第4話 トナカイ

 日本ではキツネなどが妖力を持つ生き物として人々に恐れられていたことは御承知でしょう。キツネだけではありません。身近にいる猫もタヌキもそうです。

 今日は、その類の話です。

 トナカイに導かれて、幸せに静かに息を引き取ることの出来たある婦人の物語ですとタクシードライバーは話ながらハンドルを握っていた。


ドライバーは人通りの多い観光通りを左折し、狭い路地に入った。

 小さな石造りの洋館があり、そばに黒い木造のカステラ屋があった。

「ここが、その話の舞台です」

 と言って、彼はタクシーを止めた。

 前には小さな公園があった。

「丸山公園です」

 彼が告げた。そこは町中の狭い公園だった。

 北側に小さな木立があり、滑り台とベンチがあるだけの公園だった。

狭い道路を隔てて、北側には花月と言う料亭があった。

 あの庭で勝海舟、坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文、五代友厚などの幕末の英雄たちが美しい芸枝たちと肩を組み滑稽に踊り、飲めや歌えのドンチャン騒ぎをする姿を見かけることもあるとタクシードライバーは言った。

 幕末の動乱期、血生臭い争いが続けられていた時代に、ここでは彼らも羽目を外していたようである。

 このことは何時の日か話す機会もあるでしょうと言い彼は話を元に戻した。


 その日は朝から寒い日で、空も薄暗く雪が降りそうな気配を感じました。

 タクシーを流していると南国では珍しいホワイトクリスマスになりそうだと言う天気予報を駅の中央広場にあるプラズマビジョンがが映し出していました。

 冷たい小雨が昼頃から降り始めました。

 人々を寒そうにすぼめて歩いています。

 駅で拾った幸せそうな若いカップルも、今にも降りそうな空を見上げながら、「今夜はホワイトクリスマスね」と言いながら乗り込んできたものです。

 二人を人通りの多い観光通りで降ろして、何気なく丸山公園の近くのカステラ屋に寄って見ようと思ったのです。そこのカステラは長崎で一番で美味しいという評判で駅に向かう前に立ち寄る観光客も多いのですが、流しのタクシーダライバーにとっては絶好の穴場なのです。

 その日はクリスマスイブでした。

 ケーキ代わりにカステラをという人がいても不思議ではないと思ったのです。そのような御客の自宅までの足代わりになることも期待できます。

丸山公園を一周して、そのカステラ屋の前に車を付けようとした時です。

 突然、鈍色の海に浮かぶ島のことを思い出したのです。

 軍艦島です。長崎半島の先端近くの沖に浮かぶ廃坑の島です。市内から二十キと離れておりません。端島と言うのが正式名称で以前は石炭の採掘のために多くの労働者が住んでいました。そのなごりの多くのコンクリートの建物が、まるで海面に軍艦の艦橋のように立っているのです。

 嵐の日などには、まるで波にけぶる軍艦に見えます。

 その日も私は、その風景を見ながら街にやって来たのですが、突然、閃光のようにその光景が脳裏に浮かび上がったのです。

 理由は明白です。これまでも幾度か、そのようなことはありました。固い殻に閉ざされた心を解放した時や、周囲に固い心の殻を破る強い思いを発する者が存在し、その思いを発している時に心の殻の隙間から、テレパシーのようにこの閃光に似た映像を送り込んでくることがあるのです。

 その時に私はそれを拾ってしまったのです。思いを発する本人を見きわめようと公園を見回しました。

憩いを求める労務者風の男たちが、それぞれの場所で休んでいます。その周囲に居着いた鳩が寒そうに集まっています。

 私の目はベンチに腰掛ける一人の女に釘付けになりました。彼女は私と同じ光景を見ていたのです。

 海に浮かぶ無人の軍艦島の光景は殺伐として寂しいものです。人は住まず建物は廃虚になり、荒れ果てています。でも彼女が見ている軍艦島はホンワリと気持ち良い暖かいものです。多くの家族が集い、やがて仕事から帰って来るはずの父親を待ちながら子供達が建物の陰で遊んでいます。

