あ、悪魔だ! お、お前が悪魔を学園に招き寄せて人殺しをさせていたんだな!

え、ええい、出せ! 私をここから出してくれ!」


大柄な花屋敷が仁王像のように立ち竦んで扉の前で威圧する。行き場を失した教頭は、薄い頭をかきむしってパニックに陥った。

誰もこの部屋から出すなと命令されているのだろう。


ククク、と喉を鳴らすようにして、探偵は肩を震わせて笑った。


「いい加減に目を覚まして下さい。最後の役者達が舞台に登場しただけじゃないですか」


そう言うやいなや、探偵はバサリと着ていたローブを脱ぎ捨て、鈴木貴子の体に掛けてやると、目の前に立った黒衣の怪人から軽々と彼女を受け取った。


探偵は目の前にいる黒衣の怪人に言った。


「ご苦労だったな。随分と暑かっただろう?

その、おかしな変身コスチュームも脱いでいいぜ。

…そろそろ皆さんに、お前の正体を明かしてやってくれないか?」


探偵の気安い口調に仮面の人物はこくりと頷くと、バサリと黒いローブを傍らに脱ぎ捨て、銀色の仮面を外した。


「お、お前は…」


山内は目の前に突然現れたその人物に、ただただ驚愕の眼差しを向けるしかなかった。


校章のついた紺色のブレザー。

白いブラウスに赤いネクタイ。

アーガイルチェックの赤いスカート。

聖真学園の制服を着た人物の姿が露わになる。


そこには勝ち気でボーイッシュな感じのする一人の“女生徒"が立っていた。


「な、成瀬…」


“彼女"はさも涼しげにふぅと息をつくと、少々癖のある自分のショートレイヤーの髪をかきあげて探偵の隣にやって来た。


探偵は不敵な表情で再びニヤリと微笑んだ。


「ここで皆さんに新たに増えたゲストの方々をご紹介しましょう。

まず、そちらに倒れている赤い怪人を確保する為、この黒魔術ショーに協力してくれた俺の優秀なアシスタントであるこちらの彼女。

ご存知、二年B組の生徒で成瀬勇樹君です」


探偵の芝居がかった紹介に答えるかのように彼女は悪戯っぽく微笑むと、まるで貴族の令嬢が舞踏会に出る時のように、短い制服のスカートの裾を持ち上げ、形のよい膝を折り曲げて一礼した。


“彼女"は。成瀬勇樹は隣にいる背の高い探偵をチラリと見上げて居住まいを正すと、場違いなほどの無邪気な笑顔でにっこりと一同に向けて微笑んだ。


探偵は続けた。


「皆さんもお待ちかねの、こちらの鈴木貴子君についてはご存知ですね?

