第8話 帰路
「みなさん、ごくろうさま。お茶とお菓子の用意ができてますよ」子供たちが声のする方を振り向くと、ラハブ女王が後ろで立っておりました。
「みなさんのおかげでこうして助かることができました。お礼も言いたいので、奥の食堂へ行きましょう」ラハブ女王は初めて出会った時と同じ水色の長いドレスをめして、子供たちにやさしくほほ笑んでおりました。
「はい、ありがとうございます」澤口さんがさっと嬉しそうに答えました。子供たちはラハブ女王にまねかるまま、食堂へと向かいます。
食堂にはすでにミカエルとガブリエルが待っておりました。テーブルにはタタファも着いており、その向かいには子犬を胸に抱いた少年が座っておりました。貴志は食堂に入ると、すぐさま目にした少年に驚いて、つい声をあげてしまいました。
「ヤコブ君なの?元気になったんだ。もとに戻ったの?」彼はミカエルを見あげると、口もとから笑みがこぼれました。
貴志がヤコブと思った少年は、子犬を抱きながら立ち上がると、
「ごめんよ、僕はヤコブじゃなくて、ヨナタンです。君たちにはお礼を言います。アスタロトがモアブ国から軍隊も引き連れていたら、もっと大変なことになって、僕は助からなかったかもしれません」ヨナタン王子はそう言い終わると、貴志にすまなさそうな顔をしました。よく見ますとヨナタン王子は薄い水色の絹の洋服をはおっておりました。
「あっ、ごめんなさい。僕はてっきり、ヤコブ君かと思って…」貴志も間が悪そうにあやまりました。
「王子様、よかった。私、シモンを世話していたのにソドム城の前で見失ってしまったんです」澤口さんが子犬のシモンを見つけると、笑顔になり安心したようでした。
「さあ、みなさんもテーブルについてください」ミカエルがそう子供たちにうながしましたので、みなおもいおもいテーブルの席に着きました。
「みなさんの大いなる勇気よって、私たちは大役を果たすことができました。ありがとう。そしてこの旅もおわりになります。この船でゆっくりと休んで、疲れをとってくださいね」
ミカエルは子供たちにそう語ってねぎらいました。子供たちは少々お腹が空いていたのでしょう。テーブルに並んでいるクッキーだのケーキのお菓子や紅茶を飲むのに手をのばしました。
「今度はいつか、私たちの国カナンに招待しますね」ラハブ女王がそう子供たちに声をかけました。
「ありがとうございます。ぜひ、行ってみたいです。どんな国ですか」澤口さんが眼を輝かせて聞き返します。
「ソドムと違って緑が豊かで、湖の多い国ですよ。国賓として迎えますので、国の民もみな歓迎するでしょう」女王はそう答えました。
「澤口さん、カナンの国を私たちは『光の御国』と呼んでいるんだ。希望と喜びに満ちてる国だから、きっと気に入ると思うよ」ガブリエルは子供たちにそう話ます。
「いいよね。行ってみたいね。今度は楽しいそうだもんね」富田君がにこにこしながら言いました。
「ガブリエルさん、これから行けないの?」山田君が口ををぽかんと開けながら聞いてきます。
「まさか、これから行くわけにはいかないね。君たちを早く家へ送り届けるのが先です」
「ミカエルさん。ヤコブ君はどうなるんです。カナンへ行くんですか」貴志はみんなの話を聞いているうちに、ふとヤコブのことを思い出して心配しました。
「そうだね。たぶんカナンへもそのうち行くかもしれないね。でも、まずは元気になるまで、わたしが面倒を見ようと思っているよ」ミカエルはそう答えました。貴志はミカエルの話を聞くと、ヤコブ君とはしばらく会えないものとさとりました。貴志はなにか気が重くなり、お菓子にも手をつけなくなりました。
「山本君だけが悪かったわけじゃないよ。僕たちだけじゃヤコブ君を守れなかったんだから」仲谷君が貴志をなぐさめるように言います。子供たちはみな、貴志がとてもしょげてるようすが気になりました。
「貴志君。ここにいるタタファさんの友人のリフカさんも、ヤコブ君と同じなんだよ。
