Packet 27.鏡
意識はあれどその他一切が不確。酷く懐かしい感覚の中で彼は知っている声に耳を傾ける。その声は決して彼の名を呼ぶものではなかったが、確かにその声は彼の知るものだ。
あの時のようにこの様をなんとかしてもらえないだろうかと意識だけを声の主へと歩み寄らせる。だが以前のようには答えてくれず、ただただ名前を呼ぶばかり。仕方なく意識を何処へいったか分からぬ体へと集中させ、相手へ意思表示を目論んでいると、怒号にも似た声と共に返って来たのは手痛い平手打ちだった。
「痛っつ」
「ご、ごめん! だって思いっきりって言われたから」
実際に脳を揺さぶられた布津巳の一撃により、踏御は頬を抑えながら視界を広げ状況を確認する。
冷たいコンクリートに建築材による影の凹凸。日は完全に落ちきらきらと舞う塵は見えなくなっていたが、埃臭い空気は彼の眉を潜ませる。布津巳の手を借り鈍くなった体を起こすと耳が異音の正体を探り始め、その光景を直視し立場を理解する。
鋼をいなし骨を砕き、刃を交え肉を裂く。暗澹の中一人の剣士が異形へと立ち向かい二人の事を守っていた。
「起きたか⁉ ならさっさとここを離れるぞ」
止めとばかりに異形に刃を突き刺して、蹴り飛ばした勢いで天戸は布津巳を飛び抱え出口へと疾駆する。慌てて後を追う踏御だったが、二人と会話できる距離へと追い付いたのは建物を出て二人が彼を待ってからだった。
「それが取りに行ってたっていうやつですか?」
「あぁこれか。聞いて驚け、かの須佐之命殿が携えた十束拳──の破片じゃ」
「すさのみことって……それって奉納されてたやつを砕いて来たんですか⁉」
「阿保ぬかせ、そんな事をすればたとえ握っておらぬ器であってもただではすまぬわ。それにこれはうちの為に天津の鍛冶が打ち直した物、崇め奉られるほど人の世には語られておらん」
布津巳を守る足しにと取って来た彼女の牙は破片というにはあまりにも美しく。その刀身は月の明かりを一身に受け宝石のように煌いている。素人目でも見惚れるその宝剣に踏御は我を忘れそうになったが、廃墟からのけたたましい音が魅了の術を打ち破った。
「それより逃げなくても大丈夫なの?」
「大事無い、成りかけのままでは自我などほぼ無いからの。精々辺りを喰らうだけだろうて」
「あれってなんなんです? なんであんなのが突然……」
「おぬしがそれを聞くのか……まぁ言ってしまえば神様じゃな。神への成りかけ──出自はどうあれあれはその類いよ」
「あんなのが……」
暗くて全貌を把握できなかったとはいえ、彼が見たものはそんな神々しい姿では無かったと断言できた。醜悪さで例えるならば以前見た祟り神も引けをとらないが、あれはそういった視覚的醜悪さではなく、もっと内面を刺激する精神的醜悪さを放っていた。
精神的醜悪、彼はそこである事を思い出す。
「そうだ、俺と成り替わろうとした奴がいたんです。知ってる人の姿をしてて、突然力が抜けたと思ったら俺が目の前に……」
「ならあれがその果てなのだろう。大方手癖の悪い鴉どもが領分を越えて町にまで手を出しとったのかと思ったが、なるほど合点がいった」
「それっておかわりさまが他にも居たって事?」
「森の外はあやつの仕業じゃろう。人の畏れや不安を糧に形を成したといったところか」
「じゃああれも止めなきゃ、また誰かが犠牲になっちゃう」
「あれはもう違うモノじゃよ。以前のように人に取って替わる事はなかろうて」
「じゃあずっとここで暴れ続けてるだけなの?」
「そうとも限らん。成りかけは成りかけ、何れ落ち着くがその先が人に害及ぼす者かどうかはわからん」
豊穣を招くか災厄を招くか、転ぶ先は天戸ですら分からぬと聞き顔を青くする布津巳。彼女は対処を求めるも、その返答に珍しく天戸は言い淀んだ。
「あれは今生まれ出る者。猪神の時とは違って忘れ去られ消えゆく時を待つ者ではない。封じるには術がなく、神を滅する事など出来はせぬ」
「でもあれはまだ神様じゃないんでしょう? なら私と天戸ちゃんで──」
「いい加減にせよ布津巳。うちが何のために再び牙を取り誓ったのか忘れた訳ではあるまい。仮に神降ろしを使うたところで成りかけに手を出す方が被害が大きくなるやもしれぬ」
「でもこのままだと町の人がまた……」
彼女の脳裏には数日前の出来事。犯人を更生させ暴動を未然に防ぐことが出来たが、その実多くの犠牲者を犠牲者のまま見捨てるしかなかった事。そしてそれを伝えた時の無力感が彼女を焦燥へと駆り立てる。