石原刑事、寒い地下に長い間幽閉されていたようだ。震えている。このままじゃかわいそうだ。そこに用意してある毛布にくるんで、寝かせてやってくれないか」


「あ…は、はい!」


呆気にとられたように放心していた傍らの女刑事は探偵のそんな言葉に弾かれたように従った。僕も手伝います、と言って成瀬勇樹が彼女に助勢した。


鈴木貴子を彼女達に任せて手ぶらになった探偵は、黒いスーツのポケットに手を突っ込みながら、未だに状況が掴めずに呆気にとられている一同の方に向き直った。


「おっと…前後してしまいましたが、最後のお方の紹介がまだでしたね。本来なら真っ先に紹介するべき人なんですが…」


コツコツと殊更に足音を立てながら、黒いスーツの探偵は何の躊躇いもなく倒れ伏した赤い怪人の前に立つと、再び一同に向けて振り返った。


「皆さん、改めてご紹介します。

この人こそ、この魔術の舞台の本当の主役。世間では既に赤魔女事件と呼ばれている、この聖真学園連続殺人事件の真犯人です」


探偵は足下に倒れた赤い怪人を、ぞっとするような冷たい緋色の瞳で見下ろした。

山内の動機が俄かに激しくなっていった。


「あなたほどの人が、こちらの伏兵に気づかなかったとは迂闊でしたね。心理的に追い詰められた、あなたが鈴木君をどうするつもりだったのか…。

そして、孤独な殺人者だったはずのあなたが、なぜ今になって、そんな風に怯えるようになったのかは、敢えて問いません。

この期に及んでまた同じ事を繰り返し、その混乱に乗じて形勢逆転を謀ろうとしたのが、どうやらあなたの敗因のようですよ」


「くっ…!」


怪人はそこで始めて、目の前に立った死神のごとき男を見上げた。


「犯人はあなたですね…」


黒いグローブを嵌めた探偵の左手が、赤い怪人の被っている銀色の仮面を素早く剥ぎ取った。


「間宮愛子先生」


地獄の底から響いてくるような、ぼそりと低い探偵の声。

仮面の下から現れた赤い怪人の怯えたようなその素顔に、山内の全身から急速に何かが抜けていくのがわかった。



※※※



赤い怪人が探偵を見上げている。

赤いローブ姿の間宮愛子が憎悪と焦燥と恐怖の入り交じった視線で探偵を見上げている。


その光景に花屋敷は心中で感嘆の溜め息をついた。


花屋敷は薄暗い塔の周囲を改めて見渡した。

部屋と機械室との間。金網のようなゴンドラの中央に倒れている、この赤いローブの怪人がいきなり下から現れたのは、さすがの花屋敷も驚いていた。


冗談ごとではなく、まるで地面からいきなり現れたかのように感じたのだ。


鐘が鳴ると金網状の床部分が上下に動く。

これがこの途方もない仕掛けの正体だったとは。

花屋敷は事件や仕掛けの全貌は分からないまでもここに至り、ようやくこの探偵の仕掛けた黒魔術が何のために存在したのかを理解した。


全てはこの犯人逮捕の為に用意されたお膳立てだったのだ。


傍らに倒れた間宮愛子を一瞥してから、探偵は周囲をゆっくりと見渡した。


「今回の一連の事件は全て、この時計塔という特異な環境を巡って引き起こされたのです…」


相変わらず呆然としている周囲をよそに、来栖要は続けた。


「この時計塔は、ある有名な建築家が元々あったこの学園に手を加えて出来上がったものなんです」


赤々とした蝋燭の炎が揺らめく。闇の中でもよく響く低い声で来栖は続けた。


「その建築家の名は来栖征司。身内の恥を晒すようで大変恐縮ですが、私の実の父です」


何だと、と植田が驚きの声をあげた。


「来栖征司だと…。

き、聞いた事があるぞ。

“眩惑の天才"と呼ばれた稀代の建築家の名前じゃないか!」


「私も知っています。あの来栖征司氏の息子さんでしたか…。どうりで…」


植田が驚愕の眼差しで。花田は嘆息の溜め息を漏らしながら、来栖要を見つめていた。


来栖は微かに目を伏せてから続けた。


「父には昔から、ある困った性癖がありましてね。それは、このようなからくり趣味とでも言うべきものだったのです」


「からくり趣味?」


桂木涼子が訝しげな表情で探偵に尋ねた。来栖要は静かに頷いた。


「ええ、依頼主にまで知らせずにこっそりとね。表向きの設計図とは別に裏の設計図があり、細密な仕掛けやギミックを建物の内部に予め仕込んでおくのです。

秘密の地下室だの、隣の部屋が覗けるマジックミラーだの、パズルで開く入口だのをね…」


探偵の言葉に部屋に集う一同は揃って押し黙った。


「大掛かりな仕掛けは、父が個人的な知り合いの業者を呼んで私財を投じて仕上げたり、建設業者の人間ですら知らない緻密な仕掛けをいつの間にか施しているというのですから、身内でなくても呆れてしまいます。

もっとも、そうした稚気に富んだ奇抜なアイディアが建築物に盛り込まれている事が知られるようになってからは、来栖コレクションなどと一部の好事家に呼ばれるようになり、却って有名になってしまったんですがね…。

