第3話
メアリは長いことその場に佇んで、男の寝顔を見ていた。
夢をみているらしい彼の顔は、決して残忍にも冷酷そうにも見えず、むしろ苦悩と恐怖に歪んでいた。
この男にも悔恨の心というものがあるのだろうか?
自分のしたことに恐れを感じているのだろうか?
それはわからない。
しかし月の位置がどんどん低くなってゆくのを見たとき、彼女はふいに覚悟を決めて、わあぁぁぁ!と一声叫ぶと、鎌をふりかぶって男に突進していった。
男の眠りは浅かった。逃亡中の身でもあり、常に警戒する癖がついていた。彼は即座に眼を覚ましたが、起き上がった彼の眼に入ったのは、沈みゆく満月の月明かりを背に、大鎌をふりかざして自分に襲い掛かってくる不気味な女の姿であった。
「ひぃー」
男は声にならない悲鳴を放つと、とっさに転がって逃れた。そしてもう一度ちらりと、妖怪さながらの女の姿を仰ぎ見ると、あとはもう振り向きもせず逃げ出した。彼はまたたくまに地平線の彼方へと遠ざかった。
メアリはしばらく後を追っていったが、相手のあまりの逃げ足の速さに辟易し、しかも完全に月が沈むにいたって、あきらめて座り込んだ。
すぐそばにガブリエルがあらわれた。彼は、姿を消してはいたが、どこからか一部始終を見ていたらしい。身体を二つ折りにして笑い転げていた。
「ああ、おかしい。まったく、なんて要領が悪いんだろうね! 闘技場にいるんじゃあるまいし、あんなふうに真正面から向かって行ったら、逃げられて当然じゃないか。しかたないね、ここはひとつぼくがおまえの師匠になって、正しい首の狩り方ってものを教えてやらなくちゃ」
彼がさっと手を上げると、二人はたちまちその場を後にし、メアリの住む納屋に戻っていた。
「さてと。おまえは不器用だから、まず獲物を油断させて自分のテリトリーに引き入れることから始めるべきかな。でもこんな所じゃだめだね」
彼は両手を二度打ち鳴らした。すると、粗末な納屋はあとかたもなく消えうせて、洒落た屋敷に変わった。
屋敷には立派な調理場があり、料理人もいないのに、かまどでひとりでにパンが焼きあがり、鉄瓶でお茶が淹れられた。さらに野菜と米のつまった七面鳥や、果実のパイなど、おいしそうな料理が次々とあらわれた。
「食べなよ。そんなに痩せてちゃロバの首だって落とせないよ。それに、もう少しこぎれいにしたらどうだね」
彼が再び手を叩くと、奥のドアが開き、その向こうに大理石の浴室があらわれた。地下から温泉が湧き出し、きれいな湯がパイプをかけあがって浴槽の中になみなみとあふれた。
次の瞬間、メアリはもう湯の中に漬かっていた。ガブリエルは長靴をはいてそでをまくりあげ、まるで品評会に出す犬でも世話するように、容赦なくざぶざぶと彼女の髪を洗っていた。
「いいかね、人間は所詮見かけに惑わされる愚かな生き物なんだよ。ぼくを見てごらん。ぼくは頭が二つある恐竜の姿であらわれたってかまわないんだし、三組の羽と十個の目をもつ紫色の小人になって飛んできたっていいんだよ。でもそんな姿を見せたら、人間はまず打ち解けてくれないだろうね。人を安心させるには、人と同じ姿に、それも相手が好む外見にならなくちゃ」
彼が指を鳴らすと、今度は立派な鏡台があらわれ、メアリはその前に座っていた。金のふちどりをした鏡の前には、櫛、香油、白粉などの化粧品が並んでいた。
「ぼくはね、ある女が夫と姑を毒殺して捕まって、無罪放免になるのだって見たことがあるよ。なぜだと思う? 彼女は二十一歳で絶世の美女だったのさ。裁判のあとで判事と再婚したよ」
彼はメアリの肩に床屋のケープを着せたかと思うと、あざやかな手さばきで傷んだ毛先を切りそろえ、カールさせ、当世風の形に結い上げた。彼がメアリの顔に化粧する腕前ときたら、妖怪を天女に、男を女に、娼婦を生娘に見せることさえできそうだった。
彼がもう一度手を叩くと、背後で大きな衣装箪笥の扉が開き、上等なドレスがあらわれた。瞬きする間に、メアリはそのうちの一着を身につけていた。
「これでよし、どこからどう見ても危ない女には見えないよ。でもいいかい、次の満月までぼんやりしていちゃだめだよ。今度のことでよくわかっただろうけど、おまえって人間は、念には念を入れてしっかり予習するくらいでやっと一人前なんだからね」
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