第6話 シーボルト館を彷徨う魂魄

 稲妻も止んだ。

 激しい雷鳴の割には大雨は長く続かず、軒先で雨宿りをし、傘を開く必要もなかった。

 やがて雨は小降りになり、しとしと降った。

 軒先で雨宿りをしていた者たちも足早に家路を急ぎ始めた。

 夕闇の外灯に道端のアジサイの華は輝いている。まるで水を吸い生き返ったようである。

 アスファルト道も濡れそぼって沈んでいる。タクシードライバーが、どしゃ降りの大雨の中でニューヨークからの観光客を拾ったと言う十字路も通り過ぎた。

 私は彼から頼まれたことをやり遂げるために鳴滝の塾へのシーボルト通りを急いだ。

「噂から想像すると高野長英の亡霊でなかろうか」と彼は説明した。

「今頃になってあの周辺に彼が姿を現わすようになった理由が理解出来ない」

「最近の世相に物を申すために姿を現わしているのではあるまいか」と私は感想を述べた。

「いやシーボルトの亡霊やも知れぬ」と彼は疑問をはさんだ。

 もちろんタクシードライバーと私が二人で語り合うことは憶測の域を出ない。

 高野長英は幕末の有名な蘭学医、蘭学者であった。彼は江戸時代の末の言論弾圧とも言える蛮社の獄で無実の罪のまま、悲劇的な人生を送った人物である。シーボルトは蘭学の普及を通じて日本の近代に多大な影響を与えたオランダ人である。

 二人ともこの世に未練を残したことがあったはずである。

「個人的には、長英に会いたい」と告白すると、」タクシードライバーは苦笑した。

 いずれにしろ、その物の怪の正体を知りたかった。

 先の中華街で「隠れん坊お化け」で爆心地で人間が溶け合い球形の肉団子になった恐ろしい姿を見ることができて以来、真言宗の僧侶でもあるタクシードライバーが、惨いことを見ても耐えることが出来るようになったと私を認めてくれるようになった。

「その亡霊の主が高野長英であるなら、二人でも太刀打ちできないことも起こりえ得る。面倒なことにならねばよいが」とそのタクシードライバーも危惧しながら、彼は深入りをするなと私に忠告をし、見送った。

 

 シーボルト記念館は鳴滝と言う谷に挟まれた長崎でも奥の位置にする。

 江戸時代も末期、シーボルトは幕府から出島を離れ、そこに塾生を集めて西洋医学を伝授することを許されたのである。

 長英もその塾生であった。彼は三年の間、そこに逗留し蘭学を学んだ。

 若い頃の楽しい思い出が、そこに彼を呼び寄せているのでは私は想像した。

「長英に会えるだろうか」と言う不安を感じながらも、小川ぞいの細い道に沿い、シーボルト記念館へ急いだ。

 木々がうっそうと茂り、空き地を覆っている。西側には傾斜の急な緑濃い山が控えている。昼間でも薄暗い場所で亡霊が徘徊しそうな雰囲気が漂っている。

 広場の中央にシーボルトの胸像が立っていた。その空き地に隣接する赤い煉瓦造りの二階建て洋館が建っているが記念館であるが、すでに閉館し明かりも消えていた。

 その頃には身体にまとわりつく霧雨のような雨は止み、薄暗くなっていた。

 月夜である。

 薄い雲を透かして、ぼんやりと月明かりがもれている。

 風が吹き木の葉の水滴が一斉に地面に落ち音を立てた。記念館の前の細い道を通り過ぎる人も絶えた。シーボルトの胸像の土台に腰を掛け待った。

 一人で時が経つのを待つと、タクシドライバーがピストル自殺で命を絶ったグラバーの息子の魂を外人墓地で待った時の心境を思い浮かべていた。

 はたして現れてくれるだろうか。まだ自分の霊感も完全ではない。そのような自分に彼の魂を感じることが出来るだろうかと不安でもあった。

 彼がこの世をさまよう理由は彼から聞くしかない。そして、その妄念から彼を解き放つことで成仏させ救ってやるのである。その頃には、波乱に富んだ人生を根拠にして、物の怪の正体は高野長英の魂にちがいないと堅く信じていた。

