第5話 輪廻の池の歌姫

廃墟に近づいて分かったことは、全面を覆っていたのは蔦ではなく、白いクレマチスとアネモネだった。様々な部分が壊れているにも、関わらず一種の神秘性を感じるような佇まいを持っていた。

そこに、煽情的な黒のナイトドレスに身を包んだ女性と、目隠しをしたスーツの男性がいた。女性は黒髪で黒眼。色白の肌を持った幼げが残る美女だった。男は体毛の全てが白い長身の瘦せぎすの色男だった。彼の弾くピアノの旋律に合わせて、女が悲しげに歌っていた。その歌声が突然に止まる。


「形持ちが来るなんて、珍しいわね」

女が私に気づき、さも興味もなさげにそう告げる。


「一体どうしてここに来たのかしら?とは言っても、あなたは答えられないものね」

ピアノを弾く男は、その言葉にわずかに口角をあげる。


「ここは一体どこだ!?お前らはなんだ?!」

そう言った途端に、誰かに背中から押し倒される。全身を、強い力で抑えつけられるが、奇妙なことに、感触は一切なかった。例えるならば、空気に抑え込まれるようだった。


「口の利き方に気をつけなさいな形持ち。その気になれば、すぐに霧散させられるんだからね。試してみましょうか」

そう言って彼女は、軽く踵を鳴らす。すると、左手が嫌な音と共に折れる。同時に、この女の機嫌を損ねたらまずいと悟る。


「申し訳ありませんでした!どうやら混乱をしていたようです。なにせ、目が覚めたら暗闇の中にいて、そこに差していた光をたどってきたらここに来たんです。私もよく分かっていないのです。貴女がもし事情をご存じであれば、ご説明をいただければと思いまして」

彼女はその言葉を聞くと、俺の目を見つめる。やがて「フーン」と言って、逆の踵を鳴らす。すると、折れた左手が逆再生されるかのように回復し、全身を抑えていた空気もどこかに消えた。


「頭がいい人間は好きよ。まずは服を着ましょうか」

彼女はそう言うと、ピアノの男に目配せをする。彼が数回鍵盤をたたくと、俺は貫頭衣を着ていた。


そんな俺を、女はずっと見つめていた。彼女の形が良く、切れ長の目は、理性と落ち着きにあふれている。たが、大きな黒眼が顔全体の印象をぼやかせた。彼女を思い出そうとすると、目が先に思い浮かび、その他の部位を思い返しながら当てはめていく作業をしなければならない。美人を前にし、今までなかった経験だ。

「綾野理、日本人。28歳、会社員。妻と娘がいて、幸せの絶頂にいたころに、電車事故で死亡…ね。うん、ご愁傷さま」

「えっ…?!なぜ知っている?電車事故で死んだって!?いったい何を言っているんだ!俺は、普通に家に帰って妻と娘と過ごしたんだ。お前か!俺をさらったのは!妻と娘をどうした!」

俺は女をどやしつけ、怒りを持ったまま近づいていく。

女は、俺の口調が気に障ったようで睨みつけている。まずい。これは、まずい。俺は先ほどのことを思い出し、その場にとどまる。


「今回は特別に許してあげるけど、二回目はないからね。教えてあげる。ここは輪廻の池。あらゆる次元で死した者の魂が還る場所」

普段だったら「この女は気がふれている」で済ませるだろう。しかし、きっと俺はもう死んでいる。


何故なら貫頭衣は、着せられたわけではない。俺の上半身から“生えてきた”のだ。こんなことは現実世界ではありえない。


女は俺に歩み寄り、顎でついてこいと示す。

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