第8話 精霊の木の下で
(一)
誾千代の片袖を法子がぎゅっとつかんできた。袖越しに後ろで震えているのがわかる。闇の中から伝わってくる無数の禍々しい悪意、どす黒いそれは、誾千代ですら怯みを感じさせるものだった。
ヒヒヒ
ククク
暗闇から無数の忍び笑いが響く。
誾千代は法姫を後ろにかばいながら、右手で懐の小柄を数えた。
三本
闇からの気配は十名以上。
腰に脇差はあるが、子供の体力で法姫をかばいながらの接近戦は期待できない。
さしもの誾千代の額からも、
つー
と汗が一筋流れ落ちた。
とんだ拾い物だな兄弟。
ひとりは男のなりをしているが、見たところ大身の姫が二人
まだ年端のいかない餓鬼だぜ?
南京辺りの大人は、喜んで大枚払うさ。見ろ二人共何とも言えん美しい顔立ち!
一人は目が見えんようだが。
愛玩にするにはむしろ都合がいいってもんだ。なあ。
凶暴でいやらしい気配が辺りを支配していた。
そうか、これが噂に聞く人さらいってやつらか。
誾千代は、法姫を後ろにかばいながら、じりじりと右へとにじる。
家と家の間に狭い路地が見える。なんとか、あの路地に駆け込めれば。
雲間から不意に現れた月明かりが闇を照らし、闇の住人どもがその姿を現した。
にたにたと例外なく下卑た薄笑いを浮かべた男どもは、野良着のように薄汚れ、腰までしかない着物を荒縄で縛り、そこに一本だけ大刀を差している。素足に薄汚れた褌を付け、短い髷は後ろで結んだ程度。つんと潮の匂いがした。
海賊とかいう手合いか。
男たちは、怖がらせて楽しんでいるかのように、じわじわ包囲の輪を縮める。
このままでは、路地の入口に至る前に捕まってしまう。
誾千代が必死に考えを巡らしていると
ぐわらぐわらぐわっしゃーん。
家に立てかけてあった無数の竹が、男たちの方へ倒れかかってきた。
と同時に
「ぐわっ!」
路地側を塞いでいた一人の賊が倒れた。
喉笛から血がしぶいている。
「こっちだ!」
路地の方から手招きするもの。
長い黒髪、真っ白な肌。大きな目
年恰好は同じくらい
どことなく法姫に面ざしの似た少女は
黄色に水仙の花をあしらった小袖を着て、手には血に濡れた大刀を握っている。
誾千代は法姫の手を力いっぱい引いて路地に向かって駆け出した。
(二)
「逃がすな!」
路地に殺到した男たちの前に、屋根の上から巨大な影が怪鳥のように舞い降り、立ち塞がった。
「化け物?」
一瞬ひるんだ男たちがそうつぶやいたのは無理もない。筋骨隆々として、金剛力士像のようなその男の身の丈は七尺を超えていた。大きな丸太棒を抱えたその巨人は、ふーっと一息つくと、その大きな眼でぎょろりとあたりを睨みまわした。
はっはっはっ
三人の息遣いが合わさって荒い。
路地を出て、通りをむちゃくちゃに走って、いつの間にか城とは反対の郊外へ来てしまった。
「この辺りまでくれば大丈夫だろう。」
黄色い小袖の少女が後ろを振り返って言った。
「ははっ!」
法姫が息をせいせいさせながら、道に転がって笑った。
「あー、楽しかった。どきどきした。こんなの初めて。」
無邪気で、呑気なものだ。誾千代は半ばあきれながら辺りを見渡した。昼間来た丘の辺りだろうか。それよりこの娘だ。あの剣さばきは見事だったが、一体何者か。小袖といい、恰好は町娘のそれであるから、なお刀が不自然だ。そのあたりを問いただそうとしたとき
「!」
遠くに明かりが見える。昼間、法姫が座っていた大木の辺り。
「なんだ…!?樹が光っている!!」
