第7話 水都
(一)
透明な水面に黒い魚の影がいくつも見える。その上を米俵や大量の野菜、竹細工や陶器などを積んだ小舟が忙しく行き交っている。誾千代は欠伸を噛み殺しながら、後ろ頭で腕を交差させて歩いている。白地に季節の紅葉をあしらった小袖に、帯を結ばず、いつもの半袴を履いている。長い黒髪は流したままで、いつもの男装のように結いあげてはいない。道雪が、出がけに今日は小袖を着ていくようにと諭したのに半分だけ逆らった形だ。
ここは柳川、南筑後蒲池家十二万石の中心である。町の縦横に運河を巡らした柳川は、筑前から肥前、肥後へ抜ける交易の重要中継地点として、古来より栄えてきた。蒲池家は町から得られるその財力を背景に、強固な家臣団を結成し、筑後、いや九州北部において、無視できない存在であり続けている。その家訓は「義」を持って成り立ち、蒲池軍は義軍として知られ、蒲池家は当主鑑盛の温厚篤実な人柄も手伝って、筑後はおろか、筑前、肥前、肥後、豊前、豊後の国人からの尊敬を集めていた。あの龍造寺隆信もしかり、彼は幼き日、領地である肥前を追われ、曾祖父と共に、一時鑑盛の庇護を受けていたときがあり、さしもの熊も鑑盛には頭が上がらないともっぱらの評判である。
「どうじゃおぎん。柳川は?」
四名の壮丁に担がせた輿の上から、墨染の僧衣を着た道雪が尋ねた。誾千代は首をかしげてしばし考えていたが、道端の小石を運河に向かって蹴り落としながら、つまらなそうに答えた。
「熊の城下町に似ておる。」
それを聞いて、道雪は満足そうに歯を見せ、ニッと笑った。
「そうか、そうじゃろう。若き日の熊はここで育ったのじゃから。」
水之江の町は、隆信によって柳川を参考に整備されたが、その賑わい含め、柳川に遠く及ばないのは明らかだった。そして、隆信にとって柳川は、その存在をよく知らぬ博多よりも、垂涎の的であり、どうしても欲しい町ではあった。
町の中心部に近づくと、運河を利用した幾重もの堀に囲まれた巨大な城壁と天守が見えてきた。
「この城は、立花山城や岩屋城のように山に立てられてはおらぬのか?」
幼い娘の問いに、高齢の父はうれしそうに応えた。
「おお、平城というのじゃ。柳川に城を立てうる山は無い、しかし無数の運河はある。城を守るという考えからは、山の役割を川に負わしたというところか。」
この答えは、誾千代には難しかったかもしれない。興味なさげに城の大門の方を眺めている。供回りは小野鎮幸をはじめとする十名ほど、大友家重臣である立花山城主が、大友傘下の国人を訪れるには少なすぎるようにも思えたが、道雪と鑑盛は気のおけぬ間柄であり、この人数でも仰々しすぎるほどであった。
(二)
「しばし待っておれ。」
父にそう言われて、誾千代はひとり三の丸の客間で待っていたが、一刻以上何の動きもないため、退屈を持て余して庭へ出て、その勢いで裏木戸を抜けて柳川の町へと飛び出した。ちょうど昼げのころ合いで、通りには家々からの様々なおいしそうな匂いが立ち込めており、さすがに少し腹を鳴らしながら、運河沿いを町外れまで歩いてきてしまった。人家も途絶え、人通りもなく、さすがに引き返そうかと思っていると、目前の小高い丘から、えも言われぬ良い香りがしてくる。
くんくんと鼻を鳴らしながら、誾千代は香りに誘われるように丘へと向かった。一筋の白い煙が細くたなびく。
「誰!」
鋭いが、鈴を鳴らしたような美しい声に、誾千代は珍しくびくんとした。
「誰です?この匂いは女のひと?いや幼いですね。子供?」
大木の下に緋の毛氈が敷かれ、ちょこんと一人、年のころは誾千代と同じほどに見える小さな女性が座っている。白一色の小袖に、鮮やかな赤黄色地を金糸銀糸の刺繍で出来た花々が彩る。恰好からして大身の姫であろうことは明らかに思えた。小袖からは、その色に負けぬほど白い手足がのぞき、黒髪の艶は日の光にきらきらと七色に輝くほど。小ぶりなつるんとした光沢のある白い顔に、桜がほころんだような桃色の唇。細くやや下がり気味の眉は知性をたたえ、長い睫毛は、閉じられた大きな目に、植えられた花のように整然と並んでいる。その前には、落ち葉が集められ、白い煙が上がっている。いい匂いはここからしてくるようだ。
その女性は、誾千代がするようにくんくんと鼻を鳴らし、少し落ち着いたように静かに言った。
「微かな香の匂い、でもこれは仏間のもの。尼御前にしては鉄の匂い、そうすると武家の姫?ああ、そうか分かった!」
突然、にこりと微笑んだその顔に、思わず誾千代は引きこまれそうになった。こんな美しい人は今まで見たことが無い。幼くして死に別れた母は美しかったそうだが、こんな人だったのだろうか。
「立花の誾千代さま!ハハ、噂に聞く雷様の娘御ね。」
