第8話 ジョセフィーヌの憂鬱

 そう、ベル君は他の人には全く見えていなかったのだ。他にも保育士の先生、併設している保育園に来る大人達、園内をうろうろする動物達など、見えていないもの達が存在する事を初めて知ったのだ。


 そしてそれらのの事はいくら説明しても理解されず、信じていると言ってくれた院長先生ですら困ったように微笑むのが精一杯だった。


 この頃の僕はそれらのモノ達が普通の人にも見えているのか、いないのかの判断がつかなかった。それ故、誰かと話す時には口が重くならざるを得なかったのだ。不用意にしゃべってしまった時の体験が彼を徐々に追い込んでしまったのだ。


 あれからだいぶ慣れてきたと思っていたのだが、このわけの分からないに世界に放り込まれて不安や焦りでいっぱいだった僕に変な口調で悪態をついてくる不思議なコギツネのコンは、あちら側のモノ達であったベル君に抱いたのと同じ安心感を与えてくれたのだ。


『なにニヤニヤしとるんや、キッショイ奴やなぁ』


「お前のおかげで1000文字分くらい…昔の事を思い出していただけさ。」


 コンに対する安心感が警戒心を解きすぎていた。チラチラとこちらを見ながら不審げな表情を浮かべていたコンがあの女の声でしゃべり出したのだ。


「先程からおかしいと感じていたのだけれど、あなたもしかしてジョセフィーヌと会話しているの?」


 しまった!この場にコンしかいないので監視していたこの女の事はつい失念していた。


 あちら側の物達と会話する時は回りを警戒する必要があった。それが今まで生きてきた間の教訓であったというのに…。

 ん…?ジョセフィーヌ??


「コン、お前女の子だったのか?」


『ウルサイわい、シネ!あほんだら!』


 顔を真っ赤にして横目でこちらを見ているジョセフィーヌが小声で悪態をついてきた。照れてちょっと拗ねたような仕草をするコギツネをとても可愛いと思ってしまった。


「この箱庭の試験を何年も続けてきてジョセフィーヌに話し掛けたヤツはたくさんいたけど、会話したのはあなたが初めてよ。さすが先生のオススメってところかしら。残りの課題も早くクリアして起きてきてね。隣で添い寝してまってるわ。」


 そっ、添い寝?とんでもない事をいい放って彼女は監視体制に戻ったようだ。先生のオススメ?誰の事だ?聞きたい事はたくさんあるが、それはコレを終わらせてからしかないようだ。


「それじゃ行こうかジョセフィーヌ。」


『ジョセフィーヌ言うなー!!』


 本当にこの名前が嫌なようだ。首をフルフルさせている姿が可愛くもあるので、そのままジョセフィーヌと呼びたい気持ちもあるのだが仕方ない。


「わかった、わかった。じゃあコンのままでいいのか?」


『しゃーないな、それで勘弁したるわ。ワイが成長して世界を征服した際には【奴隷1号】の称号をお前にやろう。』


「誰が奴隷1号だ!俺の名前はタクト…一ノ瀬タクトだ。」


『言いにくい、イチノセタクト言いにくい!間とってイチゴーでいいやろ。ワイにも名前つけさせてや。』


 どこが間を取ってるのか?ワガママな子供のようになったコンをなだめるのが面倒になった僕は仕方なくその呼び方を受諾した。


 それにしてもか…。あの女が言っていた、会話してるのは初めてだって。コンもベル君と会った時の僕と同じだったのかもしれない。寂しくて、誰かとしゃべりたい。でも怖くて、無視されたら辛くて。そんな昔の自分と同じ感情を僕はなんとなく感じ取っていたのかもしれない。


 そんな事を考えながら左側の道幅の広い道を歩き始めた。あの女が右の道と言ったので単純に左回りの道を選んだのだが…何か引っかかる。幅の広い道と狭い道…普通に考えれば広い道が罠だ。だが、あの女は右側の道と言った。


 右回りの道は間違いなく罠があるのだろう。…ただ、左側の道は誰も安全とは言ってない。僕があの女の言った事から想像しただけだ。歩みを止めきびすを返して戻ろうとした瞬間足元の地面が消失した。


 ふわっと浮いた感覚とともに足元の地面が崩れて消失した。穴は暗く闇が充満しておりどれだけの深さがあるのか全くわからない。まさに奈落というやつだ。不安感から道を戻ろうときびすを返したのが功をそうした。コンをまだ崩れていない道の上に放り投げるとそのまま伸ばした手で崖の崩れ残った部分に辛うじて掴まった。


 しかし、つかまっているのが精一杯だ。足場が悪く這い上がれそうにない。つかまっている岩も下手に力を入れると崩れてしまいそうで、力まかせに登る事も出来そうにない。


「万事休す…でも、まぁいいか。」


 あの女が言う通りこれが何らかのテストであればまさか死ぬような事にはならないだろう。


『アホかー!イチゴー勝手に諦めんな!精神に受けるダメージは肉体にも影響するんや!魂が生きる事を諦めると肉体も生きる事を諦める。あがけや!』


 あははは…19年も生きてきてコギツネに説教されるとは思わなかった。いままでの人生、いつも諦めて逃げて生きてきた。それが楽だったから。自分を殺して…殺して…殺して……僕の心は流され生きる事に馴れてしまい、本当の意味では死んでいたのかもしれない。


 目の前にある何かを手に入れようとするとき人は手を伸ばす。そこに可能性が生まれる。だが、手を伸ばさない者は言い訳と後悔が残るだけなのだ。諦めばかりの自分を変えて、世話になった孤児院を助ける手助けがしたかった。


 そのために分不相応な一流企業を目指したのではなかったのか?またここでも諦めるのか?自分を変えるならいつ変えるのか?


