荒野の女と美しい悪魔

みるくジェイク

第1話

 荒野を突っ切る街道沿いの、すっかり廃墟と化した町のはずれに、ひとりの女が住み着いていた。


 女は裏の湿地で食べ物を集め、誰かが置き去りにした黒山羊を一頭飼っていた。


 街道から最も離れた建物のうち、かろうじて崩壊をまぬがれている納屋の二階で寝起きしていた。


 あるうだるような午後のこと、女は納屋の二階の涼しい暗がりに避難しながらふと考えた。


(ちょうどこんな天気の日だった、すべてが変わってしまったのは。今となっては、あたしの願いをかなえることは悪魔にだってできはしない)


 そのとき、納屋の戸をあけて、見知らぬ少年がすたすたと入り込んできた。


 まるで自分の部屋に入ってくるような堂々としたその態度ときたら、あっけにとられるほどである。


 女ははしごの上から顔を出し、威嚇のうなりを発して怒鳴りつけた。


「何してんだい、人の家で!」


 子どもの一人や二人、簡単に震え上がらせることができるはずだった。


 この女、鬼婆と呼ぶにはまだ若すぎたが、それでも長く人里離れて暮らしている者特有の、異様な風体をしていた。


 骨ばった手足に革とぼろ布をまとい、汚れた顔の、もつれた長い髪の間からぎらつく眼光をのぞかせていた。


 侵入者はびくともせず、顔を上げもしなかった。


 女は他人の子どもを見るのが大嫌い、大人も嫌いだが、相手はそのどちらともつかない。年のころ十五、六歳くらいだろうか。

 荒野のど真ん中にいるにもかかわらず、まるで貴族の息子のような豪奢な服を着ている。


 少年は木のベンチにのんびりと腰を下ろすと、囲いの中の黒山羊に手を伸ばした。すると山羊は自ら頭をすり寄せて目を閉じた。


 山羊を撫でる少年の指は長く、蛾のように青白く、重たげな指輪がいくつもはまっていた。


 指輪にはめこまれた宝石が、小窓から射す午後の日差しをはじいて針のように光った。


 相手が居座ってしまったので、女ははしごを下りてきた。両手を腰に当てて少年の前に立った。


「聞こえないのかい、この悪たれ小僧! とっとと出て行け――」


 そのとき少年が顔を上げた。

 彼の眼を見た瞬間、女はとびすさり、たっぷり五歩分は距離を置いた。


 ところが彼が瞬きして再び目を上げると、ごく当たり前の人間の目、髪と同じ黒い瞳があらわれた。


 すると女は、いったい自分が何を見たのか、なぜそんな反応をしたのか、もうわからなくなってしまった。


 少年は肩をすくめ、きわめて落ち着いた声で言った。


「まあ、そう警戒しなさんな。ぼくはおまえの味方だよ。おまえに恩恵を施しに来たんだよ」


「でも言葉に気をつけるんだね。なんといったかね、小僧だって? ぼくが小僧ならおまえは蠅だね。ぼくの寿命からすればおまえたち人間なんぞは、つい今しがた生まれて瞬きする間に死んでいく虫みたいなものなんだから」


 彼は喋りながら藁の中に手を突っ込むと、小さな灰色の鼠をつまみあげた。


 尻尾をつかまれた鼠は、ちょっとの間手足を宙にばたつかせたかと思うと、次の瞬間、黒いケシの花になっていた。


 とみるまにその花は灰にかわり、少年の指の間からはらはらとこぼれ落ちた。


「道化め!」


 女は少年の足元に唾を吐いた。


 すると、その唾が落ちたところからぱっと小さな炎が上がり、たちまち藁の束に燃え移った。


 少年はすぐそばで燃え盛る炎の熱をものともせず、楽しげに笑顔を浮かべている。


 炎はめらめらと伸びて天井にまで届き、黒煙があたりを包んだ。

 

 女は涙を流して咳き込みながら出口を探し、山羊は悲鳴をあげて暴れた。


 だが少年がわずかに手振りをすると、炎が一瞬にして氷柱にかわった。


 炎の形をした氷の塊は、透明で、まばゆく輝いた。少年が指を鳴らすと、今度はそれが粉々に砕け、ダイヤモンドダストとなって降り注いだ。


 女はあわてて見回したが、もう火事の痕跡などどこにもなく、空気はもとどおり澄んでいた。


 少年は何事もなかったかのようににこにこしている。

 その髪に氷のかけらがきらめいた。

 彼の顔は実に美しく、晴れ晴れとしていた。


「さっきも言ったように、ぼくはおまえに恩恵を施しに来たんだよ。ついでに言っておくと、贈り物を拒むのは賢明じゃないし、おまえにはそんな権利もない」


「ぼくたちは人間よりはるかに優れた種族なんだ。人はぼくたちを神々とか、天使とか呼ぶ。ほら、人間にもよく知られているガブリエルという天使、あれはぼくの一人目の里親で、名付け親でもあるんだ」


「それでぼくの名前もガブリエルというんだよ。実父もちょっとした有名人なんだけど、五百年前に離婚訴訟で親権を失ってね。今ぼくは、二人目の里親の姓を名乗ってる――イブリースとね」


 女はむっつりと黙り込み、悪態はさし控えた。


 ガブリエル、またの名をイブリースは、商談を始める店主のように、両の手のひらをぽんと打ち合わせた。


「さてと、おまえにはどんな贈り物をあげよう? 人の心が読める力は? 未来を視る力はどう? それとも世界中の富を手にする磁力? いや、おまえはそんなものは欲しくないだろうね。それじゃ、ある言葉を唱えるだけで人の命を奪う能力なんてのはどう?」


