第2話 竜虎の追撃

 その瞬間、水之江の町中で時が止まったように感じられた。絶対的存在に放たれた氷の刃。ほんの幼子が、信じられない技で投じた小柄は、水之江の町民はおろか強者ぞろいの龍造寺の武将たちも一瞬で凍りづかせた。ただふたり、投じた誾千代と投じられた隆信のみが、燃えるような感情をぶつけ合ってその場に存在した。


 かっ!


 静寂を甲高い音が破る。

隆信が持つ扇子が、その顔の直前で小柄を受け止めた。静寂しじまを打ち破るその音は、周囲の者どもの緊縛を解き、時の進行を元に戻した。


「逃げるんだ!」

 ぐいと力強く誾千代の手がひかれた。弥七郎は、後ろも振り向かずに群衆をかき分け民家の間の狭い路地へと誾千代を引っ張った。まだ呆けたような顔の誾千代は黙って腕を引かれていく。


「追え、追え!!あの者どもを捕えよ!」

 老臣鹿江兼明が檄を飛ばし、兵たちが弾かれたように誾千代たちの後を追った。

「殿、お怪我は!」

 戦車の周りに四天王が駆け寄ってきた。

「大事ない。」

 円城寺信胤の問いかけに、隆信は扇子に深々と突き立った小柄を見つめたまま言った。

「幼子に見えましたが、あのような技を持つとは。暗殺のために仕向けられた敵の素ッ破だったのでしょうか。」

江里口信常の問いに、隆信は小柄から目を離さずに首を振った。

「いや、違うじゃろう。忍びはあのように大胆には襲わぬものよ。あれは侍の技、侍の子じゃ。」

 そこに、ひょこひょこと杖を突きながら、小柄で顔中傷だらけな中年男が現れた。

「大胆ゆえに殿の威信にかかわりまっせ。あの餓鬼ども、龍造寺家中の子にせよ、敵の家の子にせよ。きっと捕まえて厳しく処断せねば。」

 百武賢兼の獅子鼻が鳴った。

「龍造寺家中の子じゃと。我が家に裏切り者があるというか!」

杖をついた軍師木下昌直は、横目で賢兼をじろりと一瞥して応えた。

「今は戦国の世、下克上の世や。何が起きても不思議はない。油断したら即日首が飛びまっせ。」

 頭から湯気を出し、むきになって言い返そうとする賢兼の肩を、成松信勝が右手でぐっと掴んだ。振り返った賢兼に無言で首を横に振る。


「面白い。」

瞬間走った不穏な空気を隆信のつぶやきが破った。

「久々に愉快な思いじゃ。あの童女が何者にせよ、必ず生きてわが前に連れてまいれ!」

昌直が意外そうな声を上げた。

「女!男の恰好でしたで?」

けんけんと煩い軍師を、横目でじろりと睨むと、隆信は四天王のほうを向いて命じた。

「鹿江だけでは不安じゃ。成松信勝、百武賢兼、手勢を率いてあの幼子二人を捕えてまいれ、きっと生きて連れてくるのじゃ。」

 成松と百武の二将は、片膝をついて命を受けると、手勢を率いて脱兎のごとく街路に散っていった。

 それを見送りながら、隆信は一人呟いた。

男子おのこじゃと、あの深く激しい情念を宿した瞳、あのような目を男子はできぬわい。」


「くっそー、こっちもダメか!」

 小柄な子供の体格と、日ごろ鍛えたすばしっこさを利して、水之江の町中を逃げ回っていた弥七郎と誾千代だったが、老将鹿江兼明が手配した文字通り水も漏らさぬ包囲網の前に、次第に追い詰められつつあった。

