第2話 井戸端会議

 タクシードライバーは約束どおり夕方に迎えに来た。そしてそのまま眼鏡橋付近に車を進め、他の車の邪魔にならぬよう中島川の歩道に車を寄せて止めた。

「ほら、柳の木の下に、アイクリーム売りの屋台が二台、軒を並べたでしょう。こんなふうに小雨が降る時に、あの二人は店の軒を並べるのです。そしてある女がやって来るのを待つのですよ」

 青いトタン屋根と正面に氷菓子と刻んだ二台の古い屋台が、眼鏡橋の橋元の柳の木の下に雨宿りするように軒を並べていた。

なま暖かい露の雨がシトシト降っていた。

 深くしなる柳の木の枝から水滴が水溜まりに落ちていた。

 まだ暗くはないが、気の早い車はヘッドライトを付け始めていた。

 老婆は二人とも太っている。年の頃も同じで、すぐに見分け出来ぬほど似通っていた。

 雨が降っている。アイスクリームを買い求めるような客は多くないはずである。

 車と路面電車の騒音が町の静寂を破った。


「今夜は来そうね」

「そろそろ来るね」

 まるで雨が来ることを予想し会うような会話であるが、すでの小雨が降っている。二人の会話の意味が理解できずに、「誰を待っているのか」と前の席に座るタクシードライバーに聞いたが、彼は応えず二人の老婆を注視している。

「お客も来ないわね」

「彼女が帰ったら店を閉じることにしよう」

「あの現れ方は心臓に悪いよ」

「おだやかに姿を現わしてくれれば、何の不満もないのに」

 二人とも、まるで双子のように似ている。

 太っていて、背格好も着ている服も同じ服である。

「もうそろそろです。心から雑念を追い払い集中するのです。五感を整えるのです。特に耳を澄まして下さい。水たまりに落ちる水滴の音が聞こえるはずです」

 私はタクシードライバーの言葉に従った。

 柳の葉をなでる風の音としなる枝から水滴が水溜りに落ちるかすかな音が聞こえるようになった。水滴が空中で止まった。周囲の雑踏も停止した。まるで時の流れが止まったように見えた。車や路面電車の音だけが耳を響いた。

 そして、柳の枝から水溜まりに落ちる水滴の音が鼓膜に響いた。

 水滴は水溜まりに弾け、水面に輪を描いた。

 周囲は薄暗くなりかけていた。

 その瞬間である。

 柳の木の水溜りから霧のようなモヤが立ち上がったかと思うと、そのモヤは突然、女の姿に変わった。

「今晩は」

 突然の出現に二人の老婆は、後ろに仰け反るようにして驚いた。

 女幽霊は二人の驚きようを見て楽しそうに笑った。

 目の前の水溜まりから、突然二人の老婆の目の前に女が姿を現わしたのであるから、二人が驚くのも無理はない。

「あなた、もう少し、穏やかに姿を現すようにと、いつもお願いしているでしょう。心臓麻痺で私たちが死んだら、どうしてくれるの」

「大丈夫。大丈夫。お年寄りも、たまには血管と心臓に負担を掛けた方がいいのよ」

「余計なお世話よ。心臓だけでなく頭の血管も切れるわ」

 と二人の老婆は口を揃えて反論した。

「いいこと。昔から幽霊が現れる時には、決まった流れがあるのよ。例えば橋の向こう側で姿を現わして、ヒューと言う笛の音と、ドロドロンと言う太鼓の音に恐ろしさを高めた後に姿を現し、『恨めしいや』と唱えなが近付いて来るるものなよ」

 幽霊に姿の現し方を説教を始めた。

 どうやら一人の老婆が少し理屈ぽいらしい。よく見ると彼女の方が背が少し低い。

「あら、言ったわね。その言葉に従って、橋の向こう側から姿を現して眼鏡橋を渡って来たら似合わないと言って、二人で私を大笑いしたでしょう。あれは五十年前のことのはずよ」

「今年もまた、仕様もないことで喧嘩を始めた」と前の席に座るタクシードライバーが溜息をつきこぼした。

「彼女たちは前から会っているのですか」とタクシードライバーに確認した。

「先の女幽霊の言葉では五十年前から会っているようですね。私が彼女たちの姿を見掛けるようになってから十年は過ぎたでしょう。いつもこの時期になると女幽霊が姿を現し、三名で仕様もないことを喋り会い大騒ぎをするのですよ。まるで井戸端会議ですわ」

