Packet 23.主従
それを聞いたのは何度目なのか、はたして彼女が本当に望んだものかも分からないが、彼女にとって今日最後となる待ったは今この瞬間に敵対関係を明確にした。
瞼を閉じようとしていた獣の眼は光を取り戻し、踏御と布津巳が身を竦めるように距離を詰めると前の天戸が二人を庇った。
「はて娘よ、守って欲しいとは何事か。此度の話は承知の上なのだろう?」
「違うわ、連中に鈴を奪われたからどうしようもなかっただけ。取り戻せたなら話は別よ」
「御使い殿。娘はこう言うておりますが?」
「──我等にはつれもなき事であろう」
天井を仰ぎ見ては人の胴ほどある尾を振って、如何にも如何にもと喉を鳴らす。なりが大きくとも動物特有の愛嬌ある動きは心が和むが、その場にいる人間は未だ凍える空気に喉を焼かれる。
落ち着きを取り戻した尾は気付けば南斉たちを囲い込み視界を遮ると、二人の目の前に獣の頭が近寄った。
「しかし娘よ、あの御方は神の御使い。一介の妖でしかない我等が手を出すには荷が重い」
「そんな!」
「だがこのまま引き下がるのも不憫で忍びない。そこでだ娘よ、一つ願いを聞いてはくれまいか」
「それを聞けば私達を保護してくれるの?」
「約束しよう」
「ならはやく教えて。そして二度とあの人達を近付けさせないで」
聞くや否や獣の口が横へと裂ける。鼻先だけで視界の殆どを覆われている南斉たちからでは目を細めただけしか見えなかったが、下卑た笑みが女二人を食い物にする瞬間を尾の外にいた者達は確かに捉えていた。
「ではおぬしの家に招いて頂きたい」
「どういう事?」
「すこしばかり呪いと、おぬしが招いてさえくれればよい。後は此方で事を済ませよう。なに憂う必要は無い、此処と同じ見えぬ場所に住まうだけ」
「随分と下手に出たものだな、もう山々を跳ねる力も残ってはおらぬか。確かに人の生では障る事もあるまいが──はたしてどちらもお望みかな外法坊?」
「なんとも意地の悪い尋ね方をされる。しかし住まう者が居なくなってしまっては何れ腐れ落ちるのも自明の理。我等はただ戸口を借り受けたいのです」
「そしてまた他所の者を攫うのだろう? やはりどちらもではないかこの山師め」
「山師などと。年老いても坊ゆえ、何時までも戯れていたいのだけなのです。居場所を失った者からすれば、それが救いになるやもしれぬでしょう」
「坊が救いなどとほざきよる」
「決めるのは我らではありませぬ」
「──分かったわ。貴方を私の家に招待してあげる」
未だ尾の内籠の中。見えぬ少女は約束を結び、今度こそ狗は裂けた口を隠さない。丸まっていた体を伸ばし天狗が尾を床から離した頃には、使役者として大きな獣と立ち並ぶ。
「ならもう知らん、好きにせよ。精々人を喰らうて儚き夢を見るがよかろ」
「おや、止めぬのですかな?」
「知った上でそう願うたならば、うちに止める義理などありはせぬよ」
「そんな! それじゃあ事件解決はどうするんですか」
「翁にはうちから話そう、蛍を助けた礼もあるからの。この地での騒ぎも長くは続かん。なんせ人気が途絶えてしもうては遊ぶ事すらままならんからのう」
言葉尻をとらえて踵を返すも目の前には二対の鴉。引き返すべき分水嶺はとうに過ぎたと言わんばかりに、背後からは獣の足が床板を鳴らす。
「我らが請け負ったのは守護。ましてやあなた方には二度と近付けさせるなとのお達し。人の子ならばいざ知らず、貴方を返すわけにはいきませぬ御使い殿」
「正気か外法坊。主殿から授かった名は伊達ではないぞ」
「約束は絶対。そう仰られたのは御使い殿ではありませぬか」
永劫続くやもしれぬ間は瞬きの内に爆ぜ、天戸の蹴りは空を切る。目で追う事すら難しい超人の蹴りは巨大な標的を捉える事は無く、標的は人外の速度で元居た場所へ跳び引いていた。
人ならば必殺となる蹴りを放たれ友好とはかけ離れた立場であってなお、獣は天戸への笑みと態度を変えはしない。
「やはり若き日には遠く及びませぬか」
「その程度なら止めておけ、儂が知る方々には遠く及ばん」
