Packet 9.天岩戸伝説 ――異聞忌憚――
踏御が我妻と別れてから幾何の時が過ぎたのか、年頃の青年であれば、平均よりもあるのだと見栄を張るであろう体力は底をつき。踏み出す足は、柔らかな腐葉土を踏みしめているにも関わらず。足の関節に痛覚として行動停止を訴えかけては、酸欠気味の回らぬ脳へと送られる。
満身創痍。そんな熟語が見て取れる状況においてでも、彼は先の見えぬ鬼ごっこを終らせてはいなかった。
人影を追う黒い塊が、己が出した霧を塗りつぶす。先の様な気配だけとしてではなく、木々の軋み割れる音をゆっくりと響かせながら、獲物を迫っているのだと明確に知覚させる。
迂闊に振り返る余裕すらない彼にもそれは十二分に伝わっているのか、倒木の下敷きにならない様に注意を払いつつも、視界に映る障害物が出来るだけ多い場所を選び駆けていた。
「――あれなら!」
繭の糸を掻くように進む先。お守りの効力がぎりぎり届かない先に佇む大きな物体。
空高く伸びず地形に倣う様にしてぽっこり構える腫れ物は、踏御からは大きく追跡者からは小さかったが、強度という点においては今この森で最も信頼を置ける物質だった。
踏御は迫る屍の
「――――ッ‼」
一刻もせぬうちに、霧の世界に夜の帳が下りる。岩を避け場所を定めた厄神の体は、彼を押し潰さんと上空を覆う。
降りしきる屍憑きの唾液は、その体から離れまいと精一杯尾を引いて、地面に落ちては霧散する。粘性の高い腐食液ともいえるそれらは、しかし岩や大地を溶かし焦がす事は一切無く。ただただ消えいる瞬間まで、贄を逃がさんとする幾多の強い視線だけが感じられた。
踏御の恐怖と理性が拮抗する中。黒毛皮の巨体は、まるで珍味を探す為に調教された豚の様に辺りを嗅いでは掘り返す。重機が如き姿でそれを行えば、掘り返すというよりも山を抉って削り取っているのだが、霧の結界内においては、彼を咎めるものも、その惨状全てを見届ける者も存在しない。
だが贄を探す作業を始めた以上。彼が見つかるのは時間の問題で、同時に逃げだす好機も、今この時を除いて他にはなかった。
居心地の悪い屋根の下。朝露ほどの休息を得た彼の体は雨漏りを避け、掘り返す音に合わせては野外へ向かう。振り返る先に規格外の臀部を拝めるようになっても、狩人の作業は中断される事なく続いていた。
「まだ、ばれてないみたいだな」
未だ気配の感知範囲内だと、ほっとしたのも束の間。動きを見せなかった祟り神の体は、その大岩の様な尻を震わせ反転するべく木々を折る。
まるで小さな吐息を嗅ぎつけたかの様な動きに踏御の体は硬直したが、続く霧の向こうへ続く痕跡等は偽装しておらず。まがりなりにも獣である追跡者が、途切れた臭いや足跡に気付けば、それより先には行っていないと判断されるのは明白だった。
「くっそ、今なら体育祭でかったるいとか言う奴なぐれそうだなっ!」
反転に手間取るうちに、踏御は疲弊した体に鞭打って、並木道を逆走する。
力ない体で潜み休む事よりも、走力は落ちれど即座に逆走を選んだ彼の判断は正しく。祟り神がその巨体を百八十度回転させ終わる頃には、彼の姿形は跡形も無く消えており、休んでいては到底得られぬ距離を両者の間に築いていた。
追い詰め疲れ果てた獲物が、己がつくった道をもって逃げおおせる。自身にとっては狭き道でも、小さな贄にとっては広く障害物の少ないその道は、疲れた体であってしても、容易に距離を稼ぐ事を許してしまう――だがそれは、距離を稼ぐ判断としては正しくとも、逃げ切る事が出来るかどうかという問題としては別物であった。
――咆哮――体で字を表す様にして、猪は狭くあれど遮るものの無い道を猛進する。彼の者が踏み平して出来た道であれば、同じ者が駆け抜ける事に支障などある筈もなく。逃げる事に専念しすぎた踏御にとって、追う側の環境も変化しているという一点のみが、彼にとって意識の外であり最大の誤算ともいえた。
逃げる小人に追う巨人。結果として歩幅に雲泥の差がある逃走劇は、ゴールテープを切りえぬまま。巨人の怒涛の追い上げによって終わりを迎えようとする。
