鳴神の娘

宮内露風

第1話 肥前の熊

 天正五年八月のある暑い日、蝉の声が方々の林から鳴り響く肥前街道を、一路西へと馬を跳ばす二つの小さな影があった。

 後方を行く栗毛の馬に跨った少年、十一歳という年の割に大柄で、どこか分別臭い顔が、とても困った弱ったという表情を隠さずに、前を疾走する馬に何とか離されまいと必死で馬に鞭を入れている。

「おい!ぎんよ、いったいどこまで行く気じゃ!もはや筑前国境ははるか後ろ、ここは敵地ぞ。おーい、聞こえているのか!」

 後方から聞こえる必死の叫びに、前を行く白馬に跨った少年?はチッと舌を鳴らした。

「ぎんではない!千代乃介だ。敵地であらばなおのこと、弥七郎よ、何度言ったらわかるのだ!」

 速度を緩めないまま後ろを振り返り、甲高い声で一言怒鳴ったその姿に、後ろを行く弥七郎は「はっ」となった。若草色の小袖に茶渋で染めた袴を着た小さな姿、九歳という年齢から無理からぬ体躯だが、細身のうなじに大人の女性のような何とも言えない色香が漂った。艶のある黒髪がふわりと動く、髷を結い若侍のような姿だが、あの道雪が目の中に入れても痛くないほどの美貌は、怒って柳眉を逆立てた顔からも窺えた。その小さな体で、見事としか言えない手綱さばきで馬を操っている。そのあたりは、さすがは大友家一の武将、あの立花道雪の娘だった。

「ならば千代乃介よ。」

 後ろから再び叫んだ弥七郎の声に、千代乃介と呼ばれた娘「誾千代」は、しつこいと言わんばかりに、馬を走らせたまま、その大きな美しい目をむいて再び振り向いた。

「この肥前に何用あって参ったのじゃ?」

 なんだそんなことか、娘は面倒くさそうに一つ鼻を鳴らすと前を向き、後ろの少年へ叫んだ。

「知れたこと、熊のくまのつらを見に行くのだ!」

 その言葉を聞いて、少年は驚愕のあまり馬から転げ落ちそうになった。


「ちょっと待て!熊とはもしや龍造寺隆信のことか?」

 少年は馬に鞭を入れ、前の馬の横に並ぼうとした。どうやら手綱を押さえて止めにかかる考えらしい。

「まったく人の言うことを聞かぬやつだな!弥七郎、肥前にそれ以外の熊がおるのか?」

 追いすがってくる栗毛の馬を躱し、白馬の腹を足で蹴って一層速度を上げながら少女は叫んだ。

「危険じゃ!危険すぎる。我が主家大友家の敵である龍造寺隆信は、冷酷非道で有名ぞ。敵とみれば女子供関係なく殺すそうじゃ。しかも、五万石に足らぬ水之江の豪族に過ぎなかった龍造寺家が、今や国主少弍家を追い落とし肥前一国四十万石を治める勢い、家臣たちも四天王をはじめ剛の者ぞろいと聞く。我らが大友家重臣の子と知れれば必ず生きては帰れまいぞ。」

 それを聞いて、少女の馬がいきなり止まった。栗毛の馬はすんでのところでよけたが、少年は勢いで落馬しそうになり、慌てて鞍にしがみついた。その姿を満面の笑みをたたえた顔で見た少女は、悪戯っぽい調子でこう言った。

「なんじゃ、弥七郎。怖いのか?豊後にその人ありと言われた高橋鎮種殿の息子ともあろうものが。」

 言われて珍しく少年はかっとなった。この話題は少年のツボである。この少女はそれを百も承知で言っている。まったく、たった九歳にしてこの性悪が!

「怖くなどあるものか!わしはただ、お前に何かあったら父君道雪様に合わす顔がないから、無謀を諫めているのだ。」

 真っ赤になって大声を上げる少年を、目を見開いて黙って見つめていた少女は、相手がしゃべり終わるとニッコリと微笑み一言放った。

「良かった!」

 白馬の腹を思い切り蹴ると、再び西へ向かって走り出す。まったく、昔からあの顔をされると何も言えなくなる。

「ずるいぞ!」

 そう言うと、少年は白馬を追って鞭を入れた。


 水之江の町は、物売りが出店を連ね活気にあふれていた。町の入り口に関所も無く、様々なお国言葉が飛び交っている。どうやら、人々は肥前国内はもとより、隣の肥後や筑後から自由に入り込んできているようだ。

