真実の扉・結
30
月明かりだけが皓々と夜陰を照らす薄暗い中庭。
噴水の近くにある白いベンチには既に一人の先客が一同を待っていた。
白衣を着て白髪混じりのグレーの髪を後ろに撫でつけた、どこか上品な風体をした男である。
「タクさん!」
花屋敷と石原が驚きの声を上げた。人相や風体からして、おそらく警察関係者の人間なのだろう。白衣を着た老紳士は一団の前でにこやかに微笑んで深々と一礼した。
「いやあ、これはこれは花屋敷君に石原君。美しい死の匂いに誘われて私も来ちゃいましたよ。
…ああ皆さん、どうもどうもはじめまして。司法監察医の山瀬拓三といいます。
昨日の事件のご遺体を検死させて頂いた者です。いやはや、この度は色々とご難儀な事でしたな…。変死体が次々と現れる学園はある意味で魅力的なんですが、殺人はいけません。今日は嘱託の監察医であると同時に、警察の一員としてやって来ました。誠心誠意、皆さんにご協力させて頂きますので、どうぞよろしくお願い致します」
監察医は深々とお辞儀をして、にこやかにそう挨拶をした。馬鹿丁寧なほど慇懃無礼な言葉づかいだが、どこかしら引っ掛かる言い回しではある。人を食ったような飄々とした態度と、ひたすらに笑顔を絶やさない明るい雰囲気が逆に不気味だが、稚気に富んだ話しぶりといい、どこかしら憎めない印象を与える男だった。
監察医と聞くと否応なしに変死体を切り刻むという陰惨なイメージがつきまとうものだが、この医者を見る限り、それは大いなる誤解のようである。
仕事内容とは甚だしいほどギャップがある態度で山瀬拓三は再び一礼すると、好々爺のような柔和な笑顔で微笑んだ。
中肉中背の痩身。年齢はおそらく六十前後と思われるが、物柔らかな態度と真っ直ぐに伸びた背筋のおかげで実年齢が今一つはっきりしない。医師はドクロのついた黒いファイルを大事そうに小脇に抱えている。
彼の傍らには警察が夜間の現場作業などに使う、伸縮式の大きな投光器のスタンドがあった。
次々と変わる展開と新たな人物の登場に、ただただ呆気にとられている周囲を尻目にして、探偵は慇懃な動作で恭しく眼前の監察医に向けて一礼した。
「はじめまして…。お初にお目にかかります。私立探偵の来栖要です。本部の早瀬から聞いているとは思いますが、本日はよろしくお願いします。…わざわざ、お呼びだてしてすみませんでした、先生」
監察医はやんわりと手を振った。
「なんのなんの。私は単純に解剖が大好きな性分ですから、死体のある場所ならどこへなりとも駆けつけますよ。その辺はどうかお気になさらないで下さい。
…あ、もちろん皆さんには誤解のないように言っておきますが、ご遺体は細心の注意を払って扱わせて頂きますし、縫合の跡を遺体に残すような下手なメスの取り扱いは絶対に致しません。全身はカンフルで清潔にして、傷ついた骸はせめて綺麗な状態にして、丁寧にご遺族の方にお返し致します。
ご要望とあらば、葬儀屋の手配なども致しますので…」
いつでもご連絡下さい、と不気味に微笑む監察医は揉み手をしながら、子供のようにワクワクと目を輝かせていた。
周囲が相変わらず呆気にとられている中、花屋敷は来栖のそばに近寄ると、周囲には聞こえないほどの声で彼に問い掛けた。
「おい、どういう事だよ? タクさんが来るって話は俺達も聞いてたが…。まさか…」
ああ、と来栖は視線を油断なく関係者達の方に注ぎながらぼそりと呟いた。
「おそらくだが妙な死体が出る。その為に来てもらった。お前らも、ある程度は覚悟しておくんだな…」
「…お、おい! ど、どういう意味だよ?」
「俺も全て読みきれてる訳じゃないんだ…。何が起きてもいいように警戒だけはしておいてくれ。何か嫌な予感がするんでな…」
呆然と立ちつくす花屋敷をよそに、探偵は水の出ていない噴水の前に立つと周囲を見渡して言った。
「それでは行きましょう。
これからお見せするものはあまり面白いモノとはいきませんがね」
「行くって…ここから地下にどうやって行くんですか? 言われてみれば確かに、いかにも何かありそうな、だだっ広い場所ではあるようですけど…」
石原が戸惑ったように来栖に問い掛けた。
「地下への入口があるなら出口もある。犯人に出来たんだから俺達にだって行けるはずさ。それに噴水は既に止まっているしね…」
探偵はそこで勇樹の後ろで不安げに表情を曇らせた貴子の方を向いた。
「鈴木君…君が昨日の夕方に、ここで死んだ沢木君に狙われたのは、実はこの辺に理由があるんだよ」
「え…? ど、どういう事なんですか?」
「この場所こそが地下へと続く入口だからだよ。…昨日、時計塔の鐘はいつも通りの時間に鳴らなかったね? 誰かが時計塔にいなければ、そんな事はありえないんだよ。この事からも、一条君は始めから君を時計塔に誘い出す為の計画を立てていたと思われる。
事件が起こった時間から逆算して考えるに君がここにいた時間は、おそらく4時半を少し過ぎていたはずだ。その時、周囲には人影は誰もいなかった。…違うかな?」
「は、はい…。けど、それがどうして私が狙われる理由になるんですか?」
「君が襲われたのは微妙な時間帯だったという事さ。川島君の死後、人のいない放課後に、この場所へと来る人間は等しく警戒されていたといってもいいがね。
何しろ、君が見たあの地下室には犯人にとっても、そして一条君にとっても見られては、大変困るものがあったからだ。それに関しちゃ、君は既に知っていると思うんだが…」
探偵の言葉で何かを思い出したのか、貴子は今にも気絶しそうなほどの恐怖の表情を浮かべ、両手で口元を抑えた。
来栖は今度は石原の方を振り返った。
「…そしてそれは、あんな仕掛け付きのエレベーターをわざわざ設計した側にしても然りだ。…考えてもみてくれ。いちいちエレベーターを起動させる為に時計塔の鐘を鳴らしていたんじゃ、手の込んだ、あの仕掛けがバレてしまうだろ?」
石原は頷いた。
「なるほど…。逆に考えれば、エレベーターを使う以外にも、地下へ誰にでも出入り出来る何らかの方法が必ずあるという訳ですね」
握り拳を顎にあてて何度も頷く石原に、来栖も頷きを返した。
「そう思ったからこそ沢木君は鈴木君を閉じ込めた後に、ここに来たんだ。
…思いがけない人物から、まさか自分が使ったボーガンで奇襲を受ける羽目になるとは彼女も思わなかったろうがね…」
あっ、と言って石原は握り拳をそのまま空いた自分の手の平に打ちつけた。パチンと小気味よい音が辺りに響いた。
「あ、そうか! 沢木さんはここで間宮先生に襲われた訳ですね? その時に凶器を奪われた。屋上で再び鐘を鳴らした犯人は犯行後に時計塔からエレベーターで校舎に戻った!」
「いい線はいっているようだが、肝心な部分はまるで説明できていないな」
と言って探偵は女刑事にかぶりを振った。
「最初に鐘を鳴らしたのは一条君なんだ。
あれはそもそも、沢木君を一刻も早く自分の下にエレベーターで呼び戻す為に鳴らされたものだったんだよ。そういう段取りになっていた。
何せ、鈴木君を校舎に誘い出すのに使った凶器は中庭にあったんだ。沢木君の指紋が残っていたことからも分かるように、沢木君は確実に凶器に触れている。
後々残ってはまずい道具を、一条君は鈴木君を閉じ込めた、沢木君に回収させる事にしていたんだよ。至極、常識的な判断だ」
「最初に鐘を鳴らしたのが一条明日香ですって? えっ…? じゃ、じゃあ時計塔の上で目撃されたという異様な人影は…」
戸惑っている石原に向け、来栖はニヤリと不敵に微笑んだ。
「いいところに気が付いたな。あれこそ犯人が、この事件で演じた最高のパフォーマンスだったんだ。あの異常としか思えないような光景とその後に起きた飛び降り自殺のおかげで、世間の目は完全にタレントである一条君一人の方向に向いた。
インパクト抜群の奇天烈な光景は目撃した多くの人々によって決定的に印象づけられ、結果的に赤魔女事件という名前まで早々に拝命した。
あれは全て一条君一人の犯行に見せかける為に行われた、犯人の狂言芝居だったんだ」
石原は困惑の表情を浮かべた。
「え…? じゃ、じゃあ、女生徒たちが聞いたという妙な笑い声というのは何だったんですか? 鈴木さん、あなたも聞いたはずよね?」
「は、はい…」
「時計塔の鐘を鳴らしたのが一条明日香だというなら当然、その笑い声は彼女が発したものなんでしょう? 他の女生徒達が眠らされ、校長先生だけが殺害されたのは、じゃあどういう訳なんですか?
売春に関わっていた女生徒達は少なくとも、どこから現れたかも分からない相手にいきなり襲われたと証言しているんですよ?」
来栖は再び頷いた。
「そう、一条君がいきなり時計塔の上で妙な笑い声を発したものだから、鈴木君は元より他のメンバー達もさぞかしびっくりした事だろうね。
…そこにいらっしゃるお方はな、お嬢ちゃん。そうした意味では非常に悪運が強い人なんだ。差別的な言い方をさせてもらえば、ある意味で魔女だよ。
完全犯罪を成し得る人間の要素はな、単純に緻密な犯罪計画を練りに練れるほど計算高くて賢い人間だというだけでなく、悪運という名の偶然も味方につけられるほどの、強運の持ち主なんだと思うぜ。
本来ならば一条君こそが本当のターゲットだった。彼女が自殺したのは、あくまで偶然なんだ」
「ぐ、偶然…」
石原がめずらしく深く考え込んでいた。来栖は不敵に微笑んだままで続けた。
「それじゃお嬢ちゃん、逆に尋ねるが、一条君に関してはどうだろう?