好事家達の間ではキチガイ屋敷だの、からくり屋敷だのと呼ぶ人達もいるようですよ」


「からくり趣味?するとまさか…これも?」


桂木が床を指差して再び探偵に問いかけた。

来栖は頷いた。


「ええ…。この時計塔もその困った父のからくり趣味的な仕掛けが、ふんだんに用いられている建物なんです」


探偵は赤い金網で仕切られた、そのゴンドラの近くに立った。


蝋燭の炎が赤々と灯る、明るくなった広い室内。見えにくかったあの金網の床が完全にせり出して箱形になっているのを花屋敷は改めて確認出来た。


来栖は言った。


「逆さ十字が目印になっている金網の床もその一つです。このゴンドラは元々、時計塔の外壁に用いる建材を、上階に運び入れるのに使われていたもの。

最初は上にしか上がらないタイプの、ただの資材運搬用のゴンドラだったのです」


「元々エレベーターですらなかったと?」


花田の問い掛けに来栖要はこくりと頷いた。


「ええ。この時計塔が仕上がる直前、このゴンドラを意味ありげに見つめながら父は幼かった俺に、まるでなぞなぞでも出すようにして、こう言いましたよ。

『上を見れば下にあり、下を見れば上にある。この綺麗な学校に足りないもの。これなぁんだ?』

…とね」


座は揃って珍妙な顔をした。


探偵は言った。


「建築法に定められているように、普通であれば建築の際に用いた資材や機械は回収するのが当然なんですが、父はわざとそれを残しておいたんです。

こんな粗末で不安定な金網がまさか時計塔の鐘が鳴る度に外れ、下へと下がるゴンドラになっているなどと、普通は誰も思いません。

そもそもここは学校なんですよ。学園自体はとっくの昔に出来上がっていて、その屋上に乗っかる形で時計塔が建っているというような変わった構造をしている訳ですからね。

来栖征司は、その人間の持つ先入観に悪戯を仕掛けたんです。時計塔という言葉自体が先入観になっていた。

なにしろ、そこにいる鈴木君が監禁されていた地下の場所とエレベーター。そして、この時計塔が繋がっていて、それを一つの構造物と見るならば、ここは時計塔ですらなくなるという言い方も出来るからです。

言ってみれば、この金網の床自体がヒントになっていたんですよ」


全員が溜め息にも似た思いで来栖を見つめていた。エレベーターと地下という言葉で、花屋敷は仕掛けの全貌をようやく理解する事ができた。


しかし、そうなると当然の疑問が出てくる。

花屋敷は来栖に尋ねた。


「これは一体、どこに繋がっているんだ?」


「これは、あの噴水の下に繋がっている。この学園の秘密の地下室にな」


そういうことか!


花屋敷はようやく、傍らで気絶している間宮愛子へと先ほど来栖が言った言葉の意味を理解した。


事態の混乱に乗じ、彼女はおそらく監禁した鈴木貴子を殺害しようとしたに違いない。

そう考え、花屋敷は再び来栖に問いかけた。


「この人は中庭から噴水に降りて、そこにあるエレベーターに乗ってきた。いや、乗せられてきた。…そういう事なんだな?」


「そう。これが推理小説なら実は隠し部屋が存在しましたなんてアンフェアもいいところなんだが、実際そうなんだから仕方がないんだよ。もっとも、俺の長話の隙を突いて暗闇に乗じて中庭に降りたはいいが、この人には意外な伏兵が待っていたという訳さ。

正に飛んで火にいる何とやらだ。俺も冷や冷やしたが、うまくいって何よりだったぜ」


来栖はニヤリと微笑んで隣にいるアシスタントの少女を見つめた。

そんな相棒ににっこりと微笑み返し、成瀬勇樹が言った。


「僕は鐘が鳴り、エレベーターが下へと降りるのを確認してから一階の鏡の中から地下へと入ったんです」


「か、鏡の中だと? …一体どういう事だ?」


勇樹に食いつくように、植田が再び驚きの声をあげて質問した。これには探偵が答えた。


「植田先生なら、ご存知のはずでしょう。あなたが昨日の事件の際、おかしな人影を目撃し、奇妙な音を聞いたというあの一階の廊下にある鏡の事ですよ。彼女は、そこから侵入したと言っているんです」


「何だと! あの場所はまさか下に繋がっているというのか!?」


そうです、と探偵は言った。


「噴水の地下室へと続く入口は二つ存在します。一つはこの時計塔のエレベーターから地下へと降りる方法。そして、中庭の噴水から降りていく方法です」


カラクリはこうです、と探偵は続けた。


「この時計塔は鐘が鳴るとエレベーターが起動する仕掛けになっているんです。

沢木君が死んで、あの噴水の中庭は警察の捜査によって完全に封鎖されてしまいました。

あの事件以来、時計塔の鐘は鳴っていません。警官がそこら中を歩いている状況の中、犯人は咄嗟の判断で鈴木君を地下に監禁したまではよかったが、手出しをしたくとも出来ない状態にあった…」


そういう事だったか!

