Repack 5.その目は鏡をうつさない

 無事二度目の勝負を終え、私たちは再び見慣れ果てぬ廊下へと舞い戻る。

 人外相手の三本勝負は思ったより快調で呆気なく進み残り一勝負。私は些か肩透かしを食らっていた。


「どう、いけそう?」


「華奢だけど見た感じ頭脳派っぽくないか?」


「確かにそうかも、じゃあ無理ね」


「お前らわしの事なんやとおもてんねん」


 最後となった阿蓮君の相手探し──先の経験からどうしても一人で行動する気にはなれなかった。


「まぁまぁ、あれも彼らなりの思いやりなんだから素直に受け取っておきなさい」


「いうてな先生、あの調子やと何時までたっても決まりまへんで」


 粗暴で喧嘩早く勉学嫌いの遊び好き。運動の成績は悪くないものの、いざ競技となると漆原君のような生徒には及ばない。

 無論彼にも長所や良さはあるが、今望まれるのは勝ち取る為の力なのだ。腕っぷしの強さは仲間としては頼もしい限りだが、異形相手では期待は薄い。


「あーもう面倒くさい、こんなんやっとったら日暮れてまうわ」


 しびれを切らした彼は一喝と共に手近の引き戸に手をかけ、勢いよく開け放つと中の相手を確認する間もなく声をあげて宣誓する。


「わしの相手はお前じゃぁぁぁ!」


「なんだぁ?」


 かくして慎重を期すべき最後の相手は、大人の私よりも一回り大きな牛の化け物との相撲勝負と相成った。





 おおよそ子供とは思えぬ巨躯に追従していけば、そう歩かぬうちに校舎前へとたどり着く。校舎内をあれだけ散策したにも関わらず距離感を狂わせる現象は、何度経験しても慣れるものではなかった。


 校舎前には数多く異形の生徒たちが集まり、一回り大きな天狗の体が中央に用意された土俵の前で今か今かと手招きしている。


「それではただいまより我が校の生徒と人の子との勝負を執り行う」


「意義あり!」


 大小様々な視線が小さな私へ向けられ、それだけで気圧され臆しそうになるが今一度確認せねば教師として大人しくはしていられない。


「今回の勝負にはいささか無理があるのではないか」


「無理といいますと?」


「そちらの生徒と阿蓮君、見るだけで体格も腕力も差があることは歴然だ。今回の勝負はこちらにも勝算があるものを許可すると聞いているが、この二人で相撲などと勝負になるはずもない」


「いかにもいかにも、取るまでもなく勝敗は歴全でしょうな」


「では──」


 賛同する態度の矢先、天狗はこちらの口を塞ぐように口を裂いて顔を歪めると彼はその大きな体を広告塔にして全員に聞こえるように宣告した。


「此度の勝負、土俵を割る事のみを人の子の負けとする」


 金的・目つぶしなんでもありの喧嘩屋とあくまで相撲を取る力士の一本勝負。それならば此方にも一縷の望みがあるだろう。観客の異形たちも一方的な試合にはならないと分かるとある腕ない腕揺らしながら色めき立った。


