第31話 もうひとりの熊

(一)

 その日、仙たちは義陽によって招かれ、人吉城本丸の一室で、義陽の家族と夕餉をいただくことになった。人吉城は町の南側、球磨川とその支流胸川の交差する丘上に築かれており、北側と西側は球磨川と胸川を天然の堀とし、東側と南側は山の斜面と崖を天然の城壁とした平城である。自然を巧みに利用し、建築にかかる費用を合理的範囲に抑えて作ってあるところが、完璧主義者の義陽らしいともっぱらの評判だった。この城には本丸のほかに二の丸、三の丸があるが、ひと際小高い丘に建てられた本丸に天守は無用だったのか、代わって護摩堂が建てられている。

 本丸の中には小川が流れており、これは歌詠みでもある当主の趣味かもしれぬが、桜、桃や梅、柿など季節の変化を楽しめる木々が所々に配されている。薄暮の中、石灯篭に灯りが点され、はらはらと止むことなく散る白い花びらを照らす。殺伐とした戦国の世とは思えぬ平和さと静寂がこの城には満ち満ちていた。


「六平太様、御父君の水之江の御城とは違うのでしょう。ずいぶん驚いてらっしゃる。」

 六平太とは、男装の仙のことである。仙は、龍造寺隆信の外子である円城寺六平太信胤としてこの肥後人吉に来ている。

「まぁ千代菊、普段はお客様と話もしない貴方が随分と積極的な。やはり六平太様がお美しいからでしょう。ほんに、まるで女子のような綺麗なお顔立ちをされておる。」

 母である満菊の方にからかわれ、十歳の次女は頬をふくらました。

「母上、そう言ってはかわいそうですよ。同い年の私ですらやきもちを焼くくらいの御美しさ、これが女性だったら、私などさっさと球磨川に飛び込んでいますわ。」

 そう言う長女の千満も、母に抱かれたまだ四つの虎満でさえ、うっとりと仙を見詰めている。

「それはともかくとして、本日はお招きありがたく存じまする。」

 仙が困った顔をしているので、岡本善右衛門が話をそらそうと義陽に礼を述べた。

「いやなに、隆信殿とは見知りであるゆえな。」

 義陽は鮎をほぐす箸を止めて言った。仙などは箸使いがもどかしく、両手で押さえて齧り付きたいほどだが、義陽は器用に指を動かし、皮から丁寧に剥がして身をほぐしていく。それは食べるという行為を越え、精巧な何かを作るがごとき所作である。子供たち、娘はもちろん、八歳の四郎太郎、五歳の長寿丸も義陽ほどではないにせよ丁寧な箸使いだ。じっと見ている仙に義陽が言った。

「ああこの箸使いか。常日頃、命を頂くときは敬意をもってせよと教えておるのじゃ。この鮎もわしが食べなければあと何年か生きたかもしれぬ。その命を頂いてわしは命を長らえる。感謝せねばな。」

 子供たちは箸を止めて、義陽の言うことにこくこくと頷いている。満菊の方はそんな子供たちをにこにこと見詰めている。ああ、これが家族か。うらやましいと仙は思った。父がいて母がいて兄弟がいて、温かい食卓があって、笑い合う家族がいる。平凡で当たり前かもしれないが確かな幸せがそこにはある。

 小さい頃は母と二人、日々の食にも困る貧乏な暮らしだった。虎満と同じ四歳のころ、飢えを満たすために、森の木の実や野草を食べていた。母が病で死んで、父に引き取られてからは、食うに困ることはなくなったが、どこかも知らぬ城の中、とにかく孤独だった。頬を熱いものが伝う。