彼女はクラスメートの沢木君まで駆り出して鈴木君を時計塔に誘き出しておきながら、果たして彼女をどうするつもりだったんだろうか?」
「え…そ、それは彼女を脅して仲間に引き入れようとしていたんじゃ…」
「その通り。他のメンバーはどうか知らないが、少なくとも一条君は最初からそのつもりだったんだよ。本人も時計塔の上から鈴木君にそれらしい事を言ったそうだがね。
…だからこそ沢木君もリーダーに従っていたんだ。これは鈴木君を陥れる為の計画ではなく仲間に引き入れる為だとでも聞かされ、仕方なく彼女に協力していたんだと思う」
来栖は貴子の方をちらりと窺った。彼女は相変わらず怯えたように勇樹の背後で震えながら、来栖の話に聞きいっていた。
「売春グループのメンバーは全員で13人…。
川島君が欠けて12人…。
鈴木君…川島君と仲がよかった君はおそらく、彼女の補充要員として選ばれた人間だったんだよ。一条君という人は、なかなかどうして強かでカルトな人物だったようだな。
さすがはカリスマと呼ばれる女子高生モデル…なかなかに頭の切れる悪賢いやり方といえるね。
川島君から自分達の秘密について聞かされていたかもしれない君を、一条君達は放っておく訳にいかなかったんだ。売春の証拠と共に死んだ川島君の例もあるから、彼女も慎重になっていたんだろう。
彼女は少々手荒い方法で君を黙らせる事にした。
より手っ取り早く確実な方法を使ってね。
それが昨日、君が体験したという事件さ。
催淫剤を使った洗脳を行おうとしたんだよ。実験的な意味合いもあったのかもしれない。
これは川島君が隠した売春の証拠を握っているかもしれない君の口を封じると同時に、君に罪の意識や悪事を犯す快楽を植え付け、強引に自分達の仲間に引き込もうという一石二鳥を狙った計画でもあった」
「一条先輩は私を…せ、洗脳するつもりだったんですか?」
震える貴子の声に来栖は黙って頷いた。
「そう…。世間でまま耳にする洗脳という言葉にはかなり強引で乱暴なイメージがあるが、強制感や義務感が完全に滅却し、あくまで自発的に行動するようにならないと、本当の意味での洗脳とはいえない。
薬物はきっかけのようなものさ。彼女はそうやって一人また一人と仲間を増やしていくつもりだったんだと思う。
川島君のように自発的に仲間になるような人間は裏切る可能性がある。簡単に信用する訳にはいかなかったんだろう」
来栖はそこで少し声のトーンを落とし、再び貴子に向けて続けた。
「しかし、沢木君は苦しんだようだね。無関係な君を巻き込んですまないと思ったからこそ、犯人に矢で貫かれても尚、彼女は凶器を持った犯人の後を追ったんだ…」
貴子は大きく目を見開いた。
「ま、まさか私を時計塔に閉じ込めたあの後に…。あの後に、奈美はここでボーガンの矢で射たれたというんですか?」
「そう…。彼女は矢で貫かれながらも、仲間や君の身を案じた。何をしようとしているか皆目わからない犯人の後を追った。
エレベーターを奪われた彼女は自力で時計塔の方へと行ったんだ。しかし、なぜか彼女はあの屋上へと続く階段から再び噴水の方へと戻っているんだよ。
出血はその時に始まったと思われる…。矢は刺さったままだったからね。刺された地点から動かなければ、あるいは彼女は助かっていたかもしれないが…」
ちらりと来栖は傍らにいる女生徒に視線を送った。
成瀬勇樹が長い睫毛を伏せ、俯いていた。
花屋敷が驚いたように来栖の言葉に反応した。
「お、おい、待てよ来栖。お前はじゃあ、沢木奈美はあの踊場で撃たれて、この中庭に移動してきたんじゃないっていうのか?」
花屋敷が来栖に問い掛けた。
探偵はゆっくりと頷いて低い声で続けた。
「そう…。沢木君の血があの踊場から中庭へと点々と続いていたのは、誰かを追いかけるという行動をとりながらも、なぜか再び中庭へと戻ったからだ。
…花屋敷、それがなぜだかお前は解るか?」
「まさか、時計塔の鐘が…止まったから…」
「そう…彼女はだから中庭へと戻った。彼女が踊場に辿り着いた時には、犯人は既に凶行を終えて立ち去る時だったんだ。
鐘が止まったという事は即ち、犯人は再び中庭から外へ出てくるという事…。
あの異常なパフォーマンスは、時計塔の鐘によって地下からやって来た犯人が、エレベーターで中庭に戻る時にも使われている。
自分の体がもう長くは保たないだろうと知った沢木君に出来たのは、この場所にいれば学校の中にいる誰かが時計塔の仕掛けや犯人の存在に気づいてくれるかもしれないと考えたからだろうね。犯人を身を挺して止めるつもりつもりだったのかもしれない。
だから目立つように噴水の明かりを自ら点灯させ、誰かに凶事を伝えるべく待っていたんだ…。犯人とは一足違いで間に合わなかったんだがね…。
あの時、学校の中にいた人間こそが犯人なのは彼女も気づいただろう…。
どしゃ降りの冷たい雨の中、出血と寒さで今にも消えていきそうな自分の意識と戦いながらも、彼女はそれでも誰かを待っていた…」
探偵はそこで少しの間、言葉を切って月明かりの照らす夜空を見上げた。
「勝手な解釈をさせてもらうならば、きっと彼女は自分達の犯した罪の重さを後悔していたんじゃないだろうか…。
自分への罰だという贖罪の気持ちもあったのかもしれない…。
その証拠に彼女が川島君の髪留めを持っていたんだからな。あれは川島君がもしもの時の為に、事件の前に沢木君に預けておいたものだろう」
奈美、と勇樹は呟いて拳を握りしめていた。
仄白い月明かりが、ただ静かに噴水の周囲を照らし続けていた。
沢木奈美は。
この場所で息絶えたのだ。
「鈴木君…彼女の命を賭した、その行動が、結果的に君を犯人の手から守っていた事になる…」
「な、奈美…!」
貴子はわっと膝を抱えて俯いた。
彼女の目から大粒の涙がはらはらと零れ落ちた。
探偵はあくまで無感情な声で冷然と続けた。
「皮肉な事に成瀬と山内先生は沢木君と入れ違いに時計塔へと登った。沢木君も犯人とは入れ違いだった。
よくよく注意してみれば廊下に彼女の血痕は見えていたかもしれないが、あいにくの雨と一連の騒動でそれどころじゃなかったろう」
座は沈黙していた。探偵は淡々と続けた。
「沢木君にとって予想外だったのは、弓矢を回収しようとした矢先に犯人がその凶器を奪って、この中庭に現れたこと…。そして犯人の行動が、あまりに迅速で無駄がなかった事だ」
探偵はちらりと愛子へと視線を向けて続けた。
「この犯人の一番恐ろしいところは、誰かが時計塔の鐘を鳴らしたと察知するや否や、全く躊躇せずに瞬時に殺人という凶行に移っているその大胆な残忍さと、他人の作った計画に便乗してそれを利用し、短時間にあれだけの人間を一瞬で欺いてみせた事だ。
桂木さんを看護しながら、自らのアリバイを一階のトイレで確保する一方で、沢木君の乗るはずだったエレベーターを奪い、ターゲットを確実に始末した上で、かつ一条君に全ての容疑の目が向くように時計塔の上で異常なパフォーマンスをしてみせたりと、鐘が鳴り終わるまでの短い間に一切無駄な行動などしていない。
沈着冷静で大胆なこの犯人の計画は完璧だった。あるアクシデントさえなければね…」
来栖はそこで間宮愛子を窺った。
彼女は相変わらず、凍りついた無表情の仮面で探偵を見つめていた。
探偵は続けた。
「一条君達は鐘の仕掛けは自分達以外に知る者などいないと高をくくり、あらぬ時間に鐘を鳴らしたんだろうが、それが実は自分達の運命を決定づけた事には、最後まで気づかなかっただろう。
一条君達も上手く立ち回ろうとしたようだが、残念ながら犯人の狡猾な知恵と底知れぬ悪意は彼女達を遥かに凌駕していた。
あの赤いマントにせよ仮面にせよ、凶器のボーガンにせよ、彼女達が悪い遊びに使っていた道具は、ことごとく犯人の都合がいいように利用された」
来栖は石原の後ろで悠然と構える間宮愛子の方を再び伺った。
愛子はただ静かに夜空を見上げていた。
来栖さん、と言って勇樹は愛子と後ろで泣いている貴子の方を気にしながら探偵へと問い掛けた。
「それほどまでして、ひた隠しにしなきゃいけない愛子先生の秘密って何なんですか?
さっきは貴子を助けるのに必死で、周りなんかまるで気にしていませんでしたけど、あの場所には一体何があるんです?」
「まあ待てよ。積もる話は後だ。まずはお前の使った本来、定石ではない地下への出入口とは別の、本当の出入口ってやつを皆さんの前にお目にかけるとしよう」
探偵は枯れた噴水の縁に足をかけた。花屋敷が慌てて来栖へと呼びかけた。
「お、おい! お前、い、一体何をするつもりなんだよ? 正気か?」
俺はいつだって正気だよ花屋敷、と言って探偵は訝しむ周囲の視線にも構わずに平然と噴水の中に入っていった。
「先生、頼んでおいたその投光器に明かりを」
「はい、少々お待ち下さい」
カシャン、という音と共に周囲がいきなり真っ白な光に包まれた。
「あっ!」
真昼のごとく明るくなった中庭に花屋敷の驚いた声が響き渡った。周囲にいた者達も同様にその光景に息を呑んだ。
そこには見るも奇怪な光景が広がっていた。
赤茶色のレンガを積み重ねた石造りの円周。円く仕切られた枯れた噴水。
その部分だけが、なぜか光を反射していた。
やけに艶々とした異質な赤い地面がそこにはあった。
「こ、こりゃあ…」
「分かりますか? 枯れた噴水の底が…」
「何かの模様が…。浮き出てるぞ…。…お、おい、この地面はガラスじゃないのか!