「承知しておりますとも御使い殿、あの方々に比べれば私の力など児戯に等しい。それは貴方にも同じこと……ですがふと思い疼くのです。老いた今ならば、衰えた今ならば私よりも遥かに生きるあなた方に指先が触れるのやも知れぬと」
力では敵わぬ、妖力では神通力には遠く及ばぬ。若気の至り良き日々に思いを馳せて、骨身を在りし日へと奮い立たす。幾度挑んでも届かなかった頂きに、老いた今だからこそ届くのだと幻視する。
「あなた方に及ばぬなど百も承知。しかしながら私めにもただ一つ、勝る者無しと誇れるものが御座います」
重心が沈み大気が戦慄く。人の子が獣の異変に気付くよりも早く姿は掻き消え、天戸の体が広間の壁へとぶち当たる。天戸の背後に居た二人が獣の影に覆われる頃には事は済み、出遅れた突風が音を乗せて吹き荒んだ。
足の遅い音よりも間の抜けた思考は事態を収拾しようと躍起になるがその苦労も虚しく、壁の残骸から矢の如く放たれた天戸の怒号に纏まらぬまま切り捨てられる。天戸の拳は的を貫かんばかりの勢いで振り下ろされたが、殴られた空気は着地と同時に虚しく広がった。
「そう易々と立ち上がられては、いやはや立つ瀬がありませんな」
「駄々子が守護などとは片腹痛い。遊び足りぬのならば他をあたれ」
「生憎とこのなりでは友を見つけるのも一苦労ゆえ」
「ぬかせ」
そこからはひたすらに撃の応酬、放っては受け止める根比べ。目にもとまらぬ攻防は、しかしながら小さな穴を増やすだけ。壁に床にと増える窪みに獣のそれは無く、坊の地団駄は次第に強さを増すばかり。
ようやく一息つく頃には凜然とした出で立ちは何処へやら、乱れた長髪に役割を終えた布切れは人ならば立っている事すら不思議なほどであった。
「まことにこれほどとは、世が世なら座にもつけましょうに」
「野心ならば尾を引き抜いて逃げおったわ。それにの、神の真似事など損な事ばかりじゃ」
「何故ですかな?」
「まず食い物が酷い。好物と知れれば何百年と食わされ続け、挙句ひとたび怒れば荒神として祭り上げられ食えもせぬ贄がつまれる。さめざめと泣く娘子に囲まれて食う飯のなんと不味い事か」
「成る程。確かにそれは御免蒙る」
高らかに笑い合い、再び両者に力がこもる。獣はもはや隠そうともせず毛を逆立てると、帯電し始めた毛先からはパチパチと火花が散る。放電で膨張した体毛はいっそう体を大きく見せ、奔る雷光は周囲の光を影へと変える。
獣の重心が更に沈み勝手気ままに飛び交う火花が息を潜めると、一定の法則で獣の体を駆け巡った後、確かに雷は天戸めがけて落ち貫いた。
「天戸様!」
「ほう、これを見切られるとは。手を抜いたつもりはありませぬが」
「おぬしが言ったのではないか、勝る者無しと──じゃから重ねて読んだ」
彼我の力量・環境を考慮に入れて、相手が何処から撃ち貫くか予測する。
今は懐かしい尾の生えた獣の体で相手をどう穿つのか考える。
どう攻撃するのか決まったのなら、相手が動き出すよりも速く軸をずらして攻撃をいなす。ずらしたまま後方へ跳んで半身を巻き込ませ、回転の勢いそのままに矛を折る。言うだけなら容易く、こなすには達人の技量を必要とされる芸当。
天戸は達人の技量など持ってはいない。ましてや人の業に精通してなどいない。彼女がそうできたのは超人の身があってこそ、付け加えるなら超人でなければ先の攻撃には耐えられない。
彼我の差が歴然としている状態での受け流しは無傷とまでは至らず。受け流す動作を越えて迫る脅威には、身を削って受け流すしか術はない。
先の一合で獣は尾の先を失ってはいたが、彼女の半身は雷の一撃によって感覚が麻痺し、帯電した髪は乱から荒へと踊らせる。体が引きちぎれもせずまだ繋がっているのは、彼女が岩戸を冠しているからこそ。
「認めて頂けるとは有り難い。しかし終わってみると哀しきものだ」
「まだ終わってはおらんさ、そう簡単に破られては岩戸の名が泣く」
「見事。まだ立てると仰られるか、なれば次こそ天も冠して頂きたい」