「──それでも此方には有効打が無い気がするが」


「はて、その割にそちらの力士は死んではおらぬ様子」


 気付けば並び立っていた天狗の鼻先には意気揚々とした阿連君が腕を回しながら体を解している。


「それに、切れぬ鋏も使いようと言うではありませぬか」


 確かにやりようはあるが、彼が拠り所としているそれは出来れば使って欲しくはない。

 沸き立った観客を抑え納得させるだけの手段も力も今の私には持ちえない私は、ただ口を紡ぎ満足げな化け物の横に立つことしかできなかった。


「両者見合うて──残った!」


 合図が入ると同時、牛の大男は巨体を活かし小さな阿蓮君を押しつぶすような張り手を振り下ろす。

 対する阿蓮君は真正面から受け止める──かのように見せかけ低姿勢のまま敵の足元へと滑り込んだ。

 腕の内側へ潜り込んだ彼からは脛蹴りと金的。当然のようにそう動けるのは彼に競技という枠に縛られない柔軟さがあるのか喧嘩慣れした故か。

 常識や道徳に縛られない行動は像の足元を這う蟻のように大男の腕をかわし続けている。


「この糞餓鬼ッ!」


「お前も学生やろがボケぇ!」


 心情的には阿蓮君の圧倒──だが勝負は言うまでもなく大男の方が優勢だ。決定打を持たない以上勝敗は揺るがないだろう。

 大男もそれが分かっているのか挑発を受け荒れてはいるものの、すんでのところで爆発していない。


 それでも大雑把になる男の相撲は、ようやく彼に背後を取らせる機会を与える。


「とったぁ!」


 阿蓮君の勝鬨と共に引き抜かれた白い帯は、先だけを残しビクともしない。大男の廻しは糸状のもので強固に縫い付けられていた。


「おっま、卑怯やぞ!」


「お前にだきゃ言われたかねぇなぁ!」


 決定打を持たない以上こちらが勝つためには相手の反則を誘発させるか不浄負けを狙う他ない。阿蓮君はそれを理解して行動していたが、それはあの大男も同じだったらしい。


 虚を突いた大男の手は背中を壁にして阿蓮君の体を挟み固定する。抜け出そうと暴れる彼を意にも介さず背に手を当てたまま軽快に後ろへ足を運ぶ。


「このまま土俵の外で潰してやるぜぇ!」


「くそったれがぁ!」


 あっという間の土俵際で大男は意気揚々と背中から倒れこもうとする。このまま潰されれば勝敗以前に無事ではすまないだろう。


 取り巻く観客から熱を帯びた声が上がると同時、彼らが思いもよらない光景に息をのんだ。

 それもそのはず、阿蓮君を押さえつけていた大男の手が振りほどかれたのだ。


「──なんてな、荷運びご苦労ッ」


 予想だにしない出来事に大男は度肝を抜かれるが、姿勢を完全に崩した彼が取れる行動はあまりにも少ない。咄嗟に踏ん張ろうと力む男だったが、解放された阿蓮君はそんな男の廻しを掴むと意趣返しと言わんばかりにその巨体を投げ捨てようとする。


 結果として体勢の悪さから両者ともに土俵から退場となったが、どちらが勝者であるのかは審議するまでもなかった。


「勝負あり」


「うっしゃ!」


「人の餓鬼にこんな怪力出せるはずがねぇ、てめぇ何しやがった!」


「あぁ? 勝手に難癖つけてんちゃうぞ、わしはちゃんと真っ当に──」


 崩れ落ちる阿蓮君に駆け寄ると土気色になった顔は苦悶の表情を浮かべ、運動によるそれとは明らかに違う脂汗が彼の額から噴き出している。

 右手で押さえつけている左腕に目を向けると、試合前に巻いていた包帯の下から覗く肌がうっ血したように青黒く変色していた。


「そいつが仕掛けかぁ⁉」


「彼は怪我をしてるんだ、安静にさせてくれ」


「うるせぇ!」


 冷静さを欠いた大男の手が大人の私を軽々と吹き飛ばし土と砂にまみれてしまう。脇腹の痛みとこみ上げる吐き気を咳で誤魔化し、体にまぶされた衣を払うこともせず

阿蓮君の安否を確認するため視線を泳がせたが、既に彼の左腕は大男の手によって吊るし上げられていた。


「そらみたことか、この餓鬼こんなもん使ってやがった」


「うるっさいぞ、負け犬」


「立場が分かってねぇな糞餓鬼ぃ」


 怒気に染まった顔を歪ませ般若となった大男が吊るし上げていた左腕をそのままに阿蓮君の体を地面めがけて振り下ろそうとする。

 咄嗟の出来事に制止の声すら出せなかった私は確かに叩きつけられるはずの生徒の姿に目を瞑ってしまうところだったが、次の瞬間地面に叩き落されたのは角を生やした異形の巨体だった。


「おいおい、人の肩を持つつもりかい先生よぉ!」


「はてさて可笑しな話だ、私は見証けんぞとして真っ当な沙汰を下したまで」


「その餓鬼は勝負に呪具を持ち出したんだぜ、その腕を見てまだ言うのかい」


 包帯が破かれた腕からは青黒くなって見辛いが試合前に書いた剛力の二文字が書き込まれている。たった二文字だがあの巨体を投げ飛ばし、おそらくは今彼の腕を蝕んでいる要因だ。