息も切れ切れに縺れる足を前へと出していた踏御も、肉薄しようとする獣の咆哮と揺れ止まぬ大地にそれを察したのか、咄嗟の判断から並木道から横へ逸れ、転がり倒れる体を、何時倒されるやも知れぬ木々へと預けて苦汁をなめた。
「かん、がえろ……考えろ! どうする、どうやったら助かる⁉」
踏御は絶縁体の膜で覆われた脳へと必死に信号を送り、絶望的な状況からの脱出に思慮を巡らせようとする。
だが体力回復に努める体に思考への余剰などありはしないのか、事態を一変させるべき一手どころか、周囲を警戒する能力すら奪われ、制御権は返ってこない。
時間の感覚が麻痺する中で、静けさを取り戻した大地は神の到来を告げている。並木道から人にしても数歩も逸れぬ木の陰に、屍の鼻が向いたその時。ようやく贄は体の震えを自覚する。
震えを抑え息を殺し、体を小さく丸めるその様は児戯が如し抵抗でしかなく。陰からはみ出ぬ様に両手を強く握り合わせ、体を縛るその様は、見る者が見れば神に祈る信徒の様にも見えた。
不自然な異臭が髪を揺るがし、供物だった者の体へと朽ちた視線が注がれ射貫く。神に喰われるべくして置かれた御膳は、しかして御身に捧げられる事は無く。気付けばその御姿を晦ませて、贄の耳に地鳴りだけを残してゆく。
「助かった、のか? でも、なんで……」
訳も分からぬまま体の緊張を解き。助かったという安堵が、彼の体を大地へと還す。大の字になって見上げた空の先には、未だ霧が視界を遮り不安を煽る光景が広がったが、助かった解放感からか、彼にはどことなく幻想的にも見えていた。
「でもあいつ、一体何処に……しまったッ‼」
しばしの安息を得た後。回復した思考は、祟り神の行き先を予測して割り出した。
ここまで走って来ておきながら、向かっていた先を今になって思い出した踏御は、罠を構えて待っているであろう友の下へと、残る力を振るい立ち上がった。
見渡しきかぬ神の道へと舞い戻り、追われていた時には気付かなかった静けさが、彼の不安を増幅させては焦る気持ちを煽りたて、後追う体に痺れを切らす。吐きそうになる肺を飲み込んで、道を戻り我妻の姿を探す踏御だったが、予想よりも目的地には近く。歩いてそう経たないうちに、目線の先には小さな黒点が揺らめいていた。
「我妻か? おーい!」
「踏御! よかった、無事だったんだな……あぁちょっと待てストップ。足元崩れてるから気を付けろ」
注意を促す我妻の声に彼は足を止めると、その数歩先に続く地面は大きく削がれ、ぽっかりと穴の様に開いた急斜面が二人の間を隔てていた。
「そういえばあいつは何処に?」
「今夜の晩御飯なら、ほれあそこ」
迂回し踏御と合流した我妻は、彼の問いに穴の先へと指をさす。指先を追って二人が視線を滑らせると、穴の下に続く斜面の先に、僅かだが黒い塊が蠢く姿が見て取れた。
「急ごしらえの偽装で見破られないかとひやひやしたが、おつむも腐ってて助かったぜ。フミフミが渡る予定だった丸太橋もろとも、鍋の底に真っ逆さまよ」
「流石に死にはしないか……あれで動きを止めてくれればいいんだが」
「だな。まぁフミフミが予想より時間稼いでくれたおかげで、岩やら丸太やら色々具材用意出来て追撃したし、そうそう動いたりは出来ない――」
我妻が言い終わるよりも早く、地の底から怨嗟の哮けりが二人聴覚を壊す。耳を塞いでも入る轟音に目を細めて斜面の下へと視線を戻すと、目では見えていない筈の二人の姿を、確かに見据えている黒き怨念の塊が二人首元に喰らいついていた。
「あらやだあのお肉、固すぎて食べれたものではないのではなくて? ちょっと誰か、店長を呼んでちょうだい」
「馬鹿なこと言ってないで、ほら逃げるぞ」
『――おぬしら生きとるか? 生きとったら返事をせい』
逃亡を再開しようとした二人に突如割って入る声。発声源を見渡すも、何度目かの呼びかけでやっと胸ポケットからだと気付いた二人は、ほぼ同時に中から小さな欠片を取り出し、聞き覚えのある声の主へと応えた。
「えぇと、先輩?」
