第6話 洗礼
メルレが再び重い荷物を持ってトランテスタを訪れたのはもうすっかり夜も深まった時間だった。
事務室のカメリア夫人と夕食をとりながらトランテスタのことについて簡単に説明を受てから、一度室長となるアルヴィンに挨拶をしようと戻ってきたのだ。
「やぁ、アンダーソンさん。ここで働くことになったそうですね」
「はい。えっと、ジョゼフさん…ですよね。お世話になります」
出迎えに来てくれたのかそれとも暇だったのか、メルレがトランテスタに入るとジョゼフが管理人室の向こうから顔を出した。
「ジョゼフでいいですよ。学生たちもそう呼びます」
「では、私のこともメルレと呼んでください。彼らも、そう呼んでいるようですから」
風に乗ってどこかの部屋から音楽が聞こえてくる。メルレの知らない曲ではあったが、たしかにメルレとそう歌っている。どうやら今度はメルレの聞き間違いではなさそうだ。ジョゼフも顔をしかめている。
「セオドアは音楽クラブ長なんですよ。気に入ったことがあるとすぐ歌う。うるさいやつです」
そのあまりにもなジョゼフの言いようにくすくすと笑っているとドタバタと走ってくる音がした。
「きたね、メルレ!君に聞いてほしい曲があるんだ、そこで待ってて今ヴァイオリンを持ってくるから」
初めて出会った時と同じように手すりから身を乗り出してエントランスホールにいるメルレに向かって声を上げたセオドアはメルレの返事も待たずにすぐに引き返していった。
「彼、もしかしてすごい嗅覚の持ち主?」
「ははは。みんな知っていることだから言いますが、彼の能力は地獄耳です。気に入られているようですしメルレはこれから大変そうだ。洗礼を受けることになるかも」
そう言ってジョゼフはさっさと扉の向こうに戻ろうとする。ちょっと、と非難すれば「面倒ごとを避けることがここでの生活のコツですよ」と先輩ぶった言葉を残して消えてしまった。なんてことだ。
またどたどたと駆ける音が聞こえてきた。セオドアが戻ってきたに違いない。メルレもこうしてはいられないと荷物を放り出し、走ってトランテスタの奥に駆けこむ。
だが、一目散に向かった階段裏の鉄の扉はなぜか開かなかった。はっと鍵の存在を思い出し、乱暴に解錠して転がり込むように暗い階段を駆け下りた。
メルレは匿ってくれそうな室長の名を呼ぶ。
「アルヴィン!」
しかし、返事を返してくれる者は誰もいなかった。
日が落ちたからだろう。地下の修理室は真っ暗で、かろうじてごみ山の黒い影が見える。電気をつけようと壁に手を滑らすが、そもそも、この空間に電気などあっただろうか。
メルレは覚えのあるバケツに手を伸ばす。確か、この中に火器類がまとめられていたはずだ。ライターはどうせ壊れてて使えない。メルレは小さなマッチ箱を選び取った。
メルレがここで目を覚ました時、アルヴィンの机の上には割れたランプが置かれていた。ガラスこそ割れてはいたが、蝋はまだ残っていたはずだ。
足元を確かめながら慎重にアルヴィンの作業台へと向かった。たどり着く頃には目も慣れてきて、うっすらとではあるが周囲の輪郭が見えてきた。
アルヴィンの机の上に目当てのランタンはあった。しかも新しいガラスがはめられ綺麗に修理されていた。メルレは手際よくマッチを擦って火を灯す。———そのとき、視界の端で何かが動いた。
「…アルヴィン?」
明かりをつけることで再び周囲は暗闇に落ちる。闇の中、それが何だったのかはわからなかったが、確かになにかがいた。
メルレはランタンの明かりを掲げ一歩一歩その暗闇を進んでいった。昼間はざっとしか見ていなかったがこの修理室はかなり広い。いたるところにがらくたが積み重なって視界を遮っているためその全貌はあきらかではないが、アルヴィンの机があった場所の奥もまだ空間が続いているらしい。この奥にアルヴィンがいるのかもしれないとさらに足を踏み出そうとしたとき―――
「ああ、麗しき愛の聖霊よ取引しよう。僕の創作の女神メルレをここに連れてきておくれ。かわりにこの供物をささげる」
――セオドアの甘ったるい声とそれに引けを取らない大量のなにかべとべとした甘い香りのする液体がメルレの頭上に降りかかってきた。
「……っ!?」
頭皮を濡らす不快な液体。それが何なのか、一体何が起こったのかもよくわからなかった。ただ一つ分かることは、この惨めな状況にメルレを追いやったのはセオドアであるということだ。
メルレは顔を伝うべたべたを拭った。
(…私を連れてこいですって?お望み通り今すぐ行ってやるわよ!)
トランテスタに来てからおかしなことばかりだ。これが洗礼だというのなら非常識にもほどがある。
メルレは足元に転がるガラクタを蹴飛ばすのも気にせず、息巻いて来た道を戻った。狭い階段を上がって、鉄の扉を力任せにばたんと閉めた。
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