花屋敷はもちろん誰が警官隊を中庭に配置していたのかは知っていたが、ここは敢えて黙っていた。

探偵の後を受けて、成瀬勇樹が発言した。


「奈美は…自分の命を賭して、きっと貴子をこの人から守っていたんです…。

僕にあの地下室の場所を伝える。たったそれだけの為に目立つ噴水のライトアップを点灯させた。そうすることで異常を知らせた。矢で腹を貫かれても僕を中庭で待ち続けてくれていた…。奈美の最期の機転のおかげで貴子は殺されずにすんだ…」


彼女は懐から何かを取り出して握りしめ、そっと瞳を閉じた。

植田が再び声を荒げた。


「待て! では私が見たあの人影は誰なんだ?

誰が何と言おうがあれは…あの異様な人影は、死んだ沢木じゃなかったぞ!」


来栖が植田を落ち着かせるように、片手で制した。


「…それは追々説明していくとしましょう。

ここで肝心なのは、あの鏡の中はエレベーターの通り道になっているという事なんです。壊してしまえば、中から地下へと侵入するのは簡単です」


成瀬勇樹が突然、花屋敷に頭を下げた。


「ごめんなさい…。貴子を助ける為とはいえ、蹴り破ってあの鏡を壊してしまいました。器物破損の現行犯で僕を逮捕して下さい」


花屋敷は呆れて、困ったように笑うしかなかった。


「そんな事はしないから安心していいよ。

それよりも…。さっきから聞いていて妙に気になったんだが、成瀬君…君はまるで男の人のような話し方をするんだな?」


花屋敷は事務所で会って以来ずっと疑問に思っていた事を、ここで始めて傍らの女生徒に尋ねた。


成瀬勇樹は驚いた表情で微かに目を伏せた。


「僕は僕です。それ以上でも、それ以下でもありません。この喋り方だって別に誰かに迷惑を掛けてる訳じゃない。ただ男の人のようでいたいからです」


「馬鹿な事を言うな!常識で考えてみろ。女が男言葉を使ったからといって何になる!」


勇樹は何も言わずに植田を睨みつけた。傍らにいた探偵が植田の視線を遮るように前に立った。


「差別をなくせ格差をなくせというのが近代の理ですが、やはりこうした事はまだまだすんなりとは理解されないようですね。

彼女を見て色々と考えてほしいものですよ。常識や先入観というものが、いかに人の目を曇らせているのかという事をね」


「何だと…?」


植田の眉がぴくりと痙攣した。今しも相手に殴りかからんばかりの剣幕である。しかし、来栖は相変わらず全く動じていない。


「男女の別というのは、もはやたんなる性差ではありません。

同性愛者同士の結婚を認めているアメリカのカリフォルニア州サンフランシスコを例にとるまでもなく、日本にもニューハーフ専門の特殊営業型の飲食店や、女性客だけを相手にする女性だけの会員制クラブなど、私の住む近所にも、そうした店舗は秘密裏に存在しているのが現状です」


新宿歌舞伎町には確かにそうした店はある。

花屋敷は以前、非合法に同性愛者向けの売春ホストクラブを経営していた男を花園町で摘発した事もある。


逮捕された経営者はヒゲの剃り跡も青い女装した50才代の男性で(本人は女性と主張したが)、彼はさして悪びれた様子もなく、


『世の中、持ちつ凭れつなの。店の男のコ達も納得ずくだし、お客さんも喜んでお金を出してくれるワ。ボーイズラブ? 衆道の契り? ホモセクシャル? 何とでもおっしゃいな。アタシは双方のニーズに応えて双方の得になるサービスを提供してただけよ』


