第3話 グラバーの息子

 タクシードライバーをしていますが、実は真言宗の坊主でもあると彼は告白した。

「以前は大会社の食堂で調理師をしていました。さばいた魚や獣の数は知れません。だから自分で自分は生臭坊主だと言い聞かせているのです。それに私が信仰する真言密教は加持祈祷を行うことも出来るのです。

 今日は、ある人物のことを話します。

 これまでに会ったの幽霊や物の怪も彼ほど苦しんではいませんでした。だから私は彼の魂を慰め、彼が成仏できるように助けてやりました」

 と彼は語り始めた。

 そしてタクシーを道路の両側に古い墓石が散在する墓地の前の舗道に止めた。

 坂本にある外人墓地の一帯である。

 そこは険しい山際にあり、彼が示したのは道路を挟んで西側の方の墓地だった。

 少し高い芝生の斜面の上に赤い煉瓦の壁があり、低い鉄の扉が半分開いていた。石の階段を登っていくと、木の陰に隠れるようにして大きな墓石があった。墓石と言うより、故人の業績をしのぶ記念碑に見える。

 グラバー一族が眠る墓地である。

 アクセルをふかした車が大きな排気音を残し、急な坂道を登って行った。

「最近では交通量も回復してきました。だが、あの噂が街中に広がった頃は、この通りは昼間でも閑散とし、周囲の民家も固く雨戸を締め切っていました。特に深夜に客を運ばねばならない同業者のタクシードライバーたちはこの通りを走ることを避けるようになっていたのです。私は彼らが怯えるのを放置できなかったのです。

 噂と言うのは軍服に似た厳めしい服に身を包んだ大男が、夜中に、この道を彷徨っていると言うものでした。それを聞いた時は、近くの山手にある陸軍墓地から流れて来た質の悪い物の怪の類ではないかと感じました。それで何とかしなければと決意し、ここで彼を待ったのです。それは厚い雲が低く垂れ下がり、今にも大雨になりそうな夏の夜のことでした」

 日が落ち、漆黒の暗闇が周囲を包み込んだ。外灯の灯だけがあたりを照らしている。ボンヤリと光り輝く外灯の周囲に無数の羽虫が飛び交っていた。蒸し暑い。だが深夜近くになると一人で佇む心細さも手伝い、寒さを感じるようになり震えが襲ってきた。日付けも変り、深夜の二時を過ぎた頃だった。周囲は静まり、睡魔に襲われ、ウトウトと居眠りを始めかけた頃であったらしい。

 予想だにしなかったことが起きたのです。背中に氷水を掛けられたような気配を感じ、背後に振り返ったのです。その瞬間、全身から血が引き、脳髄が痺れたようになり思考も止まりました。立っているのです。噂どおりカーキ色の長いコート、おそらく軍服だと思いますが、それを羽織った大男です。僧侶と言う職業柄、死体を見たり夜の墓地を見回ったりすることも多く、物の怪や幽霊を恐れたことはありません。お釈迦様の教えどおり、死者も生者も区別せず扱えるつもりでした。ところが彼は単純な物の怪や幽霊の類ではなかったです」

 タクシードライバーがその人物から受けた衝撃と恐怖はただごとではなかったことが想像出来た。

「一体、正体は何ですか。あるいは誰の幽霊だったのですか」

 タクシードライバーは私の質問に答えずに、言葉を続けた。

「彼の魂は成仏できず、この世とあの世の境をさまよっているのである。彼が背負う苦悩や絶望の深さゆえのことです。私も正体を見極めようと、目鼻立ちがはっきりした大男です。その時は赤い顔が鬼の面のようにも見えました。その時も噂どおり高台の方にある陸軍墓地から流れ下りてきた物の怪だと信じていました。だが、去れと祈祷して叶う相手ではないことは、彼が背後に立った瞬間に悟っていました。腰を抜かし祈祷をする余裕さえないと言う状況です」

 彼は我を忘れるという僧侶として最大の危機に瀕していた。祓おうとする物の怪に威圧されてしまうことは、祈とう師にとって最大の危機である。

「今思うと、それでよかったと思います。とまどう私に物の怪の方から言葉を掛けてきたのです。

 『私の姿が見えるのか。ここで何をしている』と問い掛けてきたのです」

 物の怪の言葉に、思わず固唾を飲み込み、やっとの思いでタクシードライバー答えたと言う。

「あなたを待っていた」と。

 物の怪はタクシードライバーに息がかかるほど近付き、彼の顔を覗き込んだ。そして怪訝な顔をして彼に質問した。

「君は誰だ」

「タクシードライバーは僧侶であると自己紹介をした。そしてあなたに毎晩、ここに姿を現わす理由を問い質したい。人々はあなたに脅えて、この道を夜中に通ることを避けるようになってしまった」