『違う違う。うちじゃようち……まぁ細かい事は今は捨て置け。用意は出来た、はよう戻ってこい』
声の主とは口調の違う変わった声で、二人は作戦開始の合図を受け、石の向こうへ相槌を返すと、並木道を頼りに祠前へと歩みを進める。怨嗟の哮けりは何時の間にやら止んでいて、斜面の下へと落ちた主は、その体を起こすと、ゆっくり二人の後を追跡した。
神の間。そう呼ばれるに相応しい空間に、一人の少女が仁王立つ。聞くだけでは況や絵になる場面に違いなかろうが、脇に建つのは歴史などを感じさせない真新しい祠の成り損ない。そして仁王立つ少女も、その身に纏うはアクリル製の赤いジャージであり、絵にしたところで学芸会の展示品どまりといったところだろう。
さりとてそれは絵にすればという話。おそらくその場に居合わせたのならば、皆一様にして、彼女の神格に平伏するに違いない。
「遅い。何をしておる」
少女はその姿に似つかわしくない口調で苛立ちをあらわにする。
踏御達と言葉を交わしてから約四半刻。待てども待てども姿は見えず、それどころか祟り神の気配すら薄くなりつつあり、彼女の心中では焦りと疑問がせめぎ合っていた。
「おぬしら何をしておる。そんなに遠くまで逃げておったのか?」
『いやぁそれが、確かに遠くまでは逃げたんだけど……』
『先輩……いや天戸様? 集合場所はさっきの祠前で、いいんですよね?』
彼女の下に届く声には疑問の声色が感じ取れる。別れる前に伝えた場所は確かにこの場で、贄となった者が安全である場所など、今ここを除いて森には存在しない。
自身の力を最大限に発揮できる場所である事も含めてこそ、彼女はこの場所を選び、彼らにはただ戻って来るようにとだけ伝えただけなのだが、何故か二人は戻る場所に疑問を持っている様だった。
「そこで間違いはない。じゃからはよう戻ってこい」
『――それが、戻って来たとは思うんですが、二人の姿も社も無くて……』
『結界だっけ? あれも作用してないんじゃないか? ここもずっと霧ん中だし』
祟り神の押し通った道を頼りに戻って来た彼らは、確かに広間に到着したものの。その場に待っているであろう少女の姿はそこには無く、結界の無い大広間で立ち往生するしかない状態だった。
この森で聞いたことも見た事も無い場所に訝しんだ少女は、此方から出向いた方が早いと判断し、二人に目印になる様な物は無いかと尋ねる。
霧の広間にあるのは彼らを除いてただ一つ。古ぼけた小さな神輿だけ――返って来た言葉に、少女は空を仰ぎ見ては額を打った。
「――こっの大馬鹿者め! あやつに祈りを捧げたな⁉」
『は? 祈りって何の事よ。罠にはかけたけど、祈ってなんかないんだけど』
「その場は奴の領土じゃ、本来は贄か信徒しか入る事は許されん。大方逃げる道中で、祈り慈悲を乞うたのだろう⁉」
終始首をかしげる我妻とは対照的に、踏御は経緯を思い返して心当たりがあったのか、次第に顔の色を青くさせる。
彼女によれば、祈りを捧げた者はその神に仕える者となり。彼の者による加護を享受する代償として、贄を差し出し、時にはその身を捧げねばならぬという事だった。
『やだ、私ってば捧げられる生贄役? フミフミってばやーねぇ』
『ちがッ――確かに手は合わせたかもしれないけど、祈りなんて捧げた覚えは無い』
「祟り神は畏怖の念をもって信と成す。畏れ敬う姿勢を一度見せれば、あれらは勝手に解釈をして契りを結ぶ。古き習わし故、知るものなどとうに潰えておるがの」
あの時たしかに打開策を出し得なかった踏御にとって、贄として喰われる事を避ける唯一の手段はそれしか無かったのかもしれない。
だがその場凌ぎとはいえ彼自身がとった行動は、望んで行ったものなどではなく。ろくに頭も回らない状況で、無意識に逃れる術を執り行ったという事実は、果たして恐怖と偶然による賜物か、過去に同じ経験をした贄から盗ったゆえの行動なのかは、今の彼には判別する事ができなかった。
「おぬしらが捕まってしもうたゆえ、他の者達が気がかりじゃ。うちは先に他の童達を探さねばならぬ。おぬしらは何とかその場から逃げよ」
