Packet 25-1.牙にかかるは仇か否や
「もう出掛けるんですか?」
靴の擦れる音が目覚ましとなり、半身を起こした踏御が問う。学生が目覚めるにはまだ早く、薄汚れたボロアパートの中はまだ暗がりの方が多い。
「ああ、今日は本社に出向かないといけないからね。君の件があるからまだ引き上げはしないが、帰って来るのは数日後になる。すまないがそれまで一人で頑張ってくれ」
東側に面した窓からは陽光が射しこんではいるのだが、未だ弱い日差しは直下の台所を照らすだけの照明と化していた。
当然、隣にある玄関まで光は届かず。踏御がどれだけ目を細めても男の顔は分からない。声だけで判別し回らぬ頭で生返事を返すと、二度寝の準備に入ろうとした踏御の目に古い万年筆が写り込んだ。
「あれ、今日は持っていかないんですか?」
「なにをだい?」
「万年筆ですよ」
「万年筆?」
藤崎の物言いに引っ掛かりつつも、会話を続けてしまった踏御はやむなしといった様子で万年筆を手に取り、体から布団を滑らせながら声の主へと持って行く。寝起きの目と限られた明かりでは視認できなかったその影も、ここ数日で見知った人物へと姿を現す。
きょとんとしている藤崎の前で欠伸を一つ。踏御はそれを差し出した。
「これですよこれ。大事な物なんでしょう?」
「あぁ、確かに大事な物だが書くものならもう持ってるよ」
「え? いやそうじゃなくて、お守りみたいな物だからって前に言ってたじゃないですか」
藤崎は少年から聞いたその言葉を数度覚える様に反芻すると、まるで解答得たりというふうに彼の手から万年筆を受け取り、何時もの様に何時もの場所へとそれを差し込んだ。
「……その、大丈夫ですか?」
「なにがだい?」
「いやあの、あれだけ大事にしてた万年筆を忘れるくらいですしその……疲れてるんじゃないかなって」
「疲れ、疲れか。確かに少し熱っぽい感じはしているから、この一件が終われば休暇を貰う事にするよ。心配をかけてすまない、戻ったら進展を聞かせてくれ」
「はい、じゃあ戻ったらまた」
「ああ」
金切り声をあげて開く玄関の入り口で男を見送る。
いつもの姿いつもの声いつもの口調。ここ数日で見知った彼とは何一つ変わらぬ筈なのに、言い知れぬ疑念は言葉に出来ぬまま金切り声と共に口を閉ざした。
眠たげな眼を日に焼きつつ寝不足による欠伸をかみ殺す。二度寝する気にもなれぬまま登校し授業に出た踏御だったが、普段と違う時間帯に起きた事を今更になって後悔し、寝損ねた朝の自分へ悪態をつく。
普段ならば周囲の優等生たちに倣いもう少ししゃんとしているのだが、今日はHRから教師不在の自習となっていた。
出来ていようがなかろうがなかろうが、提出さえしてしまえば何も言われない己が身分を最近になって理解した踏御は解答欄を埋める真似もせず周囲を見渡す。
大きく気を引く事さえしなければ誰一人として見渡されている事に気付かない状況に優越感を覚えつつ教師面を気取っていると、ふと空席がある事に気付きそれが誰の席か理解する。
咄嗟だったとはいえ脅し役を演じ協力させた罪悪感が案ずることへ転じ、おもむろに携帯から彼の連絡先へと指が動く。真相は明かされ事無きを得たのだから彼らを解放すればいいのだが、その為の一言が思い浮かばず文字を打つ指が止まっていた。
このまま有耶無耶にして姿を消せば済むのではと考え始めた頃、手の中の携帯が震えメールの着信を告げる。珍しい差出人に小首をかしげつつも短い文章を読み終えると彼はすぐさま返信を送り、次の授業を抜け出た足で布津巳たちと合流。花園のその向こう、密会場所として指定された礼拝堂へと足を運んだ。
何通かのやり取りの末に網を抜け、目的の場所に辿り着いた踏御は足を止め首をかしげる。
荒れているわけでも異臭がするわけでもない。手入れが行き届いた出で立ちからは清廉さが感じられ、建物は彼に正しく聖なる場所だと告げている。