「どうにかして、筑前口まで戻れればよいのだが。」

 筑前口の雑木林には馬が隠してある。何とかそこまでたどり着き、馬を飛ばして筑前国境まで逃げ切れば虎口を脱することができる。

 こうなれば、おぎんだけでも。囮になろうと、弥七郎が悲壮な決意を固めたとき、目の先の壁の後ろからひらひらと招く右手を発見した。

「こっちじゃ、こっち。」

 かすかな声が聞こえてくる。罠かもしれぬと思ったとき、誾千代が手の動きに誘われるように隠れていた床下をはい出ていった。

「おい!」

 危険じゃと言いかけたが、もはや後の祭り。弥七郎も後に続くしかなかった。角を曲がると、そこにあったのは意外な光景だった。先ほどの浪人者が、馬三頭連れて立っている。それだけでも驚きだが、そのうち二頭は弥七郎と誾千代の馬だった。この男、ふざけた感じだが一体何者だ。弥七郎の脳裏に疑問が渦巻き、思わず刀に手をかけた。

「おいおい、物騒なのは無しじゃといったはずじゃが。」

 この緊迫した状況でも、男の鷹揚な感じは変わらない。そういった余裕のあるところが、一層この男の正体を謎にする。

「お前、いったい何者じゃ!」

 思わず大きくなる弥七郎の声、男は口に一本指を立ててしっと諫めた。

「龍造寺勢に聞こえるぞ。誰でもよかろう。今はこの窮地を脱するが先じゃ。」

 弥七郎は、声を潜めたが追及を止めなかった。

「なぜ我らを助ける、なぜ我らの馬を連れておる。我らが水之江に入ってからつけておったとしか思えん。だいたい、都合よすぎるじゃろうが!」

 浪人は大袈裟に肩をすくめて言った。

「これがおぬしらの馬かどうか、わしにはわからぬことじゃ。林につないであったどこの馬かもわからぬものを連れてきたのじゃ、まさに偶々たまたまよ。わしが何者かより、一刻も早くこの窮地を抜けるほうが大事なのではないか。」

 いちいちもっともな言い分ではある。弥七郎は自らの疑問をいったん封印することにした。

 それよりまず誾千代をなんとかせねば、この窮地に相変わらず熊の毒気が抜けぬようで、呆けたようになっている。

「おいぎん、ぎん!いい加減目を覚ませ。」

 弥七郎が頬をぱちぱちとたたくと

「何をするか!無礼者!」

 ばちんと弥七郎に倍返しして、誾千代は正気を取り戻した。

「おお痛い。」

 顔をさする弥七郎を、情けない声を出すなと叱責しながら、誾千代は浪人に問うた。

「馬を持ってきてもろうたのはありがたいが、こう警戒が厳しくては、町中を馬で抜けるのは難しくはあるまいか?」

 子供とは思えぬ物言いに、浪人はと感心したような声を上げたが、周囲を見回して声を落とすと、自信ありげにこう言った。

「脱出に関しては、わしに策がある。どうじゃ、乗ってみるかの。」


 まさに血眼となって、町中しらみつぶしに子供二人を探していた鹿江兼明のもとに信じられない報告が舞い込んだのは、捜索を開始してからわずか半刻ほどしてからだった。三頭の馬が疾走しながら、筑前口から町を脱出したという。その背には大人一人と子供二人が乗っていたそうで、子供の風体はご主君を襲った者にそっくりだったというのだ。今に至っても隆信を襲った下手人が発見できぬ以上、騎乗の三人こそ探している者どもと考えるのが自然だ。

「信じられん。町の辻という辻に兵士を配していたはず、一体どこから抜け出したのじゃ。敵は忍術でも使えるというのか。」

 不思議がってばかりはいられない。兼明は慌てて五十騎の騎馬隊を組織し、一路肥前街道を筑前方面へと北上した。


「いちかばちかの奇策じゃが、こううまくいくとはな。」

 疾走する馬上で、弥七郎が感心したように横の浪人を見つめる。三人は見張りの目を盗んで水之江の中を流れる筑後川に馬を乗り入れ、北方に伸びる支流田手川の浅瀬を遡って筑前口へと脱出したのだ。子供は町中に潜んでいるはずとの敵の心理の裏を突いた見事な作戦だった。この浪人者、ひょっとすると名のある武将だったのかもしれぬ。敵か味方か定かではないが、少なくとも龍造寺から逃げるにおいては頼りにしてよさそうじゃと弥七郎は思った。