『ここから逃げろと言われても、一体何処に――うぉあ!』
「どうした⁉」
『いやなんか、地面から人の手が湧き出てるんですけど! てかなんだこいつら、溶けた人? きしょ!』
少女側からは見えてはいないが、霧の広間では老若男女。多彩な腕が地面から湧き出ては、踏御たち二人の足に絡みつく。
払い除けようにも湧き出る数は増える一方で、腕は足を支柱に肘辺りまでよじ登り。二人がその場に釘付けとなる頃には、汚泥となった人の群れが、地表を沼へと変化させていた。
「なるほど。おぬしら、余程あやつに気に入られたらしいの。おぬしらを喰わんと気がすまんのじゃろう」
『やだ、ちょっと坂から落として岩投げたくらいじゃない。それとも何? 野郎二人の拘束シチュが見たいとかいうモーホー神なの?』
「それだけ口が回るなら、まだ大丈夫そうだの」
『無いです無いです余裕ないです! 我妻の馬鹿――ってほらもう来てる。足音聞こえてきてますから!』
騒がしい二人のやり取りを拾う欠片を通じて、背後に響く重低音が次第に大きさを増してゆく。少女の側では薄れゆく異なる気配が、欠片を伝って大きくなるのが感じ取れるようだった。
「二人とも耳を塞いで備えよ。あてられても知らぬぞ」
『えっはい――え? いや両手両足動かせなくて耳塞ぐとかどうやって?』
「ならば確り気を持て」
『根性論⁉』
少女は気を配る様に胸に手を置き瞳を閉じる。数旬の間――獣の姿を模った神は、開かれた瞳に意を込めて、その口火を切った。
空気が裂け木々が戦慄く。森を覆う霧は恐れをなして足を生やし、逃げ場を探して奔走する。畏れ多くも古き神の統べる御山は、己が分を弁え新たな主に平に平にと頭を下げる。
本来ならば主が認めぬ限り開かれぬ道は、律する声によりその姿を露にし、領土を隔てる薄く強固な薄氷は、圧倒的な存在を前に砕け散った。
「――ッ!」
この世ならざる鬨の声が、拘束を緩めぬ亡者たちと共に二人の精神をも穿ち抜き、肉の鎧も持たぬ汚泥の亡者たちは、抜身の刃に腕を捥がれ泥の精神ごと四散する。
構えていた二人も想像を絶する内部への揺さぶりに、拘束を逃れ支えを失った体が地面へ向かい、落下する寸前。到着した少女の腕に、ブラックアウトする意識ごと掬われた。
「すまんがこんなところで休ませてやる訳にはいかんでな。ほれ起きよ」
「――ぅあ、え? 先輩?」
ぼやけた目に壊れた耳。言う事を聞かない体に背中から活を入れられ、二人は浮ついた頭で助けた人物を確認する。
そこには青年二人を両手に抱え、膝をつく布津巳の顔が写ったが、先の連絡から変わった口調の他にも、彼女の頭頂部には変わったものが生えていた。
「先輩頭に耳が……」
「む? いかん力み過ぎたか、予想よりも障りが早い。やはり互いに慣れぬ神降ろしなぞするものではないの」
「神降ろしって事は、喋ってんのは天戸様?」
「如何にも。とはいえ体は妃奈子のものじゃがな」
所縁のある布津巳の体を借り受け、一時的に力を取り戻した天戸は、その力をもってして祟り神を捕らえるのだと説明する。
だがそれは同時に布津巳の身を危険に晒すという事。踏御は異を唱えずにはいられなかったが、他に祟り神を抑える手段は無く、何よりも彼女自身が皆を守りたいと望んで身を差し出したのだと聞かされると、彼はそれ以上の反論を返すことは出来なかった。
「安心せい、危うくなれば逃げに徹する。そうなればあやつには絶対に捕まえられん。おぬしらより幾分安全じゃて」
「そういう事なら、確かに……」
「しかし妃奈子がそれを許すかは――静かに!」
話の途中。天戸は頭に生えた狐耳を器用に動かし、険しい顔のまま指を立てる。常人では見えぬであろう霧向こうを窺う彼女につられ、体の自由が戻った男二人も彼女の腕から体を起こすと、目を細め見えぬ霧の先へと思いを馳せた。
あれほど地面に滴っていた汚泥の沼は、幻だったのかと疑う程に跡形なく消え去り、目に入るのはここ数時間で見慣れてしまった霧模様。静寂が支配するこの場において、揺るがす音は何一つとして聞こえない無音の世界。