リフカさんの勇気ある行動で、ヨナタン王子と私が助けられたんだからね。そのため、リフカさんもアスタロトの犠牲になってしまった。それでこの船に乗れたのはタタファさんだけになんだよ」
「えっ、リフカさんて。あの意地悪そうな顔のひとが」貴志は不思議な驚きで、ガブリエルの顔を見上げました。
「貴志君、良心を守ることにみな一心になっているんだ。リフカさんとタタファさんも、もとは南国の島で国王に仕えていた高官だった。それがモアブのバラク王の軍隊により島の街も住民もすべて滅茶苦茶にされたんだね。彼の愛する妻や家族たちは今、モアブの国で牢に入れられ、囚われの身になっている。リフカさんもタタファさんも仕方なくアスタロトの部下になっていたんだ」ガブリエルの話に貴志は返す言葉がありませんでした。
「アスタロトが亡くなり、リフカさんも不運な身になったのでタタファさん一人だけが残ったんだね。それで私は彼にカナンの国へ一緒に行くよう説得したんだ。カナンで休養することをすすめたんだ。その間に、私の国ベテルのオグ王に彼の進路を相談しようと思っている」
ガブリエルの話に子供たちはだまって静かに聞いておりました。
「そんな気にせんでええよ。君らは頑張ってようやったと思ってる。わしらはリフカとよく話し合ったことをしたまでのことさ。それがわしとリフカがモアブにできる最後の反撃やったからね。それにしても、あの落雷はすごかった。あのつんざくような音で心臓が止まるかと思ったで」タタファはその情景を想いだすように言いました。
「そうですね、あれは天が示したアスタロトへの裁きだったのです。ヤコブ君が犠牲になってしまったことに、天が答えてくれたんでしょう」ミカエルが静かに言います。
「その前に、天が涙を流しました。私たちの争いを見て、なげいておられたのですね」ラハブ女王がそっと言いました。
「そうだったんか。あの子は王子とそっくりやったから。あの落雷がなければわしらは助からへんかったかもしれん」タタファはしみじみと答えました。
「そうだね。アスタロトは手ごわい。一歩間違えれば、私もミカエルも彼とは相打ちになって、今ここにはいないかもしれないね」
貴志はガブリエルの話を信じがたいような気分で聞いていました。あの狼兵士をいともたやすく切り捨てていたのに、アスタロトはそうではないと言うのですから。ミカエルさんとガブリエルさんでもっと早くアスタロトにあの剣で太刀打ちしたなら、ヤコブ君は助かっていたかもしれない。そう思い続けていた自分が間違っていたんだと知りました。
「ああ、どうやらアリエルの船が近づいてきたようだ。ほら、向こうに見えてきただろう」ガブリエルが食堂の船窓から指さす方に、いつの間にかあの大きな白い帆船が姿をあらわしていました。白い帆船は白波ををかき分けながらどんどんと近づいてきます。そのうちにこちらの黒い帆船へ、横づけにできるまでに並んできました。
「おうい、ガブリエル聞こえるかい。約束の時間には間に合ったようだ」大声で呼んできたのは、あのえんび服を着ているアリエルでした。ガブリエルは席を立つと、船首のデッキへと向かいました。
「アリエル、ごくろうさま。私たちもなんとか約束通りにこられたよ」ガブリエルはうれしそうに答えます。
「天のご加護のあるあなた方が、オグ王の計りごとをしくじることがありましょうか。私はぜんぜん心配してはおりませんでしたよ。必ずや王子と女王様たちをお連れしてこられると信じていました」アリエルはそう答えると口元のひげを指でなでると、満足げに笑みを浮かべました。
「おうい、ベンジャミン。渡り板を用意しろ。その前にロープをガブリエルに投げてあげてくれ」
「はい、船長」ベンジャミンはすぐさま用意していた太いロープをガブリエルに向かって投げ込みます。
ガブリエルはロープを受け取ると、デッキのボラードにロープを巻き付けました「ベンジャミン、こちらはいいよ。引いておくれ」
