絲山秋子『海の仙人』を読む。

天才じゃないですか、この人。


難しい語彙を駆使しているわけではない。重厚な大長編を書いているわけでもない。論理の限りを尽くして世界のすべてを描き出しているわけでもない。複雑に絡み合うような会話が展開されるわけでもない。


ここにあるのは160ページの文庫本。会話も情報も断片的。語りもそっけない。時間はすぐにすっ飛ばされ、謎もなければ解決もない。ただ一人のニート(教養はあるからぎりぎり高等遊民といってもいいか?)の8年間を追っただけの慎ましい物語だ。


なのに、なんでこんなにぐっときて、なんでこんなにじーんときて、なんでこんなに愛おしい物語なのか。


私が小川洋子が大好きなのは、彼女の物語が持つ「濃密さ」だ。グロテスクなまでに美しい表現、人の感情を論理的に、かつ感情的に描く緻密さ。それらが絡み合ってとても濃密な物語を提供してくれる。絲山秋子はそれはしない。


会話も語りも断片的。細かいところまで説明しない。結局「ファンタジー」ってなんなんだ。どういう経緯でこの世界に生まれて、どういう歴史を持っていて、どういう形で人間に受容されていって、どういう風に人間たちと付き合っているんだ。「ファンタジー」から私が連想したのはラーメンズの「初男」だった。どういう生物かはまったくわからんが、人間に受容されていて、いつのまにか生活の一部になってるシステム。まぁそれこそ「神」ってそういうもんか。


でもそんな説明はまったくいらない。むしろあったほうが野暮だし、不要とも言える。説明がないからこそ読者には受容されるんだろう(その無駄な説明をあえてすることで笑いを生んだのがラーメンズの「現代片桐概論」ですね)。


でもそのよくわからないファンタジーが、バラバラだった人たちを繋ぎとめる媒介として機能していく。ファンタジー自身にはそんなつもりもないし、登場人物たちもそんな自覚はない。たとえば主人公河野とかりんは恋人関係だが、肉体関係はない。トラウマによってかりんと肉体関係を持つことができないことについて河野は悩むが、ずっとセックスレスの関係を続けていく。


その二人の媒介になったのがファンタジーだった。ファンタジーは奇跡はもたらさない。でも、「他者」をもたらす。河野にかりんや片桐、もっといえば姉という他者をもたらしたのはファンタジーであったとも言える。肉体が繋がることはない、心が繋がることはない。でも、ファンタジーを共有することで繋がることができる。


どんな人間関係にも共有すべきものがある。ナショナリズム的に言えば、共有の言語、歴史、領土などがあるし、ミクロな人間関係で言えば秘密だったり、趣味だったりいろいろ。関係性によって様々な形をしているけど、どんな人でもある種のファンタジーを持っているはずだ。そんな生温かさがファンタジーにはある。


いや、もうなんかほんと話し始めたらキリがない。なんでこんな短い小説なのに長い時間の流れを感じることができるのかわからんし、セリフ一つ一つが愛おしい理由もわからん。とにかく大切なんだ。大切な物語だ。誰かにとっての大切な物語であることは間違いない。


今読んでる「エスケイプ」もはちゃめちゃにおもしろい…上から目線で申し訳ないけど、現代にこんな素晴らしい作家がいてくれて本当に嬉しい…ぜひお酒飲んでください一緒に。

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