「六平太様、泣いてらっしゃるの?」

 ぐしっと拳で涙を拭って仙は千代菊に答えた。

「あ、いや、少しばかり郷を思い出して…。」

「まぁ…。」

 義陽が何か言いかけたとき、するすると使い番が廊下を走って来た。

「甲斐宗運様、急なお出ましにございます。」

「おお宗運師が…。」

 義陽が立ちかけたとき、廊下からにゅっと墨染の衣を着た僧形の小柄な老人が覗いた。日焼けした黒い禿頭、頑固そうな四角い顎に、大きな獅子鼻、白髪交じりの太い眉、顎鬚、大きな丸い目。

 何かに似ていると仙は思った。しばらく考え…そうか達磨さんだ。達磨太子によく似ていると考えた。もちろん口には出さなかったが。

「義陽よ、ちょっとよかな…。」

 ぎょろりと部屋の中を見回して宗運は言った。

「おお、それなら護摩堂へ参ろう。夜の務めをしようと思っていたところじゃ。」

 二人は連れ立って夜の闇に消えた。その背中を見送りながら、満菊が申し訳なさそうに説明する。

「ごめんなさい中座してしまって…。宗運様と殿は親子ほど年が離れておいでですが、昔からこう馬が合って、何というか、そう、無二の友なのです。」


 善右衛門はそれに頷きながら別のことを考えていた。

 あれが甲斐宗運か…。

 阿蘇家家老で、角隈石宗門下の軍師でもあり、肥後御船三万石の領主。

 九州中に知れ渡っておるのは、その戦巧者ぶりと主家大事のあまりの峻厳なる仕置きであろう。数年前、阿蘇家への反乱に加担した実の息子たちを、何の迷いもなく斬って捨てたのは有名な話じゃ。いずれ肥後をも平呑しようと考えておる我が龍造寺家にとっては敵、それも厄介な敵じゃが、はてさてその宗運が、何用あってこの人吉まで来たのやら…。


(二)

 筑後柳川から肥後阿蘇へ向かう道は大きく二つある。

 荒尾村から玉名へ、そこから肥後国府である隈府へ向かい、大津へ出て立野峠を登っていくのが、街道に沿って歩く、遠回りだが最も安全な道で、阿蘇神社を参る殆どの人がこの道を使う。

 もうひとつは、玉名から菊池川に沿って山側へ歩き、菊池渓谷を抜けて阿蘇外輪山へと登る山道だが、道が整備されておらず、人家が少ない森の中の獣道のような場所を歩かねばならず、山賊が出ることもあって、大変危険な道だった。

 初めて阿蘇へ向かう法姫は、どちらが安全とかどの道があるとかいった知識は持ち合わせていないし、目の見えぬ身、ともかくもお福婆のみが頼りだ。そうは言いつつも、元々明るく苦労知らずである。春の陽気の中、馬の背にゆられて、鼻唄を歌いながら、えっちらおっちらと呑気に山道を進んでいた。

「ねえ、ずいぶんと山の方へ入るのね。」

「そら、阿蘇は山でございますで。」

「その火巫女という巫女様、本当に死者と話をさせてくれるのかしら?」

「へえ、そう聞いちょりますだ。」

 会話しながら、法姫はいつもと違って素っ気ないお福の態度に、ある違和感を感じないではなかったが、初めての遠出の高揚と、もしかしたらもう一度、愛しい三郎と話せるかもしれないという期待が、そのことを重要視させなかった。

 道が菊池渓谷にある森へさしかかったとき、法姫は喉の渇きを訴えた。いつものお福であれば、竹筒に準備した水を差しだすところであったろう。しかし、今日は道から外れ、森の中へと馬を引っ張っていく。しばらく森の中を進むと、遠くから水のせせらぎが聞こえてきた。お福は馬を止めると、法姫を抱きかかえ大木の根に座らせた。

「こ…、ここでしばらく待っていてくだせえ。」

 いつもなら、その言葉にも違和感を感じたろう。しかし、法姫は上機嫌で足をぶらぶらさせながら鼻唄をうたっている。お福はこみあげるものをぐっと抑え、そっと一礼すると馬をひいて来た道を戻りだした。法姫の鼻歌がどこまでもどこまでも追いかけてくる。お福はたまらず走り出し、木の根に躓いて転び、馬はいずこかに走り去った。くっくっくっと、うつ伏せのお福から発せられた慟哭が森じゅうに響き渡った。