そういうと、女性はよろよろと立ち上がろうとし、躓いて重ねた落ち葉の方へ倒れようとした。
「危ない!」
誾千代は思わず駆け寄り、前から女性を支えた。
「あら、やはり雷様の娘御は素早いのね。」
そう言って、女性はキャッキャと笑っている。自分より少し年上に見えるが、誾千代はまるで、幼子をあやしている感覚に陥った。
(三)
ざざっ。
大木の後ろの草が揺れた。
身構えた誾千代の前に、両手いっぱいに栗を抱えた紺の肩衣、袴姿の若侍が現れた。背は高くないが、どこか件の女性に面ざしの似た、細く白く美しい顔。その若侍は、誾千代を見つけると、見知った者に「やあ」と言うかのように微笑んだ。
「兄上様、お戻りになられたのですか。」
それには答えず、片膝ついて木の枝で器用に落ち葉をかき分け、持ってきた栗を丁寧に置きながら若侍は誾千代に向かって言った。
「姪がお世話になりまいた。ありがとうございます、立花誾千代様。」
誾千代は頭を捻った。女性は兄と言い、男は姪と言う。どっちなのだ。その疑問には女性が答えた。
「正しくは叔父ですけれど、私は幼いころから兄上と言っているのです。」
「あっ、そこ足元!」
若侍の声に、誾千代は、無意識に踏み出そうとしていた右足をひっこめた。足の先に白い小さな花が咲いている。
「良かった、これは山菊の花。せっかくきれいに咲いたのに踏んでしまっては申し訳ない。」
そう言いながら、若侍は落ち葉をかき分け、イガのある表皮から木の枝を使って器用に栗の実を取りだし、ホクホクと湯気を上げる黄色い実を誾千代の方に差しだした。お腹がぎゅーっと音を立て、若侍と件の女性は声を上げて楽しそうに笑った。誾千代は栗をひったくるように受け取り、ふぅふぅと冷ましながら、ものも言わずに齧り付いた。ほのかな甘みが口いっぱいに広がった。
「どうです、もうひとつ。しかし、もう少しゆっくり食べても。誰もとりませんから。」
これも奪うように食べ、腹が満ちてきた誾千代に、そもそもの疑問が湧いてきた。この二人何者?なぜ私の名を知っている?
「お主たちは何者だ?なぜ私の名を?そもそも草は踏み放題なのに、なぜ花だけ大切にする、おかしいではないか!」
矢継ぎ早の質問に、若侍は困ったように頭をぼりぼり掻いた。娘は目を閉じたまま、楽しそうに笑っている。そうか、この娘、目が…。
「草は強い。踏んでもすぐ元に戻りまするが、花は散ったら終わりにござる。」
誾千代は、にこにこと答える若侍の顔に吸い寄せられそうになった。また疑問が顔を上げる。いったい何者だ?
その答えは、丘の麓の方からやってきた。
遠くで人を探す声が聞こえる。
「法姫さまー。法子さまー。どちらにいらっしゃいますかー。」
「お福ばあ、こちらよ。」
悪びれない様子で女性が声を上げる。
ふぅふぅ言いながら、麓から杖をついた大柄な老婆が上がってきた。そして、若侍を見ると、熟した柿のように顔を真っ赤にして怒鳴った。
「三郎様!また、貴方様ですか。断りもなしに目の見えない姫様を連れだされて。この福が奥様にどれほど怒られるかおわかりですか!」
そう言うと、誾千代を見てはっとした顔をする。
「まあまあ、この可愛らしいお方は、どこのどちらさまで?」
若侍が法姫と言われた娘の手を取りながら答えた。
「お客人さ、立花家の誾千代様だ。誾千代様、拙者は蒲池鑑盛の三男・統安にござる。そして、これは兄・鎮漣の二の姫、法子にございます。」
(四)
「!」
誾千代は思わず立ち上がった。客間の外は一面の橙色である。秋の日はつるべ落としの喩えのごとく、間もなくうす暗くなるであろう。
「父上!今一度、何と申されたのです。」
九つの娘の大人びた物言いに、内心満足しつつ、道雪は静かに言葉を放った。
「おぎんよ、お主の婚儀の話よ。蒲池家の三郎統安殿を我が立花家の婿に迎え、そなたの夫とする。」
「婚儀!私が!」
だんと足を踏み鳴らし、父に歩み寄って顔を見る。道雪も誾千代の顔を見返す。親子の目には同じように炎があった。
「誾千代様には、統安では不服でござるか?」
父と向かい合って座っている鑑盛が静かに問う。その隣には、おだやかな微笑みを浮かべた統安がいた。
「不服などと!統安殿の名声は弓の名手として、また戦の上手として筑後はおろか、筑前、肥前、肥後まで轟いておりまする。そんな統安殿が立花をお継ぎくだされば、この道雪も安心できるというもの。」
誾千代は、道雪をきっと睨みつけた。
「父上、私はまだまだ婚儀など!」
年は九つだが、この戦国の世、決して早すぎる婚礼ではない。しかし、誾千代には不満があった。父は私を後継ぎとして、立花山城を任せてくれると常日頃言っていたではないか。その言葉を信じて、武芸の稽古に明け暮れたものを、私では足りないと言うのか!