 彼女の思いは、まるで子供が公園で遊ぶ姿を見守る母親の視線のように柔らかく暖かいのです。

 彼女は三十代の前半のようでした。

 笑顔を忘れた顔は老けて見えました。

 長い苦労の生活で老けてしまったのです。

 生まれてからずっと笑顔にほど遠い人生を送ってきたようです。青い生気のない顔に、赤い口紅の色だけが目立ち、身に付けた服も見窄らしく、アンバランスな格好は奇妙な印象を受けました。

 私に気付いたのでしょうか、彼女は、慌てて心をかたくなに閉ざしてしまい、他人と干渉を許さない静寂の世界に戻ったのです。

その時、両手にプレゼントが一杯に詰め込まれた大きな袋を持つ老婦人がカステラ屋から出て来て、私に手を振ってくれたので、その女性のことが気にはなりましたが、仕事に戻りました。

 忙しい一日でした。

 雨は昼頃から小雪に変り、タクシーを求める客も増える一方で、気になっていたが、再び丸山公園の近くに立ちよることが出来たのは、夜遅くになっていました。そして、昼間に目にした哀れな女性の運命を乗客の買い物袋に忍んだ小さなガラス製のトナカイのオモチャを通じて、知ることになったのです。

  

 彼女は刑務所を出て以来、半年間、この日のために必死に働いてきたのです。でも報われることはなかったのです。唯一、得た物は彼女が必死に膝の上で握りしめる小さな小箱の中に包まれた物だけだった。

 時間が経つにつれ、寒さは厳しさを増してきます。強い寒気団が上空を覆い始めた。

「予報どおり雪になりそうね」

「いつ雪になるのかしら」

 そばの行き交う人々は、まるで上空に張り出した寒気団をの動きを楽しむかのような言葉を残し、過ぎ去って行く。

 その日、この公園で息子に会うことが出来ると彼女は信じ切っていた。

 小雨は白い粉雪に変り、夕方になると、いよいよ激しくなり、外灯の灯りの中で舞い始めた。

 目の前の石造りの交番の赤い灯だけが、白い世界の中で浮き立つように見えた。

「静子さん」

 突然、彼女の背中から呼びかける声がして、振り返ると、年を取った見知らぬガードマンが後ろに立っていたのです。

 不審に思い、名前を呼ばれても返事をしませんでした。

「隣に座るよ」

 ガードマンは返事を待たず、彼女の横に座ったのです。

「誰を待っているのかな」

 彼女は応えなかった。

「人生には色々なことがある」

 悪いことばかりだと彼女は反論したかったが、見知らぬ人と議論をする気もなく黙っていた。

「彼と出会った頃は、どうだったかな」

 その言葉に彼女は忘れたいた幸せな頃を思い出しかけた。

 彼と出会った頃は幸せで一杯だった。

 だが石炭産業の衰退とともに島の炭坑は廃坑になり、島を去った頃から歯車が狂い始めた。

「子供が産まれた時は」

「幸せだった」

 彼女は小さな声でささやいた。

「でも長くは続かなかった。男の心の傷が開いた。悲しい宿命が訪れるまで長い時間は必要はなかった。酒に溺れ、仕事をしなくなった。彼は息子を自分の子ではないとまで言い張るようになった」

 子供には泣いている姿を見せまいと隠れて泣いている静子に息子が近付いて来て、「ママ、涙の臭いがするよ」と言って抱きついた。

 

 息子が三才になった時、ついに酔っ払った男は息子に手をかけようとした。彼女は男の胸を刺した。男は苦しみながら病院で亡くなり、彼女は五年の刑期で服役した。刑務所を出て、半年したら息子に会えると言う約束で子供を養子に出すことに同意したのである。

 丁度、その日が約束の日だったのである。

 別れる時も、息子は「ママも僕も涙の臭いがする」と言って泣いていた。

「どうしても息子に会いたいのか」

 ガードマンは尋ねた。

 不思議に、この見知らぬ老いたガードマンを受け入れていた。

彼女は無言で、強くの膝の上の包みを握りしめながら、強く頭を縦に振った。

「会ってどうする」

 彼女は応えることは出来なかった。

「一目、会うだけで良いのか」

 彼女はうなづき、「ほかには何も望まない」と心の中で囁きながら、彼女はポケットの中の小さな包みを握り締めた。

 恥じらっているようにも見える彼女の表情を見て、ガードマンは微笑んだ。

 彼女自身も息子を幸せにすることが出来ないことは気付いていた。

 クリスマスイブである。いつの間にか公園には多くの人が集まっていた。ガードマンが少し離れた所に立つ中年の夫婦を指さした。

二人の間に八才ほどの男の子が立っていた。

 紛れなく成長し少年になった息子である。彼女には一目で分かった。

 彼女が悲しさで泣いていた時、近付いて来て、「涙の臭いがする」と言って慰めた息子である。デパートの紙袋を手に持ち息子は、老夫婦の間に立っていた。クリスマスプレゼントだろう。息子は幸せそうである。