しかしそれを加味しても有り余るほどに施設の端へと追いやられ、高い塀へと背中を預け、まるで忌み嫌われる様にこじんまりと建てられていた。
ここが本当に目的地なのかと踏御は疑わしく思ったが、到着の報せを電波に乗せると、まるで電子錠の様に聖堂の扉が開き中から少女が手招きした。
「そちらの方は?」
「ええと、姉さん達だよ。後追いでこっちに来たんだ」
聞いた本人にとっても重要では無かったのか、言い詰まった踏御の弁を気にする事無く急ぎ聖堂の中へと招き入れる。落ち着きが無い様は単に人目を気にしてというだけでなく、踏御がここへ呼ばれた理由に起因したものだろう。
「急にごめんなさい。でもこんな事を話せるの貴方しか思いつかなくて」
「それより連絡が取れないってどういう事です。委員長は今どこに?」
「実は昨日から外に出てるの。彼なりに事件について色々調べたいからって──あの子行方知れずなんでしょう?」
「ええ、でもそれなら解決しましたよ」
「本当⁉ じゃあお願い、彼の無罪を証明してあげて」
連絡が取れぬ昨日の夕方から教師の異変に気付いていた彼女は、情報収集の為に各所に設置した盗聴器を使い、彼が何らかの疑いにより警察に身柄を拘束されている事を知ったという。
確言は得られずとも騒がれる事件など失踪事件をおいて他になく、窮屈な鳥かごでは羽を飛ばす事すらままならない。
そんな中で調査をしていた踏御の存在はうってつけだったのだろう。
「本当に良かった。手違いでも警察に捕まった生徒が出れば事が荒立っていたと思うから」
「その、解決したとは言っても犯人や事件の真相までは……」
「そんな」
真相は常に法の外で内に残るは罪を抱えた少女だけ。大人達に信じて貰えるはずもなく、仮に案内できたところで今度こそ彼の地の霧は人の命を奪うだろう。
落胆の色を隠せない彼女ではあったがもとより偶然。すぐさま我に返ると、せめて様子を見てきて欲しいと踏御に願い出た。
「わかりました。それくらいなら俺達でもなんとかなると思います」
「じゃあすぐに町へ向かいましょう」
「理事長から禁足令が出てるから正門は駄目。外に出るならこっちを使って」
言うや否や彼女は聖堂の一室へと手をかけ、招かれた先は懺悔室。聖堂の大きさを考えれば仰々しい造りではあったが、三人が入るには些か小さかった。
「あのこれって……外に出るんですよね?」
「うんそう、外に出る為の入り口」
彼女は椅子をどかし奇妙な形の真鍮を取り出すと、小部屋の隅に空いた小さな穴へそれを差し込む。根元まで差し終えて手元の取っ手をぐるりと回すと、枷が外れる音と共に床の一部が跳ね上がった。
「貴方たちと違って私や彼はそう簡単に外に出れないからここから出るの。いまどき使う子なんていないけど」
床だった扉を押し上げると地下に伸びる階段が現れ、その暗い口に足を沈めながら踏御の中で忌々しい春の思い出が鎌首をもたげる。
だがそれも束の間。ランタンで照らされたのは陰鬱な地下道などではなく、舗装され真っ直ぐ壁向こうへと続く歴とした通路だった。
「凄い、こんなのよく学校側にばれないですね」
「一期生に敬虔なクリスチャンが居てね、聖堂はその人が寄贈したものなの」
「寄贈?」
「寄贈といっても彼女たっての願いを学院が受け入れただけ。上の聖堂もこの地下通路も全部彼女が手配して作らせたものだから」
地上から見れば塀まで距離はないはずだったが、塀付近での出入りは危険ということなのか終着点は目視出来ない。電灯を使わずランタンで道を照らすのも、それと同じ理由である事が窺い知れた。
「彼女はクリスチャンであると同時に随分な活動家でね。当時町民たちとの軋轢を解消しようと足繁く町に通っていた。当然学院側から危惧され外出禁止になってもね」
「それがこの通路」