天戸もその事は分かっていながらもこれ以上の無理は許さぬと苛立つ彼女を戒めそれ以上の言葉を黙殺した。
「俺がやります」
黙していた踏御が顔をあげる。まさかの提案に布津巳は自分の事を棚に上げて目を見開くが、天戸は静かに彼の決意を受け止める。
「何とかしますって、踏御君じゃ無理だよ!」
「先輩だって無理しようとしてたじゃないですか。それにもうどっちにしろ俺は事件解決しないと夏の新聞に載るんです、ここで失敗しても後で都市伝説作られても結果は同じですよ」
「策はあるのか?」
「あれがアイツなら策はあります。ただ準備に時間を下さい」
「おぬし先の話を聞いていたか? 今のあれに手出しするのは危険なんだがのう」
「成功したらお菓子のセットを箱で奉納しに伺いますよ」
「酒もセットなら手を打とう」
「俺未成年なんですが……わかりました」
「決まりじゃな」
「え、え? なんで天戸ちゃんまでやる気になってるの? 私じゃお願い聞いてくれなかったのに!」
主人としての威厳か天戸の胸を叩いて躾ける布津巳を抱え、三人は再び建物内へと歩みを進めた。
一閃、また一閃。そのひらめきには精度や技術は存在しないが速度だけは達人のそれをも凌駕する。
対するは肉の暴力。数多の肉が形状・硬度・特性を変えて無作為に周囲の物を貪り喰らう。
一見すれば独り相撲。自我の無い肉塊は天戸を狙う意志は見せていないが、それでも攻撃を受けた個所は反射か本能か彼女めがけて襲い掛かり、その反動からなのか肉塊そのものもゆっくりと彼女の方へと引きずられる。
手を出さず近づかなければ無害。されど近くで無防備を晒すのは危険。故に踏御が出した提案は天戸に施設一周分の時間稼ぎと誘導をして貰う事だった。
「──ッ!」
斬撃を放った腕が内側から爆ぜる、これで十数度目。その前には切った刃が蝶へと変化し飛んで行った。
変幻自在の塊なれど動きは緩慢で攻撃は直線的。切れぬ硬さの時もあれ躱してしまえば大差ない。
「まったく面倒くさいのお」
成りかけの本当に危険な点は千変万化するその特性。それも体の各所で変化し続けるのだから対策という言葉が存在しない。
干渉するなら玉砕覚悟の特攻あるのみ。そしてそれが許されているのは天戸自身の特性故。
「妃奈子!」
慣れた手つきで取れた腕を繋ぎなおすと、先行させていた布津巳を抱え次の誘導地点へと走り出す。定期的に手を出さなければ自発的に動かない為、この様な面倒を強要されている。
「大丈夫か?」
「うん、まだ全然平気。ごめんね我儘言って」
「うちの主どのは放っておけば何をするかわからんからな」
布津巳たっての願いからやむ無く連れて来た天戸だったが、結果としてそれが正解だったと思う。
殻の身である自身の体を動かすは少女の魂。言ってしまえば遠隔操作で動く彼女の体は殻ゆえに体が裂かれようと腕が爆ぜようとその身が朽ちる事はない。
少女が近ければ近いだけ、天戸という殻は十全の力を発揮できる。如何様に挑んでも傷を負う戦いにおいて布津巳を傍に置く選択は最適解だと言える。
だがそれは彼女が十全に戦えるというだけの解。その身は確かに異形に四肢を捥がれても再生し速さをもって翻弄出来ているが、不滅や無尽蔵という訳ではない。
「辛くなったらすぐに伝えよ。木偶の棒をおちょくるくらい訳ないからな」
「電車ではずっと寝てたしまだまだいけるよ。それにそういう台詞は腕吹っ飛ばしたりせずに言うものだよ」
笑みを返す布津巳の額に汗が浮き出る。殻を動かす対価を払い続ける少女の活力は異常極まる世に関わるにはあまりにか細く、それさえも今では重い枷をつけている。
眉をひそめ天戸は逡巡する。至上の勤めが布津巳を守る事ならば天戸はすぐさまにここを離れるべきなのだが、主の意志に背くか否か。
「駄目だね私、色々出来るかもって思えてくると頑張っちゃう。自分がここまで欲張りで我儘なんて今まで知らなかった」
「皆そうだよ妃奈子、おぬしだけではない。友を助けたいのだろう?」
「うん、踏御君を助けたい。町の人も助けたいし、もうあんな嫌な思いしたくない。だから天戸ちゃん、あれを此処でやっつけよう!」
「心得た!」
疲労が積もる布津巳を柱へと預け主の敵へと相対する。反動で動くだけの肉塊はあまりに遅く、外的要因が無ければ葉が舞い落ちる間に動きを止める。
まさに無用の神たたき。されど主の為に天戸はこれを続けねばならない。