「指一本触れずに、願った人間を殺すことができるんだよ。憎い相手を殺してもいい。どこでも好きな町へ出かけていって、その町の人間をすべて消してしまったらどうだね。あとはその街で一番豪勢な屋敷を手に入れて、優雅に暮らす。誰もおまえの邪魔はできない。そうさ、こんな不便なところまで来て人を避けなくても、街の真ん中で贅沢に、ひとりきりで暮らせるんだよ」


 女は彼を斜にながめ、歯を見せて笑った。


「あははははは!」


「おもしろいだろう。でも、今言ったのは全部冗談だよ。おまえが本当はもっと庶民的な幸せを望む人間だってこと、ぼくはちゃんと知ってるからね。だから、こんなのはどうかね? おまえには、命を奪う能力じゃなく、失われた命を取り戻す力を与えよう」


 ガブリエルはベンチの下の一塊の灰を指差した。

 すると灰はさらさらと宙をかけのぼって彼の手の中に戻り、次に真っ黒なケシの花になった。

 

 その花は形を変え、小さな灰褐色の鼠になった。

 鼠は彼の服を伝って地面に駆け下りると、藁の中に姿を消した。


「ぼくたちといえど、この世界の秩序と均衡を大きく乱すことはできない。そんなことをしたら、父上に叱られるからね」


「でもおまえが手当たり次第に死人を生き返らせるんじゃないかなんてこと、ぼくはちっとも心配していないよ。おまえのような隠遁者は、見ず知らずの人間を救おうだとか、有名になりたいだなんて思いもしないだろうからね。おまえが生き返らせたいのはきっと、ただ一人だろう――おまえの娘だ」


 冷水に打たれたように、女の身体がびくりと震えた。

 彼女は笑いやめ、虚ろな険しい顔を少年に向けた。


 ガブリエルが両手を差し出すと、そこに白い箱がのっていた。どこかに隠し持っていたという風でもなく、まるで最初から手に持っていたとでもいうようだ。


 女は気がつくとふらふらと歩み寄り、その箱を受け取っていた。


 箱はずっしりと重く、棺の形をしている。


 ふたを開けると中には、幼い少女をかたどった精巧な人形が入っていた。


 人形は真っ白なドレスを着ており、女の髪とそっくりの、亜麻色の髪をしていた。


 人形は目を閉じていたが、その顔はまぎれもなく、女のよく知る顔と瓜二つだった。


 女の唇が開き、だが言葉にはならず、嘆きと苦痛の入り混じった「ぁあ」という声が漏れた。


「気に入った?」


少年はあっけらかんと言った。


「それは儀式の道具だよ。それと、儀式に必要な道具はもうひとつ、これを忘れちゃいけない」


 言うなり彼の手に、大鎌が握られていた。

 鎌には頑丈な長い柄がついており、三日月形の刃はぞくりとするほど切れ味が良さそうだった。


「よくお聞き、これから大事なことを説明するから」


「おまえは満月の夜にこの鎌で、誰か生きた人間の首を切り落とし、その血をこの箱の中に注ぐんだ。この人形のドレスが余すところなく緋色に染まるくらいにね」


「当然ながら、魂を冥府から呼び戻すには、相応の生贄が必要なんだ。生贄は必ず、人間でなければいけない。鳥や獣で代用はできないよ。もしもおまえにその儀式が遂行できたら、その子は生きた人間となり、生前の姿そのままに、おまえのもとに戻るだろう」


 受け取ったつもりはないのに、いつの間にかこの鎌も、女の手の中にあった。

 女は唇をゆがめてそれを放り出し、続いて人形の箱も地面に叩きつけようとした。

 だがどうしてもできず、箱は水平を保ったまま、女の手の中でカタカタと震えた。


 ガブリエルは甘い声で言った。


「ねえ、ぼくは好意で、おまえに力を与えたんだよ。その力を使うかどうかはおまえ次第だ」


「もちろん、使わないという選択もできる。でもそんな選択は愚かだね。少し考えればわかるはずだよ、自分がどれほどの幸運を与えられたか」


「つまりおまえは選ばれし者なんだ。世の中にはおまえと同じ境遇の人間が山のようにいるけど、普通は選択の余地すらないんだからね」


 ガブリエルは、踵を軸にしてくるりと回転した。

 彼はいつの間にか手鏡を持っていて、それを女からも見えるようにかざした。

 だがその鏡には彼の顔が映っていない。

 かわりに異国の王宮の風景が、小窓からのぞくように生き生きと見えた。


「ぼくはね、行ったことのない国はないくらいだし、ずいぶんいろいろなものを見てきたよ」


「ある国の王妃は、世継ぎになるはずだった王子を暗殺されて毎日悲しんでいる。そしてその王妃には、彼女のためなら喜んで自分の首を差し出そうという忠実な臣下が何人もいるんだ」


「もしそうでなかったとしても、彼女は生贄の一人や二人、自分で調達するくらいの気概と覚悟は持っているよ。彼女がおまえに与えられた恩恵を知ったら、さぞやおまえを羨ましがるだろうね」


 彼はもう背を向けて立ち去りかけていたが、納屋の戸口で振り向いて、ひときわ艶やかな微笑を浮かべた。


「その子の魂はおまえを求めてさまよっている。おまえが儀式を遂行するのを待っているよ」


「おまえだけが彼女に命を与えることができる。本物の人生を与えることができるんだ」


「ぼくの言ったとおりにすれば、彼女はふたたび生きて、寿命をまっとうする。そして生涯おまえを慕い、愛し続けるだろう」

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