第6話 シーボルト館を彷徨う魂魄

第7話 虹


「九月末頃、タクシーでこの場所に差しかかった時のことです。正午を過ぎたばかりだと言うのに、厚い雲が空を覆い夕暮れのように薄暗かったのですが、突然、雨粒も大きい、滝のようなどしゃ降りの雨が襲って来た」

 ドライバーは市内の中心街に近いシーボルト通りの北側の切れ目で車を止めた。

 南側は狭い通りであるが、全路面が近代風のタイルで綺麗に舗装されていて、終日、車両侵入禁止になっている。一段高くなった歩行者専用道路に設置された橙色のS字形のベンチが一段と目を引いた。

 通りの両側に軒を連ねる小さな店の店先にオランダの国旗が飾られていた。

「あのコミニュニティバス停の隣の電柱の陰に隠れるようにして傘を差し、タクシーを拾おうとする二人づれの若い男女の姿を見掛けたのです。二人とも影は薄く、まるで雨に溶けてしまいそうでした」とタクシードライバーは一本の電柱を指差したながら説明した。

 彼の指先が示す先にコンクリートの電柱がひっそりと立っていた。

「二人の前に車を止め、扉を開けると、二人は先を争うようにして座席に滑り込んで来ました。その時、二人が仲たがいしていると直感しました。遠目で背の高い男女であることは見分けていましたが、白人であることまでは見分けることはできませんでした。もちろん国籍も解ろうはずもありません。映画スターのような美男美女ではなく、普通の顔付きをしています。透き通るような美しい青い瞳をしていましたが、残念なことに、その瞳は暗闇のように深く沈んでいるのです。二人が落ち着くのを待ち、片言の英語で聞きました。お客さんどちらまでと英語で質問しました」

「英語が話せるのですか」と私はタクシードライバーに聞いた。

「もちろんです。簡単な英語ぐらい話せます。長崎の土地柄で外国人を乗せる機会も多いのでタクシードライバーと言えども、簡単な英語を話せなければ商売にならないのです。ウエア ル ユウ ワオント ゴーという具合に質問しました」

「言葉は二人に通じましたか」

 私はタクシードライバーに質問した。

「もちろん。どんな美しい言葉より気持ちです。気持ちがあれば通じるものです」と彼は答えた。

「女性が雨でも観光ができる場所へ言うので、おやすい御用と、『フフン』と軽く鼻で返事をし、自分の計画を二人に告げました。『メガネバシ、パークマルヤマ。ストリートシンチ。ダッチスロープ。・・・・』。どの場所も二人が車から降りずに楽しめる場所です」

 彼の気取った態度に私は思わず笑いを堪えた。

「雨の中でタクシーも止まらず、困っていた」と女性の方が説明したそうである。

「無理もないと思いました。二人は普通の人間には見えない存在なのです。もちろん雨のせいなどではありません。二人の影の薄さが原因です。私は女性を慰めました。『雨は止みます』。そして明るくなりかけた西の空をルームミラーで示すと、二人は同時に西の空を振り返えろうとしました。その時です、一瞬、二人は顔を見合わせましたが、すぐに顔を背け合ったのです。気きまずさ漂いました。この何気ない行為で私は二人が仲たがいをしていると確信したのです。そして取り繕うように言ったものです。

 『長崎は昔から雨が多い所です。情緒があって良いと皆様には好評です。でも、この時期のこんな大雨は珍しい』と

 それに対し、男性が『ニューヨークではこんなに激しい雨が降ることは珍しい』と答えました。

 その時、私は始めて二人がニューヨークからの客であると知ったのです。二人の声を始めて聞くのですが、とても懐かしい声でした。幼い頃の、遠い昔に聞いたことがあるような声です。胸が締め付けられるような、せつない想いをしたものです。私たち三人は前世で縁があったやも知れません」

 とタクシードライバーは、当時の様子を振り返った。

「シーボルト通りを出発すると、中島川に沿う道から人混みで賑わう春雨通りを走り、雨にくすぶる寂しい丸山公園、新地の中華街までゆっくりと走りました。

 途中の道々で長崎の風物や名物を案内しながら、私が体験した不思議な物語を話しました。眼鏡橋では原子爆弾で母子ともに犠牲になった女の幽霊と話す二人の老婆の物語、丸山公園では止むなく子供を手放さざる得なかった女性の悲しい物語を語りました。二人とも熱心に不思議な話を聞き入ってくれました。だが、まだ互いに顔を見合わせよともしません。仲たがいをしたままです。新地の中華街の西側の道で車を止め、街の歴史や隠れん坊お化けの話をしている時です。バックミラーをのぞき込むと、傘を折り畳みタクシーに駆け寄る男に気付いたのです。私は慌てました。乗車拒否だなどと騒がれる面倒には巻き込まれたくありません。後部座席に座る二人に何も告げずにタクシーを急発進させてしまったのです。二人は悲鳴を上げ、座席の背もたれに大きく仰け反りました。その瞬間です。二人とも互いに庇い合う動作をしたのです。この時に二人の態度に変化の兆しが現れたのです。二人は一瞬、互いに見つめ合いました。二人の瞳に少し輝きが戻ったように見えました。でも、すぐに元のかたくなな態度に戻ったのです。私は意を決し尋ねてみました。