「大した賑わいじゃな、楽市楽座というそうじゃ。この市も、関所の廃止も、京の都から流れてきた木下何がしとかいう軍師の進言じゃそうな。」

 どうせ父鎮種からの受け売りに違いないが、弥七郎が訳知り顔で得意げに言う。誾千代は興味なさげにキョロキョロと辺りを見回している。

「ところでぎんよ。」

 小声で囁いたものの、少女にきっと睨まれて弥七郎は肩をすくめながら言葉を続けた。

「どうして、熊などの顔が見たいのじゃ?」

 言われた少女の肩がピクリと動き、やがてわなわなと震えだした。

「どうした?急に怖くなったのか?」

 弥七郎は、誾千代の目が真っ赤に光ったように感じた。

「怖くなどあるものか!わしはただ…、ただ、あの父上が生涯唯一敗れた相手の顔が見たいだけじゃ!」

 大友家の軍神「雷神」として、豊後で圧倒的な存在である誾千代の父「立花道雪」は、誾千代にとっても誇りであり、この世の誰にも負けない最強の存在であるはずだった。しかし、若いころから負け知らずの父が、たった一度不覚をとった戦いが、肥前の熊「龍造寺隆信」を相手とした今山合戦である。

 今から七年前の元亀元年八月、誾千代がまだ二歳の折、九州探題を名乗る父の主「大友宗麟」は、九州北部六万の兵を率いて、当時主家少弐氏を追い出して、肥前において我が物顔で猛威を振るっていた龍造寺隆信打倒に乗り出した。大軍の到来を受けた龍造寺隆信は、五千の兵とともに居城水之江に固く籠って防戦に努めた。宗麟の弟・大友親貞を攻城大将とし、誾千代の父道雪や、弥七郎の父紹運など、大友家の名だたる武将たちが火の出るように水之江を攻め立てたが、龍造寺側も鍋島直茂や四天王を中心に懸命に防備に努め、城はようとして落ちる気配を見せなかった。

 それでも、宗麟、親貞を始めとする大友軍大半は余裕しゃくしゃくだった。籠城は援軍頼りにするものだが、九州の地に龍造寺に味方するものはなく、このまま囲んでいれば兵糧が尽きるとともに龍造寺家は敗北せざるを得ないからだ。道雪や、大友家軍師「角隈石宗」の諫言もむなしく、もはや宗麟達攻め手の興味は、龍造寺家を破ってからの戦後処理、その領地を誰に与えるかに移っていた。そして、その油断は取り返しのつかない敗戦へとつながってしまう。

 水之江城を蟻のはい出る隙間なく取り囲んでいた寄せ手の士気は、戦線の膠着とともに下がりつつあった。寄せ手大将「大友親貞」は、側近の進言を受け、士気を上げるために勝利の前倒しとして祝宴を催した。この祝宴を狙って、城からひそかに抜け出した隆信の甥「鍋島直茂」を大将とする龍造寺軍決死隊五百が夜襲をかけてきたのだ。大友軍大混乱の中、なんと大将親貞が、龍造寺四天王の青龍「成松信勝」によって討ち取られてしまう。それでも、この局地戦の勝利くらいでは、当主宗麟が健在な大友軍の優勢は動かぬかに見えたが、長対陣に疲れた諸将の士気の低下は著しく、大友軍は負けに等しい形で龍造寺と和睦せざるを得なかった。

 父道雪は水之江を去るとき、歯噛みしながら城を見つめ復讐を誓ったという。いま、繁栄する水之江の城下にあって、幼い誾千代には、その口惜しさが乗り移ったように感じられた。


「あぶない!」

 道の真ん中で町の喧騒を見つめ、ぼんやりと思いに浸っていた誾千代はいきなり宙に浮いた。道の真ん中を、ガラガラと勢いよく木材を満載した荷車が走り抜けていく。

「無礼者!放せ、放さぬか!」

 襟首をひょいと撮まれた誾千代は、宙でバタバタともがいている。弥七郎は、思わず腰のものに手を伸ばし、少女を掴んでいる人物に向かって叫んだ。

「その手を放せ、放さぬなら…。」

 弥七郎は十一歳の割には大柄で、既に大人並みの五尺五寸に届く体格だが、誾千代を持ち上げている男は、それを凌ぐ六尺をゆうに超える中年の大男だった。細身だが引き締まった身体をして、旅装だろうか埃だらけの古臭い柿渋色の狩衣を着て、少し縮れがちのぼさぼさの髪を、面倒くさそうに紐で結わえている。見たところ、武芸を売り込もうと諸国を渡り歩く浪人者といったところだろう。その男は、刀に手を伸ばした弥七郎をのんびりと見つめ、切れ長の大きな目を細め、太い眉を下げてにいと笑う。人の好さそうな笑顔だ。思わずつりこまれて笑いそうになったが、弥七郎は気を取り直して再び「放せ。」と言った。