 あの文字を書いた道具だけが三つの中で唯一注意書きが書き込まれており、不明な作用に私は使用を躊躇っていたのだが結局彼に押し切られた。


「これはまた随分と呪が回っている。余程彼が無茶な望みをしたのでしょうな」


「ざまぁねえな、腕一本持ってかれてもばれりゃ終いよ」


「はて、結果勝てたのですから無駄ではないでしょう」


「何言ってやがる、いんちきしたんだから俺様の勝ちよ」


「おやおや、私は一度も呪具を使ってはならないなどと言った覚えはありませんがねぇ」


 大男から再び怒気が湧く。

 今度は阿蓮君へではなく教師である天狗へと──


「あんた俺たちの先生なんだろう、そうまでする事あるのかい」


「あなた達の先生だからこそですよ。何が正しく何が間違っているのか教えるのも役目です」


「間違ってんのはあんただろう」


「おや、そう思うのなら示せばいいではないですか」


「示すだぁ?」


「そうです、いまここであなたの言葉が私の言葉より上であるという事──それを示しなさい」


 気温──いや体温が下がるのを実感する。

 熱気の残った観客から温度が消え去り、この場にいる誰もが声を出せない。


 強者である事が絶対である。

 歴戦の兵士でなくとも生物ならば誰にでも理解できる明確な殺意がこの場の正義と悪を明示していた。


 生意気な態度をとっていた大男も当然他の誰よりも酷く惨く、あれだけ大きかった巨躯は見る影もない。


 ここは学校ではなく絶対者である彼の玩具箱だとこの時初めて理解できたのだ。


「さて、それでは約束通り勝者には褒美を与えねばなりません」


「帰してもらえるのか?」


「無論ですとも、そのための勝負でしょう?」


 新しい玩具をわざわざ手放すものなのかと半信半疑ではあったが、さっきの今で彼の言葉に異を唱える勇気などありはしない。ただ彼の意がこちらに沿うものである事を幸運に思い私は痛みに耐える阿蓮君に肩を貸し、放心している残り二人も呼び寄せた。


 だが正気に戻った二人がこちらに来るよりも先に天狗の尾はその道を分断してしまった。


「君はこちらだ」


「えっなんで」


 漆原君だけが取り残され、そこまで来てようやく私は思考が停止していた事を痛感する。

 ここは彼の玩具箱、どの玩具とどの玩具を遊ばせるかは彼の自由であり舞台を用意したのも彼──勝負が始まる前に彼は私に何と言った?


「君は勝負に負けたでしょう。当然帰すわけにはいきませんな」


「まっ──」


「待て待て待てーい!」


 貸していた肩を震わせるほどに威勢の良い声がこの場の正義である者へ待ったをかける。

 未だ痛みに眉を歪ませてはいるがその瞳にはすでに力が戻っていた。


「黙って聞いとったらようもわしを置いて話すすめてくれとんの」


「おやおや随分元気なお子だ。普通なら痛みで声など出せぬはず」


「はっ、こんなもんちっとも痛ないわ」


 堂々とそして大胆に、彼は私から腕をのけて天狗のもとへと肩を切る。

 尾越しに今にも泣きそうな友を一瞥すると彼は化け物の首領へガンを飛ばす。


「うちの者が帰られへんっちゅうのはどういうこっちゃ」


「どうもこうも彼が負けたのは確か、敗者はこちらの褒美」


「おかしな話やのぉ、こいつと勝負した蜘蛛女は負けを認めとったど」


「如何にも、されどそれはあの子が勝手に認めただけの事。あの子がなんと言おうと私が定めた勝負であの子が勝利しこの少年が負けたのは曲げられぬ」


「まぁそうやの、それは曲げられんのぉ……せやけどちいとばかし酷とちゃうか?」


「はて酷とは?」


「そら酷やろこんな餓鬼に希望持たせて、あんたが負けた時点ですぐ教えたったらまだ諦めついとったかもせえへんかってんで? こら勝負以前にあんたにも比があったんとちゃうか」