「菓子と酒では足らんなこれは」
愚痴る間に一町以上の距離を詰め異形の足元を滅多切りにする。当然異形の反撃は切った数だけ襲い来るが、それを全て躱しいなし起きうる超常現象は全てその身で受け止める。
腕がひしゃげ足が生え耳が増えて天地が反転流転……だが天戸は腕が振るえなくなるたび腕を切除し再生し、地形が変われば飛び上がってでもその一点を探り当てようと肉を刻む。
「──ッ⁉」
だがあと僅かで連撃が止まる。何処かに飛ばされた訳でも金縛りにあった訳でもない。確かにそれも恐れていたが、天戸には眼前の敵を切る事が出来ない。
「
鏡のように光を反射する肉の一片。刻まれた傷口を守るように生え出た姿見には、かつて彼女が仕え敬愛しそして自分を置いて去っていった主君の姿が映し出される。
頭では虚像だと分かっていても、親であり師でもあったその御身を切る事は永い月日をもってしても躊躇う事を余儀なくさせた。
時間にして数秒か数分か、気付けば天戸の体は肉塊によって蝕まれ、刻んだ傷口を塞ぐように彼女の体があてがわれる。御身を写す姿見と共に異形へと沈みゆく天戸の目は奪われたまま剣を握る手からは力が抜けて肉の鏡へ抱かれる。
「天戸ちゃんッ‼」
幸せの幻影に消える直前、背後からの声に閉じた眼を再び開く。汗を流し息も荒く動く事さえ困難となった少女の──主の悲痛な叫びが天戸の後ろ髪をひっつかむ。
ここで沈んだところで彼女の主に害は及ばない。それどころか天戸が消える事で手の届く距離が狭まり、少女の日々は今よりも平穏なものとなるだろう。
主の事を第一に考えるならそれが最善。
だが、そうだとして──少女は一体何を失う?
友? 家臣? いいや違う。ここに至るまでに既に少女は多くを犠牲にやってきた。自身の我儘を叶える為であっても見合う犠牲と意地で立っている。
ならば彼女に仕える天戸も立たなければならない。折れぬのならば折れてはならない。主君が犠牲を払ってでも意地を通すのならば、己も犠牲を払わねばならない。
旅先での二人の秘め事。再び牙を手にし改めて主従を誓ったその瞬間から、天戸は彼女の心を写す鏡でなければならない。
「──御免ッ!」
沈んだ四肢に力を戻し沈んだ剣に力を注ぎ、天戸は鏡の後ろに隠れた傷口めがけて溜まった力を爆発させる。
無数の刃が弾かれながらも肉を裂き鏡もろとも沈みかけた天戸の体を押し突き飛ばす。刃の爆発は彼女の体を主の下へ運び届けたが、その惨状は主の瞳を濡らすのに十分だった。
「だ、大丈夫だから、すぐ治すから!」
「急がんでいい、妃奈子のおかげで上手くいった」
天戸はゆっくりと再生を始める自身の体から砕け散った剣の破片を一つ取り出すと、血だらけの手に持ち握り締める。すると瞬く間に破片は姿を変えて刀身の無い柄へと変わる。
「折角取りに行ったのに折れちゃったね」
「何をいうておる、折れてなどおらぬよ」
「へ?」
素っ頓狂な声と共に柄は生き物のようにかたかたと動いたと思うと無くなった筈の刀身は何時の間にやら長く長く再生し、その先は遠く離れた異形の中へと続いている。
狐に化かされたように布津巳が呆気にとられていると、気分を良くした天戸が裂けた口を歪ませ異形に向けて笑い放つ。
「暴れた所で折れはせぬよ、なんせ元から砕けておるからの。腹の中の刃を砕きたいのならそうさな、噛み砕いてみたらどうだ」
滅多切りにして見つけた奥まで続く一点。刃の通る硬度が続く細道を起点に異形の肉塊は体の内側から針を突き刺す筵と化す。
痛覚があるのかは不明だが、それでも異形は差し込まれた刃に反応しているのか、天戸が柄を捻るとまるで操縦桿で操作したかのように右へ左へ移動した。
「離れて突けば安全──という訳にはいかんが、これならば突っ込むよりも幾分ましだろうて」
「うん、よか──」
安堵と共に布津巳の体は糸が切れた様に天戸の体へ倒れ込む。病人の様に息の粗い状態ではあったが、主の安否を確認すると彼女は再生中のからだで担ぎ上げて異形の手綱を握りなおす。今なお異形の中で破損と増殖を繰り返す刃は何時の間にかかの者を肉塊から異形の河豚へと変えていた。
「剣の枝に血桜舞う──
ようやく出来た異形の口が皮肉に怒るように一声あげると、天戸は捕えた獲物を引き連れて時間稼ぎの廃墟観光へと歩き出す。
「さて、化け物退治か共食いか。無茶はするでないぞ踏御」
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