「来たッ‼」
咄嗟。天戸は両脇に構えた踏御たちを突き飛ばし、両の手を正面へ突き出し構えとる。訳も分からず場外へと撥ねられた二人が状況把握をするよりも早く、眼前を黒い暴風が吹き抜け天戸が風に攫われる。
そのままの勢いで広間を突き抜けるかと思われた暴風は、彼女を攫った直後に勢いを緩め。数十メートル移動した後に、その忌むべき巨体を露にした。
「余裕が無いのお。うちごとこの身を喰らうつもりであったろうが、残念じゃったな。そう簡単にはこの身はやれん」
荒い息を吹き鳴らし、人の業を滴らせ、祟り神は眼前に対峙する少女を喰らおうと決死の牙を突き立てる。易々と壊れぬ体を持ち、強固な建物を容易く解体しうる重機の如し獣の突貫は、されどか弱き乙女の両の手によって阻まれていた。
「すっげ、天戸様ってば力持ちー」
「冗談など言うとる場合か! おぬしらはうちのあけた穴を通って彼方へ逃げよ。足止めは失敗じゃ……些か力を使いすぎた」
「失敗って、じゃあこの後どうするんですか⁉」
「時間は稼ぐ。じゃが残りはおぬしらで考えよ!」
相手の領域へ割って入り、霧の中で度重なる追突を受ける天戸に数分前の余裕は無い。予想以上に消費した力は、死に体の猛攻を受けきる事叶わず。回を重ねるごとに彼女の体は後ろへと押し出されていた。
「ぐだぐだ言ってても仕方ない。行くぞフミフミ」
「でも、やっぱり先輩置いてなんて……」
「じゃあ俺達がここに残ってどうなる。何かあいつに出来るのか?」
「何か、出来る事……」
問われた踏御は思考する。何か出来る事を考えるのではなく、あれを討つべくどうするべきなのかを考える。
正確には考えた末に討ち取る方法を盗って来る事を願って念じる。一月前に彼が彼女を助けた時の様に、今この森に囚われた全員を救う為。
動かぬ友に苛立ちを覚え。我妻は彼の腕を掴み、空間の歪んだ出口へと連行を強行する。棒立ちだった踏御の体は姿勢を崩し、定点を凝視して動かなかった視界が動き、我妻の上半身を瞳の中へと写しこんだ――胸ポケットの中で淡く光を放つ欠片も含めて。
「まってくれ我妻。この欠片――もしかしてあいつにも効くんじゃないか?」
「欠片って、こんな小さな奴じゃ効果があってもたかが知れてるだろ」
「あの手も、肘から上まで登ってこなかった。怨霊にも効果があったんだ、親玉のあいつの体にだって、直接叩き込めばそれなりの効果はあるさ!」
「いやいや待てよ。元々霧から守る為に貰ったんだぜ? こんなところで手放しでもしたら……」
「頼む我妻! もしかしたら全員無事に帰れるかもしれないんだ」
「――あーもう! フミフミのそういう時々強引でやけに自信満々なところ嫌いだなぁ!」
力説する踏御の前に折れた我妻は、降参とばかりに掴んだ腕を離して両手をあげた。
友の了解を得た踏御は喜びを嚙みしめると、早速欠片をポケットから取り出し右拳で握り締め。心強い仲間と共に、連撃により土俵際へと追いやられている天戸の下へと急ぎ戻る。
彼女の表情が窺える距離まで戻って来ると、その姿に覇気は無く。過度の疲れに汗を流す彼女の顔色は蒼白で、心なしか四肢は痙攣する様に震えていた。
「おぬしら、何故戻って来た! はよう逃げろと言うたであろう!」
「我妻は向こうを頼む。足に直接打ち込もう」
「はいはい、りょーかい」
二人は彼女の罵倒を無視し、天戸を中心に別れて、祟り神の両前足へと対峙する。天戸が突進を受け止めているとはいえ、彼女に攻撃を仕掛ける度に動く大きな足は、その一方だけでも恐ろしく。タイミングを間違えれば、油圧機で潰される水風船の様に血しぶきをあげるだろう。
「我妻。そっちはどうだ?」
「おっけー、何時でもどーぞ」
「それじゃあ行くぞ――」
「「いっせーのー!」」
サラウンドで上がる掛け声に合わせ、突撃直後の動きが止まった両前足へと二人の拳が同時に入り、表面を覆う粘性の汚泥へと埋没する。得も言われぬ気持ち悪さが腕の皮膚を駆けあがり、先にある体毛と汚泥に絡ませるように欠片を埋めると、二人同時に両手を離した。
