第5話 リフカの決意
点々と洞窟の廊下の壁に灯されるたいまつが、先頭を歩くいたちの給仕をゆれてるように照らします。子供たちはそのいたちをたよりに後に続いて、固い岩の床を進みました。
「いたちさん、お部屋は遠いの?」澤口さんは少しうれしそうに聞きました。
「きゅうう。もうちょっと先だよ」いたちの給仕は答えました。
「もう少し先って、どのくらいなの?」澤口さんはおもしろがってもう一度聞きました。
いたちは首をひねると「もっと下の方に行くんだよ」と答えを返しました。
洞窟の廊下はゆるやかな下り坂になってきました。しばらく行くと、廊下は枝分かれになり、いたちは左へ折れて曲がりました。するとさらに急な下り道になり、子供たちも足もとがつんのめりながら歩くようになりました。
廊下の天井はだんだん低くなってきて、がさがさの岩はだが子供の手でも触れるくらいですので、子供たちはなんだかこわくて、心もとなくなってきました。
「ここだよ」いたちの給仕は坂道の途中にあるドアの前で、首を伸ばしてにおいをかいでから、そう答えました。いたちの給仕はぎぎぎいっときしむ音のするドアを押して、中へと入っていきました。部屋の中は薄暗いですが、左右の壁にたいまつがともされています。子供たちも部屋の中に入っていくと、山田君が「うっひゃあ」と声を上げて両手で顔をなぜまわしました。薄汚れた天井にはクモの巣がびっちり張っており、いたるところからたれ下がっておりました。そのクモの巣が山田君の顔にひっついたようです。
「きゅうう、どうしたの」
「どうしたのじゃないよ。この部屋、クモの巣だらけじゃないか。汚い部屋だよな」山田君はぷんぷんして、いらだちながら答えました。
「くもがどうかしたの?」いたちは何が気に入らないのとでも言ったふうに、首をかしげて山田君の顔をのぞき込みました。
「ええっ、クモの巣がある部屋なんて、ふつうじゃないよ」山田君はなんでわからないのと言いたげに、いたちの顔を見ました。いたちの給仕は急に飛び出してきた山田君の顔を見ると、鼻の頭をぺろぺろとなめまわしました。
「あははははっ」澤口さんはあまりのこっけいさに、思わず笑いが止まりません。貴志もついつられて口もとがゆるんで、笑ってしまいそうになりました。
「いたちさん。ベッドなんかが見当たらないようですけど。どうしたらいいんです」澤口さんが聞きました。
「ベッド?そうだね、ないね。じゃあ、持ってこさせる」いたちの給仕はそう言うと、頭を後ろにくるりと回して、すたすたと廊下へと姿を消しました。子供たちはいたちが戻ってくるのをしばらく待ちました。
「ここは客用の部屋なのかな」仲谷君がそう広くもない洞窟の部屋を見わたしました。
「しかたないよね。僕たちバラク王だっけ、その使いだからね」富田君が笑みを作って言いました。
「やっぱりわたしもみんなと一緒の部屋?まっ、そのほうがいいかな。一人よりも」澤口さんがため息まじりに言います。
「きいい、ベッドを持ってきたよ」いたちの給仕がやってきますと、後からヒグマの料理長とその部下が何頭もしてベッドをぐらぐらさせながら運んできました。
「ぐぐうう、ここでいいんですかい」ヒグマの料理長はそう言うと、熊たちはベッドを部屋の中へむりに持ち込むと、いい加減な場所に5つのベッドを向きもばらばらに勝手に置きました。
「あらあら、どうしたらいいのかしら」澤口さんは笑みをふくみながら言いました。
「きゅうう。なんかだめなの?」いたちの給仕は首をかしげて澤口さんの顔を見ました。5つのベッドの回りを10頭のヒグマが囲んでいますので、部屋の中はぎゅうぎゅうづめで、子供たちは身動きさえとれそうにありませんでした。
「ううん、何でもないの」さわぐちさんはそう言っていたちを見ると、にこっと笑いかけました。
「きゅうう、いいんだね。だいじょうぶなんだね。ヒグマさん、帰るよ」いたちの給仕はそう言うと、すたすたと廊下へと出て行きました。
ヒグマの料理長は言いました。「ぐうう、おうい、お前だち。ベッドはそこにさ置いてかえるだぞ」部下のヒグマたちは、へえいと答えてぞろぞろと廊下へと出て行ったかと思うと、姿が見えなくなりました。背の高いヒグマたちが部屋の中を歩き回ったので、天井にあったたくさんのクモの巣が、ヒグマたちの頭にからんでとれてしまい、いくらかさっぱりとした部屋になりました。