二隻の帆船は不思議と船腹が寄りそうようにくっつき始めました。するとベンジャミンが渡し板をかけ始めます。
「ガブリエルさん、渡し板の用意が整いました。しっかりしてますよ」ベンジャミンはそうガブリエルに伝えました。ガブリエルは「ありがとう」と答えると、食堂へと戻りました。
「ミカエル。準備ができたよ。ラハブ女王、用意が整いました」ガブリエルは食堂のみんなにむかって言いました。
「そう、お別れの時がきたようですね。みなさんとは短い間でしたがご縁ができました。また会える日が楽しみですね。それまで元気でいらしてね」ラハブ女王はそう子供たちに別れの言葉を口にすると、ほほ笑みかけました。
「はい、女王様もお元気でいてください」澤口さんがそう返事をすると、ラハブ女王は立ち上がり、ヨナタン王子に目をやりました。
「みなさん、ありがとう。みんなの勇気でこうして救われました。みなさんは天が記憶されておられますので、なにか困ったときには僕を思い出してください。不思議なちからに満たされると思います。それじゃあ、今度はカナンの国で待ってますからね」
ヨナタン王子は立ち上がると、子供たちに一礼しました。子供たちもあわてて椅子から立ち上がり、おじぎをします。
「さあ、ラハブ女王。あちらの船でアリエル船長が待っています。ではミカエル、今度はカナンで会おう」
「そうだね。これからもまだ難題が待ち受けているだろうから、よろしく頼むよ」ミカエルは笑ってガブリエルに言います。
「わかっているよ。私は上官のあなたに従っていくのみさ」ガブリエルはそう言いおわると、くるりと向きをかえてデッキへ歩んでいきました。ガブリエルの背中をおおっている金の鎧に陽の光があたり、まぶしく反射しました。そのガブリエルやラハブ女王の後を追って、子供たちもぞろぞろと甲板へと続いていきます。
ガブリエルは渡り板に足をかけると、
「みんな、またいつか会う日まで元気でいてよ。その時はさらにもっと活躍してもらうからね」ガブリエルにそう声をかけられた子供たちは、別れの寂しさを感じたのか、なにも答えずにしょんぼりしたようでした。
ラハブ女王とヨナタン王子も、そろそろと甲板にかけてある渡り板から向こうの帆船へと移りおわると、子供たちの方をふりかえりました。
「さようなら。さようなら」ラハブ女王とヨナタン王子はそう子供たちに別れの言葉を投げかけました。澤口さんは瞳をぬらす涙を指でぬぐいながら、さようならと返したかったのですが、口にでませんでした。
タタファも後を追うように白い帆船に乗り移ると、子供たちに両手をふりあげ、笑顔もふりまいて別れの気持ちを表していました。
「アリエル、これで全員が乗り移ったよ。カナンへ向かって出発だ」ガブリエルがアリエルにそう声をかけますと、
「わかった。ベンジャミン、船を離して、出発の用意だ」船長に言われてベンジャミンは渡り板を外すと、ミカエルからロープを受け取って巻き始めました。すうっと白い帆船がミカエルの船から離れ始めると、船首はゆっくり陽の当たる方へと向かいました。ガブリエル、ラハブ女王にヨナタン王子らは、子供たちを見るために船尾へと歩を進めながら、別れをおしむように手をふっておりました。
子供たちもさびしさでしょうか何かしれず押しつぶされそうな思いを吹き消そうと、必死に手をふり続けます。でもみるみるうちに白い帆船は遠ざかっていき、小さな点のようになってしまいました。
「これから君たちの家に帰るよ。全速力で進むから、早く帰り支度をにしましょうか」ミカエルが子供たちにそう言いますと、また三本のマストの帆がするするっと広がったかと思うと、ばんっと風を一杯に受けて進み始めました。
子供たちはミカエルに言われると、もう見えなくなったガブリエルたちの乗る白い帆船との別れの思いを切るかのように、しずしずと船室へ戻りました。
「みなさん。帰り支度とは、いま着ている神官の衣装を、家から着ていた服と着替えてもらうことです。下の階の泊まった部屋に用意してますから、お願いしますね」ミカエルに言われると、子供たちは回れ右をして、そろそろとデッキの階段へと向かいました。階段下りると、廊下と寝室のドアが目に入ってきました。