 虫の声がする。

 風が止んだ。

 木々の葉から落ちる雨だれの音も絶えた。

 周囲には濃いモヤが立ち込めている。

 藪の中に濃いモヤが生まれた。それは一つの塊になり、大気の動きとは独立し、動き始めた。そしてやがて人影になった。

 その人影が私に近付いて来た。

 誰かと問い掛けた。

「高野長英と申す。東北の水沢の者だ」と答えが返ってきた。

 予想とおりの回答である。

「安らかに休むことが出来ないのか」

 彼自身は自らが神のごとく崇められる存在となっていることを知らないやも知れないと思い、言葉を続けた。

「偉人として尊敬されている。成仏せずにさまよわねばならない理由があるのか」と尋ねた。

「死後の評価など意味はない。この世に残した家族の行方を知りたい」

 悲劇的な生涯を送った者の魂を慰めるために後世の人は神として祭るが、言い訳に過ぎない行為のようである。

「妻と三名の子供の行方が知りたい。長女は十歳、次女は生まれて一ヶ月と間もない」と彼は繰り返した。

 ここに来るまで私は自分なりに簡単に彼の歩んだ人生を整理していた。

 長英は一九〇四年に東北の仙台藩で生まれた。一九二五年、二十三歳の時、シーボルトを慕い長崎に訪ねて来て、以後三年間をここ鳴滝の塾で蘭学を学ぶのである。

 その後、彼は江戸に戻り蘭学者、蘭学医として生計を立て始めたのだが、三十七歳の時、蛮社の獄で捕らえられてしまう。しかし四十歳になる時、閉じこめられた牢の火災で一時釈放されたが、彼は牢に戻らず逃亡生活を始めるのである。

 一八三九年から始まる蛮社の獄は江戸時代の末に起きた言論弾圧であり、学問に対する弾圧だった。彼は、渡辺崋山たちとともに名を連ねている。

 当時、すでに日本周辺の海には外国船が現れている。隣国の中国で阿片戦争が始まるのは、翌年の一九四〇年のことである。この頃から鎖国制度は揺らぎ始め、同時に江戸幕府も揺れ始めるのである。そして尊皇攘夷運動から明治維新へとつながる大きなうねりの始まりだった。

 長英の人生を狂わすことになった蛮社の獄について述べよう。

 蛮社の獄は鳥居耀蔵と言う、蘭学に恨みを持つ人物による仕業だと言われている。彼は儒教を伝える林家の四男として生まれたが、二十五歳で鳥居家の養子になっている。もともと蘭学と言う新しい学問を排斥する素地は十分にあったと言えよう。一八三八年江戸湾巡視調査の正使となったが、蘭学を学んだ福使の江川英龍と言う人物に劣る報告書しか提出できずに恥をかき、そのことで翌年の蛮社の獄を起こしたと言われている。

 蛮社の獄で渡辺華山・高野長英などの蘭学・洋学派の弾圧した。当時の幕府為政者における英明・進歩派、果ては情実家・常識人と言われる人々のほとんどを讒言、誹謗、探索の策謀によって排除しようとしたのである。

 この蛮社の獄は奇妙な事件から始まっている。ある僧侶が無人島渡航をしたいと幕府に申し出た。蘭学者を憎む彼はその僧侶が長英ら蘭学者の一味で、長英らも一緒に鎖国を破り、海外渡航を企てているとねつぞうし、捜索を始めたのである。この無人島渡航計画と長英ら蘭学者グループとは一切関係ないと疑いはすぐに晴れたが、幕吏たちは長英の文机の底にあった「夢物語」を捜し出し、その本が世間を騒がせたと言う理由で彼を捕らえ、終身刑を申し渡したのである。

 夢物語とは蛮社の獄に先立つ二年前の一八三七年に日本人漂流民を届けるために浦賀沖に来航したアメリカ船モリソン号を幕府が砲撃したことに対し、それが国際情勢を無視した処置であると夢の場を借りて書いた長英の小説である。終身刑を申し渡された後、恩赦でも彼の罪は軽減されず、牢獄に捕らわれたままであった。絶望した長英は牢の火事に乗じて脱獄し全国を逃げ延びたのである。

 幕吏としての鳥居耀蔵の罪を列挙すると大きく次のとおりになると言われている。

 大阪で一九三七年に民衆の困窮を訴えようと乱を起こした大塩平八郎の義を曲解して判決文を上奏した。大塩は養子の妻と肉体関係があったなどと、でっちあげて大塩の世直しに対する真意を闇に封じ込めようとしたのである。