 半刻も経つと、さすがの法姫も何かおかしいのに気づいた。ただ、自分が置いて行かれたとは思わない。お福の身に何かが起こったのではと心配した。よろよろと立ち上がり、幾たびか転びながらも、手探りで水の音が聞こえる方向に進む。

「お福!」

 大声を出したが、自分の声が木々にこだまするだけ。

「お福!!」

 もう一度呼んだが返事が無い。恐る恐る足を踏み出すと

 ずるり

 地面が滑った。

 たまらず後ろ向きに倒れこみ、しこたま頭を打ってくらくらした。

 ずずずず

 身体は下へ下へ引きづり込まれるように落ちていく。

 よく聞くと水の音が近い。沢に落ちてしまうと思った途端、恐怖の感情が法姫を支配した。

「助けてお福!」

 力の限り叫び、爪で地面を掴むが落下は止まらない。

「助けて!!」

 誰かと思ったとき、がっと力強い腕が法姫の身体を引き上げた。

 助かった。そう思った法姫の耳に、ヒヒヒと薄気味悪い笑い声

 何とも言えない臭いもする。これは…昔嗅いだ事がある。これは…獣の臭い!

 目は見えぬながらも、周囲を数人の男が取り囲んでいるのは、気配で分かった。

 山賊…!

 逃げなければと思いながら、法姫の気は次第に遠くなっていった。


(三)

「目の見えぬ法姫連れだ。玉名を通り、立野峠を目指すと考えるのが当り前よ。だいいち、菊池渓谷の道は険しく、女二人、それもひとりは目が見えず、ひとりは婆様では無理だよ。」

 金牛の提案に、ついてきた蜊、美馬も賛成した。むろんそれが常識的判断なのは誾千代にもわかる。しかし、なぜか、いやどうしても法姫は山の方、菊池渓谷の方に居るような気がしてならない。誾千代は譲らなかった。

「わかった。」

 金牛たちも折れて、誾千代一行は菊池渓谷へと向かった。渓谷に差し掛かろうとしたとき、杖にすがりながらよろよろと歩いて来る老婆を見た。どこかで転んだらしく、全身が泥まみれだった。なんだろうと思って見ていると、老婆はこちらを認め急いでやって来た。

「ぎ、ぎ、誾千代様ではありませんか!地獄に仏とはこのこと、どうか…どうか姫様をお救いください!」

 近くに来てわかった。これは法姫お付きのお福婆だ。

「どうしたのじゃ?」

 誾千代が尋ねると、お福はその腕にすがりつきながら一気にしゃべった。


 自分が玉鶴の方に命じられ、法姫を森へ置き去りにしようとしたこと。

 罪の呵責に耐えきれず、

 置き去りにした現場へ戻ったが、法姫はいなかったこと。

 その近くを、山賊のような男たちが馬で走り去ったが、

 その中にどうやら法姫がいたこと。

 慌てて馬の足跡を追ったところ、この先の山塞に入ったようであること。

 山塞には少なくとも数十人の荒くれ者がおり、見張りは厳重だったこと。

 

 後は誾千代たちを拝むのみであった。

「この菊池渓谷に山賊が出るのは私も聞いているがね…。」

 金牛は何か考えているようだった。

「とにかく、山賊にせよ何にせよ、放っておいたらいろんな意味で危ないよ。すぐ助ける算段を考えないと!」

 美馬の言葉に誾千代は頷いた。

「よし、とにかく、その塞でやらを見てみようじゃないか。」

 金牛が動き出し、みなぞろぞろと後に続いた。


 件の砦は菊池川沿いの小高い丘の上に建てられていた。北方川側は断崖絶壁に守られており、東と西は急斜面、唯一の進入口の南側向きには大門があり、その両側には複数の櫓が設けられ、弓をもった荒くれ者たちが周囲に油断なく気を配っている。

