Packet 26.兆し

 ベッドやクローゼットに勉強机。およそ必要と思われる家具だけが置かれ、月あかりと電気スタンドだけが消灯時間を過ぎた室内を照らしている。

 初めこそ踏御は慣れない寮生活に窮屈さを感じていたが、今では飛び降りた窓からの夜景がお気に入りになっている。


『本当に災難だったわ』


 携帯から聞こえる彼女の声からは出会ったばかりのしとやかさはなく、抜け道で別れる直前の粗暴さがうかがえる。おそらく今の利己的な彼女こそが素なのだろう。


「その、彼の事を責めないであげて下さい。嘘をつくリスクを考えた上での行動だと思うんです」


『もう貴方のお姉さんから聞いてる、嫌というほどね』


 言葉通り布津巳から過剰な報告を受けたのだろう。普段人目を気にする彼女からは想像も出来ない呆れ顔が、その声色からは容易に想像できた。


『彼女には伝えてないけど彼とは別れることにしたの』


「え?」


『勘違いしないでね、ただキリが良かっただけで別に今回の件が原因じゃないの。この関係もここだけの話なのはお互い理解していたから』


 騒がれるのは御免だというふうに言葉を遮られ、踏御は淡々と聞き入れるだけ。

 得もいえぬ再会から始まった話はスキャンダルを嫌う両親により破局をむかえ。淡々と語られた愚痴は代々受け継がれた聖堂の秘密と共に幕を降ろし、彼女一人が舞台の上に残された。


『終始ご両親が付きっきりで耳打ち一つするのも大変だったわ』


「すみません」


『謝る理由が分からないわ。お互い分かっていた別れが早まっただけよ』


「でももっと上手くやっていれば……」


『起きた以上結果が全て、でもやもしもは無いの。貴方を責めてどうにかなる話なら初めから乗っていないわよ、狐泉高校二年の踏御 史君』


「え⁉ いや、なんで」


『調べたからに決まっているじゃない。それともそこまでは遊びの範疇外だったのかしら?』


「遊びって……やむを得ず協力してたんじゃ……」


『まさか貴方本当にあんな脅しで私たちが協力してると思ったの? だとすれば貴方の大根役者っぷりはハリウッドでも通用するから留学の手配をしてあげる』


「そんなに酷かったですか」


『彼が言ってたわ、君は詐欺師にだけはなるべきじゃないって。私は遊びの合図だろうってずっと思っていたけれど』


「うっ」


『でもありがとう。なんだかスッキリした』


 窮屈で退屈な日々。それでも自由で限られた時間を彩ってくれたことに彼女は感謝の言葉を述べる。

 結果は散々でさらに言えば第三者と言っても差し支えない騒動ではあったのだが、彼女が彼女として振る舞うにはたったそれだけで十分だったのだろう。心の機微すら電子信号へと変換する機械は、いつしか会話の相手すら変えていた。


『もう夏休みまであと一週間も無いけれど貴方たちはどうするの?』


「問題は解決したので姉さんたちが戻ってき次第、狐泉市に帰ろうと思います」


でしょ。貴方を置いて何処かに行ってるって事はあの二人が例のヤクザ絡みの人? それにしては随分お節介だったけど』


「違いますよ、あの二人は友人です! ていうか何処まで調べたんですか」


『あら、聞きたいの?』


「……やっぱいいです」


 屈託のない笑い声を聞かされると、ふと踏御の表情は曇り視線はとある部屋の方角へと向かう。会って間もない自分や誰かより、真っ先にこの声を届けて欲しい人物はもうここにはいない。

 布津巳ほどではないにしろ、彼もまた今回の結果に何一つとして納得できていなかった。


「こんな事、俺が言えた義理じゃないですけど委員長の事……」


『……私ね、ここを出たら本格的に父の跡を継ごうと思うの。女として家を繋ぐんじゃなく、望まれてもいない父の後継者として。可笑しいでしょ? あれだけ嫌っていたのに』


「いえ、立派だと思います」


『嫌味でもありがとう。でもそこまでいけば私は私を自由にできる』


「自由に、ですか」


『うんそう。だからそうなったら──そうなって私は彼に声をかけるの。今度はしがらみなんて言い訳抜きにして、もう一度最初から彼と出会うわ』


「きっと委員長も待ってると思います」


『最初からなのに待っててもらっちゃ困るわ。それにそうなるのはもっと先、大人になってからなんだから』


「それでもきっと待っててくれますよ」


『やっぱり貴方は外の人間ね』


 庶民の烙印を押され、彼女の口からはわざとらしい溜息と笑みが混ざり合う。これから流れる歳月は決して夢物語を彩ってくれるものでは無いのだと。

 だがそれでもと踏御は思う。上辺だけの彼女が消えて今の彼女が表舞台に立てるのなら、利己的な彼女は他の何を犠牲にしても自分の願いを叶える筈だからと確信する。


 気付けば窓から仰ぎ見る月は随分西へと傾きどちらからとなく話は終わる。過ぎ去った時間を認識すると最近しみついた習慣が働きだしたのか、以前の彼からは想像できない速さで体が睡魔を量産する。欠伸をかみ殺して寝る準備を済ませると、落ちそうになる瞼に最後の力を注いで届いていたメールを確認して眠りについた。





