第7話:一匹の甲虫
小雨が降る肌寒い日だった。アビー・ロンドのメンバーを乗せたバスは旧東京渋谷区を抜け、高速15号線に差し掛かる。アレンは窓に頬を寄せ、座席に深く沈みこみながら、頭から離れないトレーニングメニューを何度も頭の中で復唱していた。200、100、100を4セット。インターバル200。これを4回。次第に頭の中に数字が満たされる。
トレーナーのレンから「合宿」のアナウンスがあったのは、第三次予選の後、初夏の暑い日だった。場所は長野県白馬村。マスコミも追いかけない辺境の地で、みっちりと体をつくろうというわけだ。
アレンは不調から脱し切れていなかった。調子を上げてきている、ライバルのコーニー。絶好調のリサ。
バスがトンネルを抜けると、次第に郊外の住宅地の風景が広がり、まばらに田んぼとあぜ道が見え始める。少年時代、大戦前。郊外育ちのアレンも、どこにでもある、ウサギ小屋のような小さなニュータウンで育った。弟とともに、あぜ道を駆け上がると、不発弾があるから危ないと祖母にたしなめられた。あの駆け上がった足も弟も家ももうない。見世物として金を稼ぐ毎日。その見世物としての自分も怪しくなっているのなら、自分の価値はなんなのか。
眠りから目がさめると、すでに車は合宿地へ到着していた。アレンを起こしたのは前の座席にいたリサだった。
バスから降り、荷物を預け、早速、ウォーミングアップから始める。
気がつくと、アレンはスキー場の奥の森へと迷い込んでいた。
分け入っても分け入っても、樹木しか見えない。根に足を取られ、つまづき、思い切りほおを打ちつけた。
目に入ったのは、必死に小枝を運ぶアリの行列だった。その中の一匹に、左脚が欠損した働きアリがいた。
「お前もか」
そう一言叫び、起き上がる。泥まみれの右足で踏ん張りながら、左足の義足がぬかるみに沈まないよう、右手で樹木を抱きかかえるようにして体全体を支えた。
出口はどこだろう。
そう考える頃には、気づけばすっかり深みへと嵌っていた。
※
森の奥で迷ってからすでに4、5時間は経過しただろうか。疲弊し、義足だけでは自分の体を支えきれず、アレンは右肩に痛みを感じ、地面に横になった。
あたりは暗くなり始めていた。いつの間にか、泥のように眠っていたようだった。ふかふかの柔らかい珪藻土の感触を背中に受けるのが心地よかった。
夢とも現実ともつかない白昼夢を見ていた。よくよく、思い出そうとした。スタインヴィールド。退避命令が出ているのにもかかわらず、カーヴェイは前に進もうとしていた。危ない。やめろ。
カーヴェイは笑っていた。アレン、俺たち見捨てられた北北海道のしょうもないヤンキー崩れができることってなんだか知ってるか。
捨て駒だよ。
破裂音と号砲が聞こえ、強風が吹きすさぶ中、彼は黒い炎の中を進んでいった。
やめろ。
次の爆発の時、アレンは、自分の左足が離れていくのをじっと、他人事のように見ていた。
あれからもう12年の歳月が流れていた。
カーヴェイは死に、日本は負け、左足を失った自分は短距離アスリートという名の見世物として賞金を追いかけるようになった。
ふと、見上げた視界に一匹の甲虫がかすんで見えた。黄金色の羽根の関節の収縮を利用して、うまく飛び立っている。なるほど、と思った。ヒョウのように駆けるのではなく、一匹の甲虫のように飛ぶのだ。
朝食が済んだ頃突然戻ってきたアレンをリサが見つけたのが昼を過ぎてからだった。アレンは無言で、ケヴィンに義足のアップデートを依頼した。それから、無言で何かにとりつかれたように、トレーニングに励み始めた。
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