何で噴水の底がガラスで出来てるんだよ?」
「一体これは…。は、始めて知ったぞ…。
こ、こんなものが噴水の底にあっただなんて…」
花屋敷と植田が互いに大きく目を見開き、不可思議なその光景を食い入るように見つめている。
奇妙な赤いガラスの上に立った来栖は、そこで一度、つま先で地面を強く蹴って足音を立てた。明らかに石の地面とは違う硬質な音が辺りに響いた。
「ご覧の通り、この噴水の底は特殊ガラス…。あの時計塔にあるステンドグラスと全く同じ材質をしているんですよ。
…当然、同じタイプのステンドグラスである以上、ここに描かれているのも、ある絵なんです。もっとも、石造りの、この円周に仕切られた状態では、裏返しになった絵の一部分しか見えていませんがね…」
「う、裏返し…!?
…ああ、そうか! 地下からでないとステンドグラスは見えないという事ですか?」
「こんな仕掛け…。わかるはずがないわ…」
石原と桂木が驚いた声で噴水を見つめている。
それも当然でしょうね、と探偵は頷いた。
「日中はかなり水流の強い噴水の水が出ていて見えない上に、夕方を過ぎればこの噴水は止まってしまう…。
夕暮れ以降の暗くなるような時間帯で、わざわざ確認できるようなものでは到底ありませんからね。
昨日の事件が、夕方以降に起こった理由もこれだったんですよ。巻き込まれた鈴木君は本当に運が悪かったとしか言いようがない。
噴水の水が枯れる直前…放課後に、ここを一人で訪れるような人間は、等しくこの地下への出入口の秘密を知っている可能性があるからです」
「そ、そんな…。わ、私…こんなコト何も…。何も知りません!」
泣き濡れた顔で、貴子は来栖にかぶりを振った。
「そう、鈴木君。君は本当に何も知らなかったはずだね。だが一条君にせよ愛子先生にしろ、彼女達にとってはこの場所は非常に特別な意味を持っていた。
…君は誤解の果てに、それぞれ一つの場所に別々の秘密を隠し持った者達に同時にマーキングされ、ターゲットにされてしまったんだよ。思うに、君は川島君とはよくここに来ていたんじゃないのか?」
「そ、そんな…。ここは確かに由紀子と昼休みによくお弁当を食べたりした場所です。で、でも、それなら他の生徒達だって…!」
「この場所は、校舎のどの場所からも非常に見えやすい位置にある。
…だが、この場所は見ての通り昼と夜とでは、まるで違う顔を持っているんだよ。
君は不幸にも、昼と夜の端境に立ってしまったが為に、覗かなくてもいい他人の闇を覗いてしまった。…と、そう誤解された。
ここは人の神性が魔性へと変じる場所…。
大袈裟な表現だが、少なくともそう考えた人間達がこの学園には複数いたという事だよ」
花屋敷が呆れたように来栖を睨みつけた。
「馬鹿げてるぜ! 一体ここは何だってんだよ!ここは東京都目黒区は祐天寺の、どこにでもある普通の私立高校だろうに!
ふざけた推理小説に出てくるような、いかがわしい場所じゃないんだぞ!」
憤る花屋敷に向け、来栖はニヤリと微笑んだ。
「キレたくなる気持ちは分かるが、そこが人間心理の面白い落とし穴さ。
『こんなものが学校に仕掛けられてる訳がない』。
『あの人が、こんな異常なことをする訳がない』。
『学校を売春の指定場所にしたりする訳がない』。
『教師が犯罪に手を染めたりする訳がない』。
『大食いしたり、男と素手で喧嘩するような女がいる訳がない』」
来栖はちらりと成瀬勇樹の方を窺った。
彼女はあからさまに、さも嫌そうに膨れっ面をした。
「これらは全て思い込みにしか過ぎない。
思い込みによる盲点を突く…。
単純だが人を欺こうと思うなら、仕掛けは大掛かりで発想は絵空事のようなものであればあるほど都合がいいという事なんだろうぜ。
やれ現実味に欠けるだの有り得ないだのといった、今さらのリアリズム偏重主義なんざ、猫にでも食わせといた方がまだマシだ。
あからさまに見えているのに意識されないような場所こそ、秘密の隠し場所としてはうってつけ…。親父は多分そう考えたんだろう」
来栖はそう言って噴水の奥へと。隅の方へと進んだ。
「ここに鎖がついているのが見えますか? これが入口です」
来栖の足元には、よほど注意してみなければわからないほどの、黒い鎖がついた輪があった。
来栖がぐいっとその輪を引き寄せると同時に、何かゴリゴリと石を引きずるような音が辺りに響いた。鎖はズルズルと地面から伸びてくる。白木のベンチの傍ら、なんとそこにはいつの間にか、地下へと続く正方形の階段が現れていた。
「こ、ここから出入りしていたのかよ…」
花屋敷が驚きの声と共にゴクリと唾を飲み込んだ。周囲も呆気にとられたようにその異様な光景を見つめていた。
「さあ、投光器はそのままです。行きましょう。…成瀬、お前しか地下から来た奴はいない。皆さんを先導してくれ」
「はい…!」
勇樹はちらりと後方にいる間宮愛子を見つめてから、ひらりと身軽な動作で階段に片足をかけると、後方にいた貴子の方へ手を差し伸べた。
「貴子。怖いだろうけど行こう。僕は知りたい…。全てがおかしくなってしまった、その真相を…」
「う、うん…」
貴子は涙を拭って勇樹の後ろへと従った。
「俺達も行くぜ。このままここで放り出されたんじゃ堪らないからな。
…石原。後ろを頼むぞ」
花屋敷はくいっと間宮愛子の方へと顎をしゃくって石原に示した。
「はい! 私はいつだって先輩の背中です。
任せて下さい」
「俺も行く…」
植田がぼそりと感情のない声でそう言った。教師らしく見えなくなった植田は、いつになく神妙な面持ちで花屋敷の後に続いた。
その後方へと足を踏み出したのは、意外にも桂木涼子だった。
「私も行きます。このまま何も知らずにはいられませんから」
「り、涼子…。き、君まで行く必要はないんじゃないのか? それに君は…」
「平気よ、光次さん。私達はそんなに弱くないわ」
桂木涼子は花田の手を取ると、自分の腹部へと彼の節くれだった手をそっと押しあてた。花田は精悍な表情で力強く頷いて、彼女の手をしっかりと握り締めた。二人は地下へと降りていった。
「自分も行きます…」
山内が何かを覚悟したかのように愛子を見つめながらそう言った。愛子は山内から視線を逸らした。
来栖は相変わらず感情の読めない無表情な目で二人を見つめていたが、今度は傍らでじっと逡巡している様子の教頭の方へと視軸を向けた。
「…教頭先生は、どうされますか?」
「わ、私はここで待つよ。何だか気分が悪いんだ…」
来栖はぴくりと一瞬眉間を震わせ、青ざめた教頭へと視線を投げかけた。
「そうですか…。何かあったらすぐに誰かを呼んで下さい。それほど深くは続いていないはずですから」
「あ、ああ…。そうさせてもらうよ」
「…来栖さん、こちらは準備オーケーです。
私達も行きましょう」
階段を下りていく間宮愛子の背中を油断なく窺いながら、石原が来栖へと声をかけた。
その後ろを医師の山瀬拓三が鼻歌混じりに淡々と続く。
月光の中で立ち竦む教頭を暫くの間、来栖はじっと階段の陰から見ていたが、やがてその黒い影も地下へと消えた。
暗い階段が底へと続く暗闇を異質な巡礼者のごとき一団が、一人また一人と慎重に降りていく。狭い石の階段を踏み鳴らす、関係者達の籠もった足音が、乱雑に周囲に反響した。
探偵の言葉どおり、地下へと到る階段はそれほど深くは続いてはいないようだった。
下へと進むにつれ、なぜか周囲は闇夜にもかかわらず徐々に明るくなっていった。
やがて階段は終わり、切り取られたような四角い回廊が僅かに続いており、その先には、俄かに広い空間が開けてきた。
「こ、これは…」
そこはまさに閉ざされた異世界だった。
地下の最深部は青みがかったような色をした広大な石の室が広がっていた。
地下特有の静謐な暗がりと、身も凍るような肌寒い空気で満たされている。
奥にスチール製のロッカー。
同じくスチール製のデスク。
やや離れて型の古くなった学校の机と椅子。そのさらに奥の隅にある暗がりには、黒い長方形の箱が等間隔に四つ据えられている。
そして…。
「こ、これは…」
全員が息を呑んだ。石原がゴクリと唾を飲んで頭上を指差した。
「せ、先輩…。う、上…!