「喜んでばかりはおられぬぞ!」

 後ろの気配に気づいた誾千代が振り返ると、もうもうたる砂埃が三十間ほどに近づいてきていた。

「なんと龍造寺軍の馬の速度よ、もはや追いついたか。」

 浪人はそう言うと馬に鞭を入れた。しかし、走り続けてきた馬の速度は思ったほどに上がらない。

「どうする、追いつかれるぞ。」

 弥七郎の叫びに、何事か考えていた男は「ちょっと待っておれ。」と言うと脇道へと逸れていった。

「あやつ、逃げ出しおった。なんだかんだ言って頼りにならぬ奴!」

 弥七郎の叫びを聞かぬふりして誾千代は手綱を握りしめた。後方の敵は馬蹄の轟が聞こえるほどに迫ってきている。


「見えた、遠目でも間違いない。あの子供二人じゃ。」

 前を疾走する二頭の馬を視界にとらえた兼明は、全軍に速度を上げるよう下知した。夕闇が迫るというに、よりによって、まもなく間道の多い脊振峠せぶりとうげへと至る。もし峠で見失った場合は、発見がより一層困難となるのは容易に予測できた。早くせねばという気持ちはあるが、馬の乗りこなし方の巧みさといい、脱出の手際の鮮やかさといい、また小柄の手並みといいただの子供ではない。油断なくかからねばならぬ。もちろん、老練の将である鹿江に油断はなかった。一方でその慎重な姿勢が、誾千代たちに逃げる隙を与えているとも言えた。


「ぎんよ、もっと飛ばせ。敵に追いつかれる!」

 弥七郎の悲鳴が響くが、遠く立花から通しの馬は、いかに名馬とはいえ体力の限界が来ているようだった。ついには敵の馬の息遣いさえ聞こえる距離まで近づいてきた。もうだめだ、弥七郎が本日何回目かの覚悟を決めたとき、右横方向から新たなる馬蹄の轟が聞こえてきた。


「なんだ、なんなのだ!?」

 鹿江の隊は完全に混乱に陥っていた。右方向から突っ込んできた黒馬の一群を見て、鹿江隊の馬たちは棹立ち、勝手に動きを止めた。その馬の数、何百という馬の奔流は、まるで絶えることがないように鹿江たちの行く手を遮った。

 馬たちは人が操っていないにもかかわらず、規律正しく列をなして進んでいく。いや、よく見ると先頭の馬にだけ、小柄な人の姿が見えただろうに、あまりの予想外の出来事に、鹿江の隊でそれに気づいたものは誰もいなかった。

「確か、この辺りにわが軍の牧があったはずです。」

 そこの馬たちが逃げたというのか。しかも偶々、隊列を組んでわが隊の行く手を遮るように。そんな都合のいい偶然があるものかと思った。しかし、大陸産のわが軍の馬は悍馬かんばぞろい、人の言うことを聞かず、調教に時間がかかる。何者かが、いきなり操れるような代物ではない。

