雨の物語
夏海惺(広瀬勝郎)
第1話 おんぶお化け
「丁度、こんな夜でした」
とタクシードライバーは、思い出すことを言葉を選びながら後部座席に座る私に語り始めた。
フロントガラスのワイパーは動いているが、長崎湾で発生する濃く粒子の細かいモヤのせいで先が見えない夜だった。
こんな夜なら、噂の主も姿を現すかも知れないと期待し、肝試しの軽い気持ちでオランダ坂を越えてみようと決心した。
実は薄暗いオランダ坂を雨の夜に一人で歩いていると、背中からピチャピチャと小さな足音が追い掛けて来る。歩幅の狭い足音なので子供に間違いないらしいが気味が悪く誰も返ることが出来ずに、姿を見た者はないと言う不気味な噂だけが広がっていたと彼は付け加えた。
実は、館内の友人宅で少し酒を飲んでいた。
館内と言うのは町の名前で、古くから華僑が多く住む町である。そこから坂を越え大浦天守堂の麓にある石橋停留所まで長崎駅の方面へ行く電車に乗ろうと思ったのである。
夜中の十二時を過ぎた頃だった。
もちろん私以外に誰もいない。
町は静まりかえり、たまにオランダ坂下の大通りを走る車のヘッドライトの光が走っていた。
活水女子大の近くを過ぎた頃だった。
ピチャ、ピチャと濡れた石畳を叩くような間隔の短い足音が背中から追い掛けてきたのだ。
まさしく噂どおりの展開である。
心細さで身も凍る思いだった。
最初の決意も揺るぎかけていた。
私は実はと語り始め自己の職業を語り始めた。
「タクシードライバーをしておりますが、真言宗の僧侶です。真言宗はほかの仏教とは異なり加持祈祷も行い、この世の悪鬼や邪気を払うことも教えにあります。そんために修行は、厳しく何夜も一人で山中を歩くという厳しい修行もある。私は自信を失うまいと、ひたすら凡人ではないのだと自分自身を鼓舞しながら、背後を続く足音の恐怖に耐えた」
突然、背後の足音が止まった。
一層の静寂が暗闇を包んだ。
勇気を鼓舞して、背後を振り返りました。
「丁度、このあたりです。この辺りで振り返ったのです」
坂道を下りかける所でタクシードライバーは車止めて言った。
美しい夜景が霧雨の中に寂しく沈んでいる。目を凝らして外を見ると、灯りが消えた青や緑色の木造の洋館群が霧雨に濡れそぶり建っていた。東山手の洋館群と呼ばれる地域である。
タクシードライバーは、その道端に咲くアジサイの根本を指さした。
「あの場所に小さな童が背を丸めて、屈み込むように座っていたのです。年は四才ほどの男の子供でした。このような童が遅い時間に人気のない場所に一人で居るのかと、もちろん不思議に思った。でも童の可愛さに一気に疑問も心細さも先まで心を支配していた恐怖心は消え去ってしまってい」
私はタクシードライバーの言葉に眼鏡を外し、曇ったガラスを拭いて、かすかな外灯の明かりに照らされて咲き乱れる紫色のアジサイの花の根元に目を凝らした。もちろん、その夜は何も見えなかった。
タクシードライバーは私の真剣な反応に表情をゆるめて、今日は来てませんと言って話を続けた。
「坊やどうしたの」と、彼はかがみ込み、思わず声を掛けてしまった。
すると逆に童が不思議がって聞き返してきたそうである。
「おじさん、僕が見えるの」
不思議な聞くものだと思いながら、「もちろん見えるさ」とタクシードライバーは素直に応えた。
その頃には、タクシードライバーも、その童のことを物の怪の類などとは思いもしなくなっていた。
「疲れちゃった」
「道に迷ったのか」
彼の言葉に可愛い仕草で童はコックリと小さく頷き返した。
彼には子供はなかったが、このまま、家に連れて帰り、自分の子供にしたいと思うほどだった。
「おじちゃん、僕を負ぶって家まで送って行ってよ」
家はどこだと聞くと、「出島にある」とポツリと応えた。
出島という地名だけは、範囲が広すぎるが、近くまで行けば分かるだろうと思い子供を背負った。
やけに軽い童だった。
彼は軽々と背負い、来たばかりの道を引き返し始めた。出島の駅から路面電車に乗り自宅に帰ることも出来ると思ったから、不便は感じなかった。
