LOVER

 中川なかがわ先輩と、所謂『恋人』と呼ばれる間柄になってから一週間経つ。告白は、私から。


 ――と言うか、無理矢理させられた。中川先輩があんなに誘導尋問が上手いなんて、知らなかった。思い出して仄かに染まってしまう頬を両の掌で挟んで冷やし、私は息を吐いた。


眞子まこちゃん」


 途端、背後から張本人の声で名を呼ばれ、心臓が跳ねる。実際、身体も軽く跳ねてしまったようで、その声は少し笑った。


「どうした」


「中川先輩」


 振り返ると、私の好きなフレームレスの眼鏡が、理知的な光を見せていた。空いている隣のデスクにかけ、足を組む。


「な……何か?」


 どう答えたものか分からず、間の抜けた返事を返す。


 晴れて『恋人』同士になった訳だけど、それから一週間、接待や月末の諸経費清算などに追われ、何も『恋人』らしい事などしていなかった。手を握る事はおろか、二人きりの会話さえ。


 そう思って辺りを見回すと、皆外回りに出ていて、俯いて書類仕事をしている人が数人、遠巻きにいる程度だった。中川先輩は、一番乗りに帰ってきたのだ。


「用がなかったら、来ちゃ駄目か?」


「えっ……いいえ!」


 必要以上に力んで言ってしまうと、また楽しそうに声なく笑われた。たった今冷えたばかりの頬が、また熱を帯びる。掌の上で転がされているようで、少しだけ悔しくなった私は、上目遣いに中川先輩を睨み上げた。


「何だ、赤くなって。『まだ』何もしてないぞ」


「……何かするつもりなんですか」


「ああ。だからさっさと仕事終わらせてきた」


 言うやいなや、中川先輩は顎を傾け軽く触れるだけのキスをした。


「!?」


 椅子から落ちそうになるほど身を引いた私の腕をすんでの所で捕まえ、真っ赤になって口元を覆う私に、中側先輩は囁いた。


「今日、定時で上がれるか?」


「は、はい」


 混乱して質問に答えるのが精一杯の私の耳元に唇を寄せて、低音が甘く吹き込まれる。


「じゃ、初デートしないか」


 ギクリとした。中川先輩の手が早いという噂は嫌でも耳に入っていた為、『デート』が何を差すか想像してしまったから。思わず固まってしまっていると、中川先輩がデスクに置いてあった私のマグカップを手に取り、一口含んだ。


「安心しろ。『まだ』そこまでする気はないから」


 今度は優しく笑んで見詰められる。だけど、カップを戻すといつもの唇の端だけを上げる癖のある笑みを浮かべた。


「もしかしてファーストキスか? なら、先に間接キスの方が良かったかな」


「あ……」


 言われてみれば、間接キスだ。喉の奥の方に、言いたい事が沢山渦巻いたけど、結局出てきたのは一言だけだった。


「中川先輩……っ」


「初間接キスに、初キスに、初デート、いっぺんには無理か? お前の好きな店で奢ってやるぞ」


 その言葉に、緊張に強張っていた身体から、一気に力が抜けた。呑みに行くだけか……。そう思うと、安堵の吐息が漏れた。


「っはは、悪かった。最後までは、お前の気持ちが落ち着くまで待つけど、我慢しきれなくて。今度、いつ暇が出来るか分かんないし」


 そう言って、中川先輩は笑みをひとつ残して去っていった。カラカラに干からびた喉を潤そうと、自然にマグカップに口を付ける。しかしある事に気付いて中身を吹き出しそうになり、ようやく含んだ分を飲み込んだ。


「間接キス……!」


 呟くと、混乱の内に終わったファーストキスの事まで思い出し、私は今度は両掌で顔を覆って、熱が引くのを待たなければならなかった。デートに誘うなら、その時にキスすれば良いのに、と思って指の隙間からチラリと少し離れた中川先輩のデスクに視線を投げると、肩を揺らして笑いを噛み殺す姿が見えた。


 もう、中川先輩なんか……中川先輩なんか……!


 憤慨して、中川先輩のパソコンに、メールを送る。それには、大きな文字で、


『中川先輩の意地悪!』


 とだけ書いてやった。すぐに返信がくる。


『悪い。店は決めたか?』


 本心で詫びているとは思えない。私は、外回りからぽつりぽつりと帰って来はじめた他の人たちから顔色を気取られまいとデスクに伏して、心の内に呟いた。


 中川先輩なんか……中川先輩なんか……大好き。


End.

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