上を見て下さい…。これって…アリサさんが持っていた、あのカードと同じですよ…!」
「あ、ああ…。こ、こいつは凄い…!」
赤、青、黒といった色鮮やかな色彩模様が圧倒的なスケール感をもった絵画が頭上いっぱいの空間に広がっていた。
夕日とも夜明けともつかない、壮大にして真っ赤な荒野。
その中央に颯爽と立つローブを纏った人物。
老人のようにも青年のようにも見える、どこか清廉なローブ姿の人物は、地平線から覗いた真っ赤な太陽に向け、高々と右手で杖を掲げている。
昼でもなく夜でもなく。
ただ壮大で真っ赤な光景に立った…魔術師。
それが天井いっぱいの空間に広がっていた。
地下にも関わらず明るかった原因は、このステンドグラスとそれを照らす地上の投光器だと全員が察知したようだった。
荘厳にして優美な天井のそのステンドグラスは、外部からの採光も兼ねているようだ。
予め天井に細かい隙間を設けてあるのか、漏れ出した細い光線が後光のように幾つも広い空間へ降り注いでいる。
表の投光器の明るさを見事なまでに透かした、その荘厳で美麗なステンドグラスの姿にある者はただ感嘆の溜め息を漏らし、またある者は絶句していた。
紛れもなくあの時計塔の資料館と対になった空間である事は容易に窺い知れた。
まるで西洋のゴシック教会のごとき静謐なロケーションである。
周囲には溝が設けられ、噴水からの水は直接壁を伝い、流れ落ちてくる仕組みになっていた。透明な水を湛えた静かな水面に柔らかな光が乱反射し、周囲はまるで鱗のようにきらきらと揺らめく光を、石造りの外壁や床へと照り返している。
驚くべきことにそれらは全て天井のステンドグラスの光によって齎されているのだった。
ステンドグラス一つで地下の静謐な美しさは劇的に際立っていた。真昼のごとき明るさを透かした光の芸術。
これこそが、この地下室本来の姿であるのかもしれない。
来栖は立ち止まったまま絶句している全員に向け、後方から切り出した。
「地下がこんな場所で、皆さんも驚かれたことでしょうね。この隠された地下室はキリスト教でいうところのカタコンベなんですよ」
「カ、カタコンベだと?」
植田が振り向いた。来栖は頷いて、頭上のステンドグラスを仰いだ。
「ええ、元々はローマのセバスティアーノ・フォーレ・リ・ムーラ教会にある地下の墓所のことをそう呼んだようです。
初期のキリスト教徒達がローマ帝国の迫害から逃れ、殉教者達を手厚く葬った場所ですよ。また、生き残った者達が地下に潜伏して信仰を守り続けていた事から、キリスト教の地下の教会や礼拝堂を総称してカタコンベ、あるいはカタコームと呼ばれるようになったともいわれています」
周囲の者達は未だにその絶なる光景に金縛りにあったかのように、静謐な地下の墓地のあちこちを見渡していた。
ステンドグラス。
黒い棺桶。
四周に張り巡らされた掘。
ひんやりと冷たい地下のモルグ。
凶々しかったロケーションは墓地という言葉と光の芸術と共に、一瞬にして常識の範疇に収まっていた。
これは余談ですが、と付け加えて探偵は続けた。
「元々ローマにおいては火葬が主流だったローマ帝国が、キリスト教を国教にするにつれて次第に土葬という埋葬法に変わり、やがて同じ土葬ならば神の御前で葬られたいとする信徒達の欲求から、遺体が教会の地下に埋葬されるようになっていったといいます」
探偵はひと息次いで再び続けた。
「しかし、時代が下るにつれて遺体の腐敗臭がひどくて教会に入れないほどになってしまったり、また現実問題として埋葬スペースに限界があり、新しい遺体を埋葬する為に地下を掘り起こすと過去の遺骨が次々と溢れ出してくるという問題が生じてしまった。
教会の地下へ埋葬するのを禁じた法というものも当時はあったようです」
「何で、こんな場所が学園にあるんだ?」
と植田が問うた。
さあ、と来栖は肩を竦めた。
「発想の意図は全く理解できませんが、ここは秘密の地下墓所として、あの時計塔と共に作られたカタコンベのレプリカなのは確実でしょうね」
来栖はめずらしく表情を崩し、どこか誇らしげな眼差しで地下墓地の周囲を見渡していた。柔らかい光の中で佇む黒服の男の姿は、こうして改めて見ると大層な優男であることが窺い知れる。
ああなるほど、と花田が突然声を上げた。
地下という事もあって、大きなその声は残響音を残して辺り一帯に響いた。
「来栖征司氏が息子さんである貴方に出した、あの不思議な謎かけは、この事だったんですね?」
「そう。花田先生は気付かれたようですね。親父が出したなぞなぞの答えは、実は本当に単純なものだったんですよ。
『上を見れば下にあり、下を見れば上にある』。
答えは漢数字の『一』であり、砂時計であり、エレベーターだったんです。
一は校舎の一階にある鏡の事。
砂時計はルビンの壷をモチーフにした時計塔全体の形を。
そしてそれらは、エレベーターで一つに繋がっている…。それこそが親父が出した妙な謎かけの答えだったんでしょうね」
来栖は再び天井を仰ぎながらそう言った。
自然と周囲もステンドグラスのある頭上を見上げた。
「父はそこにタロットカードの一番目である『魔術師』の絵をあてこんだ。
天井にあるこのステンドグラスこそ、俗に来栖コレクションと世間で呼ばれている親父の作品です。
意地の悪い俺の親父はタロットをモチーフにした自分の作品を、わざわざ学校という閉ざされた場所に隠したんです」
来栖要は続けた。
「来栖征司が綺麗な学校と呼んだこの学園は、元はキリスト教徒達の建てた清廉な校舎です。ここに時計塔という構造物が新たに加わった。教会と聖堂と時計塔があって、足りないもの…。
それはおそらく墓地の事だったんでしょう」
来栖はそこで、どこか暗鬱とした表情になって言った。
「しかし、ここまではただそれだけの事…。芸術家を気取る風変わりな建築家が、人知れず自分の作品を隠した場所だったというだけの事です」
来栖は再び地下の墓所を眺め渡した。
「実際には誰かが何らかの目的でここを利用していたのは確実でしょう。
ロッカーやデスク、そしてかなり古い型のその学校の机や椅子は後になって誰かがここに運び込んだもののようです。
泥棒にでも入られたようにロッカーが凹んだり、床に紙が散らばっているのはそこのお転婆お嬢さんの仕業だが、元々はここにいた誰かが机の中に残したものでしょうね」
机の傍らには、確かに何かの紙類がバラバラに散らばっていた。傍にあるロッカーもドアの部分が大きく凹んでしまっている。また余計な一言をと感じたのか、成瀬勇樹は再びふてくされたようにそっぽを向いた。
探偵はロッカーを改め、それから床に散らばった紙を拾い集めてひとしきり目を通すと、なるほど、とだけ呟いた。
「な、何なんですか? 手紙か何かのようですけど…」
石原が後ろから覗き込むようにそばに寄る。来栖は古びたその紙片の束をひょいと花屋敷の方へと押しやった。
「血だらけの遺書だ」
「…な、何ィ!」
花屋敷は押し付けられた紙の束を、危うく取り落としそうになった。
「…おい、証拠品は大事に扱えよ。
日付によれば書かれたのは12年前の8月某日。
筆者は武内誠となっている。
誰かの血に紛れて、肝心な部分は殆ど読めなくなっているけどな」
「た、武内誠だと…!」
「い、遺書って…」
花屋敷と石原は互いに顔を見合わせると、揃って驚愕の眼差しを向けた。
探偵は何も答えず、スーツのポケットに手を突っ込んだまましばらくの間、考え深げに俯いていた。探偵は誰にともなく呟いた。
「差出人に届かなかった血だらけの遺書か…。そして食糧とも呼べないようなロッカーのお菓子。ふん…これだけじゃ潜伏するには足りないな。となると、そこにある棺桶の中身がおそらく…」
来栖がそこまで言いかけたその時、そばにいた貴子がふらりとよろけた。来栖は小柄な貴子の体を素早く抱き留めて支えた。
「…大丈夫か?」
貴子は放心したまま、しばらくの間、魅入られたように来栖の顔を間近で見つめていた。
「…鈴木君?」
「あ…。あ、ご、ごめんなさい! わ、私…」
貴子は慌ててバタバタと立ち上がった。
その様子を傍らで見ていた勇樹が、なぜか面白くなさそうに目を細め、唇を尖らせてぷいとそっぽを向いた。
立ち上がった貴子は、なぜか頬を赤らめて来栖から目を逸らしていた。まともにしていれば女子高生に見蕩れられるほどの外見ではあろう。
それにしても黒いスーツを着た吸血鬼のごとき優美な男に、色白の少女達。
時計塔に秘密の地下墓所。
そして、黒い棺桶。
偶然とはいえ、もしこれが映画や小説ならば、いささか嵌り過ぎの感があるシチュエーションといえた。
「鈴木君…。君はあの中を見たんだな?」
探偵は低い声で尋ねた。
「は、はい…」
怯えたように震えながら貴子は頷いた。彼女の視線は隅の暗がりにある、一際黒い棺桶の一つへと向けられていた。
「なるほど…」
そう言って来栖は何の躊躇もなく、スタスタと棺桶の一群に近付いた。やや遅れて花屋敷と石原、そして監察医の山瀬が悠然と探偵に付き従う。
「ほぉ…まるで映画に出てくるブラド・ツェペシュの棺そのものですな」
監察医の山瀬が見たままの感想を述べた。
医師はどこか興奮気味に目を爛々と輝かせている。
「そ、それって…」
「お、おい来栖…。まさか、そいつの中身は…」
花屋敷と石原の二人が動揺した面持ちで探偵の表情を窺った。ああ、と探偵はぼそりと答えた。
「二人が想像してる通りのものだろうな」
二人は揃って息を呑んでその場に立ち竦んだ。桂木さん、と来栖は一団から離れた桂木凉子へと呼びかけた。
「は、はい…」
「これが皆さんに見せたくないと言ったものの正体です。できれば貴女は見ない方がいい。鈴木君、君もだ。
…植田先生に花田先生、二人が棺桶に近づかないようにくれぐれも頼みます」
「あ、ああ…」
植田は来栖のいつになく不吉な迫力に圧され、再び押し黙った。
「く、来栖さん…」
勇樹は形のよい眉をひそめ、彼女にしてはめずらしく不安げな眼差しを探偵に向けていた。
「成瀬、お前もだ。これは警察の捜査に大いに関わりがある。部外者は離れているんだ…」
来栖の言葉に勇樹は立ち竦んだ。
「開けるぜ…」
全員が探偵の一挙手一投足に注目していた。
ギィッという尾を引く音と共に黒い棺桶の蓋が外側に開かれた。
「な、なんてこった…!」
「うぅっ!」
花屋敷はこぼれそうなほどに細い目を見開き、石原は即座に目を背け、自分の口元を抑えた。
中から現れたのは胸から下を真っ赤に染めた、少女の死体だった。
艶々とした長い黒髪。細い裸身。
淡く盛り上がった胸の双丘。そこに穿たれた穴といってもいい刺し傷。
驚愕の表情をしたまま、凍りついた表情。
死体は油を塗りたくったように、やけにてかてかとしていた。
「このコは…だ、誰なんだ?