「くそギツネ、言われるまでもなく、あがいてやるよ!」


 何かを手に入れたいなら手を伸ばせ!そう心と体に鼓舞して右手に力を込める。崩れた地面から飛び出した太い根のような物にギリギリ左手が掛かる。つかむ前に右手の岩が崩れ落ちる。くそっ、だめかっ!バランスを崩し空を切った左手に何かが触れる。


『掴めやイチゴー!』


 壁面に生えていた植物の蔦を体に巻き付けたコンが胸に飛び込んでくる。左手に触れた蔦を握りしめ、右手でコンを抱えつつ右手ででも蔦を掴む。僕の体重で蔦が壁面から剥がれ左に向かって振り子のように振り飛ばされる。そのまま振り飛ばされると思いきや、何も無いはずの空間にしこたま叩き付けられた。


「くはっっ!!」


 思わず痛みで喉から声が漏れる。叩き付けられた空間は何かあるようには見えなかったのだが、そこにはかなり凹凸おうとつのある岩壁がいきなり出現していた。


 薄暗く視界の悪い中、なんとか壁にしがみつき、手触りの感触を頼りに足場を確保しつつよじ登る。コンを先に上まで押し上げると続いて自分も上まで這い上がる。僕のいる場所は道からほど近い部分だが間違いなく穴の上だった。


「ふぅん…何も無いように見えたのに…周りの色合いになじんで見え難くなってるのか。トリックアートかよ。」


 ホッとしたのか深いため息が漏れる。すぐそばにコンはいた。そっぽを向いて横目でチラチラとこちらの様子をうかがっているようだ。


「ありがとうな、コン。本当に助かったよ。」


 僕は素直に感謝の言葉を口にした。コンは顔を真っ赤にするとクルクルとその場で回り始めた。ひとしきりジタバタすると、こちらをにらみ付けながらこう言った。


『バーカ、バーカ…お前なんかどーなろうと知ったことあるかい!…ただ、ただな、もしお前がいなくなったら、ワイが世界を征服した時に人間の奴隷が2号からになってまうやろ。2号からて…カッコ悪ぅー。ものスゴーカッコ悪ぅー。そやから仕方なくや。』


 照れ隠しのために今必死に理由を考えたのだろう。僕はコンの頭を軽く撫でるともう一度【ありがとう】と言った。


 それにしてもコンには何か特殊な能力があるのだろうけど、コギツネのくせに世界征服!世界征服!…ってこいつの脳ミソはアニメ脳か?


 ふと、シオカワグループの集団面接の時の失敗を思い出してちょっと笑ってしまう。入社試験の自己採点は上々だった。日をおいて行われた集団面接の席で美人の幽霊になぜか惑わされ、面接官の将来への展望についての質問に【世界…征服です。】と答えてしまった。


 その場の凍りついた空気と他の受験者達のドン引き具合が今思い出しても恥ずかしい。その後は何を聞かれてもシドロモドロとなり、完璧に落ちた…と肩を落として帰途についたのだ。


 それが良く受かったものだと喜んだけど……。現在のこの状況を考えると本当に良かったのかはとても疑問符だ。


 見えにくい足場を手で触りながら確認し、入口付近の道まで戻ると足元から乾いた砂のような土を掴み、正面の穴に向かってバラ撒いた。 先程まで何もなかった奈落のような穴の中央に土で描かれた道が現れた。


「この両側はし渡るべからず…一休さんかあの女は。」


 思わず愚痴がこぼれる。足元に土を撒き用心しながら進んでいく。穴の半分以上を越えて対岸の道が見え始めた頃それは起こり始めた。微細な振動が足元から伝わり始め、深淵より何かの吠えるような叫びと共にズシン…ズシン…と何かが這い上がって来るような音が闇の奥から響き渡ってくる。


「おいおい、ヤバイぞ。マジ、ヤバイ。」


 穴の底から吹き上げてくる妖気は今まで感じた事の無いレベルで、恐怖で身がすくんで動けなくなりそうだ。持っていた土を全て撒き、残りの道を一気にわたりきる。


 鳥の鳴くような吠えるような声と共に、丸太のようなサイズの巨大な指が穴の縁に掛かる。鳥の足のようなその手が強く穴の縁を掴み、呆然と立ち尽くす僕の前にソレの本体が姿を現した。


 ーつづくー


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