「やっぱりそうか…。」

 金牛が呟いた。

「こりゃあ山賊の砦なんかじゃないよ。ここまでの構えが出来るのは国人領主しかいないさ。」

 美馬の顔が曇った。

「この辺りの領主っていやあ…。」

「そう、あいつだ。」

 蜊と誾千代、お福には何の事だかわからない。それに気づいて、金牛はうっすら微笑んだ。

「まあわからんが、山賊ではなかったので、最悪の事態ではなさそうだよ。ただね、厄介なことには変わりが無いんだが…。」

 誾千代はいらいらして厄介事とは何か教えてくれと言った。

 金牛は、まあ落ち着きなと言いながら説明を始めた。


 九州には文字通り九つの国がある。これは有史以来のことで、今でこそ同じ日の本だが、元々、各国は耶馬台や伊都など別の国、つまり別の民族、文化をもって成り立っていた。たとえば海の民である薩摩の隼人、そして山の民である肥後の熊襲である。それを大和朝廷が降していったが、最後まで強烈に抵抗をしたのが、前述した二つの勇猛な民族である。ここで朝廷は一計を案じた。勁烈だが単純な隼人は壊柔して味方とし、知恵多いため疑り深く、独立心旺盛のため従う見込みのない熊襲は、「まつろわぬ者」として徹底して滅ぼすことにした。大和武尊命による熊襲武尊の騙し討ちはそれを象徴する出来事である。

 肥後人にはその熊襲の血が脈々と流れている。簡単にいえば、他人の言うことなど耳を貸さない気質がある。その中でも、この北熊本を治める菊池一族は熊襲武尊の末裔と噂され、つまりは簡単に話し合いには応じない相手と考えられる。惣領である菊池本家は途絶えているが、三老家と呼ばれる隈部、赤星、城の家老三家は健在であり、外敵に対しては協力し、内では互いにあい争っている。殊にここ菊池川周辺を治める隈部家の当主親泰は、六尺七寸の身の丈をもち、熊襲武尊の再来と言われる男で、その獰猛さから「肥後の熊」と言われている。今の誾千代たちには知る由もないが、この親泰、後に三万の菊池旧臣を率いて肥後国人一揆を起こし、肥後から勇将・佐々成政を追い出している。

「熊、ここにも熊がいるのか…。」

 聞けば聞くほど厄介そうな相手だった。誾千代は眼を閉じ考えに沈んだ。

「姫様、どうするね?」

 金牛の問いにも、目は閉じたままの誾千代であった。


(三)

 闇の中、護摩壇で炎が激しく揺らいでいる。その前で墨染の衣を着た老僧と白い狩衣を着た侍が正座し、声を併せて読経している。読経の声は堂内に反響し、あたかもその場所を日常からひきはがし異界に化すかのようであった。

 ぱちぱち…

 読経がやむと火のはぜる静寂だけが辺りを支配する。

 義陽と宗運は、炎を見詰めたまま言葉を交わし始めた。

「北薩摩での島津の動きが激しい。あの山猿ども、いよいよ相良家を本格的に攻めようぞ。」

「承知しておる。」

 宗運の言葉を義陽は静かに肯定した。

「間違わぬ義陽か…。お主のこつじゃ、備えは万全であっばいな。」

 義陽は苦笑いした。

「民の言い草を、お主までが真似して使うな。からこうておるのであろう!」

 宗運も笑った。

「何(なん)がからかおうか。民はお主を頼りにしておっとばい。」

 一瞬炎がぶぁっと吹きあがった。

「間違わぬ…か。実際は間違ってばかりじゃ。敵を見誤って、この人吉を攻められたこともある。一族・上村氏の謀叛を見抜けなかったこともある。わしは体格に優れたわけでなく、知勇とくに人に秀で目立った武功も無い。そんなわしでも領主じゃ、民は何か安心したいのさ、それで付いたのが間違わぬなどという異名じゃ。わしにしてみれば間違わぬのではなく、間違えられぬのだ。そのため夜も寝られぬ思いをしておると言うに…。」

