雨に七夕

「明日は七夕だから、晴れたらデートしましょう。雨だったら、逢わない。良いわね」


 保奈美ほなみさんのマンションからの帰りがけにそう言われて、俺は晴れ乞いをせずにいられなかった。保奈美さんの方からデートの申し込みなんて、初めてだったからだ。


「約束ですか?」


 思わず言葉を重ねた俺に、保奈美さんは悪戯っぽく微笑んだ。


「……約束よ」


 そう言って、小指を絡ませてくる。凄絶に色っぽかった。俺は火照る身体を持て余して、帰路についた。


    *    *    *


 翌日。俺は起き出して、窓を開ける前からしとしとと音を立てている雨を見上げて、恨めしそうな声を上げた。


「雨かよ……」


 軒先には、テッシュペーパーで作った『てるてる坊主』が、しょぼくれて濡れていた。


 保奈美さんは有言実行だ。雨となったら、今日はデートはおろか一緒に帰ってもくれないだろう。俺は彦星よりもガックリと肩を落として、会社に向かった。


岡田おかだ先輩、どうしたんですか」


 よほど残念の色が顔に出ていたのか、課の入り口にいた後輩の高橋たかはしが声をかけてくる。


「フラれたって所だ」


「岡田先輩、最近合コン来ないと思ったら、彼女作ってたんですか!?」


 しまった。口が滑った。


「ああ、いや。片想いだけどな」


 俺はごにょごにょと不明瞭に言葉を紡いで、誤魔化す。


「岡田先輩に靡かないコなんて、いるんですね。じゃあ久しぶりに、合コン来ませんか? 頭数足りないんですよ」


 浮気をするつもりはなかったが、気晴らしにはなると思った。


「そうだな……人数足りないんなら、協力してやっても良いな」


「フラれたコの事なんて忘れて、いつものように楽しんでくださいよ」


 高橋は手帳を開いて、俺の名前を書き入れた。合コンに関しては、マメな男だった。


     *    *    *


 少し遅れて居酒屋の一角に集う男女の席に加わって、俺は蒼くなっていた。何故なら女性陣の中に、保奈美さんがいたからだ。自己紹介はもう済んでいるようで、保奈美さんは社交的な性格を発揮して、高橋と共に会話の中心にいた。


「岡田くん、何ぼーっとしてるの? 一杯目、何呑む?」


 そう、俺を惚けさせている張本人が言ってきて、ハッと我を取り戻す。昨日小指を絡めた時とは別人のように、保奈美さんは爽やかに、スマートに俺の分の水割りを頼んでくれた。


「乾杯」


「……保奈美さん。こんなトコで何やってるんですか」


 耳元で囁くと、保奈美さんは屈託なく微笑んだ。


「合コンよ。貴方が参加するって、高橋くんが教えてくれたから」


「保奈美さん、その……浮気するつもりはないんです。ただ、雨降ってたから、ちょっと呑もうと思っただけで」


 クスリと保奈美さんは漏らした。赤い唇に、二人きりの時に見せるような妖艶さが漂いだしていた。


「確かに今日は雨ね。約束したから、デートはしない。……でも、それとは別に口説かれたら、どうなるかは分からないわ」


「え?」


 一瞬聞き返した俺から目を逸らし、保奈美さんは二杯目を注文した。けして酒に弱い訳ではなかったが、保奈美さんがこんなに積極的に呑むのは珍しかった。


「保奈美さん……」


 赤ワインのグラスを傾けながら、保奈美さんが色を含んだ瞳で見上げてくる。モラルの塊みたいな保奈美さんを口説くのは大変だった。毎日マンションまで送って帰り、部屋にあげて貰えるようになるまで、三ヶ月かかった。だが一度身体を許した保奈美さんは、サナギから蝶が羽化するように艶めいて、俺の気持ちを千々に乱れさせた。


「……誰よりも、何よりも、愛してる。欠ける月に誓うのが不実なら、星に誓います。季節ごとに星は位置を変えるけど、変わりなく輝き続けるから。そんな風に、俺はいつでも何処にいても、保奈美さんを愛し続けると誓います」


 保奈美さんは、一度ゆっくりと瞬いた。


「……合格よ。岡田くん、どうせ傘持ってないんでしょう。私の部屋までいらっしゃい。傘を貸して帰るか、泊まっていくかは、またその時」


 俺は心の中で大きくガッツポーズをした。保奈美さんの瞳の奥に点った炎はチロチロと舌を吐いて、もう帰さないと言っていた。だが合格点を貰わなくてはいけない。


「すまない。野暮用を思い出した。傘持ってないから、守口もりぐち主任と途中まで帰るわ。また今度」


「じゃあ高橋くん、誘ってくれてありがとう」


 一同の残念そうな溜息を背中に聞きながら、俺と保奈美さんは居酒屋を出た。ひとつの傘に寄り添って、俺は取って置きの甘い口説き文句を考えていた。


End.

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