 『失礼ですが、お二人は新婚旅行ですね』と。

 男性客は顔を窓の外を向けてしまいました。女性客も恥じらいながら顔を俯せ、膝頭を見て応えてくれました。

 『エエ。そうです』

 二人の反応に感動しました。映画などでは、ニューヨークの人々はドライで男女間のことも開放的で自由奔放だと思い込んでいたのです。私は二人の恥じらいを取り除こうと慰めたものです。

 『大丈夫です。みんな同じ道をたどるのです』と。この言葉に二人とも安心したようです」

 私は続けました。

 不思議な縁ですね。

 お客さんが立っていた、あの通りはシーボルト通りと呼ばれて、喧嘩をした恋人が仲直りしたいとか願う時に通ることで長崎では有名な話です。お二人は、そのことをご存じでしたか。

 声を揃えて二人は知らなかった答えたものですから説明しました。

 あそこの通りは、昔、シーボルトと言うオランダの偉い御医者と長崎出身のおたきと言う可憐な少女が逢瀬を楽しむために通い合った道なのです。

 それで最近では今でも十分幸せだが、まだ一層幸せになりたいと願う恋人たちまでが繰り出し、大変な賑わいなのです」

 タクシードライバーの話を聞きながら後部座席の私は鼻緒の付いた下駄の音を立てながら、おたきと言う若い娘はシーボルトに対する思いが一杯につまった風呂敷包みを胸に抱え、鳴滝から出島に通う姿を想像した。

「幸せの上に、まだ幸せを望むなんて欲張りな人たちですね」と女性は微笑みながら感想を漏らしたそうである。

 タクシードライバーの話に後部座席に座る私は聞き入った。彼は話を続けた。

「『お二人とも今日は思い切り欲張りになることです。もっともっと幸せを望むことです。神も二人を幸せをねたむ者が現れることは許さないはずです』と私が言う頃には、二人ともすっかりくつろいでいました。

 タクシーに乗り込んだ時にはギックシャックして見えましたが、その時には表情が緩み、互いに見つめ合う時にはかすかな笑みさえ浮かべるようになっていました。

 『お二人が、由来を知らずにあの場所に居たのなら、それこそ神の導きと言うものです。きっとお二人をますます幸せにしようと導いてくれたにちがいありません』

 二人は私の祝福の言葉を素直に受けてくれた。

新地の中華街からオランダ坂に向かいました。もちろんおんぶお化けの話もしました。そして鳴滝のシーボルト記念館では高野長英と言う歴史上偉人の話をしました。二人は私が語る不思議な話に聞き耳を立てていました。最後に坂本の外人墓地の前を通りかけた時にグラバーや彼の息子の物語をしました。

 その時、私の自分を責めてはいけないと言う言葉に二人が感動的な反応したことを見逃しませんでした。その時、二人の客の運命を悟ったのです。最後に永井記念館と如己堂を案内しました。

 如己堂には客に乞われても自分は入館しないようようにしています。理由は聞かないで下さい。だが、その日は特別です。日本語も理解できず、文字も読めない二人だけで入館させては心許なかったものですから、やむを得ず同行することにしたのです。

 二人にもハンカチを持参するように勧めます。どんな客でも、その記念館を出てタクシーに戻る時には、涙で目を真っ赤に腫らしています。羞恥心を和らげるために最初からハンカチを持参するように助言をするのです。

 入館し、ビデオが始まると思ったとおり、すぐに二人とも泣き始め顔を涙で崩してしまいました。

 記念館への出入りの時に、受付の老嬢は訝しげに私を見つめていました。無理もありません。私は背後を歩く二人に気遣いながら、涙を悟られぬように歩いているのですから、不自然な格好にならざる得ないのです。特に記念館を出るときには、涙と歪んだ顔を人に見られまいと顔の汗をタオルで拭き取る真似をし、「真珠じゃないのよ涙は。ウフフ」と言う歌謡曲を心の中で歌っていましから一層、おかしな格好にならざる得ません。後ろに続く二人も顔をグチャグチャにして泣いていました。外に出ると雨はすっかり止み、雲の隙間に透き通った青い秋の空が広がっていました。街路樹の木々も積もった埃を洗い落とし、青い木の葉も付着する水滴も太陽の光に輝いています。シーボルト通りで出会った時の暗く沈んでいた二人の青い瞳も雨で埃を落とした木々の葉のように美しく輝いているのです。あの如己堂での涙が二人の苦痛や煩悩のすべてを洗い流してくれたのです。