と供述した。

女性物の服を着た化粧のぶ厚い異様な風体の男…いわゆるオカマの、その濃い顔とキツい香水の匂いは、今でも鮮明に花屋敷の印象に残っている。


男と女という生まれた時から与えられた性差というカテゴリーや、その境界もこうしてみると実際、かなり怪しいものである。


秋葉原や渋谷界隈では、男言葉を使う若い女のコがゴシックロリータ…俗にゴスロリやコスプレと呼ばれるファッションで自分の事を“ボク"と呼んだり、男言葉を平気で使っていたりもする。彼女達に理由を聞くと、その方が男は“萌える"し、マニア受けもよくて、可愛いし、モテるからなのだそうだ。

“メガネっ娘"や“僕っ娘"などと一部で呼ばれたりもするそうだが、若者のファッションや流行の、そうした混沌とした感覚は花屋敷には未だにさっぱり理解できぬし、一向にわからない。


花屋敷は隣にいる石原を見る。幼児体型で童顔。年齢が一見しただけではわからぬ、ちょうどこんな感じの女性がコスプレでもすれば男女問わず持て囃される文化は確実に存在しているのだろう。

その石原が不思議そうに花屋敷の顔を見つめてきたので、花屋敷は慌てて視線を逸らした。たった今、自分が考えていた事を口にしたら回し蹴りの一つも飛んでくるかもしれない。


来栖は続けた。


「歌舞伎の女形のように、異性装は日本では伝統的な文化ですよ。男が女に、女が男にというのはけしておかしな事ではない。

整形手術や美容整形に頼るのも、何も女性だけの特権とは限りません。

手術によって性転換を認められている事例も、世界的に見れば男性から女性への転換が圧倒的ですが、これも男性だけの特権という訳ではありません。

今さらですが時代は進み、個人の価値観も変わり、性別は予め生まれ持った形質や与えられたものではなく、個人が既に選び取る領域にまでなっている時代だといえるでしょう」


来栖は隣にいる成瀬勇樹をチラリと見た。


男言葉を使う女子高生。

それが漠然とした違和感の正体だったのだ。

来栖は続けた。


「物事の境界とは、いつだって多く曖昧なものです。我々が男らしい女らしいと口にする時、そこにはもう性別を越えた価値判断というものが既に発生してしまっている。

女性の社会進出に伴って多様化した現代の性差というもののカテゴリーは、同時に男性側にも当てはまる事でもあります。

これは反対を向いているだけの事で、本来上だ下だと階層を為すものではありません。そうしたものは個人の特性であって、劣性ではないし、ましてや属性でもないんです。

…言い換えれば、男らしい言葉を好む女性もいれば、それを拒む女性がいるのは当然の事だし、それを性的な興味の対象として好む女性や男性がいるのも、別段おかしな事ではないのです」


まるで騙される方が、そうした毒に侵されているのだとでも言いたげである。


全員の視線が、この一連の魔術の仕掛け人である探偵と、そして彼女の元に集まっていた。綺麗な顔をした人形と、それを操る人形使いが並んでいるようだった。


教頭が脂汗をたらしながら勇樹に向けて言った。


「しかし非常識な…。君は恥ずかしくないのか?見ればたいした美貌の持ち主だし、なぜ麗しくたおやかに女性らしく普通の言葉使いで振る舞おうとしないのかね?」


「成瀬…。お前も須藤や川島や一条、それに売春していた奴らと同じか? 勉強の成績も部活の成績だって悪くない、お前までこんな非常識な…」


自分達を常識人と信じて疑わないのであろう教頭と植田は納得のいかない様子で、ここぞとばかりに勇樹へ非難の声をぶつけた。


教職員による殺人事件。

誘拐に監禁。生徒の暴力事件に売買春にドラッグという、ありとあらゆる犯罪の数々。

そして、非現実的な探偵の出現と黒魔術によって究極に混乱した非常識きわまりないこの展開は、彼らの世界観を破壊するには充分過ぎるインパクトだったようだ。


「非常識な…」


植田が見下げ果てたように勇樹を見る。勇樹はもう、そちらの方を見向きもしなかった。

来栖は呆れたように片方の眉を下げ、肩をすくめた。


「おやおや…まだわかって頂けませんか…。あなた方の考える常識も、これと同じだという事が。

先ほども言いましたが、自分自身を男性や女性だと思いたい心理は個人の特性であって、誰かに別に蔑まれる謂われなどないのです。

ファッション界ではメンズのジャケットやスーツを華麗に着こなす女性は絵になるでしょう? 教師が自分自身の思い込みで自己主張の強い生徒達を非難するというのも、果たしてどうなんでしょうか…。