「わかった、わかった。だが物騒なのは無しだ。良いか?」

 男の言葉は、どことなく訛っていたが、弥七郎はもちろん誾千代も、聞いたことがない訛りだった。地面にそっと降ろされた誾千代は、離れ際に男の腕をぱしりと叩いた。

「助けてやったのに手厳しいな。」

 わざとらしく腕をさする男をきっと睨むと、誾千代は静かに言い放った。

「余計なことを、あのくらい容易くよけれたのだ。」

「そうかそうか。」

 再びにいと笑う男の脛を誾千代はがんと蹴り上げた。

「!」

 思わぬ攻撃に飛び上がった男を見て、誾千代も相好を崩した。弥七郎はやれやれまたかという顔で見ている。

「お主、浪人者か?」

 座り込んで脛をふうふうと吹く中年男に、誾千代はどことなく興味をひかれた。その姿に、いつも、わがもの顔で世間を闊歩しているぎんにしては珍しいと弥七郎は感じた。

「まあ、そんなとこだな。」

「水之江に来たのは、龍造寺家に仕官を求めてか?」

「うん、まあそんなとこだ。」

 そう言って男はしげしげと誾千代の顔を見た。

「まるで尋問だな。なんだお主ら、龍造寺家中のどこかの子ではなかったのか?」

弥七郎はどこか安心した。最初は得体のしれぬ感じがしたが、蓋を開けてみれば、ただの浪人、しかも仕官目当てか、ぎんを助けたのも、その見てくれから龍造寺家中のいずれかの大身の子息と踏んだからに違いない。

「やめておけ!」

 弥七郎の安心を吹き消すような声が響いた。

「何をだ?」

「龍造寺に仕えるなど止めておけといったのだ。」

 弥七郎は慌てた。龍造寺家のおひざ元の、しかも往来で大声で言う内容ではない。慌てて誾千代の裾を引っ張る。その手を振りほどいて誾千代は続けた。

「この家はやがて滅ぶ。悪いことは言わぬ止めておけ。」


「面白い童っぱだな。まるで占いのようなことを言いよる。しかし、この話はもうやめておこう。」

 さすがに周囲がざわざわしだした。浪人は穏やかに周囲を見渡して言った。

「町人が騒いだくらいなんだ!」

 誾千代は浪人から目を離さずに言い放った。

「聞こえんのか?町人だけのことではない。」

 そう言うと両手を耳に当てる。

ざっざっざっざっ

 規則正しい音が遠くから聞こえてくると、町の喧騒は静まり、町人たちは一斉に道の端で地面にひれ伏した。

「一体何だ、何が起きてる。」

 弥七郎の疑問はすぐに解けた。遠くから街道が圧力を運んでくる。今まで感じたことのない何とも言えない感覚、それに近いものといえば、幼いころ豊後で見た大波の襲来か。何か抗えない圧倒的な存在がやってくる。

 日輪を象った「日足」の紋を記した無数の旗が近づいてくる。先頭をきるのは、見たことがない大きな黒い馬たち。青一色の甲冑を着た騎馬武者たちを、ひときわ鋭い目つきをした武将が率いている。

 魅入られるように立ちすくむ誾千代と弥七郎の頭を、大きな掌が押さえつけ、地面にひれ伏させた。

「何をする!またまた無礼者めが!」

 誾千代は男の手を跳ね除けようとしたが、細身の腕の力は意外に強くびくとも動かない。

「わかった、わかった。お叱りは後でいくらでも聞く。命が惜しければ、ここは頭を下げておけ。」

 男の声は静かだが抗えない響きがあった。

 青一色の騎馬隊の後には、白一色の徒歩武者、ついで赤一色の弓隊、黒一色の槍隊が続く。なるほど、これが噂に聞く四天王かと弥七郎は思った。先頭を行く四天王の軍の後を、整然と行進する軍が長々と続いた。今やその数は万に届くだろう。数だけなら大友軍の方がはるかに多いが。弥七郎は、無意識に奥歯をギリギリ噛み締めていた。


 この軍は強い。

おそらく、我が軍よりずっと。


天性の勘のようなものであるが、弥七郎の資質は父鎮種も認めている。


 がらがらと軍の後方から、先ほどの荷車とは違った重々しい車輪の響きが聞こえてくる。巨大な馬六頭が引く、見たこともない巨大な車。大陸の戦車というものだが、もちろん誾千代はおろか、弥七郎も浪人もその姿を初めて見る。

 そして、戦車の上には、人の姿をした巨大な一匹の獣が座っていた。座った姿からも分かる、七尺を軽く超える人間離れした体躯。髭で覆われた大口、周囲を睥睨する丸く巨大なまなこ。部下の武者どもと違い、甲冑もつけずに小袖一枚、窮屈そうに肥満した体を包んでいる。真っ青にそり上げた坊主頭から大量の汗と湯気を出し、暑いのか盛んに扇子で仰ぎながら、それでも周囲に威を放っている。


「ほう、これが…。」

 呟いた浪人の手の力が緩んだが、弥七郎は、威に打たれたかのように顔を上げることができない。一方、誾千代は魅入られたようにゆっくりと顔を上げた。


これが熊

肥前の熊

父の宿敵


「む!?」

 隆信は己を突き刺す異様な気に、じんわりとあたりを見回した。そして刺すような視線の主が幼い子供であることを認めると、少し意外そうな顔をした。視線の先で、ゆっくり立ち上がった小袖、袴の子供は、こちらから目を離さずに懐に手を入れた。

「ぎん!何をする気じゃ!」

 威圧から解き放たれ、弥七郎が顔をあげたとき、懐から抜かれた誾千代の腕が、鋭く円を描いた。


しゅっ


 誾千代が放った小束は、車上の隆信を目指して勢いよく飛んで行った。


 













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