「このベッド、わらをしいてできてるんだね」富田君がベッドに座ると、なぜまわしながら言いました。
「むしろって言うんだろ」仲谷君もとなりのベッドに座りながら言いました。
「ちくちくするし、なんかわらくさいね」富田君が顔を少しくしゃっとさせて、いやな顔をして言いました。ヤコブはなにか言いたげなようでしたが、にこにこと笑っていました。
子供たちがそれぞれのベッドに座ると、すこし困ったことが起きました。頭の位置を好き勝手にして置くと、隣のベッドには友達の足があるのです。
「山田、足をもっとベッドの中に引き入れろよ」仲谷君が山田君の足に我まんしきれなくなって言いました。
「少しぐらいいじゃん。真ん中はなんかが足にちくちく当たって痛いんだよ」
「またけんかを始めるの?いい加減にして」澤口さんがちょっとあきれたように、二人をたしなめます。
「そうじゃないよ。ベッドで少しくらい痛いのはみんな同じなんだから、足をわざと顔の真ん前に出すのは嫌がらせだよ」仲谷君は自分が正しいとばかり言い返しました。
すると、どんどんとドアをたたく音がします。
「神官たちはおられるかな」ドアが開いて、部屋を見まわすようにのぞき込んできたのはアスタロトでした。子供たちは驚いてアスタロトを見入りました。異様な殺気だった空気が洞窟の部屋に満ちたからです。
「お休みのところ、ちょっとおじゃまするよ。
ヤコブに話があるんだ」アスタロトはそう言うと部屋の奥のベッドに座っていたヤコブをするどい眼で見つけると、にんまりと笑みを浮かべました。
「おおう、いたいた。ヤコブ君、さあちょっと来てくれるかな。これから大事な話があるんだ」アスタロトはヤコブにそう話しかけました。
「あっ、僕も一緒に行きます」貴志はヤコブのことが心配になり、アスタロトに勇気をもってそう言いました。
「いや、だめだ。これからベラ王とヨナタン王子についての大切な話があるのだ。ヤコブしか連れていけない」アスタロトはそう答えると、ヤコブ向かって手招きをしました。
ヤコブは貴志の顔を見ながら少しさびしそうな様子をしましたが、口を横にきっと結んで立ち上がりました。
「ヤコブ君」貴志は心配そうに呼びました。
「だいじょうぶ。話が終わったらすぐ戻ってくるから」ヤコブは貴志にそう告げると、ベッドのすきまをすり抜け、アスタロトの立っているドアへと向かいました。
「ふうむ。さて、これから大事な話を心して聞かねばならんぞ。ヤコブ君」アスタロトはそう言うとヤコブの肩に手をまわして、くるりと振り向き、暗い廊下へといざないました。そうして二人は部屋から見えなくなってしまいました。
「ヤコブ君、大丈夫かな。後をつけようと思うんだけど」貴志がドアの方へ向かうのに立ち上がりました。
「やめといたほうがいいよ、山本君。ヤコブ君が危なくなるだけじゃない」富田君が言いました。
「そうかな。ヤコブ君が危険じゃないかな」貴志はそう言い返しました。
「山本君もアスタロトに見つかると、どうなるかわからないよ。二人とも一緒にやばいことになると思うよ」仲谷君がさとすように言いました。
貴志はゆっくりベッドに腰を落とすと、まんじりともせずに言いました。
「そうだけど。ヤコブ君の身に悪いことが起きなければいいんだけど」
洞窟の廊下を進むアスタロトはヤコブの顔を見下ろして話し始めました。
「ヤコブ君、さっきの宴をどう思ったかね」
「どうって、ちょっといろんなことがあってよくわかりません」
「ふうん、ラハブ女王をどう思ったかな」
「ヨナタン王子と離ればなれにされて、かわいそうでした」ヤコブは答えました。
「そうだな、そこでひとつ君に協力してもらいたいのだ。ヨナタン王子の身代わりになるのだ。なあに、いっときの間だけだ。このソドム城からはちゃんとゾアルに帰れるようにしてあげる」アスタロトは口を横に引いて薄笑いをうかべました。
「アスタロトさんは二人を助けようとしているんですか」