歴史ある宝塚歌劇団だって男性に扮装する女優はいるでしょう? 彼女達のような男役は本来の男優にはない優美で可憐なものだし、彼女達自身も役作りの上では、自分自身を男性のつもりで演技したりするでしょう。

その逆もまたしかり。

コントやコメディなどで男が女装して肌を晒す姿は、お茶の間ではすっかりお約束で笑えます。逆はお笑いの世界ではむしろタブー視されるのです。

多様化した価値観に沿う形で法律が変わっていくように、我々が共有する常識という偏見も形を変えていかなければ人は立ち行かないように出来てしまっている。

…どちらも同じです」


「馬鹿な事を! いくらなんでも性差を無視して形成される流行など話にならない。

そんなものが、平気で受け入れられる訳がないだろう!」


植田は執拗に食い下がった。

来栖はあくまで淡々と続けた。


「それはもちろんです。性差をなくして目新しさだけをただ追求した物事などそもそも流行の対象とはなりえないし、文化としてこれほどまで定着したりはしません。

…いいですか、教頭先生に植田先生。

制度や一般常識とされるものの多くは、社会そのものに仕掛けられた壮大な思い込みに過ぎないのです。

そして、それらは必ずしも個人の内面とうまく添い遂げるとは限りません。意志のベクトルは個人の人格にこそ忠実であり、その中で人は時に葛藤し、苦悩し、新しい自己を体得して新しい個性を形作っていくのです。

そうした個性が最大公約数的に認められたものを世間では流行と呼び、世間に評価されて根付いたものを我々は初めて文化と呼ぶのです。

いずれにせよ、個人的な物事の延長にこそ政治や文化、そして社会があり、世間の常識が存在するというのは不可避な現実なんです。

まずは人がありきという事です」


自分の中で何かが壊れた教頭は、あんぐりと口を開けていた。植田は探偵の言葉に、再び歯ぎしりして押し黙ってしまった


死神のカードが暗示するものは破滅と再生。

誤認や錯誤に満ちた関係者達の心の様相を事件を解体する事で破壊し、最終的に心の内に芽生えた関係者個人個人の思想や思いに真実を見出す。


それが新宿の解体屋の異名を持つ、来栖要の探偵作法なのだろう。

彼の言う『真実はいつだって個人の中にある』とは本来、そういう意味なのかもしれない。


世界観の壊れた者共に、とどめの一撃を見舞うべく探偵は続けた。


「遺伝子の持つ染色体がそうであるように、人間は誰しもが、男性性と女性性の両方を持ち合わせて生まれてくるのです。

これは本来、バランスの問題なんです。どちらの度合いが強いか、どちらが顕在化しているのか、生きていく環境の中で個人差が出るに過ぎない。

人間の意識…いや、この場合、感情に至ってはもっともっと複雑でしょう。

男性性の強い女性が劣っている訳はないし、女だから女らしくて当然だという決まりもない。

それは、ある特定化された場所と時間…文化の中でのみ通用する決めごとだからです。

常識という呪い、魔術、思い込み…なんと呼んでも構いませんが、そうしたものにかかっている方々には、申し訳ありませんが少々理解しにくいかもしれませんね…」


探偵はそこで勇樹を意味ありげに見つめた。

外面と内面のジェンダーの境界が曖昧な中性的な美少女は、来栖とチラリと視線を交わすと再びニッコリと微笑んだ。


傍らにいる鈴木貴子とは明らかにタイプが違う。同じ美少女でも、鈴木貴子がどちらかといえば繊細で大人しい印象を与える女性なのに対し、成瀬勇樹は活発で、仕草や性格や言葉づかいも女性というより男性的だ。