 この言葉に物の怪は意外な表情をした。

「人々が自分は怖がっていると言うのか」

「そうです」

 この答えに対する彼の反応も予想だにしなかった反応であった。

「今でも人々は自分を恐れているのか。憎んでいるのか。自分がこんなに深く悔やみ反省をしていると言うのに、まだ自分の存在が人々を苦しめているというのか」

 タクシードライバーは、その時も、目の前の物の怪が谷の上の陸軍墓地から流れて来た物の怪であると信じていた。この盲信が、タクシードライバーをうろたえさせ、事態を理解させなくしていた。

「あなた誰ですか」

 タクシードライバーは、意を決し物の怪に尋ねた。

「グラバーの息子だ。父は武器商人だったが、父も自分もこの国を愛していた」

 と物の怪は自己紹介をした。

 その時、始めてタクシードライバーは、この物の怪の正体を知ったのである。

「父の仕事は多くの批判を受ける武器商人と言う生業だった。だが明治の近代国家樹立に尽力し、人々の役に立ったと信じ切っていた。私も父の業績を誇りに思い、この国に尽くしてきたつもりである。ところが自分たちが企てた国造りが招いたものが、あの地獄絵さながらの戦争だった。あろうことか三百年の長い年月の間、江戸幕府の厳しい監視の目を潜り、密かにキリスト教を信奉し続けてきた者たちの子孫が住む地域の頭上に原子爆弾を落としてしまうとはと物の怪は叫び、理解出来なかった。何も信じることも出来ない。誰を恨めばいい。誰を責めればいいと身をよじり泣き叫んだ。彼が落ち着くまでしばらくの時間を要した。落ち着くと彼はタクシードライバーに尋ねてきた。

 人々は、今でも自分や父を恨みに思っているのか。すべてを歴史の皮肉と忘れ捨ててくれないのか」

 タクシードライバーは答えず黙っていた。むしろ彼の質問に答えることが出来なかったのである。

「世間には自分が気が触れてピストル自殺をした言う者もいるようだが」とグラバーの息子は言葉を続けた。

 彼は戦時中、軍隊から敵国のスパイだと嫌疑を受け、厳しい責め苦を受け、戦後、間もない頃に、ピストル自殺を遂げたはずである。彼が自殺した正確な原因は解らないが、戦時中のスパイ容疑で憲兵の厳しい取り調べを受けて、神経を病んだせいだとも伝えられている。

「助けくれ。理解も出来ず、解決もされず悩み、自分を責め続け、まるで暗い穴蔵に閉じこめられているようだった。死んだ方が楽だった。自ら命を絶つことが神の子キリストの教えに背く大罪であることも分かっていたが、どうしようもなかった。否、すでにあの時にはキリスト教さえ棄てていた。あの地獄絵の世界を目にした瞬間、あらゆる神を信じることが出来なくなっていた」

 彼の苦悩も理解できたが、彼が望むように彼を苦痛のどん底から救う回答など思い付くはずはなかった。

 彼の赤い顔に微かな微笑みが浮かんだ。

 私に悪意がなく味方だと彼も気付いてくれたようであった。

「神は本当に存在するのか。信仰の対象が異なるとは言え、信仰の世界を理解するものであろう。このように私の姿が見える君に私を苦悩の淵から救うことは出来ないか」

 その夜は、応えることが出来ず、自分の不勉強を後悔するしかなかった。


 鶏の啼き声でタクシードライバーは目を覚ました。夜も白みかけていた。昨夜低く垂れ下がっていた黒く厚い雲は西の空へ去っていた。結局は雨は降らなかった。

 その日から、グラバーの息子に質問に対する答えを探し求める日々が続いた。

 そして答えを探し得たと思った。

 ふたたびタクシードライバーが、そのグラバーの息子に会うべく彼の墓の前に出向いたのは一週間ほど後のことだった。

「この世を自分の思いとおりに変えたり、動かしたり出来る者はいない。彼の信じたキリストも私が信じる釈迦も出来なかった。あの地獄絵の世界を招いたのは自分ら一族のせいだと思い込み、自己を責めること自体が不遜なことだ」

 このような思いを彼はグラバーの息子の墓前で全身全霊を込めて念じた。最後に六十年前のあの地獄絵の世界から復興した長崎の街を見て欲しい。静かに見守って欲しいとも念じた。

 その後、グラバーの息子がさまよう姿を見掛けたという噂を耳にしたことはない。

 彼は、こう結び、この物語を語り終えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る