第8話

 ガブリエルは彼女の苛立ちなど歯牙にもかけず、さらに気に障ることには、重力がないかのように、ふわりふわりと楽しげに部屋中を飛び回りだした。


 飛べるのは驚くにあたらないが、普段はちゃんと地面に足をつけている彼が、このような浮かれた行動をするのはめずらしい。


 おそらく、彼なりに高揚していたのだろう。


「よし、整理してみようか。おまえの選択肢は三つだ。母を生贄にする。息子を生贄にする。あるいは両方とも殺す」


 すると彼の友達の一人が、穏やかに口をはさんだ。


「おやイブリース、きみ四つ目の可能性を忘れているね。つまり彼女が誰も殺さず、あの二人を無事に去らせる。彼女の中にはずっとその第四の可能性が存在しているよ」


 そのすずやかな声の主は、どういうわけかガブリエルにそっくりだった。あるいは兄弟なのかもしれない。


 ガブリエルは飛び回るのをやめると、ちょうど長椅子にくつろいだような格好で祭壇の上の空中に横たわった。


「そして二人はこれまでどおり幸福に暮らし、彼女は惨めな一生を送るというわけか。皮肉にも誰も殺していないのに、噂だけが広まってゆく。彼女はいまや泣く子も黙る妖怪・鎌女だ。せいぜい、自己満足を冥土の土産にすればいい。あの親子を殺したりはしなかったと」


 兄弟はガブリエルの向かい側で儚げにゆらゆら揺れ、涙のように光っていた。


「他の選択肢は自己満足ではないとでも?」


「ある行為が実際の成功として実を結ぶなら、自己満足とはいわない。この場合、彼女の娘がその成功の恩恵を受ける」


「それなら利己的といってもいいけど。多くの人は他の誰かを傷つけるより、むしろ自分の望みを諦めるだろう」


 ガブリエルはすっと降下して、今度は祭壇の花の中に腹ばいになった。

 すると彼に触れた花たちがいっせいに、命を得て蠢きだした。


 中の一本、とりわけ強靭な大輪のダリアがふいに暴れだして、他の花をみんな打ち倒し、なぎ払ってしまった。

 一本だけになったダリアはいよいよ輝き、したたるように赤黒く咲き誇った。


「いいかね、学友諸君。多くの人間は、他の生物や、他の人間たちの犠牲のうえに富や安楽や繁栄を築く。この儀式はそれが端的になっただけのことで、中身は世間のごく普通の人たちがしていることとなんら変わりはないのだ。もし彼女を非難する者がいたら、そうだね、ぼくははっきり言わせてもらうよ――偽善者とね」


 彼の豪華な衣服がちらちら光って溶け始めた。

 ひじをついて向きを変え、美しい裸体の全てをさらすと見せかけて、大輪のダリアで肝心の箇所を隠している。


「満足や幸福というものは、そもそも利己的で残酷なものなんだよ。おまえはよくわかっているはずだよ、ねえメアリ?」


 ガブリエルは間をおかず続けた。


「今だってそうじゃないか。あの二人とおまえの違いを見てごらん。なんて不公平なんだろうね。それを逆転させたところで、世界の均衡は崩れたりしない。つまり、今度はおまえが満足を得て幸福になり、あの一家は不幸になる。それのどこが悪いんだね?」


 彼はなおもしゃべり続けた。


「人の望むものが概ね似通っていて、しかも世の中の資源に限界というものがある以上、誰もが平等に幸運をつかむことは不可能だ。おまえが何かを得れば、どこかで別の誰かがそれを諦めざるをえないんだから。望みを遂げたかったら、必ず何かを、誰かを犠牲にするしかない。つまり成功とか、幸福だとかいうのは、容赦ない取捨選択と適応の結果なのさ」


 彼が花を捨てて立ち上がると、その身は宝石を縫い取りした長い漆黒のマントに包まれていた。そして前にはなかった王冠と杖までが現れた。


 彼はメアリのすぐそばにくると、ささやいた。


「前にも言ったけど、おまえは幸運なんだよ。こんな逆転の機会は、誰でももらえるものじゃないんだから。ぼくはおまえに大きな恩恵を与えた。おまえは選ばれし者なんだ。これからおまえが何をしようと、ぼくが許す。わが高貴なる血筋と偉大なる父の名において、このぼくがおまえに権限を与えよう」


 彼は自分の王冠をとって彼女にかぶせた。それは火傷するほど冷たく、彼女にふれるやいなや溶けて消えてしまった。

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