「ただ当時の反発はちょっとした記事になる程度には酷くてね。そんな中で標的、ましてや子供が出歩けばどうなるかは明白だった」
似た経験に誰より近かった布津巳の顔は青ざめ、そんな彼女を天戸が支える。亡くなってはいないと補足されても、状況を知らぬまま嗅ぎまわっていたならば自身もそうなっていたかもしれないと踏御も息を吞みこんだ。
「逮捕者が出てからは町の反発も沈静化した。帰って来た彼女も人を憎まず気丈に振る舞ってはいたらしいけど心はもう折れていたんでしょうね、卒業を待たずに退学。以来教員たちは聖堂から目を背け、生徒の間にはこの鍵だけが残されたの。お好きになさって下さいってね」
鍵を受け取る際の語り草が終わると丁度終点へと辿り着いたのか、先導していた彼女がランタンを壁に掛けて鍵と称された真鍮を先と同じ様に操作する。通路に爆ぜるような音が響くと天井から光が射しこみ、そこへと続く階段があらわになった。
「念のために人目は避けて向かって。まだ知れ渡って無いとは思うけど、彼のことを知る人に見つかれば面倒事になるかもしれない」
「警察署に行けばいいんですよね」
「ええ、朝理事長もそこへ向かってるわ」
「おぬしは来んのか」
「え?」
「思い人か何かなのだろう? おぬしは会いに行かぬのか」
今まで一言も発さなかった天戸の発言に不意をつかれたのか、未だ地下から仰ぐ彼女は言葉を失う。
捕らわれの身ならいざ知らず、抜け出す手段があってなお会いに行かないのは何故なのか。まるで言い訳を探す様に彼女の口は開けては閉じてを繰り返す。
「この扉、内側からしか開閉出来ないから誰かが残らないと」
「そうか」
「それにほら、私今日病欠になってるから午後からお医者様が来るの。抜け出して騒ぎになったら彼にも迷惑がかかるかもしれないし」
「そうか」
「それに──」
「それに?」
「本当は怖いんだと思う」
「怖い?」
「騒ぎになって非難の的にされるのが怖い。抜け出す手助けをしたのが私だとばれるのが怖い。きっと自分の立場が危うくなる──そう思うと不安で仕方がなくなる」
自分ですら気付かなかった真情を理解すべく踏御達に向かって吐露していくにつれ、彼女はようやく合点がいったのか自嘲的な笑い声に崩れる体を通路の壁に擦り付ける様にして持ちこたえた。
「息が詰まるなんて言っておきながら籠の鳥でいることを享受してる。自分を囲うものに不満や反感を持ってるくせに、いざ取り払われると考えるだけで一歩も外には出られない。こんな事、言われるまで気付かなかった……馬鹿みたい」
「でもその彼を助けて欲しいのは事実なんだよね?」
「そうね、助けて欲しい。だって彼が警察に私のことを話してしまうかもしれないもの」
「そんな……」
「もうよい布津巳、そやつの中では今まで全てが嘘になってしまったのだ。すまぬな娘、要らぬ世話を焼いた」
乾いた笑みすら浮かべる余裕が無くなったのか、それきり彼女はうつむいてしまう。
布津巳から溢れる未練ありげな問い掛けも、いつしか天戸と共に去って行き、踏御だけが暗がりに埋もれる彼女を見つめていた。
「情報提供有り難う御座いました。前もって知っていなければ気付かなかったままでしたから」
「そんなことより貴方も急いだ方がいいわ。脅迫されてたなんてばれたら、ただじゃすまないでしょう?」
「言われなくとも何とかします。たとえそうでなくても、何とかしてみせます」
「なにそれ、正義感?」
「そんなんじゃないですよ。ただ折角解決したのに馬鹿らしいじゃないですか」
「馬鹿らしい、ね」
「それだけです」
「…………彼のこと、お願いします」
その一言がどういった気持ちからこぼれ落ちたものなのか、それは今の彼女自身にもわからない。
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