はちみつの甘い誘惑

「おなか減った……」


 事の起こりは、希美のぞみのこの一言だった。もう一緒にシャワーを浴び終え、今まさにベッドへ入ろうという時だった。ぐー、と鳴った希美の腹が、言葉をしかと裏付けている。


 デスクワークの多い希美だったが、今日は珍しく外回りに出たからだろう。明日も朝から営業の予定だった為、早々に寝てしまおうとしていた時だった。この上もなく間が悪い。


「マジかよ、希美」


 冷蔵庫に、すぐに食べられるものはない。これから優治ゆうじが作る羽目になるのだ。希美は、仕事に関しては社内で一二を争うほど優秀だったが、こと料理に関しては、一生懸命なのだが、塩と砂糖を間違えるなど苦手分野だったので、暗黙の内に優治が料理係となっていた。


「うん、ごめん……」


 申し訳なさそうに腹をさする希美だったが、こればかりは、いくら謝ってもどうにもならない。優治は僅かに笑みを見せ、勝手知ったる希美のキッチンへと背を向けた。


*    *    *


「ほらよ。これで勘弁してくれ」


 ちょこんとテーブルに着いて、所在なく待っていた希美の前に差し出されたのは、パンケーキだった。薄く焼かれたものが、幾層か重なっている。飲み物は、眠れなくならないようにと、ノンカフェインのハーヴティー。十五分で誂えたにしては、上出来だろう。


「あ、あたしパンケーキ好き!」


 簡素過ぎて作った事がなかったが、それは優治にも嬉しい事実だった。


「そうか。あ、ちょっと待て」


 ナイフとフォークを両手に持ち、待ちきれないといった風な希美に、だが優治が『お預け』をした。しかし希美が不服を唱える間もなく、すぐに戻ってくる。手には、コーヒーミルク用の小さなポット。


「これかけた方が美味いだろ?」


 その中には、黄金色の半透明な液体が満たされていた。香りでそれと知れ、希美の食欲をそそる。


「はちみつ!」


「当たり」


「いただきます!」


 たっぷりとはちみつをかけ、希美は余ほど腹が減っていたのか、それだけ言うとパンケーキにナイフを入れ、黙々と平らげ始めた。水分を補給するのも忘れ、途中少し喉につかえて、優治に笑われたほどだ。ぽんぽんと軽く背を叩いてやりながら、優治は肩を揺らす。


「飯は逃げないから、ゆっくり食え。作りがいのある奴だな」


「ケホッ……だって、美味しくて。喫茶店で出てくるパンケーキの味ね!」


「溶かしバターを混ぜてあるからな」


「優治、凄い!」


 十五分で用意された軽食は、五分で希美の腹に収まった。食欲が満たされ、希美は満足の息をつく。


「ごちそうさまでした」


「ああ」


「後片付けは、あたしがやるよ」


 希美は、食器を一纏めにしてキッチンへ運ぼうと、立ち上がった。


「あっ……」


 が、皿の上に乗せていたミルクポットが、床に落ちた。流れ出したはちみつが、希美のパジャマの胸元から、内に滴る。やはり、仕事以外では、この轍を踏む事が多い。


「ご、ごめ……」


 泣きそうな表情になった希美だが、優治は、ピンとくるものがあったようだ。床まではちみつが広がり、動けずにいる希美から食器を受け取ると、素早くキッチンへと運ぶ。


「せっかくシャワー浴びたのに……」


「心配ない。君は、じっとしてろ」


 言うと、希美のパジャマのボタンを二つ外す。素肌に黄金色の筋が、てらてらと光っていた。


「またシャワー浴びないと……ぁっ」


 希美のぼやきを、優治の舌が封じた。


「ちょ……優治! 何するの!」


「シャワーの代わり」


 希美のくっきり浮いた鎖骨に舌を這わせながら、器用に喋る。


「やっ……明日、早いの、にっ……」


「安心しろ。はちみつがなくなったら、大人しく寝るから」


 確信犯的に、優治が囁いた。はちみつは、床まで伝っている。動けない希美のパジャマの下にも手をかけながら、優治は含み笑った。


「もっとも、君が我慢出来ないっていうなら、話は別だけどな」


End.

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