 タクシーに乗った二人は無邪気なもので涙でグチョグチョになった顔を互いに指差しながら、大声で笑い会っているのです。新妻の白い顔からは化粧も落ち、うす茶色のソバカスが浮き立っていたが、美しく輝いていました。座席から身を乗り出し、涙でしわくちゃになった私の顔までのぞき込み笑いの種にする始末で手に負えません。

 タクシーを拾おうとしたのでしょう。近付いてきた老女が車の中の私を覗き込み胸に十字のクルースを切り逃げ去って行くではありませんか。後部座席の二人の客の姿は見えないのですから仕様がありません。気が触れたと老女は私に同情したはずです。

 原爆記念公園にある平和祈念像の指先から天空に向かい七色の虹が架かっていました。

 別れの時間が迫ってきたのを悟りました。

 数時間の短い時を共に共有しただけでしたが、寂しを感じながら私は、彼らが帰る時が来たと直感したのです。


 タクシードライバーの言葉が止まった。物語に耳を傾けていた私は彼に話を続けさせようと言葉を挟んだ。

「二人は幽霊だったのですね。それもニューヨークから来た恋人か新婚夫婦の」と。

 彼は黙って頷き、言葉を続けた。

「そうです。九月十一日にニューヨークを襲った、あの忌まわしい同時爆破テローで犠牲になった方たちだったのです。二人が崩壊したビルの中で犠牲になったのか、ハイジャックされた飛行機の中で犠牲になったのかは定かではありません。でも二人の無念さは世界中をさまよった末に、長崎の上空に辿り着き、大地を覆う黒い雲となり、そしてあの激しい雨とともに地上に降り注いだのです。そして私は彼らをタクシーに乗せたのです」

 ここまでは私が想像したとおりであった。だが彼は、なおも言葉を続けた。

「私は二人が夢見て、はたせなかった場所を案内したことになったのです。これは偶然です。雨が降っているのでやむを得ず選んだコースですが、あるいは神や仏が仕組んだ仕業やも知れません。愛が漂う場所を選んで案内したのです。愛などと言う言葉は似合なければ、親を思う心、子を思う心、友を思う心を選んで案内したのです。

 きっと、あのテロに遭遇した時、二人は混乱や恐怖で我を忘れてしまい、愛する者を庇う気持ちさえ失っていたのです。それが二人が仲たがいをした理由です。哀れなことは二人とも、そのことで自分自身を責めていたのです。特に妻を守ることが出来なかったと男は自信を失い、ひどく苦しんでいました。そのような二人のことを世界の神々が哀れに思い、二人の魂を水滴にして激しい雨とともにシーボルト通りに降り下ろしたのです」

「出発点はシーボルト通りですか」

 私の質問に彼は、ふったび頷いた。

「神の思し召しで、そこに神が二人を使わしたのです。如己堂に着くまでの途中で私は知る限りの様々な愛の物語を話しました。それは二人の心を慰めるためです。そして自分自身を責めるのを止めさせるようとも話したのです。

 二人が互いに自分自身も相手もをも許すきっかけは小さな衝撃でした。新地の中華街での突然のタクシーの急発進した時です。二人はのけぞり合いながらも、本能的に互いに庇い合う行為をしたのです。互いに気付いたことでしょう。

 坂本の外人墓地では自分と父を責め続けるグラバーの息子の幽霊の話をしましたが、二人とも自分自身を責めることが神の意志に反する行為であることに気付いたはずです。

 長井記念館の前の小さく質素な木造の庵に着く頃には、二人とも自分を責める気持ちを捨て、すっかり生前の愛を取り戻していました。そこで二人は究極の夫婦愛や家族愛、人間愛を知ることになったのです。

 なにしろ、あの場所はテロより大きな犠牲を強いられた悪魔のような原子爆弾でさえ壊すことの出来なかった強く深い人間の愛が漂う場所だからです。

 二人は、そこで成熟した真の愛の姿を見た筈です。生きていればきっと成就できたはずの世界です」

 物語も終わりに近づいた断りながらもタクシードライバーは言葉を続けた。


「記念公園の広場に着き、後部座席を振り返った時に二人の姿は座席から消えてしまっていました。しっとり濡れたシートに暖かさだけが残っていました。夢物語だとは笑っても構いません。二人は手を取り合い、虹の橋を渡り天に登ったに違いないと信じています。仏教徒の私は自分流の方法で、心を込めてニューヨークから訪れて来た恋人たちの幸せな来世を祈りました。

 南無弘法大師。

 もし二人が天国に召されたなら長い旅路、二人に同行し、無事に辿りつき、永遠の幸せを得ることが出来るように手を尽くして下され。

 もし二人が御釈迦様の教えどおり輪廻の再び、この世に再生するなら、今度こそ、二人が完全な愛を育めるように、二人の道連れとなって下され」と。

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