四半刻ほどして、やっと馬の流れが途絶えたと思ったら、今度は左方向から件の馬群が戻ってきた。


「いったい何が起きているのだ。」

 誾千代が叫ぶが、弥七郎にも見当がつかない。あの浪人がやったことか?そうだとしたら、準備が良すぎる見事な手際に気味悪くさえ感じる。あやつ、本当に何者なのだ。

 峠に差し掛かると、間道の一本からひょっこりと例の浪人が現れ横を並走してきた。

「お主、名は?」

 今度は誾千代が聞いた。

「ああ、わしの名か。又七郎というのじゃ。」

 聞いた誾千代が、人の心配も知らず無邪気に吹き出した。

「又七郎じゃと、似た名もあったものよな弥七郎。」

 弥七郎は、浪人が何かいい加減な名を言って誤魔化しているのだろうとも思ったが、そのキラキラした目には嘘のかけらも見えぬような気がした。


「呑気なことは言っておられぬようじゃ。また来たぞ!」

又七郎が叫ぶ。


「追いついたぞ!今度こそ捕らえよ。」

 後方から馬蹄の轟がまた迫ってくる。たびたびコケにされた形の鹿江兼明は、額に青筋を立ててすさまじい形相で先頭を走っている。

「どうするのじゃ!」

 谷あいに弥七郎の悲痛な叫びがこだました。

「大丈夫じゃ、細工は流々仕上げを御覧じろ。」

 おどけた又七郎が指さす先には、谷にかかる大きな吊橋があった。吊橋の向こうに人影が見える。力士かとみまごうばかりの大男と、短躯たんく筋肉質の小男。

「いったい何をする気じゃ!」

 そう言いながら、馬で吊橋を見事に駆け抜けた誾千代と弥七郎の背を、吊橋を渡り切って停止した又七郎の言葉が追いかけた。

「走れ!筑前国境はこの峠を下ったところじゃ。」


「何をする気か?」

 橋の向こう側に複数の人影を認めた鹿江兼明は、用心のため全軍に停止を命じた。


 他に道なき谷にかかる橋、そうすると誰しも考えることは同じ。


 嫌な予感が胸をよぎった時、橋の向こうの馬上の男が手をあげ、吊橋の袂にいた大男と小男が、振りかざした刀で一斉に橋を支える綱を斬りおとしにかかった。


「おのれ!橋を落とす気か!!」

 今から橋を渡っては、対岸の大男、小男の作業が終わるか、終わらなくとも人馬の重みで、途中で綱が切れる公算が高く非常に危険だ。鹿江らは、ぎりぎり歯噛みしながらも、黙って吊橋が落ちるのを見つめるほかはなかった。

 そのとき、鹿江らの後方から物凄い勢いでやってきた二頭の騎馬が、その頭を飛び越し、吊橋を猛然と渡り出した。

「誰じゃ、命知らずの愚か者は!」

 兼明はその後ろ姿に覚えがあった。


 あやつらか、あ奴らならもしかして


 二頭が七分ほど渡り終えたところで橋を支える綱が切れ、橋は轟音とともに谷底へ落下していく。二頭は落ちる橋を踏み台にして、重力に逆らうように飛び上がり、見事対岸に着地した。それを見て、対岸にいた又七郎や大男小男は身構えたが、二頭はわき目もふらず誾千代たちを追いかけていく。