「…………」
辛うじて感覚の残るもう半身に力を入れて、体勢を立て直しながら天戸は二人をどう逃がすかを考える。酔狂を好む天狗ならば命一つで事足りるが、娘との約束がある以上。彼女達を納得させる必要があるのだが、今の天戸にそんな時間は残されていない。
先の一撃で怯んでくれればと彼女は挑んだが効果は薄く、あまりの衰えぶりに乾いた笑いが零れてしまう。戦い足りぬ天狗なればと起き上がるのに目一杯時間をかけていたが、いよいよ立て直すという所で彼女の視界は空を仰いだ。
「妃奈子……」
「お願いもうやめて、勝負はもうついたでしょう?」
「約束は違えぬ。役目は果たさねばならぬ」
「手出しが出来ないのは十分わかったでしょう⁉ これ以上は不要の筈よ!」
「おぬしが決める事ではない。どかねばまとめて貫くぞ」
「やってみなさいよ!」
抱き着いたまま天狗を睨め付ける布津巳の瞳には怒りと悲しみで涙が溢れ、赤く腫れた瞼と掠れた声は彼女が随分前から叫んでいた事を表していた。
天戸はその事にようやく気付き後悔すると、恐れを知らぬ優しき少女をその胸に抱く。
「外法坊、頼みがある。この娘とあちらの男の子は見逃してくれ」
「見返りは?」
「儂の命。最後までおぬしの好きに踊ってみせよう」
「ほう」
「そんなの駄目、絶対嫌ッ‼」
「聞け妃奈子、うちらにはうちらの法がある。約束をしてしまった以上、もう後には引けんのじゃ。良い子じゃから聞き分けておくれ」
骨を折らんばかりに締め付ける布津巳をあやしてどうにか顔を引き離すと、天戸は出来るだけ優しく、そして力強く彼女を繰り返し説得すると、彼女の締め付けは徐々に弱くなり、ようやく天戸の胸から体を離した。
しかし天戸がほっとしたのも束の間。彼女は再び振り向くと、天狗と真正面から対峙する。
「約束をどうにかすればいいのよね」
「左様。しかし娘よ、あの者たちに近付けるとは思わぬ事だ」
「貴方が邪魔をするんでしょう? だったら倒してからにすればいいわ」
「然り! よい判断だ娘。道理であるな」
「何を寝ぼけた事を言っておる。おぬしらではどうにもならん、早う逃げよ!」
「天戸様、私の体使って? そして勝って」
一言で呆気にとられ天戸はしばし茫然とし、事情を察した天狗は高笑いが止まらない。何よりその言葉の重さを最も近く理解出来ている者に言われては守護する身として立つ瀬がない。
癪に障る笑い声よりも、刃を握らぬこの時代に魂を託した者がそう易々と死地へ向かう事に憤りを覚え、天戸は体の痺れも忘れて布津巳の体を引き寄せる。
「いいかよく聞け馬鹿者。神降ろしは人の業でもなければ神の身業でも奇跡でもない。あれは行き詰った者が手を染める外法と同じ禁忌の類。人が勝手に贄を捧げるそれと同じ!」
「大丈夫覚えてるよ。ちゃんと覚えてる」
「おぬしは一度生き抜いたからやもしれぬが、本来儂が手を貸さねばあの場で死んでもおかしくなかったのだぞ!」
「それも聞いた」
「神降ろしの対価は長ければ長いほど、力を使えば使う程に増してゆく。ここに来る為に払った対価等とは訳が違う。二度目の神降ろし、三度目の対価なぞ──人として死ねぬぞ」
「うん」
「うんではない大うつけがッ! 父君母君にも示しがつかんから早う去ね!」
「私の生き方に口出ししないで!」
「思い上がりも大概にしろ娘ッ! 一時強くなった程度で儂に盾突くとは何様のつもりだ!」
「あなたを助ける御主人様よッ!」
最早とまらぬと思われた二人の口論はその一言で幕を閉じ、人の子に気圧された御使いを目の当たりにして、天狗は息つく暇なく笑い死ぬ。
腹がよじれのたうち回り、先の雷により限界を迎えた屋敷の一部が崩落し始めた辺りで鴉が止めに入った頃。ようやく一匹と一対は相対する。
「さて準備は宜しいかな御使いの娘よ。整うまで幾らでも待ち──」
「──これはどういう事よ天狗ッ!」
もう一つの発条がはじけ飛んだ。
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