「ふむ、確かに子供相手にいささか酷ではある」


「せやろ、それやったら──」


「とはいえ決まりは決まり、負けた彼を返す訳にはいかぬ」


「まぁまぁ最後まで話聞きいや、なんもタダで返せなんて言うてへん」


「ほう」


 その提案に天狗の顔が明らかに歪む。あからさまな表情に子供たちですら警戒し構えるだろうが、それでも彼は躊躇う事すらなく条件を口にする。


「わしの腕一本、代わりにくれたる」


 彼の発言に子供たち二人の目が見開かれる。驚きを隠せない内容に私も何かと言葉を発しようとしたが、その前に天狗の巨体が豪快な笑い声と共に震えた。


「友の身一つと腕一本! なんとも安く見られたものだ。はてさて我が身の安さに嘆く彼を憐れむべきか、さような引き合いを出された己が不甲斐なさを憂うべきか」


「何言うてんねん、そんな三下の命なんざわしの指いっぽんありゃ十分じゃい」


「おやおや、それはなんとも高く見ている。貴殿の体は金で出来ておいでのようだ」


「あほ抜かせ金なんぞよりよっぽど価値があるわい」


 啖呵を切った彼は腰を落とし、正に仁義を切る任侠者の立ち振る舞いで数十倍はあろう相手と同じ土俵に立つために奮い立つ。


「わしの名前は阿蓮 一刀、組を背負って立つ身として百を超える者の命を預かっとる。いずれわしはもっとでかなる、そんな三下の餓鬼一人なんかより値が上がる男の腕一本の方がお得やで」


「ではかような御仁が人の子一人に身を差し出すと。であれば値を知らぬのは貴殿ではないかな?」


「そいつにそんな価値あるわけないやろ、わしがそうすんのは我がの値を下げんためじゃ」


「腕一本で値が下がらぬと?」


「わしの身にはぎょうさんの者の命がかかっとる、せやけどそれはわしに命かけるだけの力があるて信じてくれとるからや。それがどうやちょっと連れ出した餓鬼一人満足に守れんなってみい、わしにはその程度の価値しかのうなってまう」


「それだけの為に差し出すと?」


「そうや、そんだけする価値があるいうこっちゃ、逆に腕一本くらい拍がついてええぐらいや」


 あの牛の大男ですら恐れる相手に一歩も引かず言い放つ彼の姿に私は驚嘆し体の芯が熱くなる、ここが劇場であったなら間違いなく彼は主役を張っていただろう。

 天狗はそれこそ腕一本だけでなく一口で丸々喰らい尽くせそうな人の子を値踏みするように見定めると、彼もその役者ぶりに満足したのか頭を低くして視線を合わせた。


「いいでしょう貴殿の腕一本もらい受けましょう。ただし本当にそれだけの価値があるのか示してもらいましょう」


「疑り深いやっちゃな、何させる気や」


「なに簡単なこと、私が腕を落とすあいだ貴殿は悲鳴を上げず耐えるだけでよろしい。悲鳴を上げなければ腕一本と引き換えに、上げればその価値無しと両方を頂きましょう」


「はっ、そんなんでええんか?」


「いやはや豪胆な御仁だ」


「阿蓮……」


 悲痛な面持ちで友に頼るしかない漆原君を傍らに阿蓮君は私たちを使い体の固定と咥える布を用意させた。

 大人として・教師として生徒の蛮行を止め身代わりになるべきなのだろうが、相手はそれを認めるとは思えないし、何より阿蓮君自身がそれを許さないだろう。

 私は必死に震えそうになる手に力を込めて切り落とされる右腕を伸ばし固定した。


「そちらの腕でよろしいので?」


「不良品渡すほど腐っとらんわ。あんたこそみみっちい真似せんとスパッと落とせよ?」


「無論」


 阿蓮君が脱いだ服の布地を強く噛み締めるのを確認した天狗は切り落とすためにその大きな前足についた鋭い爪をゆっくりと掲げる。左側を抑えている薊君はこの後起こる惨状に耐えられなくなったのか、きつく瞼を閉じて押さえるべき体にしがみついていた。