黄色い小袖の少女が叫ぶのと同時に、誾千代は光に向かって走り出した。
大きな欅の木の枝の間を、何千何百という光の玉が行き交う。
「これは何だ?話に効く人魂?それとも木霊?」
後ろから小袖の少女に手を引かれた法姫が追いついてきた。
「不思議ね。私にも光が見えるよう。」
小袖の少女は大胆にも、光の玉に向かっ手を伸ばす。
その一つを、そっと捕まえて手を開いて見た。
「これは蛍?こんな季節に?」
法姫が大木に歩み寄り、幹を抱きかかえて言った。
「この欅にはこんな伝説があるの。千年に一度、月の夜に精霊たちが木に宿って美しく輝かせる。それを見る者たちは選ばれた者、永劫の因縁で魂同士が繋がった者たち、数千年を何度も生まれ変わって巡り会い、お互いに深く影響しあう者たち。」
誾千代も、小袖の少女も首を捻る。法子は欅の大木に向かって大声を上げた。
「私は法子、十一歳!」
誾千代がつられて叫ぶ。
「立花誾千代、九つじゃ。」
小袖の少女は、私もかとまごまごしていたが、意を決したように叫んだ。
「私は仙、十歳だ!」
法姫がくるりと振り返り、満面の頬笑みを浮かべて言った。
「私たちは前世からの因縁でここに集った。私たちは今日この日、生涯の友になりましょう。」
そう言って、つかつかと歩み寄ると、誾千代と仙の方へ手を差し出す。
誾千代は思わず、差し出された手をぎゅっと握った。
仙もためらいながら、その手を握ると、今度は法姫がギュッと握り返してきた。
満月の下、黒々と影をなすはずの欅の大木は、さざめく光たちによってきらきらと輝いた。
(三)
翌日、柳川城下は、急遽行われることになった流鏑馬対決の噂一色だった。
「三郎様が試合われるんやて。」
「どこの向こう見ずや、弓で三郎様に勝てるわけなかろうが。」
「それが、筑前の立花家の娘らしい。」
「噂の雷神の子か。肥前の熊に斬りかかった娘やろ、そりゃまた。」
「まだ九つらしいで。」
「三郎様の婿入りがかかってるらしい。」
「いやーん、三郎様!」
老若男女、皆声高に噂し合っている。会場となる柳川八幡宮にも大勢の人々が押し寄せていた。
「何の騒ぎじゃ。これは?」
とぼとぼと馬を歩かせながら、弥七郎はつぶやいた。立花山城を訪れたところ、昨日から誾千代も道雪も柳川へ行っているとのこと、仔細は教えてくれなかったので、とりあえずここまで馬を飛ばしてきたのだった。
「だからな、嫁取りじゃなくて、婿取り!三郎様が勝ったら立花に養子に入るって寸法さね。」
「へー。しかし、雷神の娘じゃろ。しかも、年端もいかぬのに肥前の熊に刃物を投げつけた怖い女子や。」
「!」
話している大工らしい若者と、魚売りらしい若者に、つかつかと近寄って弥七郎は言った。
「その話、詳しく聞かせろ!」
神前で真白な大麻がはらりはらりと振られる。
その前には、直垂を着、烏帽子を被った二人の武者が、弓を片手に片膝をついて畏まっている。
萌黄に緑の直垂を着て、すらりと背が高いのが三郎統安。
銀地に朱の艶やかな直垂を着て、長い髪を後ろにくくっているのが誾千代。
流鏑馬は柳川八幡の三十間の参道を利用して行われる。
境内の左右に天幕が張られ、左に蒲池家、右に立花家の面々が居並ぶ。
「女子の身であさましや。」
誾千代の姿を見て
隆信の娘で、鎮漣の正室である玉鶴の方が、その美しい眉をひそめて呟いた。
鑑盛がぎろりと横目でにらむが、玉鶴は表情一つ変えなかった。
立花家の天幕では、道雪のほか、急遽呼ばれた由布惟信と城戸知正が見守る。