「なつかしいわあ、ここの寝室。また泊まりたいな」澤口さんはそうおもわず口にしました。
「へえ、もうなつかしいの?そんなに日も経っていないと思うけど」山田君は澤口さんの言葉を耳にして、不思議そうに答えました。
澤口さんはきっと山田君をにらみ返すと、目を廊下の部屋へとうつしました。澤口さんはささっと自分の泊まった寝室へ向かうと、ドアのノブを押して部屋の中をながめまわしました。
「ここに泊まったのよねえ」そうなつかしさに心をひたしてる声が、彼女の寝室のほうから聞こえてきす。
廊下の奥には洗面所があり、銀のしゃこがいのろうそく受けには火が灯されていました。仲谷君は洗面所を見ながら、「この下の階に、あの若い兵士さんたちが今もいるのかな」そう考えをめぐらしていました。
「早く着替えるぞ」山田くんは仲谷君にそう言うと、先に部屋に入りました。貴志と富田君も自分たちが泊まった部屋に入り、着替えをしました。
子供たちが着替えを済ませて、食堂へ戻ってみますと、ミカエルはその奥の天井が黒水晶の部屋で待っておりました。壁には金色の巻貝のろうそく台があり、赤々とした火が灯されていました。あの素敵な白い毛皮のソファーがもう一つ、前の時よりも増えています。
「この部屋は君たちも感じてるかと思うんですが、自然の目には見えない力を与えてくれるんです。先ほどソドム城の聖殿で戦った若い兵士たちも、この部屋で力をやしなってから参戦したんです。君たちも家に帰る前に、この部屋でゆっくり休養するといいですよ」
ミカエルに言われると、子供たちは思い思いに毛皮のソファーに座りました。壁飾りの金色の雫も子供たちをいやすかのように降りそそいでいるようです。黒水晶の部屋で子供たちは不思議な力に満たされました。
「ミカエルさん、あの若い兵士さんたちの姿が見えないんですけど、今どこにいるんです」
仲谷君がミカエルに問いました。
「その前に、ちょっとこの鎧を外させてもらうよ」ミカエルはそう言いながら、金の鎧を胸からはずして、黒い半そでのシャツだけになりました。
「あの若い兵士たちは、もうこの船には乗っていませんよ。みなさんがガブリエルたちとの別れの時に、下の船室にも出入り口の通路があって、そこから向こうの船に乗り移ってるんです」ミカエルは口元に笑みをたたえ、いたずらっぽく答えました。
「えー、いつの間に。さっき着替えで寝室にいった時は、そんなところがあるなんて気づかなかったな」仲谷君はまゆをしかめるようにいいます。
「ミカエルさん、ベラ王が生きてる限り、またヨナタン王子がねらわれるってことになるんじゃないですか」貴志がそう問いました。
「ベラ王は、モアブのバラク王によって造りだされた魔王です。ですからベラ王を倒しても、また新しいソドムの王を、バラクは造りだすでしょう。ソドム城の狼兵士もバラク王の魔力を借りてベラ王が造りだしたものです。彼らについてはそれほど、恐れてはいません。これからは私の部下である若い兵士たちを、しっかりと王子たちを守る護衛兵としてつけますので、今後問題は起こさせませんよ」ミカエルは真剣な眼差しで貴志に答えました。帆船の船腹からは、ざざあっと波音がときおり聞こえてきて、船はたんたんと静かに進んでいきます。
「はい、そうなんですか。バラク王っていうのは、とてもやっかいなんですね」
貴志はミカエルの答えに、なにか全体が見えてきた気がしました。
「ガブリエルさん。カナンの国へは私たち、いつ頃行けるんですか」澤口さんは楽しみしていることがいつになるかと聞いてきました。
「そうですね。みなさんが私たちをまだ覚えていて忘れないうちに、オグ王に取り計らってもらうよう進言してみますよ。
でもこの度、私は祖国でオグ王から、あなた方を召命するよう命じられました。それは天意に従ったことですので、オグ王のみで決められたことではないのです。ですから次回がいつになるかは、はっきりとは言えません」