 柳の下の水溜まりから突然、姿を現した女幽霊の方の年は、三十歳くらいだろう。

 顔は青白く古い浴衣を羽織って、手足も気味悪く痩せて、青い血管が皮膚の下に透けて見える。

 やがて、二人の老婆も最初のショックから立ち直っていた。

「おたきさんは、いつまでも年を取らないわね」

 現れ方に文句を言った老婆ではない。少し背が高い老婆の方が、羨ましげに言った。

「それにいい女だよ」

 背の低い方の老婆である。

「おたき」とは言うのが女幽霊の名前らしい。

 もちろん老婆たちは、この女幽霊の素性も正体も知っていた。なにしろ三人とも同じ学年で机を並べた仲良しだったのである。

 眼鏡橋に女の幽霊が現れると言う噂が流れ始めた時から、その正体を知ろうと二人で相談し、橋の近くでアイスクリーム屋を始めたのである。

「息子は、まだ大きくならないの」

「あの世では成長が止まるのよ。私も昔のまま、あの子も昔のままよ」

 と言い、おたきは楽しそうに笑った。

 女は手を開き、大事に握りしめていた百円硬貨を三枚、差し出した。

「いつもの物でいいのね」

 老婆が尋ねると幽霊はコックリと頷いた。

「不思議に思っているのだけど、そのお金はどうやって手に入れているの」

 背の高い方の老婆の言葉である。

 二人とも彼女が差し出す百円硬貨を最初は偽物と思っていた。だが偶然に世間で通用することに気付いたのである。

「実は、ある人が置いてくれるのよ」

「男ね。また、いい男が出来たのね」

 二人の老婆が、一斉に若い娘のようにはしゃぎ始めた。

「違う。違う」

 無気になって、否定をする幽霊を弁護するように、背の高い老婆が表情を崩し慰めた。

「いいの、いいの。隠さなくて。あなたは若い。別嬪さんだから。張り合う気も、焼き餅を焼く気もないから」

 背の高い老婆である。

「でも羨ましい。あなたは子供を産むことができたのだから」

「二人ともスケベね」

 この言葉を聞いて背の高い老婆が騒ぎ出した。

「スケベだって、嫌らしい。おたきさんは本当に嫌らしい」と言う具合にである。

「最近ではスケベなんて言葉は使わないのよ。最近の若い人はHというのよ」

「スケベなんていやらしい言葉よね」

 と二人は顔を見合わせ声を揃えて、おたきと言う女幽霊をからかうのである。

 そしてけがわらしい物でも見るよう目の前のおたきを眺めている。

 おたきは、しばらく理解できずに立ちつくしている。

「からかうと化けて出るから」

 女幽霊のおたきもからかわれていることに気付いた。三人は傍を通り過ぎる人目を憚らず、声を揃え笑い転げた。

「でも、おたきさんの新しい彼氏とは、どんな人かしら。興味があるわね」

 と二人は華やいだ声を揃えた。

「ちょっと変わているけど、真面目なタクシーの運転手なの。この時期になると、いつも百円硬貨を置いていくのよ」と彼女は快活に打ち明けた。

 自分たちのほかにも、おたきの姿が見える人がいることで老婆たちは驚いた。

 三人を見守っていたタクシードライバーが怒って、やめろ、いくら生臭坊主の自分でも仏様を相手にはしないぞと小声で悲鳴を上げた。

 後ろの客席に座る私は、彼の悲鳴に笑いをこらえた。


 小粒の雨が中島川の川面に弾けていた。

 川面に赤や青の原色のネオンの灯りが幻想的に揺れていた。仕事帰りの男や買物客が笑い転げる二人を奇異な目で見ながら、足早に通り過ぎていった。近くを通る路面電車が警笛を鳴らし、静けさを破った。

「息子の火傷跡は大丈夫かい。苦しんではいないかい」

「少しずつ治っているわ。昔のように苦しんでいない。でもこの時期になると痛みを感じるようなの。アイスクリームを上げると喜ぶの。それでアイスクリームを買いに来るのよ」

 彼女と息子のサトルが爆心地の近くで被爆し、大やけどを負ったのは息子が四歳の時だった。哀れな子供を背負い、二人の友人に救いを求めて来たのであるが、その時には二人になす術もなかった。

 子供はアイスキャンディ、アイスキャンディと弱々しく、うめき声を上げながら息を引き取った。

 それを食べさせることすら出来なかったのである。

 彼女も半狂乱になり、すぐに息子の後を追った。

 二人の亡骸を、眼鏡橋の山手にある寺町のお寺に葬るのが、当時、若かった老婆たちにできる精一杯のことであった。

 

 再び、電車の警笛の音がした。

 三人は我に返ったようである。

「アラ、帰らなければ。息子が寂しがるわ」

「大事にするのだよ」

「お金は要らないから、来年も来るのよ」

「あんたたちこそ、早くこっちに来なさい」

「いやよ、まだ、この世に未練があるの」と二人は声を揃えて、騒いだ。

「いつまでもいたのでは、若い人が迷惑だよ」

「おあいにく様、みんな大事にしてくれます」

 二人の女と言い争いながら、女幽霊のオタキは、眼鏡橋の上をスーと滑るように去っていき、、霧に吸い込まれるように姿を消した。

「また、つまらないことで喧嘩をした」

 タクシードライバーは申し訳なさそうに謝った。

「まるで井戸端会議ですね。いつも現れるのですか」

 彼が確信を持って、この場所に私を案内をしてくれたことで、彼は彼女が現れることに自信を持っているに違いないと思ったから、そう聞いたのである。

「毎年、この時期に彼女は姿を現します。ただし雨が降る日を待たねばなりません」

 

 彼は、女幽霊の色男にされたことをも気にしているようだった。

 原爆が投下された直後、数え切れないほど女たちが悲痛な泣き声を上げ、町をさまよっていたにちがいない。いや悲鳴さえ聞こえなかったやも知れない。

 彼女は悲鳴をあげさまよった女の一人に過ぎない。あの地獄絵の世界。どんな表現力豊かな画家でもキャンパスに描ききれない地獄絵の世界、どんな優れた小説家でも文字では描ききれない地獄絵の世界だった。まだ六十年しか経たない頃の話である。

 いまだ、この世を徘徊する犠牲者達も多くいるはずである。

 彼らを幽霊、物の怪、妖怪、亡霊と呼ぶべきだろうか。思いつく適当な言葉もない。

 周囲を険しい山と海に囲まれた狭い長崎では、彼らは今でも同じ空間の中で自分たちと共存しているようにさえ見える。

 そのようなことをタクシードライバーは語った。

 私は前の席で語り続けるタクシードライバーに涙を見られないように顔を伏せていた。

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