(19)想定外の婚約期間

 ケリー大司教と笑顔で別れたシレイアは、次の訪問先である修学場に向かった。在籍していた頃から勤務している顔なじみの事務員に、マルケスが教室にいるはずだと聞いてから、シレイアは懐かしい場所を迷いなく進んでいく。


(さて、この時間だったら授業は終わっている筈だから、マルケス先生の予定が空いていると良いな。突発的に来ちゃったから、何か用事がある可能性もあるわよね)

 シレイアが、今現在マルケスが担当している教室まで来ると、出入り口のドアをノックしようとした時、中から聞こえてくる声に気がついた。


「それでね、そんな風に王妃様の生誕記念式典でジムテール男爵夫妻がやらかしてくれたものだから、その後始末で暫く大変だったのよ」

「アイラ……。そこまで部外者の俺にぶちまけて構わないのか?」

「構わないわよ。もう王都中にあの迂闊粗忽間抜け夫婦の王都追放処分は知れ渡っている筈だもの。現にあなただって知っていたから、詳細を尋ねてきたんじゃない」

「それはそうだがな……。まさか婚約破棄騒動からそこまでとんでもない流れになっているなんて、庶民の俺には想像すらできなかったぞ……」

(あ、そうか、アイラさんが寄付金を持参して来ていたんだ。そして一連の騒動について、解説していたのね)

 憤慨気味のアイラの声と溜め息まじりのマルケスの声で、シレイアはすぐに状況を悟った。


「これで終わると思ったら大間違いよ。つい最近、国政には係わらないけど、とてつもない騒動が勃発したんだから。ある意味、将来の国政に係わるかもしれない話だけどね」

「おいおい。今度は何を言い出す気だ?」

「それがね?」

(あ、例のプロポーズの話が始まった。どうしよう……、邪魔するのは悪いし、出直そうかな? でもあの話だけだったら、すぐ終わるよね? 次の休みは少し先だし予定はあるし、久しぶりにちゃんとマルケス先生と顔を合わせていきたいし)

 ドア越しに、こんどは楽しげにアイラが語り出したことで、シレイアは完全に入室するタイミングを失ってしまった。そしてどうしたものかと対応を悩んでいるうちに、アイラの話が終わる。


「そういうわけで、さっきの話とは別の意味で王宮中がちょっとした騒ぎになってね。本当に凄かったわぁ。そんな突拍子もないことをあっさり宣言してしまうなんて、さすが規格外というか、貫禄が違うというか、とにかく感心したわ」

「公爵家嫡男の結婚相手が、侯爵令嬢の近衛騎士……。結婚しても、騎士団勤務を続ける……」

「本当に驚くわよね。でも、当事者二人は本気なのよ。カテリーナの話だと、本当にシェーグレン公爵夫妻の了解は得ているそうよ。ご当主夫妻も凄いわね」

「……………」

(あら? なんか急に静かになったんだけど。どうかしたのかしら?)

 しみしみとアイラが告げると、そこで不自然な沈黙が漂った。シレイアは不審に思ったが、それはアイラも同様だったらしく、怪訝な様子でマルケスに声をかける。


「マルケス、急に怖い顔をして、どうかしたの?」

「アイラ……。俺、家を買う事にする」

(先生? 今の話と家が、どう繋がるんですか?)

 突然脈絡がないと思われる単語が出てきたことで、シレイアは室内の様子を窺いながら困惑した。当然アイラも、不思議そうに首を傾げる。


「はい? いきなり何?」

「これまでそれなりに貯めてきたし、二人で暮らすくらいの家は購入できる」

「ええと? 知らなかったけど、近々結婚の予定でもあるの? おめでとう」

「近々ではなくて、あと十年から二十年後」

 真顔で淡々と意味不明な事を口にするマルケスに、アイラは少々苛ついたように言葉を返した。


「さっきから何を言っているのか、全然分からないんだけど。私に分かるように話してくれる?」

「俺と婚約してくれ、アイラ。そして、お前が仕事を辞めたら、正式に結婚して一緒に暮らそう」

「…………」

(マルケス先生! やっぱり子供の頃に感じた空気は、正しかったんだわ!! いえ、でも! 言っていることが,、離滅裂っぽいんですけど!? 何を言っているのか、私にも全然分かりません!!)