彼は歩きながら背中の童と話をした。
「なぜ、あそこにいたの」
「港が見えるから、いつもあそこで待っているんだ」
「お母さんは心配しないのか」
「いないよ。僕が小さい時に神様の国に行ったきり、帰って来ない」
「お父さんは」
「『いないよ。お父さんも船に乗って神様の国に行ったきり帰って来ない』とはっきりと応えた。だから私も聞いた」
「神様の国ってどこだ」
「とっても遠い所、海のずうとずうと向こうにあってキリスト様のいる所で大きな船に乗って行くんだ」
「なるほど。坊やはお父さんとお母さんが船で帰って来るのを、あの丘で待っていたんだ」
タクシードライバーは、背中で童がコックリと頷くのを気配で感じた。ふと童の言葉に疑問を感じた。
「でもあの場所からは、建物の陰になって海は見えないよ」
「昔は、きれいに見えた」
と応えたきり、童は言葉を止めてしまった。
「どれぐらい、待っているの」
「ずうと、ずうと」
石畳の坂道を下り終えた後、ネオンの灯りもすでに乏しくなった新地の中華街を歩いていた。
思案橋あたりで酒を飲み、腹ごしらえをするために中華街までやって来た酔っ払い客たちが、奇異な目つきで二人を見ていた。
酔っぱらい相手に面倒なことに巻き込まれたくないと思い、タクシードライバーは彼らの視線を無視し、歩き続けた。
タクシードライバーの心中を察してか、背中で童が言った。
「みんな優しい人ばかりだったけど、杖の必要な年寄りばかりだから、おんぶをしてって頼めないの。お礼に御砂糖を上げるよ」と
この言葉でタクシードライバーは始めて童の正体に気付いたが、気付かぬふりをして黙って歩き続けたそうである。
タクシードライバーも正体に気付き、この童がさまよう事情に気付き、無性に涙が溢れ出してきたと言う。
「おじさん、優しいね。おじさんの背中、とってもあったかくて気持ちいい。こんな優しい背中でおんぶしてもらったのは、久しぶりだよ」
童は無邪気に言った。
出島の電停付近に着いた時、ここでいいよ、後は自分で帰れるよ。おじさん有り難うと童の御礼の言葉と同時に背中が軽くなるのを感じた。その後は、露の染みこんだ背広が彼の背中にまとわりつく感覚だけが残った。
次の朝、童が背中から降りた付近をタクシーで流すと、道端に紫色のアジサイの花が無造作に転がっていた。
彼が告白した。
「私が負ぶったのは、そのアジサイの花に違いありません。その時、周囲の者が奇異な目で私を見ていた理由も分かりました。酔った中年男がアジサイの枝を負ぶって歩いていると映っていたことでしょう。その頃には、自分でも自分の姿に気付いていた。だが、そのアジサイの枝を投げ出すことは出来なかった。遠い昔、日本で唯一の世界への窓口として長崎が開港を許された当時、出島に住む男と街の芸枝の間に生まれた子供の霊にちがいないのです。
出島に赴任したオランダ人と町の芸枝が親しくなり、男の子が産まれたそうです。その童が、まだ乳を欲しがる幼い頃、母親は他界し、その父親も国の命令で童が二才の頃に日本を去ることになったそうです。父親は別れを悲しむと同時に男の子の行く末を案じ、子供が成長するまでの資金として、全財産を投じて蔵いっぱいの砂糖を買い、町年寄りに預けて、日本を去ったのです。童の名前も両親の名前も、今は思い出せません。町年寄り達は約束を忠実に守り育てたのですが、男の子は成人する前に病に倒れました。だが両親を恋いこがれる気持ちが残っていたのでしょう。その哀れな童が霊がアジサイに残り、そのアジサイの華を負ぶり、歩くと言う道化を酔っ払った私は演じたのです」
彼は巧みにタクシーを操りながら話を続けた。この物語を話し終えた頃にはホテルに着いた。時間は深夜一時を過ぎていた。
別れ際に次の日も、そのタクシードライバーに市内の案内を頼んだ。
彼は私を、しばらくバックミラーを通して観察していたが、意を決したように言った。
「明日は面白い老婆たちに会わせよう」と約束し、彼は立ち去った。
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