「ううむ、そうだな。二人を助けるというのは、今はまだ無理だな。とにかく今日の宴で王子と王女が再会はできたが、もう今後は会える機会がないだろう。だから、君がいる間は彼らのために手助けしてやってほしいと思うんだ」アスタロトはゆっくりと洞窟の廊下を歩きながら、ヤコブをどこへかと連れていくようでした。下り坂の廊下を進みますと、十字路の分れ道になり、アスタロトはヤコブを右に曲がるように肩に手をやりました。その十字路の影にかくれていたリフカとタタファが、さっと二人の後ろへとついてきました。
「僕が身代わりになるのがばれたら、ベラ王が怒り出すと思いますけど」
「ふうん、ベラ王はいちいち地下の牢屋へは見に行かんよ。それに奴は眼があまり見えんのだ。宴の時に自分でそう言っていただろう。臭いでかぎ分けているのさ」
「犬みたいですね」
「犬ではないが、まあバラク様が取り立ててもちいたカエルの化け物なんだがな。それゆえ私もベラ王のことはよく知っている。その私がこうして言うのだから大丈夫だ」アスタロトは左手でヤコブの肩を抱くようにして得意げにゆすりました。四人の行く先にドアが見えてまいりました。そのドアに近づきますと、アスタロトがノックをしました。
「私だ。アスタロトだ。開けてくれるかな」
はい、ただいまと声がすると、ぎっぎぃっとかんぬきを抜く音がします。するとドアが開き、キツネの執事がどうぞと手招きしました。そこは最初にベラ王と会った待合室でした。
四人が中へ入りますと、キツネの執事はアスタロトの横にいるヤコブを小さな丸い眼を見開いてじっと見つめました。
「いいかなキツネ君、ヤコブは見なかったことにするんだぞ。その方が身のためだ。わかったな」
アスタロトがにらみつけながらそう言いますと、キツネの執事は静かに頭を縦に振りました。
「よろしい。素直でいい子だ。では、あちらのドアを開けてくれるかな」アスタロトは奥の方にあるひとつのドアを指さし、キツネの執事をうながしました。
「はい、いますぐ」キツネの執事はそう言いますと、指のさした奥のドアへぴょんぴょんとかけよって、かんぬきをぎぎっと抜きました。ドアの向こうには四角い石壁で下りの階段が見えます。アスタロトはまたヤコブの肩を左手でかかえるよう導いて、その階段へと続くドアに向かわせました。
アスタロトとヤコブが石の階段を下っていきますと、リフタとタタファも後からぞろぞろとついて行きます。四人が待合室から出てしまうと、ばたんとドアが閉まり、ぎぎっとかんぬきのかかる音がしました。
四人はなんの話もせず、どんどんどんどんと階段を下っていきます。踊り場のようなところに着くと、まっすぐに続く廊下と、さらに反転して下りている階段とがあります。
アスタロトは階段の方を選んで下りていきます。足もとの暗い石段を下りていくのもなれてきたころ、階段は終わってしまい三差路になって分かれていました。アスタロトは右に曲がるのにヤコブの腕を引くようにして連れて行きました。石畳の廊下の奥で灯されているたいまつが、うっすらと見えるドアとそこに立っている狼兵士を照らしておりました。
「おおう、狼兵士よ。お役目ごくろう。今夜はもう休んでよいぞ。疲れただろう。ラザク将軍には私から話をしてあるからな。ここにうまいものを持ってきた。あとでゆっくり召し上がるといい」アスタロトはそう言うと、タタファに目配せをしました。タタファはふところからおおきなハスの葉っぱにくるまれた肉のかたまりを取り出し、狼兵士に差し出しました。「ぐるるるっ、これをもらっていいんですかい?ありがたいこって。なあに、もう今日の門番の仕事はそろそろおわりにするところだったんで。こんな地下の牢屋にはだれも来やしないんですぜ。ガブリエルを一番奥の牢に入れてるんで、ベラ王様も安心してるんでさ」狼兵士はそう答えると、ハスの葉にくるまれた肉を受け取りました。
「ほほう、それからお前の代わりに私の部下、タタファを見張り番につけさせる。だから気がねなく休んでもかまわんだろう」
アスタロトがそう話すと、狼兵士は体をゆすりながらおじぎをすると、いそいそと石段の方へと向かっていきました。