 翌日、学業を済ませた踏御は唯一となった外出手続きを済ませ、届いたメールの案件を手伝う為にアパートへと向かう。良くも悪くも別の事で手一杯なのか、道中感じる視線はもはや少年を射抜いていない。


 今にも底が抜けそうな音をたてながら手慣れた様子で我が家の扉を開けると、こもりにこもった空気が彼の顔面をゆるりと撫でる。日数としてはそう多くは無かったが、今ではボロアパートも学寮同様に彼の体に馴染んでいた。

 メールの文面通り帰って来ていない事を確認すると、言われた通りに着替えを見繕い、道中で二人分の軽食を詰め込み目的地へ向かう。

 乱雑に詰め込まれたリュックは彼を登山者へと変え夕暮れの街並からは浮き立たせたが、郊外へと到着する頃にはそう評価する者も消えていた。


 彼が辿り着いた先は学園からそう離れていない場所。部分的に自然が切り拓かれ町の中心から離れているのは学園同様だが、そこに建ち並ぶのは出来損ないの廃屋群。本来は著名人たちで賑わうはずだった避暑地は、いまや小さなゴーストタウンと化していた。


 不安が沸き立つよりも先に携帯で連絡を取り案内されるままに首の捥げた案内板を越えると、それだけで吹き抜ける風にさえ肌が粟立つ。なにより不格好な人工物とばたばたと靡く防音シートは効果的で、人が居ると実感できる携帯は暗闇を照らす明かりの様に思えてしまい、少年の手には自然と耳を押し潰すほどの力が篭っていた。

 一足早い肝試し。そうせざるを得ない要求と情報を提供した人物の声だけを頼りに吹き抜けの部屋を進んでいくと、踏御はようやく目的のホールへと到着した。


「あの、着きましたけど……藤崎さん?」


「ばあ!」


「──ッ‼」


 携帯の声だけに集中していた踏御は背後から掴まれた肩に声にもならない悲鳴をあげる。爆発した恐怖は体を反射的に跳ね上げて、不自然な力みは体からバランスを奪う。一面塵積もる床だけになる寸でのところで彼の腕は掴まれて不自然な体勢で固定される。その姿はさながら失敗した組体操のようだ。


「あの、なにをしてるんですか藤崎さん」


「いやー悪い悪い。まさか君がここまで驚くとは思わなくて」


「そうじゃなくて! いやそれもですけど仕事の手伝いで俺を呼んだんですよね?」


「そうだったそうだった」


 豪快に笑う藤崎の声は広いホールに反響し必要以上に耳障りな音へと変わる。声を聞いた踏御は経験上すぐに悪い方の彼だと理解すると、批難する事を諦め出来損ないの組体操から脱出した。


「それで手伝いって何をすればいいんです?」


「ん? あぁそうだな、そこに立っててくれればいい」


「立ってるだけですか?」


「そうそう。僕は離れて君を見張って異変が起きればカメラに収める。簡単だろ?」


 改めて対面すると藤崎は悪びれた様子もなく終始笑顔を貼りつかせている。沈みかけた憤りがぶり返そうとするが下手につっかかるよりも早く手伝いを終わらせた方が良いと判断し、踏御は渋々彼の要求に応える事にした。


 五分十分──立ちんぼが続き無為な時間は藤崎への不満へと直結し、苛立ちから体の揺れる回数が増えていく。 

 手伝いを頼んだ当の本人は物陰に横たわるようにして体を隠しているが、体のいい休憩をとっているのではと踏御の中では邪推が始まってしまう。


「あの、本当にこんなので心霊現象なんて撮れるんですか?」


「そりゃそうとも、僕と君がいれば必ず起きる。プロを信じなさい」


「その自信は一体どこから……というか喉大丈夫ですか? 随分しゃがれてきてますけど」


「ん? あぁそろそろかな」


「そろそろ?」


 横たわっていた藤崎が立ち上がると同時、踏御の視界は一変した。


 先程まで足先で弄っていた塵たちは視界一杯に舞い踊り一息するだけで喉を塞ぎ呼吸を乱す。覗き込んでいた物陰は見えなくなり、影を作っていた建材は遮蔽物として視界を制限する。

 こつこつと鳴る靴音は咽ていても鼓膜に響き、気付けば音の主が少年を見下ろしていた。


「気分はどうだい?」


「藤ッ崎……さん?」


「おっとここじゃあ息苦しかったか。そこまで気が回らなかったよ」


 そういって彼は少年を抱えるとシートのかかった建材を簡易ベッドにしてその体を横たえる。隣の建材を椅子代わりにして様子を窺う彼の表情は本当に申し訳なさそうで、慈愛に満ちたその顔は先程まで悪戯に笑みを張り付けていた人物とは思えない。