「えっ、なんか言ってることがよくわからないんですけど、ミカエルさん。もっとやさしく話してくれません?」澤口さんの言い分に、ミカエルは苦笑いをしています。
「澤口さん。今、一緒にミカエルさんについて行ったらいいんじゃない。いつになるかわからないんだからさ」富田君が冗談まじりで言いました。
「あっ、おれも一緒に行ってあげるよ」山田君がにやにやしながら言います。
「いやよ、急に変なこといわないで」
「なんだよ。何も悪いことなんか言ってないのに」
「あなたはデリカシーがないんだから、カナンは似合わないわ」
「なんだよそれ。おれの知らないこと言うなよ。そんなんわからなくてもカナンへはぜんぜん行けるよ。ねえ、ミカエルさん」
「はい、そのくらいにしておきましょうか。もうそろそろ、みなさんが初めてこの船に乗った港に到着しますよ。降りる準備をしてください」ミカエルはそう子供たちに言いました。
「えっ、だってミカエルさん、行くときは一晩この船で泊まったほどソドムは遠かったのに、帰りはなぜこんなに速いの?」山田君はミカエルに疑うよう問いました。
「みなさんが、ソドムへ行くのを恐れて、すぐに帰りたくても無理だと思わさせるために、いくらか遠回りしたのです」ミカエルはそう答えました。
「なんだあ、そうだったんだあ。だましたんだね、ミカエルさん」山田君がおしむような口ぶりで言います。
「山田が一番自分の都合しか考えないから、ミカエルさんが余計に心配したんだよ」仲谷君がいやみをこめるように言いました。
「なんだよ、仲谷。おれが全部悪いような言い方すんなよ」山田君がひねくれたように文句を言います。
「いや、そんなことはないですよ。山田君一人だけを心配したわけじゃない。みんなが初めてのことに恐れるのは仕方のないことです。王子たちを救出するために、やむを得ずしたのです」ミカエルは子供たちをさとすように言いました。
貴志はふとミカエルを見あげると、彼の後ろに立っているこげ茶色の大きな柱時計が目に入りました。あっ、不思議な柱時計、ひさしぶりだな思った貴志は、時計の針が3時半くらいを指さしているのを見ました。この時計のしめす時間て何なんだろう、合っているのかな、そう貴志はあやしんでいました。
そのうちに、帆船は波音も静まって、すうっと止まったようでした。
「さあ着きましたよ。お別れの時が来ました。お家へかえれます」ミカエルは立ち上がると子供たちにそう言いました。
「ええっ、もう着いたんだ。なんかあっけないなあ。行くときはもう帰れないんじゃないかと思ってたのに」山田君は物足りなさを感じたのか、口をとんがらせて言いました。
「ほんと、もうこの船ともおわかれって、少し残念」澤口さんが言います。
「この船が気に入ってもらえると思っていました。また機会がくれば、みなさんとこの船でお会いするときがくるでしょう。それまでは私たちや王子を忘れないでくださいね」
ミカエルはそう言い終わるとデッキへと向かいました。子供たちも今度は本当にお別れの時を感じたのか、しんみりしながら後に続いて行きます。
「みなさん。桟橋へ下りる縄ばしごを用意しますので、ちょっと待ってください」ミカエルはそう言うと、手すりにまとめてある縄ばしごをほどいて、するすると下へ降ろしました。
「さあ、お別れです。みなさん、ほんとうにごくろうさまです。みなさんは大したことをしていないと思っているかもしれませんが、みなさんがいなければ、ガブリエルも私も、王子を救うことがとても困難だったでしょう。
そしてヨナタン王子との出会いを大切にしてください。みなさんの良心が育まれ、天啓を知るようになる時、私はまたあなた方のもとへ表れます」
「ミカエルさん。てんけいってなんです」山田君が問いました。
「てんけいって、天からの導きだよ。僕のおじいさんから聞いたことがあるんだ」富田君がはにかみながら、なにか言い分けでもするかのように言いました。