参道脇は多くの民人でごったがえしていた。
その中に、お福に連れられ深編笠を被った法姫の姿、少し離れたところに、黄色い小袖の仙の姿、そして、馬を繋いで駆け付けた弥七郎の姿があった。
先手は栗毛の馬にまたがった統安である。
絵の中から抜け出したような凛々しいその姿に、群衆からため息が上がった。
「はっ!」
馬を参道入口まで走らせると、そのまま踵を返して全速力で駆け抜けながら、十間ごとに配置された木の的を射抜いていく。
今度は群衆からどよめきが起きる。
放たれた矢は、すべての的の星(黒点)、その中央を射抜いていた。
今度は誾千代の番である。
「おぎん、がんばれー!」
群衆の中から聞きなれた声がする。弥七郎が照れくさそうに笑っていた。
「そうよ、がんばれ。」
「がんばれ!」
法姫と仙も大声を上げた。
白馬にまたがった誾千代は、少し会釈を返すと、馬の首をポンポンと叩いた。
白馬が静かに走り出す。
杉の常緑と秋の紅葉の中を白い線のように。
その騎上の、小さな姿から、考えられぬような勢いで矢が放たれ、配置された木の的を正確に射抜いていく。これもすべて命中、しかし半数は星を外した。
ただ、流鏑馬においては、星を射抜いたか否かは点数に関係しない。
「むう、同点か。」
道雪が愉快そうに言った。
「的の間隔を短くせよ。」
鑑盛が命じ、間隔は八間となったが、これでも勝負はつかない。
「次は五間じゃ。」
この間隔だと、弓を射る正確さはもちろん、馬を操りつつ的に合わせて矢を番える速度が肝要となる。
栗毛のかっかっと刻む轡が、参道の深紅の紅葉を舞いあげる。
「外した!」
群衆がどよめく。統安が放った最後の矢は、的をわずかに外れ、杉の大木に突き刺さった。
誾千代はそれを見て、何か言いたそうな顔はしたが、きゅっと顔を引き締めて馬を走らせた。
「これはとんだ茶番じゃ。徳姫、帰りますよ。」
玉鶴が席を蹴るようにして立った。鎮漣も慌てて立ち上がり後を追う。
群衆はまだどよめいている。
「あの三郎さまが負けるとは!」
「やはり、雷の娘は人間やないで!」
「でもこれで、三郎さまは婿に行かずに済むのよね。」
おのおの、勝手なことを言う群衆をかき分け、弥七郎は参道へ転がり出た。
「おぎん、誾千代はどこだ?」
「まて!」
誰もいない八幡宮下の畑道
馬上の統安は後ろを振り返った。
誾千代が馬を寄せる。
「なぜ、わざと負けた!」
「実力でござる。あなたの勝ちじゃ。」
「嘘じゃ!どうして。わしを憐れんだか。それとも…」
誾千代は言葉を振り絞るように言った。
「わしの婿になるのが嫌か!」
言ってはっと口を抑えた。何を言ったいるのだわしは。
統安は困ったように眉をひそめた。
「そうではござらぬ。」
「なんじゃと!」
「そうではない。私はあの丘で初めて見たときから、これは我が妻、添い遂げるはこのお人と感じておりました。」
誾千代は、胸の方からかっと熱いものが昇ってくるのを感じた。
生まれて初めての感覚。
「…それではなぜ?」
そう言うのがやっとだった。
「そういうお人だから、このようなやり方では妻としとうない。
それだけでございます。」
たまらぬ衝動が胸を突きぬけた。
もはや統安の顔を直視できぬ。
誾千代は馬を返すと猛然と走りだしていた。
なんなのだ、なんなのだ、あ奴は?
なんなのだ
なんなのだ、この気持ちは?
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