 聞いている宗運の顔は、にこにこと優しげだ。

「その必死さ、真面目さこそがお主ん取り柄ばい。家来どもも、その必死さを知っておればこさ、文句も言わずお主について行くったい。相良家の本当の強さは、そこにあるのかもしれんと。」

 宗運は、あえて考えの全てを言葉にしなかった。義陽の考えに全て従う体制は、強さでもあり弱さでもある。人は神ではない以上、義陽自体が認めているように必ず間違う。主君が間違ったとき、指摘、反対する家来が必要なのだ。しかし、今の相良家に勇将智将あまた揃ったりと言えど、それを指摘できる家臣がいない。たとえば、大友家には石宗同門の道雪がいる。島津にも確か、梅北というひねくれ者がいると聞いたことがある。そういった者の存在なしには、「家」はどんどん弱くなるのだ。

「島津はどう攻めてくると考えておっとな?」

 宗運の問いに、義陽は相変わらず炎を見つめながら答えた。

「まず、水俣を囲むであろう。」

 国境にある肥後水俣には、薩摩出水、薩摩大口へと抜ける街道が通じており、この二点から攻め込むのが常道である。そしてこの水俣には、軍事上もうひとつ重要な意味がある。相良家の本拠地人吉につながる街道の存在だ。大口人吉間には久七峠という難所があるが、水俣人吉間はなだらかな坂が続くのみ、つまり水俣を抑えられたら、人吉の守りも危うくなるという関係にある。水俣村自体は平地少なく、山と海が入り組む複雑な地形で、守りはそれを巧みに利用し、水俣城は堅牢である。それに加えて、万が一の時を考え、人吉水俣の街道沿いには朴河内城が築かれている。

「人も城じゃ。水俣を守る犬童頼安は大事なかが、朴河内の東頼兼、頼乙親子は何とも頼りなかのお。」

 宗運の見るところ、東親子は内政は普通にこなすが戦はからっきし、それもあって臆病と言うだけでなく利に聡い。こういう類は必ず窮地において裏切る。

「人材に限りがござれば…。いや、頼兼、頼乙とてようやっておりまする。」

 義陽の答えは宗運を苦笑いさせた。

「家来への信頼あっばこそ、家来にも信頼さるるか。お主らしかばい。」

 宗運は義陽に向き直って言った。

「とにかく用心第一よ。昨今の島津は今までとは違う。何か得体の知れぬものを感じておっど。たとえば耳川たい。途中まっでん、石宗師の采配で明らかに大友家が勝つ流れであったばってん、大軍の奇襲と勘違いした田原紹忍ら本軍が引き上げたため敗れたと言われておっ。ばってん、戦の経験が少なすぎる若造とは違い、当主の後見まで上り詰めた紹忍も阿呆ではなかぞ。また特別臆病と言うわけでもなかばい。なんで大軍と見誤ったかには謎が残っと。俺(おる)にはそこがどうも気色悪か。」

義陽が宗運の目をじっと覗きこんだ。

「想像もつかんような計略があると?」

宗運はふうと一息天井を見上げながら

「どぎゃんもこぎゃんも、まだわからんばい。ほんで、おるは日向に行ってみっ。」

「いつ?」

「こっから…、今からたい。」

「もう夜も更ける。明日にされてはいかが?」

「いんにゃ。時がもったいなか。一旦御船に帰って、阿蘇を通り、豊後竹田へ出て石宗同門の志賀親次、朽綱鑑康と会うてから北日向へ入る。帰りに筑前さぇ向かい、久々に悪友・道雪の顔でも見ていっかの。」

