第3話 老修理師アルヴィン


 トランテスタの魔物とは一体何なのかとメルレは父に尋ねたことがある。


『そうだなあ、トランテスタの住人かな。』

『それって魔物なの?』

『いや、人さ。でも、彼らは魔物と形容されるに値するようなものだと大都大の学生は噂したものだよ』


 よくわからないと言ったメルレを父は笑い、そうだろうなあと言った。トランテスタの魔物とは何なのか、自分よりもはるかに優秀な人と出会い、挫折や嫉妬と言う感情を学んだ今でこそ、何となくわかるようになったが、今メルレの目の前に現れたのは確かに形を持った魔物であった。



 はっとメルレが目を覚ました時、その生きものはメルレを遠巻きに、しかし明らかに心配そうに見つめていた。真っ白なぼさぼさの毛で顔を隠すようにしてこちらの様子をうかがっていた。


「うっ…」


体を起こそうとして背中に痛みを感じる。思わず漏れたうめき声に白い生きものはメルレのもとへ駆け寄ってきた。


「…まだ横になっていた方がいい」


低い声だった。じんわりと胸の奥に広がる人の声にメルレは横にいる白い生きものをしっかりと見た。なんてことはない、ただの人間だった。長く伸びた白い髪と髭の奥にメルレと同じ二つの目と鼻と口を認め、ほっとする。


「あなたは?」


トランテスタの魔物ではないという確証を得たくて、メルレは男に問いかける。男は少し逡巡して口を開いた。


「アルヴィン」


 白い口髭がもぞもぞと動いた。聞こえないほどの小さな声で「あなたは」とメルレと同じことを尋ねていた。


「メルレ、私の名前はメルレ」

「メルレ…」


メルレの名を反芻したアルヴィンはほっと柔らかな笑みをその白髪の奥で見せたような……気がした。とりあえず、自分の名前が言えれば意識ははっきりしているという確認なのだろう。そう思ってメルレも大事ないことを伝えるために微笑んで見せた。


「立てそうか?」


メルレに手を貸し立ち上がらせたアルヴィンはゆっくりとメルレを木の椅子に誘導する。座らせられた椅子の前には作業台と呼べるような机がありその上にはさっき見た割れたランタンが端の方に寄せてあった。視界に入るゴミ山の位置から、メルレが落ちたはずのゴミ山の底ではなくトランテスタから階段で降りてきた階層であることは分かった。アルヴィンが上まで運んでくれたのだろうか。


「ここは…?」

「私の仕事場だ」

「仕事?一体何を?」

「修理を」


アルヴィンが指さしたのはごみ山の反対側にある小高い山。どれも綺麗でこれこそ宝の山だ。


「修理?まさかここにあるもの全部!?」


こくりと頷いたアルヴィンはそっとメルレにあるものを差し出した。それはあの、銀細工のオルゴールだった。酸化した銀はきれいに磨かれ、謎のこびりつきは見当たらない。アルヴィンが取り除いてくれたのだろうか。スムーズに開いたオルゴールから懐かしい優美な音楽が流れ出る。これはここで見つけただけの、メルレの物でも何でもないオルゴールだが、それでもこうやってまた昔の輝きを取り戻したのを見ると心が暖かくなる。


「それは君が貰うといい。どうせ持ち主はもういないだろう」


メルレは持ち主がいない、という言葉に一抹の寂しさを覚えた。そっとオルゴールの蓋に指を滑らせていると、オルゴールよりはるかに大きい鐘の音が鳴り響いた。最上階にあったあの鐘だろうか、随分と近い。耳が痛くなるほどではないがこの音の中で眠れるほど控えめな音ではない。アルヴィンは音が鳴りやむのをまってからメルレに告げた。


「すぐに学生たちが戻ってくる。そうしたら…」

「うそっ!私、早くいかなきゃ!」


アルヴィンの言葉を遮ったのはメルレだった。ここにいることがばれてはまずい。エントランスには大きな旅行鞄が置きっぱなしである。無断でここまで入ってきたメルレはそのことに何よりも焦った。手にオルゴールを持ったまま急いで地上へとつながる階段へと駆け寄った。そこではっとアルヴィンの存在を思い出し振り向くと彼はその場を動かず白いぼさぼさの毛の中からじっとこちらを見つめていた。


「アルヴィン、助けてくれてありがとう!」


簡単にそう別れを告げ、メルレは階段を駆け上って鉄の扉を体当たりをするようにして押し開いた。地下から飛び出したメルレは瞬間何かとぶつかった。


「った…」

「おい」


頭上から降ってくるのは間違いなく男の声。驚き見上げれば見知らぬ男が厳しい緑の瞳でメルレのことを見下ろしていた。濃い隈に眉間のシワ、その容貌は死神のようにやつれていた。メルレはトランテスタに入ったことを咎められるまいとすぐに目を逸らした。


「なぜここにいる」


驚きとそしてとても冷たい声で男はメルレに詰め寄った。まずいと思った時、遠くで歌うように甘やかな声がメルレの名を呼ぶのを聞いた。男にも聞こえたのだろう。訝し気に、なのになぜか期待するような声でメルレの名をつぶやいた。


「メルレ?なんだか舌を噛みそうな名前だな」


言ってメルレの腕を捕まえる。

ゾゾゾゾゾ。


悪寒が体を駆け巡る。メルレはその手を振り払った。


 逃げないと。


ほとんど反射的にメルレはその場から逃げ去った。




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