第2話

 さてこの女、メアリというのだったが、その後もあいかわらず荒野で暮らしていた。


 あの大鎌は納屋の裏手に立てかけたまま、白い箱は床下にしまいこみ、忘れ去ったように見えた。


 しかし決して忘れたわけではなかった。


 彼女はよりいっそう他人を避けるようになった。そしてしばしば、夜中にそっと起きだしては、あの白い箱を取り出していつまでもながめたり、あるいは鎌の刃を、油を染ませた布で丁寧に磨いたりするのだった。使う気はないが、もう捨てる気もなく、家宝のようにしていた。


 ある満月の晩、彼女が眠れずにいると、納屋の扉が音もなく開き、ガブリエルが前と同じようにすたすたと入ってきた。


 彼女は毛布をかぶって、知らないふりをした。するとはしごをのぼった気配もないのに、すぐ耳元で声がした。


「メアリ、メアリ、起きてみてごらんよ。月が綺麗だよ。こんなに素敵な晩に、寝ているだけなんてもったいない。ちょっとぼくと散歩に行こうよ」


 彼の声はたいへん魅力的で、明るく軽やかな音楽のように響く。


 気がつくとメアリは、満月に照らされた小道を、ガブリエルと連れ立って歩いていた。


 彼はほっそりと優美で、背丈はちょうど彼女と肩を並べるくらいだった。そして、いかにもおしゃべり好きといった様子で、屈託なく無駄話をしていた。


 彼がかつて訪れためずらしい国々や、そこで見聞きしたおもしろい出来事を披露する。あまりに話が上手いので、メアリはしばしば、声を上げて笑ってしまうほどだった。


 彼女は内心では、もう一度彼が来るのを待ち望んでいたような気がした。この少年は魔物かもしれないが、最高の演出家でもあったからだ。彼がそこにいれば飽きるということは決してなかった。


「そうそう、本題を忘れるところだった。この間言い忘れたことがあって来たんだよ。前におまえに与えたあの力、有効期限は九ヶ月だよ。それに、儀式が効果を発揮するのは満月の夜、月が空にある間だけ。つまり機会は九夜ということになる。おまえはもう半年も何もしないで過ごしているね。貴重な時間のうちすでに三分の二を無駄にしたんだよ」


「期限だって!」メアリは金切り声でわめいた。「なんだってそれを最初に言わないんだい、このペテン師天使!」


 ガブリエルはしれっとして、彼女に向いたほうの耳を指でふさいだ。


「だいたい、無期限だと思い込んでいるおまえの方がめでたいんだよ。だから見るに見かねてこうして警告にきてやったんじゃないか。前にも言ったように、一人の人間に無制限の特権を与えるなんてこと、いくらぼくたちでも許されないんだよ。それはこの世界の秩序と均衡を乱すことになるからね」


 彼が手のひらを上に向けると、二つの透明な球体があらわれた。球体の中には、それぞれ風情の異なる極小の町があり、種粒ほどの人々がせわしなく行き来しているのが見えた。彼はそれを軽々と宙に投げ上げ、器用にお手玉した。


「おまえに本当に信念というものがあるなら、期限のあるなしがそんなに問題になるのかね? おまえがどうしてもこの儀式はできない、絶対に自分を曲げないというなら、期限が過ぎるまでそのまま何もせずにいればいい。逆に、何が何でも望みを遂げるというなら、何ヶ月もの時間さえ要らないだろう。最寄りの町へ出かけていって、即刻生贄の首をはねればいい」


「三ヶ月」メアリは口の中でつぶやいた。「あと三ヶ月だって!」


「正確には二ヶ月だよ。今夜も満月だから、残る満月は今夜を入れてあと三回さ」


 ガブリエルは故意にか手を滑らせたのか、球のうち一つを地面に落とした。球体の外郭は粉々に砕け、町は崩壊した。極小の人々が虫の死骸のようにあたりに散乱した。


 彼は残ったほうの球体を人差し指の上でくるくる回した。球体は光り輝き、中の町はさらなる発展を遂げた。


「やれやれ、おまえは人間にありがちな保留病にかかったね。おまえは望みを遂げる可能性を持っている、でも自分の意志でそうせずにいる――そう思っていたいんだろう。力を与えられているのにあえて使わずにいると、まるで善人か聖女みたいな気分になれるんだろうね」


「でも潜在的可能性なんてものはね、夢か幻みたいなものさ。実行しない限り実現することはない。そしておまえはそうやってぐずぐずしているうちに、選択の余地さえ完全に失うんだ。ぼくはほんの少しの間だけ、おまえを女神にしてあげたんだよ。それとも魔女に、といいたければそれでもいいけど。正直、悪くない気分だっただろうね。でも、そろそろ決める時だよ」


 球の中では、前のものより立派な新しい都市が再建されつつあった。だが、彼は「決める時」と言いながら、身振りとともにそれをひょいと放った。おかげでその球もまた、地面に落ちて粉々になってしまった。


 二人はこうして歩いているうち、いつのまにか、街道の近くまで来ていた。


 すぐそこの廃墟の壁の下に焚き火の跡があり、一人の薄汚い男が、身を丸めて眠っていた。


「シーッ。ぼくの声はこの男には聞こえない。でもおまえは声を立てないで。ほら、そこを見てごらん」


 ガブリエルが指差すと、その指先から青白い光の玉が放たれ、そのままゆらゆらと漂って、男を照らした。袖からのぞいた手首には、囚人番号の焼印があった。そして彼の足首には足枷がはめられており、無理やり壊したらしい鎖をひきずっていた。


「この男は罪人なんだ。牢を破ってここまで逃げてきたんだよ。何の罪かもわかってる。ぼくはこの男の裁判を傍聴したんだから。この男は子どもの頃から盗人で、大人になっても泥棒だった。こんな輩は、おまえたちの社会にとっては、害虫みたいなものだろう。死んで当然だね。実際、強盗殺人の罪で死刑宣告を受けたよ。こうして逃げ出してしまったけどね」


「どうだい、この男はおまえの生贄に最適じゃないかね? 彼が死んだからといって誰も悲しまない。彼に家族を殺された者たちはむしろ喜ぶだろうね。この男がこうしてずうずうしく生き延びて、何の罪もないおまえの娘がここにいないなんて、まったく理不尽な話だと思わないかい? でもね、今のおまえならその不公平を修正できるんだよ」


 ガブリエルはいつの間にか大鎌を手にしており、しゃべりやめると同時にそれをメアリの手に押し付けると、ぱっと消えてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る