アスタロトはドアにかかっているかんぬきをはずすと、中へと入っていきました。ドアの向こうは石畳の廊下が続いていました。残る三人も、アスタロトに続いて入っていきます。すぐ右手に、太い格子状の木の柱で組まれている檻が目にとまりました。
「おおう、ヨナタン王子。ここにおられたか」
アスタロトは檻の中のヨナタン王子を見つけると、にやりと笑みを浮かべて話しかけました。檻の奥のわらのしかれた木箱のようなベッドの上に、ヨナタン王子はまんじりともせず座っておりました。王子はベッドのござのすみのしみのようなのを、せつなさそうな眼で見つめておりました。すると王子は手の指を上下にゆらし、なにかの合図をしてるように見えます。
「あまり気がすぐれんようですな、ヨナタン王子。そんなに思いつめると体によくない。運命とはどうなるかわからんものです」アスタロトが檻の中にいる王子に話しかけると、まわりの石壁のせいで、声が二つに重なり合って、やけに大きく聞こえます。
アスタロトの声を耳にしても、ヨナタン王子はござのはしっこを見つめているままです。
「今日は良い話を持ってきましたぞ。私が王子をここから出してしんぜよう。王子にとってまたとない幸運ですな」アスタロトはそう言ながらポケットから鍵をとりだすと、檻の扉にかかっている錠を外しだしました。
アスタロトは檻の扉を開けると、中にいるヨナタン王子のもとへと歩み寄りました。
「さあ、私が母君のラハブ女王のもとへお連れしますぞ。どんなにか母君が喜ぶ顔になるか目にうかびますな」
「なんの思惑でこんなことをするのです」ヨナタン王子が顔を上げて、強い口調で問いただしました。
「人の好意は素直に受けるものですぞ。それが母君のためになり、しいては自分のためになる。ほほう、こんなところにアリが何匹もいるとは。アリと仲良く遊んでおられたのかな」
「ここではアリだけが私の一番の友達です。アリは僕のためにわざわざここに来てくれたんです」ヨナタン王子は静かに答えました。
「なるほど、さすが良心の基である父君の息子ですな。こんな暗い洞窟にアリの巣などあるはずがないのだからな。さあて、なにもかも支度はととのえてある。母君が待っておられますぞ。行きましょう」アスタロトはそう言うと、ヨナタン王子の腕を持ち上げ、立つよううながしました。そしてゆっくりと立ち上がる王子の腕を引いて檻の外へと連れ出しました。
ヨナタン王子は檻の外にでると、ヤコブのいるのを目にして、思わず声を出しました。
「どうして君がここにるの?」ヨナタン王子はヤコブが来ているのを心配してたずねました。
「王子のためですぞ。このヤコブという少年は、王子の身代わりになると願い出たので、ここに連れてきたのです」アスタロトはヤコブの代わりに答えました。
「ヤコブ君、ほんとうなの」ヨナタン王子はヤコブの本心を知りたがりました。ヤコブは、はいと小声で返事をしながら、少しだけ首をたてにふりました。
「だめだよヤコブ君。アスタロトの話にのっちゃ。彼の口から出る言葉にはいつわりしかないんだよ」
「おやおや、私にはまるで信頼というものがないようですな。まあなんと言われようとかまわんがね。今夜は王子が喜ばれる顔になることを受け合いますぞ。そのためにわざわざ出向いたんだからねえ」アストラとはそう言うと、ほくそ笑みながら王子の顔を見ました。
「さあて、細工は流々。後は仕上げだ。その王子の服が目立ちすぎるからな。では二人とも着ている上着を脱いで交換するとしましょうか」
王子とヤコブはそう言われてもよくわからずに、立ちんぼのままでした。
「なんだ、言ったことが分からんのかな。リフカとタタファ。この二人の服を脱がせて、着せ替えるのだ」
リフカとタタファはアスタロトに命じられると、王子とヤコブの服を脱がせようと、そでやえりくびあたりを持ち、引き上げようとしました。
「自分で服を脱ぐよ。無理に引っ張んないで」
王子はそう答えると、トルコ石のボタンをボタン穴からはずしだしました。ヤコブも着ているマントを頭から脱ぎます。二人は脱いだ服を取り替えると、着がえをしました。
「よしよし、それでいい。ヤコブ君、王子のためだ。ささっと、檻の中に入るんだよ」アスタロトはヤコブの肩を軽くたたいて、檻の扉へと向かわせました。
