岡本学『再起動』を読む。

 おもしろかった。原稿用紙200枚ほどの中編だけど、展開はスリリングだし、読み応えがある。

 「僕」は大学時代からの友人である「クォーター」(あだ名)と共にIT事業を立ち上げるものの、大企業に買収され、大本の企業が倒産し、全てが失敗に終わる。その後、再帰をかけ(今思えば、これが「僕」にとっての再起動だったのかも)新興宗教団体「リブート教」を立ち上げる。「リブート」は「再起動」のことであり、気遣い、自尊心、見栄、怨み、空気を読むこと、など人間には「必要ではない機能」が自動的にアップデートされてしまう。その必要でない機能を「再起動」をすることで全てオフにする、という教義を持つ宗教である。「僕」はその教義をいわばでっちあげて、信者から少量の月謝を回収し、生活費を賄おうともくろんだ。立ち上げ時点では、規模を大きくしようとする意図はなかったと思われる。

 しかし、教団が大きくなるにつれて「僕」の目論見から教団の姿はどんどん逸脱していく。「僕」の嘘であり、あるはずもない「再起動」の現象が実際に起こってしまったり、市民団体や警察との衝突、資金繰りなど、さまざまな「エラー」に対処しなければならなくなる。「再起動」した者は、主体的な社会生活ができなくなり、ただ単純作業を繰り返すばかりの人間になってしまう。そのお荷物ともいえる存在を教団内でどう処理するのか、という問題も立ち現れる。

 その中で親友であるはずの「クォーター」の様子も変わっていき、「僕」と乖離していく。人間関係も変わり、教団の姿も変わっていく中で、「僕」は自分の「役割」について再考を始める。

 みたいなストーリー。


 筆者自身、工学系の研究者(神奈川工科大学の准教授)ということもあり、情報技術から物語が発想されている。森博嗣とはまた違ったタイプの作家だ。

 物語に登場する新興宗教の変遷は、概ねオウム真理教の流れと類似点を多く持つ。教団の肥大化、それに伴ってコントロールできなくなっていき、警察・市民との間に軋轢が生じ、暴走に駆り立てられていく。「新興宗教」という言葉を聞いて現代の人間が思い描く「流れ」に準拠したものになっていると思う。その点では特異性は感じない。宗教と近代人の関係では遠藤周作という大家もいるし、現代作家では貫井徳郎の『神の二つの貌』の方が「神的」なものとの対話による自己の深化(盲目的だけど)はより深く描かれている。宗教が持つ独特な不気味さも恩田陸の『Q&A』の方がえぐい。そういう点から、「宗教もの」としてみると少し物足りなさは感じる。

 ただ、現代社会を的確に批判しているという点では優れている。僕が印象に残ったのは教団のシステムに目を付けた「柏崎」という男の発言。

「平等を叫べば叫ぶほど、チャンスは広がるが言い訳はできなくなる。今や人類はほぼ完全に公平な競争下に入った。それは別な観点でみれば、いっさい外部に責任を押し付けることができず、すべて自己責任となる時代の到来である。

 決定的敗者の誕生ですよ。言い訳のできない負け組たちだ」(97頁)

 自由主義・資本主義の原則だ。自由を認めるかわりに、責任は自身で取る。社会が個人に過干渉しないかわりに、個人が失敗すれば社会の責任ではなく、個人に責任が帰せられる。戦前、戦中までは日本にも階級が存在し、「分に安んずる」ことで個人の責任を社会に帰することができていた。しかし、現代ではそれは許されない。

 ここで一番の問題なのは「階級的差異」は残っているにもかかわらず、「自己責任」が原理原則となっていることだ。経済的格差・教育的格差・出生地的格差など、資本主義において必須な「格差」は残っている(広がっている)し、資本主義経済がこのまま続く限り、その格差は絶対になくならない(なくそうという力学は存在するけど)。なのに社会的弱者が弱音を吐けば「努力が足りない」という言葉で一蹴され得る状況になっている。

 「柏崎」はそこにつけいる。この「決定的敗者」にも「役割」を与える必要がある。「決定的敗者」をその地位から引き上げるのではなく、単純作業などをさせ、「役割」を全うさせる。「柏崎」は一見無能である「再起動者」をそうして社会利用すると言うのだ。

 少なくとも僕はまだ「決定的敗者」ではないと思っている。しかし、それは主観にすぎない。資本主義的な価値観からしてみれば僕は敗者なのかもしれないし、今僕がしている仕事も「再起動者」が行っているような単純作業であり、ただただ社会を動かす歯車にすぎない。

 ただ、それはどの人間にも通用することだ。「再起動者」を利用している「柏崎」もまた社会を動かすための歯車であり、どの人間も社会のために動いているに過ぎないのかもしれない。この世界を動かしているのは神でもなく、個人でもなく「社会」というシステムだ。

 たぶん、この話はその縮図になっているのだと思う。人間は多様な生命活動を管理するために様々なシステムを発明した。王権神授説、民主主義、共和制、社会主義、共産主義…すべて人間が書いた「教義」であり信仰の「体系」である。そして、社会形態が複雑になっていくにつれて人間が作った「教義」は人間の意志から離れ、人間を制御していく。いくらその「教義」によって不利益を蒙る人間が現れても、「教義」を存続させるために人間は動く。資本主義のひずみが様々な場所で現れているのに、これ以上の経済体制を模索することをしないことと同じだ。

 「僕」は「僕」の作った「教義」に飲み込まれていく。最初は虚構にすぎないと思っていたことが事実になり、そして発明者をも喰らう。

 また、フランス革命後のフランスの政治体制同様、いくら革命が起きたとしても「社会」の浸食を人間はとめることはできない。できるのは自らが生み出した子どもに無意識に隷属することだけ。

 

 かといって、今の社会の問題点を看過するわけにはいかない。いくら社会に隷属しているとはいっても、人間には営みがあり、その中で幸福を追求する権利がある。人間にできることは自らが作り出した「教義」を疑い続けることだ、なんてありきたりな教訓を吐きたくはないけど、でも、やっぱりそれしかやることはできないよ。人間は「考える葦」じゃなくて「疑う葦」だ。


 もはや感想ではないし、雑文過ぎる。2時間もかからずに読めると思うので、お暇な人は是非手にとってみてくださいませ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る