道雪には、彼なりの強い思いがある。もはや六十をとおに過ぎ、いくら元気とはいえ、いつお迎えが来てもおかしくないのだ。誾千代がいくら武芸に才を見せても所詮は女子、愛娘を安心して任せ得る強い武将に後を任せたいという親心がそれであった。
「三郎様!」
誾千代は父から目を離すと、今度は三郎を睨みつけた。
「はい。」
統安は静かな面持ちで応える。
「聞けば、弓の上手として巷に知られた方とか。この誾千代も少々弓に覚えがあります。いかが、私と流鏑馬勝負をしていただけませぬか?」
統安は少し困ったように一瞬眉をひそめたが、鑑盛は手を打って喜んだ。
「これは愉快なり。流鏑馬勝負とな、誾千代様、勝負と言うからには何を賭けなさる。」
「この私を。」
決意を秘めた面持ちで立つ誾千代を満足げに見詰めながら、鑑盛は息子に向かって言った。
「統安、お主も異存ないな?」
「父上のお申し付けなれば。」
息子の答えに満足げに頷くと、鑑盛は道雪を見て言った。
「思いもよらぬことになり申したが、道雪殿、流鏑馬勝負受けていただけるか?」
道雪は、にやりと笑うと大きく頷いた。
(五)
「誾千代様、こっちこっち。」
退屈な酒肴の席を抜けだし、城庭をうろついていた誾千代を、松の影から手招きする者がいた。
「あなたは。」
昼間見た法姫が、くすくす笑いながらこちらを見ていた。
「退屈で抜け出してきたのでしょう。どう、今から一緒にお城を抜け出さない?」
そう言うと、奥の方に向かって歩き出した。
「法子様、あなたは目が?」
「大丈夫、お城の中は目が見えなくてもわかるの。通りに出たら、手を引いて頂戴ね。」
裏木戸を抜け、迷路のような堀横の小道を正確に、まるで目が見えるかのように通って、街路に出る頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。それでも街路のあちこちに置かれた灯篭によって、柳川の街は夜というものを知らないようだった。
そういえば、蒲池の姫と言いながら法子は宴に出ていなかった。年がそう変わらぬであろう一の姫が出ていたのにである。しかも一の姫の名は
「母上は私のことが恥ずかしいのです。」
法子が誾千代の心を察したように言った。
「私が生まれて、目が見えぬことが分かって、母は赤子の私を尼寺に入れるように言ったそうです。父が私を不憫がってそれを拒絶すると、私を姉「徳子」と同じ読みの「のりこ」と名付けました。しかも「法」という、いかにも抹香臭い字を充てて。母は私が早くいなくなって欲しいのです。少なくとも目に見えるところにいてほしくない。だから私は城の奥に閉じこもっていたのです。」
うっすらと笑っているように見える法姫の頬に光るものが見えたような気がした。
「そんな私を、そっと城から連れ出してくれたのが三郎兄上様でした。幼くして母の愛を知らず、生きる希望すら失っていた私を、いろいろなところに連れ歩き、生きる喜びや、その儚さ、民草の強さや悲しみ、自然の素晴らしさ、いろいろなことを教えてくれました。私は兄上と一緒に笑ったり泣いたりして、この世と生の不思議や素晴らしさを知るとともに、いつしかある夢を持つようになりました。決して叶わぬ夢を。」
法姫は誾千代の方を向くとにっこりとほほ笑んだ。
「誾千代様!」
「はい!」
その凛とした声に、思わず誾千代はびくんとした。
「あなたで良かった。あなたになら三郎兄上様を盗られてもいい。」
誾千代の手を握る法子の手にギュッと力がこもる。
だが私は…。
言うことはできなかった。様々な思いを抱えたその顔を見ていると。
永遠とも思える静寂が辺りを支配した。が、それは思わぬ者どもによって破られる。
ヒヒヒ
闇のあちこちからうすら笑いが聞こえてきた。
「誰だ!」
誾千代の叫びに応えて、それらは姿を現した。
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