「入っちゃいけないよ、ヤコブ君。今からでもまだ間に合う。アスタロトの話をことわるんだ」王子はそうヤコブに言いました。
「なんで、そんなくだらんことを口にするのかねえ。すべてがいいことずくめなんだから。だめですぞ、王子。物事はちゃんとわきまえてから話さないと。さっさっとヤコブ君。入って、入って。また迎えに来るんだから、心配ないぞ」アスタロトはヤコブの両肩をぐっとつかむと、檻の扉から中へ一緒に入っていきました。
「なあに、いっときだけだ。すぐに時間がくる。そんなに王子も長い間、母君と一緒にはいられない。もしベラ王に見つかると、私の立場もやっかいなことになる。ありんこもいるし、いい友達になるだろう」アスタロトはにやりとほくそ笑むと、檻の外に逃げるように出てから、扉の鍵をガチャリとかけました。
「ああ、どうしたらいいんだ…」ヨナタン王子の言葉は、消えゆくもやのようにしか聞こえません。
「これでよしと。ヤコブ君、しばらくしたらすぐに来る。それまでおとなしく待ってなさい」アスタロトはそう言うと、後ろに振り返り二人の部下に手招きしました。
「それではリフカとタタファ、打ち合わせした通りにたのむぞ。それからリフカ、これが例の鍵だ。王子をきっちり守ってくれよ。お前たちに後をたくすんだからな」
「へい、だいじょうぶで。まかせてください。あっしら二人がいれば、王子一人を守ることぐらい、なんてことはありゃしません」リフカハそう答えると、細い目でにやにやと笑みを浮かべました。となりのタタファも大きな目をアスタロトに向けると、おうむのように何度もうなずきかえします。
「ならば私はこれからベラ王に会いに行く。たぶんに約束はとれてるんでな」
「へい、わかりました」リフカがそう答えるのを聞くと、アスタロトはさっと背を向け出入り口の牢屋のドアに手をかけました。それから、くるりと首を横に向けると、
「では、たのんだぞ。しっかりとな」そう言いうとリフカとタタファを横目でにらみつけました。アスタロトはドアを開け向こうの廊下へと姿を消してしました。
洞窟の廊下からしばらくはかつんかつんとアスタロトの靴音がこだましていましたが、それも聞こえなくなりました。
「ふうう、やっと行ってくれた。まったくあいつがいると、息苦しくていけねえ」リフカがそう小声で口走りました。
「ししっ、聞こえるぞ。まだ気をつけな」タタファは素早く牢屋のドアをしっかりと閉めました。
「そうだな、やつに聞かれたら何もかもおしまいだ。では、打ち合わせ通りにやるか」
「そうしよう、おれはアスタロトの言う通り、このドアの向こうで、見張りをしているぜ」タタファがそう返しました。
「おれはこちらの王子を約束の場所へ連れていく」リフカはちらりと下目づかいをして王子を見ました。
「ところで、奥にもまだいくつか牢屋があるようだから、タタファ。ちょっと見てきてくれないか」
「おう、わかった。今見てくるよ」タタファはそう言うと、奥の方にある牢屋をのぞき込みに行きました。
「いないなあ、こっちもおらん」タタファは廊下の左右にある檻の中をのぞきながら、ずんずんと奥の暗がりの方へと進んでいき、姿が見えなくなりました。すると、最後まで見終わったのか声だけがやまびこのように鳴りひびいて聞こえました。
「おうい、リフカ。最後まで見終わったけど誰もおらんぞ。どうする」
「なんと、困ったもんだ。どうしたものか」リフカはひとり言のようにつぶやきました。
「いったい、何をしんてるんです」ヨナタン王子がふしんに思い、たずねました。
「王子が知ってるかわからんけれど、ガブリエルが閉じ込められている檻を探してるのさ」リフカはそう答えました。
「ガブリエルだって、知ってるよ。なぜガブリエルを探すんです?」
「今はそんなこと、話してるひまはねえ。アスタロトに気づかれる前にやらないとな」リフカは少しいら立った調子で言いました。
「ガブリエルのいる牢屋は、その天井にある秘密の扉から、上の階に上がるんです」王子はそう答えました。
「上の階なんだ。天井に扉があるのかい?」リフカは廊下の天井を見上げ、探し出しました。
「小さな木枠の扉があるんです」ヨナタン王子も一緒になって暗がりの天井を見わたしまします。