「それって、たとえばどんなことなんだよ。聞いたことあるのか。言ってみろよ」山田君が意地悪そうに聞き返します。
「やめろよ、山田。おじいさんから聞いたことがあるって言ってるだけじゃんか。くどいんだよ」仲谷君が富田君をかばうように言いました。
「天啓とは自分の心の思いではないことを、語られたことと思っていいでしょう。さてっ、もめるのはもうは終わりにして、船から降りる時がきましたよ」ミカエルはそう言うと、山田君に手のひらを差し出ました。山田君も自然に手をだすと、ミカエルはぐっと握手をしてきて上下に何度もふりました。
「お別れだね、山田君。元気でね」ミカエルの大きな手に固く握られると、その力強さにやさしさとぬくもりを山田君は感じました。そして握手された手から眼をはなせずに、「はい、さようなら」ともじもじして答えました。
ミカエルとの握手が終わると、山田君は縄ばしごに手をかけると、ゆっくり確かめるように足を下のほうにかけて、降りはじめました。
「それじゃあ、仲谷君さようなら。元気でね」ミカエルは仲谷君の手をしっかり握りしめました。
「ミカエルさん、さようなら」仲谷君もそう答えると、縄ばしごを降りました。
「富田君さようなら。元気でいてね」
「はい、ありがとうございます」富田君も手をしっかりと握らると、ミカエルの顔を見られずに下を向いて、ゆすられた手を見つめて答えました。
「澤口さん、さようなら。また会える時がくるでしょう。それまで忘れずにね」
「はい、絶対忘れません。ミカエルさんも元気でいてください」澤口さんは笑顔で答えましたが、頬には涙がこぼれていました。ミカエルは笑みを浮かべながら、力強い握手で何度も手を振り、元気づけました。
澤口さんは頭がゆすられるほどの握手をされると、ゆっくりと縄ばしごを降りていきました。
「貴志君、お別れだね。貴志君には無理なお願いをしてもらったね。よくやってくれたと思ってるよ」
「いえ、僕はなにもできていません。ヤコブ君のおかげで王子を助けることができたのに。僕はヤコブ君を守ってあげることができなかった」
「そうではないんだよ。みんなで協力して一つになれたからできたんだ。ヤコブ君も君たちと一緒に王子を救うための仲間として懸命だったんだね。貴志君は自分のできうる限りのことをやりとげてくれたと思ってるよ。それでヨナタン王子を助け出すことができた。それが貴志君とみんなが胸を張って誇れる成果だ。ありがとう」
「そうですか。そう言われると、なんかうれしいです」貴志はミカエルの言葉になぐさめられた思いがして、心のつまりがとれた気がしました。
「貴志君、さようなら。また会える日まで、元気でね」ミカエルは満面に笑みをたたえながら、握手をしてきました。貴志は自分の手が、ミカエルの大きな手にくるまれて、暖かい温もりを感じました。
「はい、ミカエルさん。さようなら」別れのつらさが胸からあふれてしまいそうなのを、貴志は自分で止められなく感じていました。
ゆっくりと金色の縄ばしごに手をかけ、下を見下ろすと、桟橋では子供たちが見上げて待っていました。縄ばしごを降りていく途中で顔を上げると、ミカエルがデッキの手すりに手をかけてほほ笑んでおりました。
貴志が縄ばしごを降りきり、桟橋で待っていた子供たちのもとに立つと、縄ばしごはするすると巻き上げられていきました。子供たちが縄ばしごが昇っていくのを見上げると、ミカエルが上から手を振りながら最後の別れを言いました。
「さようなら、みなさん。いつかまた会える時が来ます。それまで私やヨナタン王子のことを忘れないでくださいね。では元気でいてください」
船が静かに桟橋から離れ始めました。子供たちは帆船が波にでも引き寄せられるかのように、どんどんと離れていくのを不思議に見ておりました。
「さようなら、みなさん。さようなら」ミカエルが甲板から別れをおしむように、子供たちに向かって大きく両手を振っておりました。子供たちもあわてて手を振り上げ、ミカエルに別れのあいさつをかえしました。