つい最近入れられたものとは思えない…。
だが、そうだ…まるでいつか東京タワーで見た蝋人形にそっくりだ。
人形…じゃないよな…? 腐ってるのか?」
「腐っちゃいない。だが、まさにお前の言う通りだよ、花屋敷。こいつは蝋人形に化けた死体だ。…山瀬先生、この死蝋がどのぐらい経っているものなのか、わかりますか?」
「し、死蝋…」
石原が溜め息を漏らすように一人ごちた。
来栖の問い掛けに山瀬は鼻息も荒く少々お待ちを、とやや興奮気味に呟いて女の死体を改めて仔細に観察し始めた。
医師は少女の死体を触診するように肌や髪の毛の質感を確かめたり、上半身を起こしてみたり、胸に穿たれた創傷の深さや角度を確かめてみたりと、ひとしきり無駄なく、死体を改めていた。
山瀬が時折うわあ、とか、ふむふむここはどうかな、などと一人言を漏らす声が聞こえた。刑事と探偵の三人は、奇矯な医師の仕事ぶりを傍らで見ている。石原は相変わらず怖々と顔を背けつつも、視線だけはちらちらと死体を観察していた。彼女は時折うっ、と声を漏らしていた。
花屋敷は悪酔いでもしたかのように胃の辺りを押さえて顔をしかめていた。
二人は揃って顔が青ざめている。
ただ一人、探偵だけは両手をスーツのポケットに突っ込んだまま、医師の仕事ぶりを観察していた。彼は表情一つ変えずに、凍りついたような死体を冷たい目で見ている。
警察以外の関係者は当然ながら皆、一様に不安げに押し黙っていた。
暫くの後に監察医は深い溜め息と共に顔を上げた。彼は真っ先にくるりとカラクリ人形のような機敏な動作で来栖の方へ首を向けた。
「実際に解剖してみない事には断定は出来ませんが、少なくともこの遺体は、死後十年以上は経過しているように見受けられます」
「じゅ、十年以上!」
花屋敷と石原が再び鸚鵡返しのように繰り返した。非常識な事件は非常識な死体の出現に至って、ついに刑事二人のキャパシティを完全に越えてしまったようだ。医師は再度死体を細部まで改めてから言った。
「それにしても凄まじい形相で死んだものです…。ここまで完全な形で死蝋化している他殺死体は、私も初めて見ますよ」
「タクさん…。さっきこいつも言ってましたが、その死蝋ってのは一体…?」
花屋敷の問いに、監察医は大袈裟なほどに何度も深く頷いた。
「死蝋は永久死体の一つの形態ですよ。
極端な外気や環境の変化によって生成された死体でして、腐敗の進行もしなければ崩れもしない。半永久的に、同じ形態を保ち続ける遺体のことを、そう呼ぶのです」
「永久死体? エジプトのミイラのような遺体という事ですか?」
石原の問いに来栖がやんわりと首を振った。
「お嬢ちゃんの言うミイラは、いわゆる乾燥した干からびた状態で発見される遺体で、それはこの死蝋とは異なる永久死体さ。
ミイラはエジプトの墳墓やピラミッドの石棺などから発見されるものが多いが、それは死者を後世に残したり、死者の復活という神秘を目的として人為的に生成されたものだ。
プトレマイオス朝時代のミイラのように、紀元前二百年から三百年の昔から年月が経過しても尚、生前の顔形を残しているような有名なものも多くあるが、死後の防腐処置や保存状態が完全でなければ、そうした永久死体にはならないだろうといわれている」
来栖はさらに続けた。
「本邦においても穀断ちという荒行の末に、土中入定した僧侶の遺体を貴い信仰の対象とする即身仏信仰があるが、そうした入定ミイラも永久死体だよ。そうした宗教的な死生観に基づく遺体というのもある訳で、一概にまとめる訳にはいかないがな。
要するに乾燥した状態で発見された永久死体をミイラ。
低温下で生成された瑞々しい死体の方を死蝋と呼べば、まぁ間違いではないと思う」
「ちょ、ちょっと待って下さい!この遺体は少なくとも刺し殺されているのは明白ですよ? ミイラどころか白骨化していてもおかしくないような他殺死体が、なぜ死んでいて尚も、こんな生きているような状態を保ち続けているんですか?」
石原は驚きの声で再び来栖に問い掛けた。
これは無理もない。
『生きているような死体』など、考えてみればとんでもない矛盾である。
さてね、と呟くようにして探偵は大袈裟に肩を竦めて答えた。
「このひどく肌寒い地下の環境。そして、この黒い棺桶。それに様々な偶然が幾つも重なって他殺死体を死蝋化させてしまったとしか俺には答えられないな。
…山瀬先生、これは実際にどうでしょうか?
死体が死蝋化してしまう環境は、まず低温度下であるというのが第一条件だと思いますが、日本の気候風土と四季の温度差も考え併せれば、棺桶の中で放置された他殺死体が死蝋化してしまうなど、はっきりいって非常識です。この場所は確かに、天然の冷蔵庫並の低温ですが、これだけならば死蝋化してしまうには、まだ不充分な環境なんじゃありませんか?」
来栖の問いに山瀬は腕組みをしながら興奮した面持ちで唸った。
「むぅ…そうですな。
まず死体が何らかの理由で腐敗菌が繁殖しない条件下に置かれ、かつ外気と長期間遮断された結果として腐敗を免れる。
…そして、死体内部の脂肪が変性して死体全体が蝋状あるいはチーズ状に変化してしまった死体を総称して、我々は死蝋と呼んでおります。死蝋という字は屍に蝋燭の蝋と書いて“屍蝋"とも表記されますが、体の内部にある脂肪が化学変化してできるものなので、通常すぐには出来ないものなんです!」
医師の口調は語るほどに熱を帯びてきていた。興奮する医師はどこかマッドサイエンティストのように目を爛々と輝かせ、一人語りを始めた。
「屍蝋が出来上がっていくメカニズムは実に素晴らしいものなのですよ!
皮下脂肪や内臓脂肪がこう、じわじわと体の深部へと入っていき、中性脂肪がこう、わちゃわちゃと加水分解して、不飽和脂肪酸がステアリン酸とパルミチン酸にゆっくりじっくりと変化するんです! その頃になると、まるで、お肉が乾燥熟成するようにイノシン酸というタンパク質が…」
周囲は無言で呆れ返っていた。専門的過ぎる上に常識外れな反応だとようやく判断したのか、山瀬はそこで周囲を見渡してから、わざとらしくゴホンと咳払いした。
「ああ失礼…。つまりですな、先ほど来栖さんが仰ったように乾燥した状態の永久死体をミイラ。湿潤かつ低温の環境下で生成された永久死体の方を死蝋と呼ぶのには、私も全く異論はないという事です。
死蝋が生成されるには、まず低温下である事。さらにこの刺殺死体のように、死因が大量の失血死というのもかなり関係していると思われます。
それと湿気ですな。湿気があって外気が暖かければ必ず内臓の方から腐敗してしまいます。逆に乾燥していれば、保存状態が中途半端ならばいずれは虫が涌き、白骨化してしまうことでしょう。
先ほど来栖さんが仰ったようにミイラも人為的に生成しようと試みなければ、普通ならまず出来るものではありません。偶然が作り上げたものとはいえ、こうした永久死体に巡り会える事などそうそうありませんよ!」
奇矯な医師は息も付かず、高らかにそう言った。花屋敷は顔をしかめ、石原は眉をひそめて胃の辺りを押さえている。探偵は相変わらず一人冷静に、腕を組んだまま深く頷いた。
「なるほど…。確かにミイラの生成は死体の血や内臓を抜き、内臓や脳味噌は壷などの容器に収め、死体は七十昼夜に渡って天然の炭酸ナトリウムに浸した後に、包帯でぐるぐる巻きにして仕上げたといいますね。
だからこそミイラは包帯に包まれているもの、という誤解が生じた訳ですが。
一方、死蝋も酸欠状態でないとできにくい。だから炭酸ガスのような空気より重たい気体が発生して、予めこの棺桶の下の方にでも淀んでいたのかもしれませんね」
来栖はそこで改めて、地下の周囲をゆっくりと見渡して言った。
「そして、ここはかなりの低温です。湖の底や鍾乳洞で発見されるような死蝋の例もありますから、比較的それに近いといえますね。
死亡した段階で全身の出血がある程度まで達し、棺桶に入れられて外気が完全に遮断されてしまえば条件は整う。この棺桶は見たところ、かなり密閉性が高い。
…先生、俺はこの棺桶こそ一番大きな原因だと考えていますよ。
これをここに据えた男は、吸血鬼でも作ろうと安易に言い出しかねないほどの変人でしたからね」
世の中には変わった人間がおりますからなぁ、と山瀬はどこかのんびりとした口調で、うんうんと何度も頷きながら答えた。
「それにしても監察医でもないのによくご存知で…。この黒い棺桶は、確かに死蝋を生成するのには持って来いの造りになっているかもしれません。
これを据えた人は実際、かなり異常な思考の持ち主ですよ。室温が上がらないようにする工夫と密閉性に執拗に拘った職人芸のような仕事は、どこかマニアックなものさえ感じます。…それにしても貴方は解剖学の知識もかなりのものですなあ。助手に一人欲しいぐらいですよ」
全裸で死んでいる血だらけの少女の死体を前に、監察医は傍らの探偵をどこか尊敬のこもった眼差しで見つめ、にっこりと微笑みかけた。来栖は相変わらず、じっくりと細部まで死体の隅々を観察している。
常人離れしているという点では、この二人はかなり共通している。
来栖は顔を上げて、そんな医師に答えた。