 私も意を決する為に天狗へと向き直り両足に力を込めようとしたが、そうする前に私の体は宙を舞っていた。


 一呼吸の間に私の体は土と砂にまみれ、痛みを感じる頃に聞きなれない音とくぐもった声が耳で混じる。

 ようやく転がり終えて閉じていた目を見開くと、事はすべて終わった後で阿蓮君の濁った左腕は新鮮な赤い塗料に浸かっていた。





「いやはや良い生徒をお持ちだ」


 校舎の隅に転がった廃材の横に獣が存在感も感じさせず現れる。阿蓮への止血処置が施された後、薊と漆原は互いに勝負した相手と校舎の中へ消えていった。


「結局貴方は何がしたかったんだ。こちらを惑わせたと思えば脱落しないように注意を払い、最後に蹴落としたと思えば情けをかけた」


「情け? おやおやこれが情けのはずありますまい。呪に染まった人の体は良い素材になるのですよ」


 そういって天狗は大きな葉で包まれた棒状のものを尾で持ち揺らす。侵されていた阿蓮腕はこうして彼に切り取られ、同じく彼による指示で治療を受けて眠っている。


「それに、私が何をしたいかなど貴方が一番理解しているでしょう」


 そういわれ男は押し黙る。彼のしたかった事を理解し、自分たちが新しい玩具である事を理解していても口にはしたくなかったからだ。

 天狗は理解者を得た面持ちで彼へ視線を注いでいたが、拒絶の沈黙に残念そうに息を吐いた。


「目的を果たしたなら助ける必要などなかっただろう」


「初めに取って食いはせぬと申し上げたではありませぬか、折角のお客人なのです大事に扱わねば」


「客人の腕を落とすことが貴方の丁重ということか」


「はて、何か勘違いをしておいでだ」


 天狗はあたかも不思議そうな声で語りかけるが、その表情はまるで罠にかかった獲物を前に舌なめずりをしているように口が裂け下卑た笑みがこぼれている。何も知らない小鳥がかかったぞと言わんばかりのその表情に男はうすら寒いものを感じ膝に置いていた手のひらを強く握りしめた。


「私の言う客人とはここへ道を開いた者の事を言っているのです」


「何を言ってるんだ、あの子たちが森から降りて迷い込んだんだ」


「それは気付いただけでしょう、それより以前森に入った時点であの子らは巻き込まれたのです。あの場にいたお客人に」


「あの子たちでなければ他に誰が────ぁ」


「そうです貴方ですよお客人。貴方が望み貴方が子らを連れてこの地へやってきたのです」


「馬鹿なッ、私はこんな場所は知らないし望んでもいない。こんな危険な場所知っていれば生徒たちを連れてくるわけないだろう!」


 激昂する男を見ても天狗は笑顔を崩すことなく彼を包み込むようにして体をすり寄らせると耳元に口を近づけ獣臭い口で笑う。

 癪に障る行為に離れてしまえばよいものの、男はそんな天狗の顔を正面からにらみつける。


「そうでしょうともそうでしょうとも、貴方は心優しい師の鏡。そんな事を望むはずがない──では貴方は?」


「私?」


「子らに慕われる師としてではなく貴方自身、心の芯にくすぶる貴方という一人の男は何を望む?」


「何を言って──」


「平穏平和な日々をただ歩き続け眠くなるような時間を死ぬまで過ごし続ける──そんなのは嫌だ! 新しい日々を、心躍る毎日を! 見たことのないものを見て触れたことのないものを感じたい──貴方が心からそう望んだからこそ道は開いたのです」


 ついには男の口が開かなくなり彼が彼の中で固まってしまう。そんなことはないと一言発すればすむだけの事に彼は閉口するという言葉でもって答えてしまっていた。


「客人として安全に劇を眺め僅かばかりの刺激と恐怖を享受する。いささか温いとは思いましたが今回のおもてなしはいかがでしたかな?」


「楽しめる、訳が──」


「無理に口で仰らなくてもわかりますとも、その顔は満足していただけたようだ」


 そう言われて男は今日初めて自分の顔に手を伸ばす。目・鼻・口──最後に唇をなぞるように触ると口角がまるで笑みを浮かべたときのように吊り上がっていることにようやく気付いた。


 今かここに来てからか、それともずっとか──頭の中はぐちゃぐちゃなのに表情だけは変わらず笑みを浮かべている。そんなちぐはぐな状態なのに誰かが彼に楽しい、楽しかった語りかけている。


「楽しんで頂けて何より、あの子も貴方のことを気に入っていたようですしまたいつでもおいでなさい。貴方のような外れた方なら何時でも、ずっと歓迎いたしますぞ」


「私、私は──」


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