 僅かに開けたドア越しに、その表情からマルケスが本気で言っているのは読み取れたものの、彼が言っている内容の理解が追いつかないシレイアは、心の中で絶叫した。一方の当事者であるアイラは完全に固まっていたが、マルケスはそんな彼女に構わず、堰を切ったように喋り出す。


「君が仕事に生きがいを感じているのは前々から知っていたし、それを応援する気持ちは本当だったから、それに水を差すような真似はしたくなかった。だから本当は君と結婚したかったが、昔からとても言い出せなかったんだ」

「あの……、マルケス、ちょっと待って」

「俺と結婚したら、君が家庭に入らないといけないと思っていたんだ。だがそれは、単に俺が世間体を意識していただけのつまらない思い込みにすぎないと、さっきの話を聞いて思い知らされた」

「さっきのって……、ナジェークさんとカテリーナの?」

「ああ、そうだ。普通だったらそもそも侯爵令嬢が近衛騎士として出仕するわけはないし、公爵令息夫人が結婚後も近衛騎士として出仕するなんてありえない。そうじゃないのか?」

「そうね……。天地がひっくり返ってもありえないわね……」

「そうだろう? そんな天地がひっくり返るような事が、いとも簡単に起きてしまったんだよ! これは奇跡だ! 神の啓示だ!」

「ちょっと、マルケス! あなた大丈夫!?」

(うわ、どうしよう!? なんか先生の様子がおかしいかも!? お医者さんを呼んできた方が良いかしら? でもお医者さんに状態を聞かれたら、なんて答えれば良いの?)

 言うだけ言って、感極まったように勢いよく立ち上がりながら虚空に向けて叫んだマルケスを見て、アイラとシレイアは激しく動揺した。しかしマルケスは、完全に何かを吹っ切った笑顔を振り撒きながらアイラに告げる。


「取り敢えず婚約だけして、アイラは好きなだけ仕事に打ち込んでくれて構わない。その為には王宮内の寮生活の方が格段に利便性はあるから、普段はそこで生活してくれ。そして休暇の時には、俺の家に来てくれれば良いから。それで仕事を辞めたら正式に結婚して、夫婦二人で静かに暮らそう。貴族なのに結婚後も騎士団勤務するのと比べたら、遥かに真っ当じゃないか。婚約期間が人より多少長いだけだ」

(マルケス先生……。『遥かに真っ当』とか『多少長いだけ』って、思考がぶっ飛びすぎです。アイラさんだって、反応に困って……)

 シレイアは心配して、アイラに視線を向けた。その瞬間、今度はアイラが勢いよく立ち上がり、マルケス以上の剣幕で絶叫する。


「ああああのねっ!! いきなり結婚とか、それ以上に色々とんでもない内容を聞かせれても困るんだけど!?」

「大丈夫だ。俺は一人暮らし歴は長いし、家事一通り完璧にできる。お前が家に来ても、家事をさせるつもりは無いから安心しろ」

「私が心配しているのは、そういう事じゃなくてね!!」

「ただ贅沢はできないかもしれないが、お前に生活資金を出して貰うまでの、甲斐性無しではないつもりだ」

「お金の心配をしているわけでもないんだけど!?」

「お前は例の件で実家とは絶縁しているから今更文句を言ってくるはずもないが、俺の家族の方も安心しろ。もう俺が結婚するのは諦めているから、何年後でも結婚すると言ったら祝福してくれる筈だ」

「確かに実家とは絶縁しているから、後腐れないけどね!!」

(駄目だわ。微妙に会話が噛み合っていない気がする。先生はアイラさんの話を聞いていないっぽいし、アイラさんの動揺が著しいし。これ、どうなるの?)

 予想外の事態に、誰か呼んできた方が良いだろうかとシレイアが狼狽していると、ここで事態が動いた。


「どうだ。他に条件とかはあるか? 可能な限り全部飲むから、俺と結婚してくれ」

「そっ、そんな事突然言われても……。かっ、帰るからっ!! さよならっ!!」

「あ、おい、アイラ! 返事は!」

 言葉に詰まったアイラは、素早く傍らに置いてあったバッグを掴み、ドアに向かって駆け出した。そして勢いよくドアを開けて廊下に出ようとしたが、ここで咄嗟に離れそびれたシレイアが巻き込まれる。


「きゃあっ!!」

「あ、ごめんなさい! シレイア? どうしてここに?」

 開けたドアをぶつけてしまった相手を認めて、アイラは謝罪の言葉を口にしてから怪訝な顔になった。対するシレイアは廊下に転んで座り込んだまま、動揺しながら弁解する。


「あの! たまたま通りすがりで! 何も見てません、聞いてません、ごめんなさい!!」

「…………っ!!」

 その正直すぎる自己申告で、一部始終を見聞きされた後だと悟ったアイラは、瞬時に羞恥で顔を真っ赤にして駆け去って行った。そして遅れてドアの陰から姿を現したマルケスが、溜め息を吐きながらかつての教え子を見下ろす。


「シレイア……」

「す、すみません、マルケス先生……。俸給の中から、修学場に少し寄付しようと思って来たのですが……」

 申し訳なさにいたたまれなくなりながら、シレイアは涙目で事情を説明した。それにマルケスが、力なく応じる。


「ああ……、うん。シレイアに悪気は無かったのは分かっているから。できるならこの事は口外しないで、忘れてくれると嬉しいかな……」

「絶対口外しないと誓えますけど、忘れられるかどうかはお約束できません……」

「相変わらずシレイアは正直だな」

(なんて間の悪い……。それに気まずすぎる。どうしてこんな事に……。神様、これは何かの罰ですか?)

 苦笑するマルケスの顔を見上げながら、シレイアは内心で愚痴を零したのだった。











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