「なに、記録されたものを読むだけなら誰にでも出来る事ですよ。遺体が死蝋化してしまうという現象は、事例が全くない訳ではありませんしね」
来栖はスーツのポケットに手を突っ込んで改めて語り始めた。
「例えば20世紀の奇跡とも呼ばれる、イタリアはシチリア島パレルモにある、カプチン会の地下納骨堂の最奥に眠る死少女、ロザリア・ロンバルドという二才の少女の永久死体は『世界一美しい遺体』と称されるほど有名です。
死後80年以上が経過しても尚、瑞々しさを保ち続けるこの遺体は、埋葬された遺体の殆どがミイラ化や白骨化した乾いた納骨堂の中にあって、一体だけ完全な形で生前の面影を残しているという特異な死体なんです。
この少女ロザリアの遺体はキリスト教の寺院であるカプチン会派の寺院である事も影響し、当時から話題になりました。
考古学者達の間でも長年の間、侵さざるべき神秘の謎とされてきたんですが、近年この遺体が死蝋化した死体ではないかという事が、判明しています」
黒いスーツを着た探偵は、顎の辺りをさすった。こうなるとこの男の弁舌は止まらなくなるようだ。
「それ以外にも本邦の有名な死蝋の事例には、昭和52年に発見された福沢諭吉の遺体があります。
埋葬地の改装の為に発掘したところ、福沢諭吉の遺体も死蝋化していたといいます。遺族のたっての希望で火葬にされたといいますから、土葬の習慣がまだあった当時は、死蝋化はそれほどめずらしい現象ではなかったともいえます。
…もっとも、学術的にどれだけ意義があろうと、許可なく遺体を発掘して調査するなど人道的に到底許される事ではありませんし、戦後間もなくの法の改正によって、本邦でも即身仏となる為に僧侶が土中入定する事は宗教的な自殺と同義であると見なされた訳ですからね。まぁ、それは今はいいでしょう」
山内先生、と言って探偵は傍らで蒼白になって口を抑えている山内の方へと視軸を向けた。
「この少女はおそらく12年前に失踪したと思われている少女でしょう。失踪当時の年齢は18才…。先生ならご存知のはずだ。
…あなたと関わりがある人だとみましたが、いかがですか?」
「ど、どうして…。どうして彼女が…。
彼女は…」
来栖は山内を片手で制止してから、ちらりと傍らで、じっと目を閉じたまま人形のように沈黙している間宮愛子を見つめた。
探偵は再び山内の方へと視軸を向けた。
「この他殺死体が意味するところは、一つです…」
奈落の底から響いてくるような、
不吉な低い声で探偵は続けた。
「今から遡ること12年前の8月12日。
この学園で、ある忌まわしい殺人事件が起きました…」
探偵は居住まいを正し、語り始めた。
「警察の分類ナンバーによる正式名称は『SE-207号事件』。あるいは『目黒区聖真学園女子高生監禁刺殺事件』。報道された情報ではまたの名を、『目黒区学園黒魔術事件』。
そう呼ばれている事件です…」
閉ざされた場所に響く低い声。
底深い混沌を未だにその深い懐に隠した静謐な空間を、来栖要の膨大な解体の言葉が破り続ける。もはや誰一人として相槌や合いの手を入れる者などなく、周囲はただひたすらに沈黙していた。
「この12年前の事件は奇しくも今回の『赤魔女事件』のように、あっという間に民間に情報が伝えられるや否や、そう名付けられた怪事件でした」
闇の語り部である黒いスーツの探偵は、ついに学園に深々と刻まれた呪いの刻印ともいうべき過去の事件を解体するべく、その黒い触手を伸ばし始めた。
「これから俺がお話する事は、世間に伝わっている情報や、皆さんの認識している事件の様相とは全く違う部分が出てくると感じるかもしれません。
…というのも、皆さんが知っているこの過去の事件の情報は歴史ではなく、過去の記録や報道、様々な噂…そして何より、当時を知る人々の証言や記憶に準拠しているものだからです。歴史は記録や情報が新しくなれば、その都度、自然に書き換えが為されなければならないもの。
ただ明らかになるだけではマスコミの報道とそう変わらないだけの、ただ情報として摂取するだけの価値しか持たなくなる。ただそれだけの記録として残るだけでしょう。
被害者や加害者、事件のあらましをただ記号化して認識させるだけの情報の羅列は、一番肝心な部分が抜けています。それは真実ではありません」
探偵ははっきりとそう言った。
「ですからこれからお話する事は、皆さんが今まで見てきた事実と俺がこの学園で収集した新たな事実や証拠品を繋ぎ合わせ、過去の殺人事件を再構成し、さらに自分勝手に登場人物達に脚色まで加えた、限りなく事実に近い昔話だと、そういう風にお考え下さい」
随分と含みを持たせた微妙な言い回しだった。次々と不明の闇を解体していく男の、この回りくどい言い回しも、いずれ何かの伏線ではあるのだろう。
探偵はいつになく淡々と語り始めた。
「ある一人の男性教師がいました。
動物や植物が好きだった、その男性教師は学園を楽園のような風情ある景色にしようと当時、学校の中庭にあった噴水の周囲を様々な植物で彩り、鶏を飼ったり、樹木を植え込んだり花の鉢植えを育てたりと一人、懸命になって頑張っていました。
しかし、休みの日にも関わらず学園にやって来ては作業服のようなツナギを着ては鶏小屋を作ったり、沢山の花の種子や株を手に入れては中庭を綺麗な場所にしようと精力的に働いていたにも関わらず、彼に対して周囲の人々は、あまり好ましい評価を与えてはいませんでした。
というのも彼は悪魔学や妖怪学といった、文化史に繋がる研究をしていた、一風変わった教師だったのです。
そうした噂が誤解を呼び、彼は学園では教師や生徒達からはどこか孤立したアウトサイダーな存在として、一段低い扱いを受けていました。生物の授業を担当するその教師は、現在の言葉でいえばいじめに近いような待遇を受け、生徒達からは忌み嫌われていました」
まるで意図の読めない探偵の昔話が続く。
「しかし、彼は誰からも嫌われていた訳ではありませんでした。彼の優しい性格を慕う、女生徒達がちゃんといたのです。
その一人の男性教師を巡って、教え子である女生徒二人が恋のライバルにある…いわゆる三角関係がありました。
女生徒の二人は同じ推理小説サークル…ミステリー研究会という同好会に所属する仲間同士でした」
「そ、それは…」
山内がなぜか急に動揺しだした。来栖は淡々と彼を遮るようにして続けた。
「通称ミス研の名前で呼ばれた、そのクラブの二人は一人が三年生、もう一人は二年生。
二人は互いに互いをかけがえのない友達であり、親友であり、よき先輩とかわいい後輩という間柄だと思っていました」
座はまるで意図の読めない探偵の昔語りに無言で聞き入っていた。
「推理小説が好きな人間がそうであるように、好奇心旺盛で不思議な話には目がないミス研の少女達は、ふとしたきっかけから学園の時計塔が秘密の地下室へと繋がっている事…。
そして時計塔の鐘がエレベーターの鍵の役目を果たしているという、信じられないような仕掛けの存在を知ってしまいます」
探偵はちらりと間宮愛子を窺った。愛子はただ目を閉じている。
探偵は続けた。
「その頃、二人が思いを寄せる研究会の顧問であるその男性教師は、残念ながら夏休みに当直の仕事で学園の中で誕生日を迎えなければならなくなりました。そして、そのことは部員達も知っていました…」
「あ、貴方は一体、な、何が言いたいんです?」
山内が喘ぐように探偵に問い掛けた。
「すぐにわかりますよ。
…さて、一人の少女はその教師に秘密の地下室の存在を打ち明け、そこを新たにミステリー研究会専用の部室にしようと、半ば強引にその顧問の先生を招待する事にしました。
その少女は誕生パーティーをこっそりと、他の部員達には内緒で先生と開こうと、沢山お菓子を用意して、誕生日が来るのを楽しみに待っていたのです。
彼女が抜け駆けしようとしたのはもちろん、自分の恋敵であるもう一人の少女…先輩の存在を恐れていたからでした」
山内は蒼白になって立ち竦んでいる。探偵はそんな山内に、ちらりと視線を送ってから続けた。
「一方でちょうどその頃、ある事件がきっかけで覚醒剤を入手してしまったもう一人の少女は、混乱する世間と罪を恐れる自分自身の葛藤の中で悩み苦しみながら、その秘密ごと学園の地下へと潜伏し、自分が恋い焦がれる教師に何とか胸の苦しみを打ち明けてしまおうと逡巡していました」
「お、おい、待て来栖。その事件ってのは、まさか…!」
「先輩…!」
話に割り込んできた花屋敷を、石原が袖を掴んで制した。花屋敷は押し黙って来栖の表情を窺っている。来栖は花屋敷を無視して山内の方へと体を向けた。
「…さあ、山内先生。
ここまで話を聞いてみていかがですか?」
「ど、どうって…」
「二人の少女達が全く違う秘密を同じ一つの場所に隠しました…。はて、どこかで聞いたような話ですが、これはそうした話だと考えてみて下さい。…さあ、いかがです?」
呆気にとられて沈黙する山内に、来栖は言った。
「秘密を持つ者同士が恋敵。方や誕生日会で方や覚醒剤…。これで何かが起こらない方がおかしいとは思いませんか?」
山内は必死の形相で来栖に詰め寄った。
「く、来栖さん! 回りくどい言い方は、もうたくさんだ!はっきり言って下さい!