およそ公的な人物が行うことではない。

 一九四一年から水野忠邦が本格的に幕府財政の建て直しのために天保の改革を行ったが、彼の残酷な仕打ちが民衆の反感を買い、改革は失敗したとも言われている。

 彼は南町奉行となっていたが、演劇や出版を厳しく取り締まり、生活の奢侈を禁止し、幕吏である同心なども囮や罠を用いて取り締まり、民衆の風俗・衣食住等どぶ板の裏まで規制を実行したと伝えられている。

 有名な話として御禁制の絹を身に付けている言う嫌疑で町娘を衆目の前で裸にしたこともある。街中の者が彼を嫌い、妖怪と陰口で呼んだ。町人は彼の姿を見ると逃げるように姿を消したと言われている。

 一八四〇年から一八四二年のアヘン戦争で清国の敗北を知った水野忠邦は国防の火急を認識して高島四郎の西洋砲術による軍事改革を進めようとするが、この高島さえも失脚させようと彼は図ったと言われている。

 彼の所行に手を焼いた幕府は、一八四五年に四国丸亀藩へ預けられ、明治元年の一八六八年に解放されるまで二十三年間を幽閉されるのである。彼は幕府滅亡と明治政府のていたらくは自分の思う事を聞かないからだと言い、悪行の認識を持たなかったと言う。

 彼の存在が幕府の倒壊を早めた。その意味では彼も時代を造った一人だったやも知れない。

「狂人」だと評する者も存在する。

 関わった者たちはひっかけ回され、とんだ目に遭うことになるが、他人迷惑な人物は、いつの時代にも、あるいは、どこにでも存在するようである。


 この鳥居耀蔵が丸亀藩に幽閉されて五年後の一八四九年に四十五歳になった長英は、彼は顔を薬品で焼き人相を変え、名前も変え江戸の家族のもとに戻った。

 彼が江戸に戻るまでの六年間の足どりには不明な点が多い。薩摩藩や四国の宇和島藩の支援があったとも伝えられている。

 長英は蛮社の獄で捕らえられる前年の一九三九年に、ゆきと言う女性と所帯を持っている。蛮社の獄で捕らえられる直前に長女が生まれ、「もと」と名付けた。彼が江戸に戻った時、この乳飲み子も十歳になっていた。

 江戸に戻っての家族との平和な生活も長くは続かなかった。

 彼は幕吏に正体を見破られ、討ち入られたのである。捕らえらる直前に刃を首に当てたが死に切れず、戸板で番所に運ばれる途中に自ら舌を噛み切り、自害したと伝えられている。

 四十七歳の死であった。

 彼の死後、妻の「ゆき」と長女の「もと」、それに乳飲み子で名前もない次女は、牢に入れられたと伝えられている。

 後日、長女の「もと」は吉原に売られ娼妓となったが、一八五五年の安政二年十月の江戸大地震で死んだと伝えられているが、その真偽も定かでない。

 妻のゆきと生まれたばかりの乳飲み子の行方は分からない。

 執念深い幕吏は長英の死骸を塩付けし、辱めただけでなく、彼が生きた痕跡を一切消し去ろうとしたようにさえ見える。

これが私が知る高野長英の歩んだ人生である。

「悔しい。三年後にはペリーが率いる黒船が来航し、世の中も変わった。えん罪も晴れたやも知れなかった」とモヤの塊になった長英の魂は嘆いた。

 一八五三年の黒船の来航で幕府は長英が「夢物語」で予言したとおりの対応せざる得なくなった。


 ここで夜が白みかけ、モヤもかき消えた。

 私は自分が知ることを伝えることも出来ず、その場を辞した。

 翌日、タクシドライバーに話すと、「長英ほどの人物である。自らが煩悩の世界に迷い込まんでしまっていることとに気付かぬはずはあるまいが」と彼は述べた後、彼は続けた。

「彼もすべて承知した上、この世の未練を断ち切れずにさまよっているにちがいない。人間には自らの立場に気付きながらも、どうしようもないこともあるものだ。ならば教典をそらんじても、長英に引導を渡すことは出来まい」と言い、彼も頭を抱え込んだ。