「あの……これっていったいどうなって……」


「さっきまで話してたじゃないか、心霊現象だよ」


「取材……いや、これって……大丈夫なんですか?」


「なに、じきに良くなるさ。取材はそうだな──悪いけど無しにしよう。どうせ撮ったところで誰にも見せられない」


「どういう──ッ!」


 そこまで話して踏御は異変に気付く。自分が話している相手が自分であるという事。藤崎であったそれはか細い光にゆらゆら揺れて、ゆっくりとだが確実に踏御へと変容し近づいてゆく。

 それと呼応するようにして横たわる踏御は力を失い、視界はかすみ感覚を失う。まるで眠りにつくようなその感覚はどことなく祟り神の霧を思い出させた。


「誰……だお前ッ!」


「酷いな、僕は藤崎さ。いやもう君かな?」


「本物の……藤崎さんは……」


「だからそれは僕だって。こっちに来てからずっと一緒にいたじゃないか。とはいえ彼であった感覚はもう希薄なんだけど」


 しゃがれていた藤崎の声がさらに酷くなる一方で、藤崎とも踏御ともとれる声の主はゆっくりとホールの中央へと向かうと、舞台に上がる語り部の様に一礼した。


「僕はね、実は僕が誰だか分からない。僕だったか俺だったか私だったか、それとも別の何かだったか分からない。そして実は僕がどういう存在なのかもわからない。事実君と会った時の僕は僕として生きていたんだ」


 それはもはやコールタールに溺れていて聞くだけで人を不快にさせるが、それは気にする事無く喜々として自分語りを進めていく。


「ただふと思い出すんだ、僕がどうすれば生きていけるのかを……生きていくには誰かを取り込んで誰かにならなきゃならない事を」


「お……前まさかッ!」


「おっと、おかわり様なんて名前はナンセンスというより正しくない。確かにそういった思想が形を成したものなのかもしれないが、根底はそこじゃない。どちらかと言うとそうだな……俺は俺に近いッ!」


 そういってポーズをきめて横たわる踏御を指差す踏御。横たわっている側の彼がこんな状態でもなければ何の頓智だと一笑していだだろう。

 それを知ってか知らずか、気持ちを汲んだ彼は嫌味ったらしい笑みを浮かべて横たわる自分を覗き見る。


「なぁ俺、俺は随分と可笑しな生き方をしてないか? 持って生まれたものに蓋をしてアイデンティティを守ろうなんて、そりゃ本末転倒ってもんじゃないのか?」


「うる……さいッ!」


「そのくせ多くの人が持ち得る才能は誰でも出来るからと無関心を気取って否定する。ちがうちがう、そうしないと俺だけが何もないと思い知らされるから無個性だと切り捨ててるんだ」


「黙れッ!」


「自分の個性に枷を付けて大多数の個性は貶める。まるでちぐはぐ……なぁ俺は何がしたいんだ? 持ってるものを否定してまで俺は何を求めてる?」


「糞ッ糞がッ!」


「俺が怯える俺の個性に、俺は多分懐かしさを感じたんだろうなぁ。だからすぐ取り込んでしまえばいいものを、まるで赤子をあやすように時間をかけてる」


「く……そ……」


「それじゃあな俺。俺はこの力を使って俺が拭えたはずの後悔全てを覆す」


 悪態をつく力も出し尽くした踏御だったものは次第に薄れ、透けた肉体は見た目通りの重さとなって吹き込む風に宙を舞う。ホールの中央に立つそれは踏御として、しかし絶対的に違う決意をもって数年来の蓋をこじ開ける。


「なるほど、思ったよりいいなこれ。取捨選択は面倒だけど色々思いつく……だけどなんか妙だな」


 あの日あの時、閉じた蓋は開いたはずなのに妙なしこりが彼の思考を未だ濁らせる。そのしこりはおそらく今までの彼では気付けないもので、未だ取り替わりきれていないそれだからこそ気付くもの。


「あぁそうか、これはあれか元々絞ってたのか」


 しこりに気付いた彼は今度こそ蓋を全開にする。あの日あの時、彼が大事にしまった贈り物は、今度こそこちら側へと道を開く。


「おぉ、いいなこれ! 断然いい! 予想以上じゃないか!」


 人・植物・動物・無機物。数えきれない個という端末が集める膨大な量の知識という大河。それも未だ整理もなにもされていない流れつく途中の源流。

 本来ならいかな者でも破綻するであろうその暴力を前にして、彼は確かに個として確立していた。


「おいおいこんなの全知の神にでもなれるんじゃないか? これだけの知識がもし扱えるなら、俺──僕私アレソレダレソレ? こんな出来損ないじゃなくてちゃんと生きる方法も──グゲッゲッゲッゴエ」


 だけどそこまで、 となった彼ではそこから先の見分け方まで知り得ない。

 大河の中に隠れ潜むそれら、何時も機会を伺っている彼ら。


 ──だから不用意に触れてしまっては、彼らは二度と君を離したりはしないよ。


「ゴエゴエグォ! ガゲゲゴゴゲルルゥ!?」


「ほんに不細工な鳴き声じゃのう!」


 肥大化し続ける踏御の体を鋭い牙が貫いた。


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