「己の役目以外には目もくれない、龍造寺四天王め、鮮やかなものですな。」

物陰から現れた白髪白鬚の老武士が又七郎に話しかけた。又七郎は黙って頷き対岸を見た。何を言っているかはわからないが、鹿江兼明がこちらに向かって盛んに怒鳴っている。

「あの幼子を助けにはいかれぬので。」

 又七郎は首を横に振った。

「柄にも似合わず、他家の争いに余計な介入をしすぎた。これ以上は、あの子らの運に任すとしよう。」

 老武士は、静かに微笑むと言葉をつづけた。

「柄にもないことをされたは、年恰好が近い豊寿丸殿でも思い出されたか?」

 又七郎がその問いを無視したので、老武士は話を変えた。

「龍造寺隆信は見られたので?」

 又七郎は頷き、「いかがでした。」との老武士の問いに愉快極まりないという顔をした。

「面白いの。戦場でまみえる日が楽しみじゃ。」

なるほどと頷いた老武士は言葉を続けた。

「これからどうなさる。次は豊後の大友宗麟でも見に行かれるか?」

又七郎は首を横に振り遠い目をした。

「彼の者に興味はない。次は第六天魔王じゃ、織田信長めがどんな顔をしておるか楽しみじゃ、京の都に向かうぞ国兼。」

そう短く言うと、島津又七郎家久は街道から離れ山道へとゆっくり馬を進めた。老武士たちも後に続く。


「あやつら、いったい何者じゃ?」

 対岸では、鹿江兼明の叫びのみが空しく響き渡った。


 峠を降りきったところで、誾千代が乗る白馬は役目を果たしたとばかりに横倒しに倒れた。弥七郎の馬も肩で激しく息をし、しばらくは走れそうにない。

「しかたないか。ここは国境、さしもの龍造寺の兵もここまでは追ってこないだろう。」

 馬から降りた弥七郎が、ほっとしたというようにへなへなと地面に座り空を見上げた。夕闇にぼちぼち星が光りだしている。白馬をさすっていた誾千代もつられて空を見た。

「それにしても、又七郎は不思議な奴だなあ。そのうち追いついてくるだろうから、今度こそ正体を確かめねばならんな。あ、ほら噂をすれば来たぞ。」

 遠くから馬蹄の響きが地面越しに伝わってくる。しかし、おかしかった。馬の足音はどうみても二頭のそれだ。

「弥七郎、敵だ!」

 誾千代が跳ね起きた。

「しまった!」

弥七郎も飛び上がり、大刀をすらりと抜き放つ。

身構える二人の前に、やがて二頭の黒馬が現れた。誾千代は一人の男に見覚えがあった。甲冑を脱ぎ小袖の着流し姿だが間違いない。龍造寺軍の先頭で青い騎馬隊を率い、油断なく辺りに気を放っていた目つきの鋭い男だ。もうひとりは、逞しいが、どことなく人のよさそうな顔、大きな獅子鼻が特徴的な武士だ。

懐に手を入れた誾千代と男たちの間に、刀を構えた弥七郎が立ちふさがった。

「わが主、龍造寺隆信様を害そうとした者どもじゃな。隆信様のご命令に従い、お主等を拘束する。」

 成松信勝が、刀をすらりと抜き放ちながら言った。

「大人しくせよ、大人しくすれば手荒なことはせん。」

 信勝を押しのけて前に出た百武賢兼が、刀も抜かず、まるで誾千代らを安心させるように言う。


「この場はそうでも、隆信の前に出れば違うのであろう!」

 弥七郎の叫びは、するどく真実をついていた。人のいい賢兼は申し訳なさそうな顔になる。

「当たり前だ。お主らのしたことを考えて見よ!」

 信勝が前に出ようとするのを、賢兼が抑え込んだ。

「小僧、怪我はさせたくない大人しくついてきてはくれぬか?」

 なおも説得しようとする賢兼に、隙有りとみたか弥七郎が打ちかかっていった。

「!」

 その出足のあまりの鋭さに、虚を突かれた形の賢兼は飛びすざり、弥七郎の刀をぎりぎりで躱した。


 こやつ、なりは大きいが、元服前のほんの子供と思うていたに。鋭い出足、正確で激しい斬撃。ただの小僧ではない。まさに強敵……、若き強敵と出会うは、わが本望。


 賢兼はにやりと笑い、大刀をすらりと抜き放った。

「龍造寺四天王が白虎・百武賢兼、お相手申そう。」

 弥七郎の額を脂汗が一筋流れた。これが、武勇百人に値すると噂の龍造寺の白虎か。勝てるかどうかは問題ではない。わしはただ、おぎんを守らねばならん。

「高橋鎮種が一子・弥七郎、いざ。」

 正体を明かしたくはなかったが、相手が名乗った以上、名乗らぬのは礼を失する行為だ。名乗ったことによる不利益より、名乗らぬことによる非礼の方が、弥七郎にとっては許しがたいことであった。


「ほう。」

 相対する賢兼の眉がピクリと動いた。なるほど豊後にその人ありと言われた猛将の一子か、それならば納得いく。ふに落ちたというやつだ。あとは思う存分、武人と武人の本領をぶつけ合うのみ。

 弥七郎が上段から打ちかかってきた。賢兼はそれを軽く刎ね返す。弥七郎の手が、はねられた刀越しにビリビリと痺れた。息もつかさず、今度は賢兼が打ちかかってきた。矢継ぎ早に連撃を繰り出す。その素早い攻撃を、弥七郎は受け止めるのが精一杯だった。