「なんだい、王子はガブリエルが天井の扉から上がるのを見たんじゃないのかい?」
「いえ、アリが教えてくれたんです」
「なんだ、アリから教えてくれたっていうのかい?ほんとかね。それでどこにあるっていうんだ。そうだタタファ、天井に扉があるってことなんだが、お前の夜目がきくそのりっぱな目で見てくれるかい」リフカは暗い廊下の奥から戻ってくるタタファに、そう声をかけました。その声がこだましてるようにひびきます。
「おう、天井にかい。ちょっと待ってくれよ。
天井は真っ暗だし、明かりもなにもないからきついよなあ。おっ、なんかあるぞ。あれじゃねえか」タタファが天井を見上げながら廊下を戻る途中で、急に何かに指をさしました。タタファの声を聞いてリフカは、おっ、なんだ、みつけたのかいと言うと、走りよって行きました。ヤコブも檻にしがみつくようにして、三人の様子をうかがっていました。
「あそこを見てみなよ。扉じゃねえか」タタファがそうリフカに教えました。
「ううむ、どれどれ。おっ、そうかもしんねえ。ああ、そうだ、あれが上の階への扉だ」リフカも暗闇の天井にある扉を、さらに眼をこらして見つけたようです。
「でっ、いったいどうやってあそこの扉から上へあがるんだ?」リフカはううむ、とうなると首をひねりました。
「リフカ、おれの肩にのって、あの扉を開けけてみたらどうだい」タタファがそう言い出しました。
「おっ、そうか。じゃあやってみるかあ?」タタファがしゃがんで肩を下ろしましたので、リフカはタタファの肩に足をかけ、タタファの頭を両手でしがみついて上へと乗り上がりました。
「ようし、立つからな」タタファはそう言うと、肩に乗ったリフカの足をささえながら立ち上がりました。
「おおう、こりゃいい。十分とどきそうだ。ようし開けるぞ。おっ開いた」リフカは開いた扉から身を乗り上げ、上の階をのぞき込みました。
「おう、リフカ上に登れるかい?もう、肩がもたねえんだよ」タタファは声をうわずらせながら、リフカに頼みました。リフカはちょっと待ってくれよ答えると、扉の四角い穴に胸ぐらいまで押し上げてみました。こんどは穴に両手を突っ込むと、体を持ち上げました。
「ようし、上の階へと登れたぞ。上にも牢屋があるぜ。さて、タタファよ、王子も肩車して持ち上げてくれ。おれがつかまえたら、引き上げるから」
「よし、わかった」タタファはそう言うと、ヨナタン王子のもとに行き、天井の扉の下まで連れてくると、両手で王子を持ち上げて自分の肩にのせました。
「さあ、どうだい。とどくかい?」タタファは立ち上がりながら、リフカに向かって言いました。
「ああんと、もうちょっとだな。王子、両手をおれのほうに上げてくれ」リフカがそう言いますと、王子はだまって両手をリフカのほうに差し出しました。リフカは穴からはいつくばるように身を乗り出して手をのばすと、王子の両腕をぐいっとつかみます。「王子、持ち上げるぞ」リフカはそう言うと、ヨナタン王子を上の階へと引き上げました。ふたたびリフカは扉の穴から下をのぞきこむと、タタファに声をかけました。
「じゃあなタタファ。この扉を閉めるぜ。お前はあと、見張りをたのむな」
「おうわかった。おれは見張りにもどるよ。リフカ、王子を頼んだぜ」タタファはそう言うと、牢屋のドアの方へと行ってしまいました。リフカは天井の扉を静かに閉めました。
「タタファさん、ヨナタン王子を助けるんですか」ヤコブが不思議そうに聞きました。
「まあな、お前もそのうちに助けがくるやろ。待っておれ」タタファがそう答えました。ヤコブはタタファの返事を聞くと、笑みがこぼれました。
「おっと、上の階は明かりが何にもありゃしないぜ。こりゃあ、ちょっとまいったな」
リフカはあたりを見渡すと、ゆっくりと歩き出しました。
「リフカさん、どこにいるんです。真っ暗でなにも見えやしない」ヨナタン王子もあまりの暗闇に眼がなれず、一歩も歩けずにおりました。リフカはヨナタン王子のもとに行くと、
「さあ、おれはここだ」と声をだして居場所を教えると、ヨナタン王子の肩に手をかけました。
「リフカさんをこんなに真っ暗な中で見つけられるの?」王子はそう問いました。