俺にはもう、あなたのその昔話は耐えられそうにない!」
山内は必死の形相で黒い棺桶を指差した。
「そ、その黒い棺桶の中で死んでいるのは…さ、聡美先輩なんでしょう!」
「な、何だって…!」
花屋敷が驚愕に目を見開いた。
その通りです、と探偵は暗然と頷いた。
「当時の末端価格にして約二千万円の覚醒剤と共に、12年前の事件の数日前に忽然と失踪した少女の名前。それが高橋聡美…。
皆さんは信じられないでしょうが、その棺桶の中で当時のまま死んでいる18才の少女です。死んだのは12年前…1994年の8月11日の事です」
「お、おい! 何でお前にそんな詳細な日付までわかるんだよ!?」
「何を今さら…。お前のその手にあるものにちゃんと書いてある。血で読めない部分は推理で繋げ。SE-207号事件の動機となるはずの失われた証拠品なんだよ。お前らが一番よく知っているはずじゃないか」
と来栖は言った。花屋敷は血だらけの遺書の最後辺りを、ただ驚愕の眼差しで見つめた。
「ちなみに、その数日後に山内先生…。あなたの双子の妹さんである洋子さんが、時計塔の部屋で死体となって発見されました。
少なくとも行方不明になってから数日が経過しており、身体の外傷その他から性的虐待を含む暴行の痕跡が見られ、死体となってほぼ丸一日放置されたままだったというのが当時の警察の見解でした…」
「もったいぶらないで答えて下さい!
妹の死の原因を、俺は知りたいんだ!
その為に教師になったんだ!
…お願いだ! 答えてくれ、探偵さん!
このままでは俺は…俺はどうにかなってしまいそうだ!」
山内はとうとう叫んだ。
残響音が冷たい地下の空間にわんわんと響き渡った。探偵は淡々と続けた。
「時計塔では、魔術の儀式か何かの生贄にでもされたかのような凄惨な姿で殺害された、山内洋子さんの刺殺死体が発見されました。
犯人はただ一人…。武内誠というその教師の仕業だと目されています。
しかし、高橋聡美の死体はご覧の通り、この地下の棺桶の中に隠されていました。
そしてたった今、花屋敷刑事が手にしているのは、武内先生直筆の遺書です。
血まみれの状態で殆ど細部の内容は判読できませんが、文脈や内容から推し量るに紛れもなく遺書です。これは果たして何を意味しているものなんでしょうか?」
「ど、どういう事だよ?その人が殺したんじゃないのか? だ、だって山内洋子の死体からは武内誠の精液まで検出されたって…」
花屋敷が問うた。来栖はゆるゆると首を振った。
「そう…確かにそこのデカい刑事の言う通り、山内洋子に刺さった凶器のナイフからは武内誠の指紋が。
そして彼女の体内からは死後屍姦の痕跡まで認められたといいます。
…さあ、遺書がデタラメなのか、死体の方がデタラメだったのか。これは本来はこうした問題です。そこで俺ははっきりと断言します。
12年前の事件は全て何者かによって意図的な錯誤が齎され、周到に周囲を欺く為に作りあげられた虚構の事件だったと…」
「ど、どういう事ですか?
ま、まさか武内先生は犯人ではないとで…」
来栖は石原を制して続けた。
「二体の他殺死体と発見されるまでの二日というタイムラグ。そしてこの遺書と、この場所を考え併せるとおぼろげながら答えは見えてきます…」
来栖は続けた。
「なぜ、わざわざ黒魔術の儀式に見立て、教え子の死体を武内先生は吊さなければならなかったのか…?
そして、死後屍姦までして彼女の死体を蹂躙したのは、なぜだったのか?
なぜ、高橋聡美の死体は棺桶に入っていたのか?
彼は失意の先に狂った訳でも、周囲にいじめられた仕返しの果てに、殺害を犯した哀れな殺人鬼でもないんです。
教え子を守ろうと、ただ教師として懸命に行動していただけだったんです」
「あ、あなたは一体何が言いたいのです!」
山内は叫んだ。
「言い方を変えましょう。彼は彼女を殺して魔術を行ったのではなく…」
「彼女が人を殺したから魔術を行ったのです」
「な…!」
探偵の言葉に周囲は一斉に言葉を失った。
「犯人は武内先生ではありません。高橋聡美はおそらく、逆上した山内洋子の手によって殺されたんです」
「よ、洋子が…聡美先輩を…こ、殺しただって…?」
山内が壊れたように探偵に問い掛けた。
探偵は冷たく頷いて続けた。
「山内洋子を暴行したのは高橋聡美なんです。彼女の身体中にあった痣や創傷は、高橋聡美によって付けられたものなんですよ」
「ば、馬鹿な! お、おい来栖…。お前まさか、この場所で二人の女生徒達が殺し合いをしたとでも言うつもりかよ!」
「その通り。武内先生は、その事実を隠蔽しようとしたんだよ。狂った教師を演じきる事でね…」
探偵は冷然と目の前にいる愛子を見据えた。
「愛子先生…貴女はそんな彼を助けたんです」
あの愛子が…動揺していた。
ぶるぶると震える愛子を前に、探偵は冷然と立ち竦んでいる。愛子はこれ以上ないというほどの憎悪の眼差しで探偵を睨みつけた。
「その死体を…山内先生や事件とは無関係な人達の前に平然と晒すのが探偵としての貴方の仕事?なんて…なんて残酷な人なの…。
探偵さん…」
「お互い様ですよ…。
そもそも貴女が武内先生の自殺幇助などしていなければ、警察の公式記録がここまで歪んでしまう事はもちろん、その後の数々の事件は起こりえなかったでしょう」
「あら、過度に干渉しあわないのが現代人の処世術じゃない。知らなくてもいいことは、お互いに知らないままでいた方が、それぞれの幸せになるのではなくって?」
「それはそうでしょう。ですが貴女は自分の秘密という境界に、このように多くの人達を巻き込んでしまっている。
知らなくてもいい秘密を知ったからという理由で、自分のテリトリーに安易に踏み込んできた人間達は、自分の毒牙にかかっても仕方がないというのでは、サバンナに住む猛獣と何ら変わりありませんよ?」
「あら、生きていく為に安住の地を守るのは人であれ獣であれ同じだわ。弱肉強食こそが獣の世界の理…。
それは自然の摂理でもあるのではなくて?」
「味なことを仰いますね。
ならば俺はこう言い返すことにしましょう。
羊達のテリトリーの中で化けの皮を被り、多くの同胞達を噛み殺しても尚、飢えや渇きを癒せないような赤い羊は、弱肉強食の名の下に、より強い何者かに狩られても仕方がないのだ、とね…」
探偵は薄く笑った。愛子は虚勢を張ってはいたが、震えていた。
「ハンターが捕まえられずに野放しにしている猛獣が、サバンナをのさばり歩くのは別にいいのです。…しかし、そのサバンナには、他にも様々な獣達が棲んでいることを忘れてもらっては困ります。
貴女のような人がいると、俺は安心して暗い穴で寝ていられない。他の動物達もキィキィとうるさく鳴いている。かなり迷惑をしています」
「くっ…」
愛子はやはり動揺を隠せないようだった。震える愛子を前に、探偵だけは変わらずに冷然と微笑んでいる。
黒い狼のごとき探偵の言葉は、ついに赤い羊である殺人者の鉄壁の牙城の一角を崩したようだった。二人は沈黙した。
言い知れぬ沈黙を破ったのは植田だった。
植田は勢い込んで来栖に尋ねた。
「お前とて、この場所に来るのは初めてなんだろう?…なぜ、そんな事まで判ったというんだ?」
「この地下の状態を見れば一目瞭然ですよ。この場所で、武内先生と洋子さんだけが秘密の合宿を行っていたとは到底思えないからです」
探偵は再び周囲を見渡し、ロッカーを開けて言った。
「ここには僅かですが生活の跡がある。見てください。ロッカーには食料とも呼べないようなお菓子の山があり、棺桶の中には、わざわざ寝袋まで用意されている。元々は空だったと思われる棺桶に、二つもあるんです。
12年前の報道では時計塔にも生活の痕跡があったといいますから、時計塔と繋がっているここは当時、秘密の宿泊場所として機能していた可能性が高い。
…事実、そこにいる鈴木君は監禁が続いた最悪の場合、そのロッカーにあった僅かな食料や周囲の水だけで飢えや渇きを凌ぐつもりだったでしょう。…違うかな?」
鈴木貴子はこくりと神妙に頷いた。
探偵は続けた。
「ですがお菓子には一切手はつけられていない。12年前の事件の報道で、現場の時計塔に生活の跡があったという情報があるにも関わらず、武内先生本人がどこか近所のスーパーで食料品を予め買い求めていたという証言はどこからも出てきていない。
夏休みで一週間もの間、他の生徒達が部活で学園にやって来る中でも、彼らが飲まず食わずでいたとは思えません。いくら何でもこれは変です。
…では、高橋聡美と山内洋子はどうかと言えば、武内先生の誕生日を契機にして、二人は完全に消息を絶ってしまっている。
しかし、実際に彼女達が死亡した日には時間的な食い違いが生じてしまっている。これらは一体、何を意味しているのでしょう?」
場は再び沈黙した。答えはもはや限られてくる、と探偵は続けた。
「行方不明となった二人は半ば自発的に学園から家に帰る事はなかったという事ではないのか? ならば、誰一人として虐待などされてはいなかったのではないのか、という可能性が浮上してくるんです。
そして、学園の時計塔は12年前の夏休みのある時期に、あらぬ時間に鳴らされていたといいます…。時計塔の仕掛けについては、もう皆さんご存知ですね?
