第6話:ボクシングジムでの邂逅

 より記録を伸ばすための次なる策として、アップデートした義足に適応する、強靭な肉体をアレンは求めた。アレンの義足は、人間の足より接地時間が短いので、他の選手ほど地面に対して強い力を抑えられない。そのためには、主力エンジンとも言える臀部、そして体幹の鍛錬が必須だった。

 陸上競技以外の練習メニューを取り入れる技法であるクロス・トレーニングを開始することをアレンに提案したのは、他ならぬケヴィンだった。軽いアップの後に、ボクシングとレスリングを行う。体幹の鍛錬には効率が良いスポーツだ。

 旧麻布十番にひっそりとたたずむうらぶれたボクシングジム。そこが、オフシーズンのアレンの主な居場所となった。

 「また来たか。あいつから聞いてるよ。入りな」

 ケヴィンが紹介した、コーチのジョン・バックマンは、大戦前は凛々しい西洋顔をした数多のタイトルホルダーだったとのことだが、今は老獪なジムの主人の風情を漂わせている。

 肉体。精神。失われた片足。無限の体力。サンドバッグを叩き始めるほどに、言葉が次々に頭の中を飛来しては過ぎていった。集中できない。頭をからっぽにする。腰のひねりだけで手を前へ押し出すつもりが、サンドバッグにこぶしだけが突き刺さっているようなイメージが頭から離れない。額から、腋から、汗が噴き出る。

 「アレン。今日は、お客さんがいるよ」

 リングの裏から、長身の男が現れた。

 コーニー・アレクサ。

 青白い肌にひょろっとした長身だが、しなやかでどっしりとした筋肉に包まれた体は『精密機械』との呼び名も高い。アレンがこの世界に入る前から、初期のダンピオンの勃興期を支えたスプリント界のヒーローでもあった。そして、ケヴィンがそのキャリアの初期にトレーナー契約を結び、いまだに義足のメンテナンスを個人契約で請け負っているアスリートでもある。

 見つめ合う。異様な緊張感が走った。

 アレンは3ヶ月前の予選で、コーニーが持っていた大会新記録を破っていた。

 この緊張感、そして嫉妬は陸上競技にはつきものだが、慣れることは決してない。

「コーニー・・・久しぶりだな」

 アレンが伸ばした手を、コーニーは拒絶する。タオルを羽織り、その場を去ろうとした。

 「不調なんだな」コーニーがぼそりと呟いた。

 「ああ・・・そういうときしかここに来ない」

 「もしかして、ケヴィンにここに来いと言われたのか?」

 「ああ」

 コーニーの義足のエンジニアリングも、ケヴィンが担当している。二人は、昔の「アヴィーロンド」を結成する以前からの付き合いだ。

 ケヴィンがこの場所をアレンに紹介した理由を邪推した。2人をあえて合わせ、競争心をあおらせようとしたのだろうか。いや、そんなことをするほどケヴィンは思慮深くない。おそらく、偶然だろう、それかコーニーが、俺に会いに? ぐるぐるととめどなく思考が回り始めた。

 過去のヒーローと現在のヒーローの対峙を見たかったのだろうか。なぜそんなことをするのだ。

 ケヴィンを独占したい思いが、掻き毟られるように疼いた。面影を思い出し、呻いた。

 「あの黒い義足の男を獲るのは俺だし、ケヴィンは今、俺のものだ」

 うっかり、本心を吐き捨てている自分がいた。

 コーニーはニヤリと笑うと、さらに、重ねて吐き捨てるように言った。

 「その言葉、そっくりそのまま返すよ」

 平静を装っていたが、内心は闘争心に打ち震え、今にも溢れ出しそうだった。

 目線がそらされ、また交わるとき、唐突にコーニーがアレンの腕をつかむ。

 「やろうぜ」

 気づいたときには、コーニーの左ストレートがアレンの左ほほに決まった。骨と骨がぶつかり、寸前のところで砕かれる音がした。


「小学生レベルの喧嘩かって感じよ、ほんとに。」

 顔を真っ赤にさせて帰ってきたアレンを、リサが介抱する。

「喧嘩じゃなくて、トレーニングだ」

 アレンがぼそりと言った。

リサはアレンが不調なことを知っていた。

アレンが、あのジョシュアという男と予選で出会ってから悪夢にうなされていること。そして、新しくアップデートした義足が適合せず、メンテナンスを繰り返しているということ。ケンジはその不調を、アレンのメンタルの問題だと判断していること。そしてアレンは、リサとケヴィンの深い関係を疑っていること。

 本心は、悪い気分ではなかった。もっと、自分に時間を割く時間が増えてほしいとリサは思った。だが、アレンはチームの一員でもある。看板選手のアレンが予選落ちを繰り返し、当然、アビー・ロンドのオッズは急速に下降していた。ただでさえ義足のメインテナンスはコストがかさむ。

 アレンをなんとか、蘇らせる必要があった。

 義足のアップデートをしたが、適合せず、義足は折れたまま。

 肉体を磨く新しいトレーニング法を試したが、ライバルに先を越される。

 つまり、まだ彼の精神がそれに追いついていないのか。


「アラインメントの調整、うまくいったか確認する」

 ケヴィンが部屋に入ってきた。

 白髪の多い豊かな髪。そばかすの残る、青白い肌。怜悧な印象を強める、シルバーのメタルフレームの眼鏡。ギミックの最終調整に入るケヴィンのいつもの横顔を、アレンはゆっくりと見つめた。

「コーニー・アレクサのマシンは、どんなだ」

「どうしたの?」

 鳶色の眼で見つめられ、アレンはたじろいだ。吸い込まれそうで、それでいて他人を寄せ付けない眼。

「コーニーは最後の予選から、会ってないよ。調整はうまくいったけど、あの結果は彼の責任じゃないの」

「コーニーには、普段どう接する?俺と同じように?それとも、もっと饒舌なのか」

 ゆっくりと接合部から義足が外されていく。切断部にケヴィンの青白い手が触れる。冷たい感触。ヒンジが彼の冷たく細い指で緩められる力の弛緩を感じる。

 俺だけを見てほしい、と喉元まで言いかかった。

 俺のライバルの相手をしないでほしいし、ましてや、他の女の足に触れた手で、俺の足を触らないでほしい。

 「できた」

 ケヴィンはヒンジの緩みの調整に夢中だった。

 「こうしたら、きっと加速度の調整が上がるはずだから、走り始めてからの加速がパワーアップするはずだ」

 アレン。ケヴィンが一呼吸おいて続けた。

 「僕はエンジニアとしてたくさんのアスリートの足を作るけど、特定の選手に肩入れするつもりは全くない。それは、プロとして当然の態度」

 それを聞いて、アレンの口から出たのは思わぬ言葉だった。

 「じゃあ、リサにコスメティック義足を贈ったのは、なぜだ」

 ケヴィンが大げさではなく、目を丸くし、たじろいだのがわかった。自然に出た態度だったのか、あえてそういう態度をとったのかはわからなかった。

 「…ヒンジは曲げといたから。あとは、このあと調整してみよう」

 ケヴィンが出て行った。


 その夜、アレンはあるはずのない右足の痛みーーファントムペインに悩まされていた。何かを訴えているような気がしてならなかった。

 その夜は、夢を見た。1匹の白い豹が、長い尾をぴんと直立させ、赤黄色のトラックをしなやかに駆けていた。




 


 

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