「ああ、おれは自分の国にいた時でも、こんな夜の森を狩りに歩き回ったことがある。ヒョウのようにはいかないがな」リフカはそう言うと、王子の肩をゆっくり押しながら、歩き出しました。
「ガブリエル、どこだい」リフカは檻に向かって声をかけました。
「ガブリエルさん。ヨナタンです。どこにいますか」
「私はここにいますよ。ヨナタン王子」奥の暗闇から声が聞こえてきました。
「おっ、声が聞こえた。あっちだ」リフカは王子の手を引くと、暗闇の奥に向かって歩みだしました。ヨナタン王子は何もない黒い色の中をどんどん進んでいるように思われました。ただ、リフカの手にひかれるままですから、転んでしまわないかと不安な思いでついていきます。
「ああ、なんだいこんなところにいたのか。ガブリエル、お前さんならこんな檻、いともたやすく出られると思うんだがね」リフカはすっとんきょうな声でガブリエルに話しかけました。
「なるほど、そうかもしれない。だが、王子の身の安全と、ほかの子供たちを助けるためにも、今はその時ではないんだ」ガブリエルはそう答えました。
「まあいいや。さあ、ヨナタン王子を連れてきたぜ。今が王子を助ける時だ」リフカはそう言うと、手に鍵を取り出して、檻の錠に差し込みました。がちゃっと音がすると、錠が外れたようでした。するとぎぎぎっと檻の扉が開かれました。ガブリエルの服かなにかののすれる音がしたのですが、王子には暗闇の中で何も見えません。ガブリエルは檻の扉をくぐり、外へと出ました。
「ちょっと、計画が変わってしまうんだけど。せっかくの好意だから、なんとかしないとならないね。とにかく、ありがとう。君の名は?」ガブリエルが問いました。
「おれの名はリフカ。今はアスタロトのしがない部下なのさ」
「どうして、ぼくを助けようとするんです」今度はヨナタン王子が聞いてきました。
「おれの国はアスタロトと、その主人バラク王の軍隊に攻められ、めちゃくちゃにされて滅ぼされた。おれはその国では第1級高官だった。タタファは第2級高官だ。それでおれとタタファの2人はアスタロトに捕まると、家族はみな人質としてモアブに連れていかれ、牢に閉じ込められてしまった。おれとタタファはアスタロトの命令にはそむけないと言うわけだ」リフカはさきほどの元気だった声が、だんだんと小さくなくなっていきました。
「だからといって、おれたちは心をすべて売ったわけじゃない。いつか自分たちは国をとりもどすさ。おれの国はヨナタン王子がさらわれた後に、モアブの軍隊が急に勢力を増して戦争をしかけてきた。だからヨナタン王子を助けないと、モアブの国はどんどんと力を増やしていくんだ。もしもカナンの国王シオンがバラク王の手に落ちたら、すべてはおしまいだ。この世から良心が消えちまうんだからな」暗闇の中で、王子はリフカの声に耳をそば立てていました。リフカは静かにつづけます。
「それでタタファと打ち合わせたのさ。王子を助けるんだとね」
「もしアスタロトに知れたら、大変だよ」ヨナタン王子がそう言いました。
「そんなことは百もしょうちだ。おれたちはもう、腹を決めているんだ。良心を守るってことは命がけだ。
ガブリエル、王子をよろしく頼んだぜ。おれはあんたの身代わりにこの檻の中にはいるから、あとから錠をかけてくれ」石畳をする足音がした後、リフカの気配がすうっと遠ざかりました。ぎいっと扉の閉まる音がします。
「さあ、ガブリエル、ここの錠をかけてくれ」ガブリエルは暗闇で静かにうなずくと、無言で檻に錠をかけました。がちゃりと音が鳴って錠がかけられると、ガブリエルはリフカに話しかけました。
「明日の朝、祭事がおこなわれる。その時、私は助けにくる。あの子供たちもすべて連れ帰るためにね。君の勇気に感謝するよ。ヨナタン王子はもう安全だから心配はいらない」
「さあ、礼はいいぜ。早く行ってくれ」リフカの声に応えるように、ガブリエルはヨナタン王子の手を引くと、暗闇の洞窟を歩み出しました。
おれの役目は終わった。リフカはそう自分の心に云いきかせていました。
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