「方法はないか」と彼に答えを求めた後に、「望みとおり家族の魂と会わせることはできないか。そうすれば、長英も成仏してくれるに違いないが」と、思わず私はこぼしてしまっていた。

「それは不可能だ。何しろこの世には無数の魂が漂っている。その中から長英の身内を捜すのは不可能だ」とタクシードライバーは断言した。

「それではこの世の惨さを彼の前で二人で論じ合ったらどうだ。生きることは残酷なことだ。むごいことだ。これこそこの世に命を受けた者が辿る運命であると。それを彼が承知したら、自己の運命を諦めてくれないか」と私は言った。

 人が互いに殺し合う戦争が絶えたこともない。六十年前は日本も戦争の真最中だった。それまでも日露戦争、日清戦争、幕末の動乱、戦国時代があった。

 動乱の中で庶民は翻弄され虫けらのよう殺された。肉親の生き別れなど日常茶飯事だ。家族で生活することはおろか、多くの者は天寿を全うすることも出来ず命を失った。

 それを常態だと思えば苦しむことはないのではない。二人でシーボルト館に彼が現れる時を見計らい、そのようなやり取りをしてみたら彼の慰めになるのではないかと私は言いたかったのである。

「ほかに方法はない。この世に命を授かった者がたどる運命は惨いものだ。生まれる時は母の胎内から出る苦しみを味わい。やがて煩悩で苦しみ、父母との別れに苦しみ、老いては病に苦しみ、最後は死の痛みで苦しむ。これには貴賤貧富の差もない。御釈迦様の言葉とおりすべて平等だ」と彼は仏教徒らしい解釈をし同意した。

 そして長英が現れる場で一か八か、二人でこのようなやりとりを演じてみようと言うことになった。もちろん声を出して論ずるのではない。互いに無言で心の中で論じるのである。長英が二人の思索の中に入り参加するもよし。二人の思索から新らたな世界観を得て、成仏できれば幸いである。このことを期待するだけである。せめて彼の慰めになることを期待するしかない。

 こうして翌日の夜、二人で長英の現れる場所に出掛けたのである。


 やはり深夜を過ぎた頃に、木立の周囲に漂うモヤが集まり長英の姿になった。

 タクシードライバーと私は目を閉じ、約束とおり深い思索を始めた。

 モヤが生き物のようにタクシドライバーと私の間を交互に行き来した。言わずと知れた長英の魂である。彼ほどの人物である。人生の真相に気付かぬはずはない。だが今、彼が背負う苦しみは彼自身にもどうしようもないのである。家族に会いたいという妄執に駆られているのである。この方法しかないのである。

 長英の霊は立ち去らなかった。

 それでは恨みか。

 タクシードライバーと私は、視点を変えて念じ続けた。

「鳥居耀蔵を恨んでいるのか。彼のような困った男はどこでも存在する。彼は世間から相手にされず死んだ」

 それでも彼は去らない。彼は往生できないのである。

「人と人の結びつきや情を否定する訳ではない。しかし所詮、人間は一人で生まれ、一人で死んで行くしかない」

 タクシドライバーも私も暗然とした気持ちになり互いに顔を見合わせた。二人でも彼を成仏させることが出来なかったのである。

 家族に会わせることが出来ないかと、諦めが付かず私はタクシードライバーの前で昨日と同じ言葉を繰り返した。

「魂は無数に彷徨っている。この中から長英の家族を特定するのは不可能だ」と。

 中華街をさまよう男の子に姿を消した母親を原爆記念公園で捜し与えたのは奇跡的な出来事だったのである。

 長英の魂が変じたモヤは去らない。

 二人とも暗然とした気分になった。

 見上げると、霞のような薄い雲の中に三日月が輝いている。

 あれから数年が経った。今でも長英は往生できず鳴滝塾の跡の周囲をさまよっているにちがいない。彼の魂を救うために読者諸君にも支援を願おうと思った訳である。

 他に打つ手もないのである。

 高野長英の家族の行方について心当たりの者がいたら連絡を頂きたい。心当たりのある者は、直接、鳴滝塾の跡地に出向いて心中で念じて頂いてもよい。

 今は、表現の自由も学問の自由もなかったころの物語である。

 彼の亡霊が世を恨み人に害をなす悪霊とならぬように願うだけである

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