帆船は見る見るうちに小さくなっていき、海に浮かぶ黒い点のようになっていきます。
甲板にいるはずのミカエルの姿も、もう見えなくなってしまいました。桟橋には潮風もゆるく静かなのに、急にばしゃんっと波の音がしたのです。
「行ってしまったね」富田君が言いました。
「みんな、これからどうする」山田君が聞いてきました。
「家に帰るしかないんじゃないか」仲谷君が答えました。
「私、早く帰るわ。家族が心配しているから」澤口さんがすこしあせるように言います。
「僕は向こうから来たんだけど。仲谷君はどっちから」貴志はもしかしたら一緒に仲谷君と、同じ帰り道にならないかと聞きました。
「僕はちょっと違うね。確かあっちのほうだったね」
「たぶん、みんな違うんだよね」富田君がにこっとして言います。
「じゃあ、みんな。わたし帰るね、さよなら」澤口さんは手を肩のあたりまで上げて小さく振ると、桟橋を下りて砂浜へと歩み始めました。
「おれも帰る」山田君もそう言うと、桟橋から砂浜へぽんと飛び降りると、澤口さんとは違う方へと歩いて行きます。
「じゃあね、さよなら」富田君も笑顔を見せてそう言うと、さっと砂浜の方へと行ってしまいました。
「山本君、僕も帰るよ」仲谷君が貴志の眼を見ながら別れを言うと、すたすたと桟橋から浜辺へ下りていきました。すると振り向きざまに貴志に方へ、手を高めに上げて振りながらどんどんと遠ざかっていきます。
貴志は一人ぼっちになりました。桟橋に立つ足もとを見ると、板の木目の模様が古びて薄くなっているのも、貴志に寂しい感じにさせました。貴志は顔を上げて、桟橋を歩き始めました。桟橋からいくらか離れたところでカモメが、ああう、ああう、鳴いて飛んでおりました。貴志はカモメを見上げました。
「あのカモメ、ソドム城からついてきたカモメかな?」貴志が空を見上げると、陽もずいぶん傾いてきて、暮れかかろうとしています。
貴志は友達の姿も見えなくなり、今までに出会ったことが、まるで夢の出来事のように思わされました。
桟橋の後ろから、ざばんと波の音が聞こえ、ふとわれに返りました。砂浜へ下りて、自分の家へと向かう道を探しました。確かこっちだったかなと、小高い雑草のしげった丘に登ると、ぼんやりと思い出が残る砂利道を見つけました。貴志はやっぱりこっちだね、と思いながら砂利の坂道を歩みました。道が折れ曲がっているのを進むと、片側に並ぶ外燈も見えてきて、貴志はこの道で大丈夫と安心しました。しばらく先へ進むと道のまわりには背の高い草むらが見えてきて、まわりが見通せないほどすすきが茂っていました。
「あっ、あった」貴志はこげ茶色の大きな柱時計が夕陽に照らされて立ってるのを目にしました。柱時計の針は4時になる少し前を指しております。
「なんだろ、船の中では3時半位だったけど。やっぱ合ってるのかな」貴志は不思議に思いながら、柱時計に手をかけるのに近寄ろうとしました。でも、足元の草むらを何歩もかき分けなければならないほどですから、すぐに思いとどまると、家へと向きをかえました。
どんどん進んでいくと、自分の家の玄関が見えてきましたので、貴志はホッとしました。
さっと玄関のノブに手をかけ、家の中に入ってみましたが、家族の気配がしません。やっぱりなんかへんだなと思いながら、貴志は階段を昇り、自分の部屋へと向かいました。ドアは開けたままになって、部屋の中も貴志が外出した時と同じたたずまいでした。
貴志はふうとため息をつくと、「つかれたから、もう寝ようかな」そう言って、服をパジャマに着替えます。ベッドと布団の間に体をしのばせますと、いつものなじんだ毛布に安らぎをおぼえました。貴志はすぐ深い眠りにさそわれて、すやすやと寝息をたててしまいました。
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