…さあ、これらの可能性から、一つの仮説が生まれます。女生徒達は監禁されていたのではなく、最初から納得づくで学園にいたのではないかという事です」
「ど、どういう事だ?」
と植田が問うた。
来栖要は全員を改めて見渡してから続けた。
「三人がここに寝泊まりしていた事は誰にも発覚していません。この中にいた三人は、自分達の存在が露見しないように細心の注意を払っていたのだと思われます。
この事からも教師と生徒という関係を越えて、彼らの結束がよほど固い絆で結ばれていたのだろうという事は想像できます。
そこまでして守り通さなければならない秘密の正体…。それはおそらく、高橋聡美が手に入れてしまった覚醒剤が原因だったのではないでしょうか…?」
来栖の言葉は相変わらず淡々と続いた。
「生活に必要な物資や食料品、そして女性の生理用品に到るまで、それらは秘密裏に外部から運び込まれていたのです。外部から調達してきても怪しまれなかった人間で、ミス研の内部事情をよく知る善意の第三者…。
そして全てが終わった後に生活ゴミを始末できるような事後工作が可能な人物で、さらに付け加えるなら生理用品を当時はあった近所のスーパーで買う事ができた女性が当時、三人以外に必ずいたはずなのです」
探偵は愛子を見据えた。押し黙った全員の視線が、震える彼女を注視していた。
「12年前の1994年といえば、愛知県西尾市で悲惨ないじめによる自殺事件…かの大河内清輝君事件があった年でもあります。
もちろん、それ以前にも自殺にいじめが関わっていたケースは多々あった訳ですが…。
社会に衝撃を与えたセンセーショナルな事件ですし、これは教育の現場に実際に携わっている皆さんの方が、よくご存知かもしれませんね…。当時のマスコミ報道の加熱を始め、現代のいじめによる自殺というものがこれほど取り沙汰されるようになった、それはきっかけともいうべき年でもあった…。
その年は、特に学校とそこに住む生徒達やその家族。教育に携わる教師達や地域住民達との間で起こる、様々な悲しい自殺や事件が全国でも相次ぎました。
例えば複数の生徒達が一人の生徒を。複数の生徒が一人の教師を。教師が生徒を。いじめに合った生徒の家族がいじめられていた生徒に復讐するといった具合に、現代のいじめによる負のサイクルという、システム化された現象を決定的に定義づけてしまったんです。
全ての罪を受け入れて死んだ武内先生の悪魔的な賢さは、それすらも利用した事にあったんです…」
座は水を打ったように沈黙していた。
今回の事件と構造は全く同じなんです、と来栖要は続けた。
「聖真学園がいくら学校系特殊法人とはややかけ離れたミッション系の私立校とはいえ、情報操作や箝口令には限界があった。
事は女生徒の行方不明に覚醒剤。そしてきわめつけが殺人事件です。最初から隠蔽できる類のものではない。
武内先生は知恵を絞ったに違いありません。
苦悩の末に、彼は一つの決断を下しました」
学園の抱える闇。一人の男性教師に降りかかった。
災厄。
「それは一人の人間の死体を故意に隠匿し、起こった状況に全く別の意味づけをする事で、被害者と加害者を逆転させるというものでした。このとんでもない発想の転換こそ、事件を12年もの間、世間にカモフラージュできた悪魔的な知恵としか言いようのないものだったのです…」
探偵の視線が、ゆっくりと教師以下の関係者達の間を縫った。
「校長や理事長を始め、あなた方は知らず知らずのうちに、死者の大計に沿って動かされていたんです。人の噂も75日といいますが、同時に火のない所に煙は立たない事も、この死んだ犯人はよく知っていた。七不思議と呼ばれる怪談話は、その時にも有効に機能したのです」
探偵は再び、チラリと間宮愛子に視線を送った。
「ど、どういう事だ?」
と植田が問うた。
「禁忌とされている七不思議という怪談話の真意には生徒達を守るという側面がある。
しかし、殺人事件を隠蔽した犯人側にとっては別のメリットがあったという事です」
「別の…メリット?」
今度は花田が来栖に問いかけた。来栖はゆっくりと彼に頷いてから続けた。
「禁忌を逆に人は侵したがるという事です。
学校に限った話ではありませんが一定のルールに縛られた環境下では、やるなという禁止事項は暗にやればどうなるか、という好奇心を自然に誘発するものでもあるんです。
そんな中、誰かが禁忌を犯した事で生まれた無根拠な話はいつしか噂となり、噂は勝手に別の意味を持ち始め、本来あった秘密はますます深奥へと追いやられていく…。
おそらく武内先生はそう考えたのでしょう」
探偵は再度続けた。
「事実、この目論見は成功しました。
学園の悪評を怖れ、正常に学園を運営していく為ならば怪しげな怪談話や噂話を使ってでも、学校に生徒達や保護者を繋ぎ止めておかなければ私立学園そのものが破綻してしまいます。彼は全ての罪を引き受けた…。
悪戯に過ぎてゆく年月と共に、秘密は完全に地下の最深部へと隠された…」
学園の秘密。狂気の闇に紛れた秘密。
全ては一人の男性教師によって欺かれた現実だったのだ。
来栖要は続けた。
「そして、ここがこの事件の最も凄まじい所ですね…。
武内先生は今度は自分自身の犯行そのものを隠蔽する為に、いじめられていた教師という偽装工作をもって、狂気に満ちた自殺を演出する事にしたんです…」
「おい…じゃ、じゃあ武内先生って人は、その為に時計塔に山内洋子の死体を吊したってのか!?」
「ま、まさか…。自殺したのは…高橋聡美を殺した…山内洋子の方…!?」
花屋敷と石原は困惑と驚愕の眼差しで探偵へと問い掛けた。
その通り、と探偵は再び暗然と頷いた。
「そう…。武内誠は少しも狂ってなどいなかった。いじめられていた教師による復讐という殺害事件で通した方が、学園の風評や被害は最低限で済むし、彼女達の犯行を確実に隠蔽できると彼は考えた。
そうした悪魔的な視座に基づいて犯行は行われたんです…」
「は、犯行って…」
桂木が息を呑んだ。来栖は続けた。
「高橋聡美と山内洋子が争った挙げ句、結果的に生き残ったのは山内洋子…。
武内先生が最初に高橋聡美の死体を発見したその時、少なくとも山内洋子は、まだ生きていたと思われます」
「…えっ!?」
勇樹と貴子が同時に反応した。
「そうじゃありませんか? 愛子先生…」
探偵はついに直接愛子へと問い掛けた。愛子は暫くの間、きつく瞼を閉じていた
やがて彼女はゆっくりと頷いた。
「そうよ…。逆上した聡美先輩を…殺したのは…洋子だったのよ…」
長い沈黙を破り、彼女はついに重い口を開いた。
「私と武内先生は聡美先輩を何とか助けようと、彼女の潜伏生活に色々と力を貸していたわ…。世間では既に彼女は覚醒剤を隠匿したまま逃走したという事になっていたんですものね…」
腹の底から絞り出すような、苦痛の声だった。
「けれど一番抑圧されていたのは洋子だった…。明るい子だったのよ…。
洋子は聡美先輩だけには負けないっていつも口癖のように言っていたわ。
けれど、まさか私と先生が留守にした隙に…あんな事が起こるなんて…」
深い懊悩に満ちた声で、愛子は俯いた。
「買い出しから帰ってきた私達を待っていたのは、滅茶苦茶に荒らされたこの部屋と、仰向けになって倒れていた聡美先輩…。
そして血の海の中で呆然と立ちつくした洋子の姿だったわ…」
愛子は暗い目で…どこか遠くを見ていた。
その瞳にはおそらく、12年前の悪夢が蘇っているのだ。
「凄く…怖かった…。洋子はまるで血の涙を流しているように顔中が真っ赤で…。幽霊みたいにぼんやりと俯いていて…」
後ろに立つ少女。怪談話のオリジナルは恋に狂った少女の…殺人。
「そこにいたのは…もう私達の知ってる洋子じゃなかった…。洋子は血だらけの制服でナイフを手にして、私と先生に振り返った…」
『先輩がね…悪いの』
『先輩がね…私をぶったの』
『だからね…先輩を…刺しちゃった』
「繰り返し繰り返し、何度もそう言って、洋子は血の海の中で、ひくひくと肩を震わせて笑っていたわ…」
「お、おい、まさか…。
く、狂っていたのは…や、山内洋子の方だったっていうのか?」
花屋敷が呆然と問い掛けた。
周囲の者達は、その言葉に一様に戦慄した。
愛子は苦痛の表情のままゆっくりと頷いた。来栖は押し黙った愛子の代わりに答えた。
「その時、武内先生の顔を見た洋子さんはついにパニックに陥り、自分で自分の胸にナイフを刺した…。…違いますか?」
「貴方には何もかもお見通しなのね…。本当に残酷な探偵さんだわ…」
ふっと愛子は寂しげに口元に笑みを浮かべた。周囲は言い知れぬ沈黙に包まれていた。沈黙を破ったのは刑事達だった。
「じ、自殺…だったってのか…。自分の胸にナイフを突き立てて…。二度目の刺し傷が致命傷になったのは武内誠が刺したんだな?」
「じゃあ武内先生は自分を慕っていた生徒達の為に…。自ら罪を被って…」
来栖は頷いた。
「そう…本末転倒。繰り返しますが、全ては逆さまだったのです。
隠された真相は加害者と思われていた人物こそが実は被害者であり、それは本筋とは全く無関係な動機によって引き起こされてしまった殺人事件と自殺事件だったんです」
来栖は注意して見なければ気がつかないほどの一瞬だけ、僅かに表情を曇らせた。
「武内先生がどんな思いで死んだ彼女を抱きしめていたのか…。
貴女がどんな思いで彼女達の死を見送ったのか、それは俺にはわかりません。
とにかく武内先生は貴女と共に自らの自殺を企て、高橋聡美の死体はこの墓所の深くへと秘され、全ての秘密は闇の奥へと葬り去られた…」
探偵の声が再び徐々に低くなっていく。
「しかし、それで全てが終わった訳ではありませんでした…」
静謐な地下に探偵の低い声が響き渡った。
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