「大きくなったわね。それに幸せそう」

 心の中で呟き、そばの男に顔を向けたが、彼の姿は掻き消されるように消えていた。

 あわててガードマンの姿を探そうと周囲を見回しても彼の姿をなかった。

 静子の耳にトナカイを捜さねば渡さねば捜さねばと言う彼の言葉が残った。

 メリクリスマスという声とともに、町中のサンタクロースが狭い公園に集まって来た。彼らの中でも絵本から抜け出したような本物そっくりのサンタクロースが彼女の横を通り過ぎる間際に、小さな声でメリクリスマスと彼女に呟いた。祈りや祝福を忘れていた彼女も恥じらいながら、小声でメリクリスマスと応えていた。

 雪は止まずに舞っている。

 赤や青の原色のこぶし大の光が、初夏のホタルのように彼女の周りを飛び回っていた。

 みんな幸せそうに、この光景を眺めていた。

 静子も彼の息子だった少年も、昼間、公園にたむろしていた労務者もである。

 サンタクロースの衣装を着けた大男が腕を振ると、つむじ風が起きた。

 彼女が膝の上で抱きしめていたトナカイの玩具の入った小さな包はつむじ風に巻き上げられ、息子が抱き抱える紙袋の中に滑り込んでしまった。一瞬の出来事で、彼女自身も気付かなかった。

 実は、それは、幼い頃、息子が欲しがっても買ってやれなかった親指大の小さな青く透けたガラスのトナカイの玩具が入っていた。その日、息子に渡そうと用意していたものだった。でも少年に成長し、デパートの大きな包みを抱える息子の姿を見た時、彼女は気後れしてしまって渡す勇気を失っていたのです。

「あの子に必要になる時が、必ずやってくる」とサンタクロースの衣装を着けた男は言った。

 クリスマスイブの夜の祭りは終わり、広場から人影も消えていた。

 静子は静かに雪の中に埋もれていった。

「ありがとう。神様。ほかに何も思い残すことはありません」とささやいていた。

 天気予報どおり雪は一晩中降り続けた。

 いつしか雪はうっすらと彼女の上に積もり、暖かい毛布のように彼女を包んでいた。


 タクシードライバーは、ここで話を終え、この話を入手した経緯を説明した。

 実は、その夜、再び観光通付近流していると裕福そうな中年の夫婦と少年の三名組を乗せた。彼らを乗せ走り出すや否や少年が大事に抱える買物袋の中から語り掛けて来る者がいたのです。あの女性が握りしめていた小さなガラス製の玩具に間違いありません。その玩具が、その夜、静子と言う女性に身に上に起きた出来事を伝えてくれたのです。それはまぎれもなく西洋の霊獣のトナカイです。


 タクシードライバーは下車する直前に中年の夫婦に啓示を与えた。それはサンタクロースが静子の手から小さな包みをつむじ風で奪い、少年が抱え込む紙袋に入れた時に呟いた言葉と同じ意味の言葉だった。

「買い物袋にトナカイの入った小さな包みが入っています。息子さんにとっては大事になる時が来ます。大事にして下さい」

 中年の夫婦は顔を不思議そうな顔を見合わせていたが、納得したように、すぐに顔を伏せてしまいました。


 雪は明け方まで降り続け、朝には街はすっかり白く雪化粧をしていた。

 新聞に丸山公園での凍死した女性が発見されたという小さな記事が出ていた。

 目の前の交番で勤務していた警察官たちは、気付かなかったことで叱責されたに違いない。だが私は世俗的なことには関知したくありません。所詮、見えない者には見えない世界です。

 黙して語らず。

 だが、きっと数年後に、あの幼い少年だけは気付いてくれるはずです。自分を深く愛していた人が、ほかに存在していたことを。そしてあの小さなトナカイの玩具が彼の人生の道しるべになってくれる日もあるはずです。

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