制服姿の彼女を、花屋敷は改めて仔細に観察した。


少々クセのあるショートストレートのレイヤーヘアーの髪型。今時の女子高生にしてはめずらしく、メイクをしていない健康的な白い肌と中性的な態度や物腰。

睫毛が長く、凛とした面差しが印象的な端正な顔立ち。ほっそりしたマネキンのような白い手足。淡く盛り上がった胸。艶めかしい細い腰のくびれ。


死んだ沢木奈美がマネージャーをしていた空手部だという話だが、男勝りでスカート丈は短い。胸元に赤いネクタイをあしらった聖真学園のブレザータイプの制服を涼しげに着こなし、まだあどけなさを顔に残した、どこからどう見ても普通の女子高生である。


花屋敷はずっと違和感を感じながらも、彼女の男のような言葉づかいには一切疑問は挟まなかった。早瀬や石原も同じだったろう。

忙しい事件の最中、年の離れた今時の女子高生を相手に突っ込んで聞ける内容でもない。


立て続けに起こる事件に彼女は常に被害者の立場にいたが、始めから舞台は彼女を中心に動いていたといえなくもない。

勇樹の協力が不可欠だと断じた探偵…彼がこの犯人逮捕の一連の場のキャストに彼女を選んだ理由が、花屋敷は今ようやくわかった気がした。


大人に成り切れぬ子供。

子供とは呼べぬ程に女。

だが女というにはまだまだ幼く、もちろん男では決してない。一人前に世間を語り、しっかりと一人で生きてはいるが、生産力や経済力はない。


属性の曖昧さは時にボーダレス…無境界を予感させる。

それは彼女が徹底してマージナルな存在であろうとしたが故の、境界の無効化でもある。


そして、花屋敷には最後までわからなかったこの時計塔の仕掛け。事件のからくりを暴き、探偵の摩訶不思議なマジックで不可解な事件の真相を現出させてみせた、アシスタントとしての彼女…成瀬勇樹。


どうやら曖昧で境界的な犯罪に幕を引くのは男でも女でもなく、その境界に立っていた者だったようだ。


そして虚構と真実の境界を打ち破るべく、この学園に現れた死神のごとき探偵、来栖要。


勇樹を助け出し、事務所に引き入れたあの時から。始めから、この男には何もかもお見通しだったのかもしれない


暴力事件の被害者の供述をとった目黒署の柏崎刑事に、彼女の経歴を聞いて花屋敷は驚いた。まさか、と思った。

一年前から母方の名字を名乗っているが、彼女の本名は磯貝勇樹。警視庁捜査一課刑事課長、磯貝省吾警部の一人娘なのだ。


偶然とはいえ、ごく身近に身内の関係者が存在していた訳である。

彼女こそが、つい最近離婚した磯貝警部が語っていた『男のような口調を直そうともしない娘』の正体だったとは…。


凶器を持った犯人さえ捕らえる腕前には、正直言って花屋敷は舌を巻いた。

磯貝警部の父親が極真流空手の道場をしているという話は花屋敷も知っている。

祖父や磯貝警部の血を引いているだけあって、彼女の強さはどうやら本物のようである。格闘技のサラブレッドが、たまたま女性だったというだけの話なのかもしれない。


そうしてみると彼女の男のような言葉づかいにもいくらか得心がいく。


そう、答えは事件の最初から出ていたのだ。


偶然の山積にはいつだって最強のジョーカー。ラストカードが紛れているという事なのだろう。花屋敷には、それが読みきれなかったのだ。


「僕は今まで…」


勇樹はそこで改めて声を発した。ハスキーだが、やはり女性らしい声だった。


「自分を女だと、あまり考えないようにして生きてきた気がするんです…。

成長して胸が大きくなったり、体の形が変わっても昔からそんなふうに育てられてきたし、それが普通だと思ってた。

当たり前のように誰かを好きになったり誰かと付き合ったりしたい…普通の女の子なら、そんな風に思うのかもしれないけど、僕は違ってた…。

出来る事ならずっと男の人のように強く、雄々しい存在でありたかった…。

けど大好きだった奈美が死んで、どうしようもなく悲しくて、やりきれなくて…。それでもどうする事もできなくて…。

辛かったし悲しかった。

後追い自殺したくなる人の気持ちが、生まれて初めてわかった気がします…」


成瀬勇樹は何かを振り切るようにして静かな、それでいてどこか力強い口調で続けた。


「この事件で来栖さんに会って色々と思い至った事がありました。

僕は女だけど、いつだって強い男のようにありたい…。そう思って生きてきた。

けれど、世間はそれを異常な事だというでしょう?