 これが龍造寺四天王の実力。なんと強い、なんと速い。


 気が遠くなりそうだ。それでも連撃を頑張って防いでいるのは、ぎんを守らねばならないとの強い思いからだった。


 その誾千代には、成松信勝がじわじわとにじり寄っていく。誾千代は信勝に、懐から取り出した小柄を投じた。鋭い一撃だが、信勝はいともあっさりと躱して見せた。誾千代は続けて小柄の二撃、三撃を放つ。それを信勝が、今度は刀を一閃させて避けた。

「なるほどな。敵との体格差を問題とせず、修練次第では大人をも一撃で倒しうる。その体躯、その年恰好に最も合理的な得物じゃ。おぬしにそれを仕込んだは、並みの侍ではあるまい。」

 誾千代は黙って、信勝から目を離さずにじりじりと間合いを保っている。


 とても敵わない。


 誾千代は感じた。しかし、誇りにかけて囚われるのは御免だった。逃げられもせぬとなると、とるべき道はひとつだ。近寄ってくる信勝に、誾千代は覚悟を決めた。


 ぶぉぉぉぉぉ


 そのとき、遠くから剣戟の音を聞きつけてか、法螺貝の音が鳴り響いた。賢兼も信勝も緊張を強めて身構えた。

 筑前側から、無数の松明の明かりが近づいてくる。数百の軍勢の足音が聞こえてくる。旗に記された紋は大友家の「抱き杏葉」、それと「猪」を象った図柄も見える。


「よりによって、厄介なやつが来たな。」

信勝が舌打ちした。

「どうした。自信家のお前らしくもない。敵はたかが数百、われら二人がかかれば、恐れることはあるまい。」

友である賢兼の問いかけに、信勝は激しく頭を横に振った。

「たかが数百ではない。めが率いる数百であるならば。」

「むう。」

賢兼も押し黙った。


豊後の猪

弥七郎はもちろん知っている。

大友家中にその人ありと言われた武将は数人いるが、もっとも獰猛と言えばこの男。素手で戦えば、父鎮種はおろか道雪すら及ばないと言われている。

名を田北鎮周と言う。

率いる騎馬隊猪突騎ちょとつきの突撃は、「猪」の喩のとおり猛烈で敵知らず。

本人も人というより猛獣といって良く、名家の生まれながら獰猛で粗野な人物。

虎髭を蓄え、常人の腰ほどもある腕で槍を振り回す姿が、古の大陸の英雄に似ているというので、本人はと嘯いている。

味方としては頼もしいが、敵にすれば厄介な男。

そんな男と筑前国境で出会ってしまった。

信勝が身の不運を嘆くはずである。


「なんだ、なんだ、この国境で何の騒ぎだ。」

文字通り、どかどかとやってきた鎮周は大声で喚き散らした。

松明で、遠慮容赦なく弥七郎や誾千代、信勝たちの顔を照らし言った。

「おっと、どちらも見たことがある面だな。」

まず、誾千代たちを指さして言った。

「お前、男のなりはしているが、道雪んところのじゃじゃ馬だな。そしてお前は、餓鬼のくせに頑固で有名な高橋鎮種のところの倅だ。がはは、もう日も暮れたというのに、こんなところで逢引か?」

下卑た笑いだが、気さくな人柄がにじみ出ているせいか、誇り高い誾千代は不思議と嫌悪感を持たなかった。

「そしてお前らは。」

 松明で信勝たちを照らして、今度は鎮周の目が、獰猛な野獣そのものにと光った。

「肥前の熊んところの竜と虎か!今山合戦ではよくもやってくれたな。この筑前から生きて出られると思うなよ。」

 鎮周がさっと手を振ると、後ろの部下たちが、奇声をあげ、舌なめずりしながら一斉に騎乗した。信勝と賢兼は目配せをすると馬に飛び乗り、峠めがけて一目散に上り始めた。

「野郎ども、逃がすんじゃねえぞ。」

 素早く騎乗した鎮周に率いられ、田北軍も信勝たちを追って峠を登っていく。双方の姿は、あっという間に闇に消えた。


「助かったのか。」

 あとに残された弥七郎は、へなへなと膝をついた。

誾千代は、龍造寺の竜虎と田北勢の去った峠のほうを、いつまでもじっと見つめていた。


















 


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