「どうだ⁉」
欠片を埋め込まれた個所からは淡い光がちらついて、沸き立つ周囲の汚泥からは悲鳴と煙が立ち上がる。
しかしそれまで。暫くすると立ち上がった煙は霧に呑まれ、悲鳴は枯れ果て新たな汚泥に流された。
「くそ! 効果は確かにあったのに……」
「ほらー、フミフミやっぱダメじゃん。霧……きっつー」
再び突撃の準備を始める前足を尻目に、霧の呪縛から自身を守る術を失った我妻が体を横たえる。信者として加護を受けていたはずの踏御も主に仇なす罰は重く、後悔を前に膝を折った。
「まったく大馬鹿者め。何時もそうじゃ、人はどうしてこう聞き分けが悪いのやら」
残されたのは、今なお突撃を受け止め続ける満身創痍の狐巫女。
呆れる様に息を吐くと、汗と一緒に赤い血が滴り落ちて、震える四肢が依り代となる体の限界が近いことを知らせている。
守るべくして死力を尽くした結果に、乾いた笑いが止められず。脱力する切れ切れの筋肉は、働く事を放棄した。
「――ならその聞き分けの無さに応えねばの。全くもって、神とは世知辛いものじゃのぉ」
天戸は依り代とする布津巳の力を総動員して、突撃する祟り神の攻撃を今一度受け止める。だが満身創痍の体では吹き飛ばされぬのが精一杯で、受け止めきれず大きく反った体は、後ろに控える木々の僅かな助力を借りて、板挟みとなってようやく止まる。
次の一撃を受ければそのまま口へと入るであろう状況で、天戸はあろうことか獣の鼻へと強く指を抉りこませた。
「すまんの妃奈子。おぬしの命をもうしばし削ってしまうやもしれぬ」
同じ体の中と外で戦う同胞に詫びて許可を得る。慣れぬ神降ろしの儀によって、多大な負荷を請け負う彼女の魂は酷く疲れ果ててはいたのだが、弱々しくも返って来た返事に、天戸は彼女の顔で笑みを返した。
「言の葉なんぞに頼るのは癪じゃが、妃奈子との約束には代えられぬ。心して聞き給えや猪神よ」
鼻の肉に十の指を食い込ませ離さんとする天戸に、振り落とさんとする祟り神が頭を振るい木々へとぶつける。普通ならばとうに意識は途切れ、体は千切れ跳んでいるであろうもがきに、天戸の宿った布津巳の体は今なお鼻頭で耐え凌ぎ、古い祝詞を紡いでいる。
鼻先にぶら下がる餌を追い求める様に、口を開いて吼えて首を大きく振る様は、その巨体に反して小さな子供が駄々をこねる姿に似ていて、右へ左へ宙を舞う血だらけの巫女は、そんな子供をあやしている様にも見えた。
祝詞を紡ぎ終えた天戸が刺した指を肉から抜き取る。どれ程の間そうしていたのかは、宙に投げられた体の傷だけが知っている。
「さあ刮目せよ祝呪の贄よ! 高天原は大御神。天照様のお力、その身にとくと受けませい!」
祟り神の喝采を受け、舞う巫女が両手を合わすと、踏御達が欠片を埋め込んだ獣の両前足から眩い光が漏れ始める。
一度は光を失い黒に染まっていた欠片はその光度を際限なく高め、日の光と見紛う程に膨れ上がると瞬間。小さな欠片が埋め込まれていた場所から、祟り神に負けず劣らぬ巨大な二対の大岩が、その体を足から貫き通していた。
大岩は放った光を内に取り込み、その熱量をもって神を焼く。じゅうじゅうと音をたてて焼けるのは神の肉体だけでなく、そうあれかしと獣を縛る人の念も焼いてゆく。逃げる事も、蒸発する事さえ許されぬ哀れな贄は、焼かれた先から大岩へと取り込まれる。
全てを焼ききった後。熱も光も失った大岩は、役目を終えて巫女が大地へ降り立つと、光の粒となって消えていった。
残されたのは小さな小さな猪の骨。古きは山の主で、人から崇められては畏れ敬われ、神と成ってはこの地を治め。人が消えては取り残されて、忘れ去られるも祝いは消えず。呪いとなって縛られ続けた、哀れな哀れな成れの果て。
「もうお休み、猪神よ。永き大役誠に、誠にご苦労であった」
古き主を亡くした山は、主の残した白き霧で体を包み。静かに静かに眠りについた。
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