宗運は立ちながら言った。

「そん大友の敗北を聞いてん、お主は島津をぜんぜん怖がっちょらんな。いや、今まで誰が相手でん怖がったこつは無か。優しか顔に似合わん太か肝ばいね。」

義陽はにこりと笑って顔を横に振った。

「師の御坊には負けるて…。その年で有り余る体力、疲れを見せん気力胆力、見習いたいものだ。」

宗運は口の端を少し歪めただけで応えず、荷物をまとめ足早に立ち去った。

義陽は城門の篝火の袂で、小さくなる影を見送りながらぽつりと呟いた。

「わしにも恐れる相手はおる。それは師の御坊、そなたじゃよ。出来得ることなら一生戦いたくない相手じゃ。」


(四)

 隈部家臣・一法師智泰は廊下へ転げ出た。

追いかけるように岩魚の塩焼きが飛んできて、ぴたっと顔に張り付いた。

その岩魚を顔からひきはがし、右手で握りしめて廊下をどんどんと歩く。

「まうごとあくしゃうっ(本当に腹が立つ)!目が見えなさらんでからと優しうすれば、とんだ我儘もんの姫様ばい。」

 途中の障子ががらりと開いて、ぬっと大きな顔が廊下に出てきた。その大きな顔に似つかわしい太い眉、大きなどんぐり眼、でんと構えた獅子鼻の下には、もっさりと生えた熊髭に覆われた分厚い唇がある。

「どぎゃんしたと?」

「殿!どぎゃんもこぎゃんもなかですばい。なんなあん我儘娘は!」

 隈部親泰は、廊下にその六尺七寸の巨大な体を移した。

「蒲池家の姫、そっも目の見えなさらん姫ち聞いちょればこそ、ご不自由のなかごつお世話しようと思うておりますばってん、あん我儘は困りもんばい。こげな青くさか魚は食われんと、投げて返さったと!そげな食べ物を粗末にする女子、おるは見たことございません。殿のお申し付けばってん、お役を降ろしていただきたか!」

 まくしたてる一法師の肩を、親泰は困った様子でぽんぽんと叩いた。

「そぎゃん言うな。大事な人質ばいた。そる(それ)もただん人質じゃなか、筑後の金狼・蒲池鎮漣が目の中に入れてん痛くなかごつ溺愛する娘ぞ。そいにな…。」

 親泰の頬が赤らんだ。

「どがんされましたか?」

 尋ねながら一法師は嫌な予感がした。またか、またあの悪い癖が…。

「いやな…思いもよらん美しか姫ばいな。目が見えんところも。なんちゅうか、そん儚げでよか感じばいな。」

 一法師は呆れ顔で言った。

「また悪か癖を…。若か美しか女子を見らるっとすぐこればい。殿!先年、奥方様が愛想をつかれて実家に帰りんしゃったとば忘れたとですか。」

親泰は汗をかきかき言った。

「ほやけんたい。奥もいなくなってしもうたばってん、新しか奥方が必要ばいな。蒲池の娘なぁ、家格としてん申し分なか。人質にもなるばい。こりゃ二重に良か!そぎゃん思わんな?」

「あげな我儘娘ば奥方に!目も見えらっさんとですばい。どげなこっで奥向きの指図ば!物好きも大概にしてくんなっせ!」

「目が見えんでん、よか子を産んでくるれば十分ではなかか!」

 何を想像しているのか?親泰の鼻の下が伸びた。


一法師が更に言い返そうとしたとき、泡食った態で使い番が玄関から走って来た。

「なんごつな?」

 息を切らしながら、使い番は親泰の問いに答えた。

「城門に立花道雪の娘を名乗る者が来ております!」

「なんじゃち!あん雷神のな?」

 一法師がびっくりして言い、親泰に向き直った。

「殿、我が家は落ち目ん大友との手切れを決めたばかい。追い返しましょか?」

 親泰は頭を横に振った。

「いんや、立花道雪殿は別ったい。あんお方には恩があるばいな。そん娘となれば会わなしょんなかたい。」






















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