『Female to Male』と『Male to Famale』…。

男らしさと女らしさの違いが分かっていないとか、乖離性同一性障害だとか体のいい言葉で、病気や異常な事だと位置づける大人達の世界は正常で、いつだって正しいものなんですか? 僕のように性差の乖離に迷う人間は、じゃあ異常なんですか?」


成瀬勇樹は目を伏せた。

少女の難解な問いに対する答えはなかった。答えがあるかどうかも、花屋敷にはわからなかった。


成瀬勇樹は続けた。


「そんな精神科の専門的な言葉をいくら使われたって、僕は絶対に納得しないと思うんです。

女なのに男らしく強くありたいと願う僕の気持ちや、メイクをしたり女性らしいファッションを楽しみたいと願う男の人の気持ち…。

男が男を好きになったり、女が女を好きになったりする気持ちは、じゃあ何に根差しているものなんですか?」


大人達は黙したまま、彼女に見入っていた。花屋敷は来栖をチラリと窺った。

探偵は静かに入口に立って場を静観している。成瀬勇樹は彼をチラリと見てから、再び続けた。


「僕は男らしさと女らしさの間で迷っていたんだと思います…」


そうぽつりと呟くと彼女は静かに顔を上げた。迷いや翳りを一切吹っ切ったような、すっきりした表情になっていた。


「でも強さや弱さや正義感って、性別なんかとは全然関係なかったんです。

女は弱いという思い込みで迷っていたのは、実は僕自身だったんです。

来栖さんといると不思議と凄く落ち着いた…。そんな時、僕はやっぱり女なんだなって気付いた…」


勇樹はそこで来栖を見て、恥ずかしそうに俯いた。勇樹の口調は哀切さと強さを帯びていた。花屋敷はその姿が凛々しく、美しいと感じた。なるほど、人は本来、男性でも女性でもあるのだろう。


成瀬勇樹の曖昧な世界は語る事によって解体され、組み上がっていた。

子供と大人、男性と女性という境界を彼女は己の言葉で乗り越え始めたのだ。


それが彼女の辿り着いた真実という事なのだろう。内なる現実は解き放たれ、新たな彼女の物語として紡がれていくのだろう。


羽化したての蝶々のように美しさと醜さ、強さと弱々しさの狭間にいる女性。その姿を花屋敷はもう一度美しいと感じた。


「来栖さんと話して思い至ったんです。これは異常な事なんかじゃないって。

それを恥じたり隠したりしたら差別と同じになっちゃうでしょ?」


勇樹は鈴木貴子をどこか優しげな眼差しで見つめながら続けた。

石原によって介抱されていた彼女は、ようやく目を覚ましたのか、柔らかな黒い毛布にくるまれながら、きょろきょろと辺りを見渡していた。


成瀬勇樹は鈴木貴子の近くへと歩み寄りながら、毅然とした表情で続けた。


「だから、この事件には色々とけじめをつけなくちゃいけないんです…。

誰かに歪められたままでいては、自分のそんな過去と訣別なんてできない。

僕は来栖さんと手を組んで過去から続く、この事件の因縁に復讐するつもりで、この人に立ち向かう事にしたんです」


その言葉を受け、来栖要が突然、周囲によく響き渡る声で言った。


「過去との訣別。だそうですよ、間宮先生…」


来栖要はそう呼びかけて傍らを振り返った。全員がそちらの方を見た。


「本番はどうやら、これからのようですね。

…ここから先は、あなたが事件を説明しますか?」


黒衣の探偵はどこか挑発的な口調でそう言った。赤いローブを纏った女。

時計塔の魔術師がそこには立っていた。


冷ややかな目をした間宮愛子は、微かに憎悪の表情を漲らせながら探偵を見つめていた

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