Packet 8.祝呪の贄

 神とは如何様にして生まれ出づるものなのか――否、神とは常に生む側である――はたしてそうだろうか?


 神が天を創り星を造り、地上に生あるものをつくりたもうたとして、何故八百万を超える神々など顕現せしめたのか。

 御方が本当に万能であらせられるのであれば、並ぶものなど意味は無く。孤独を感じるのであれば、己が子らに慰めて貰えば良かろう。我らが我らに課された役目に、一体どれほどの意味があると言うのだろうか。

 御方の子らを脅かし、御方の造った大地を荒し、畏怖をもって事を成す。かような日々に意味などあろうか――かような贄に、意味などあろうか――





 蔓延する霧は、そこに捕らわれた生物の体温を奪い。吐き出す外気は元旦の朝を思わせるほどに、吸い込んだ人の体を浄化する。

 だが強制的に清められる体とは裏腹に、視界を奪う濃霧は踏御を孤立させ、静寂を取り戻した大地に安堵を覚えつつも、迫る不穏な感覚に神経が悲鳴をあげていた。


「先輩、我妻! 大丈夫か?」


 先刻まで隣に居た二人の姿は既に無く、白塗りの向こう側から返ってくる声も聞こえない。

 どうにか二人を探そうと彼は足を動かすも、足元以外は地形すら確認出来ない霧の濃さに足が竦み、ただの霧では無いのだと身をもって恐怖する。

 立ち往生しようにも、異常な霧は次第に三半規管すら覆い隠してしまったのか、天地も忘れた彼の体は、気が付けば白い大地に尻もちをついていた。


「ま、ず……この霧、何とかしないと……」


 三半規管から始まった侵食は、いよいよもって脳機能を乖離させ、上体を支えていた腕が次第に制御を失う。視覚から送られてくる情報は白色だけで、もはや自分がどういった体制なのかもわからなくなり始めた時。突如彼の視界一杯に広がった色は、おかっぱ頭の少女を模っていた。


「いつまで寝とる。はよう起きよ!」


「うっ――え?」


「一時じゃがうちの領土を広げたでの。しばしの目眩ましにはなろうて」


 脳との通信が回復して踏御が五感を取り戻すと、出来損ないの祠を背後に、天戸が正面から踏御を見下ろし。不安げな表情を浮かべる布津巳と、真面目な顔をした我妻の二人が左右に控える。

 滲んだ視界が完全に元に戻る頃には、踏御を孤立させていた異常な霧はその鳴りを潜め。祠のある拓けた空間は、霧の侵食を退ける様にして元の姿を取り戻していた。


「それで、これはどういう状況ですかね。目眩ましって事は、未だ俺達は危険な状況なんですよね?」


 三人とも大方予想は済んでいたが、我妻の中では天戸の正体は確定したのか、彼女を指す名詞を強め状況説明を願い出る。

 天戸もその答えには異論は無い様子で、瞬きをする様に目を閉じては、息を一つ吐き出した。


「如何にも。こうなると分かっておったから、その前におぬしらを山から下ろしたかったんだがの……見立てが甘かった。すまぬ」


「その、先に下りた他の皆は?」


「残念じゃがおぬしら同様。今頃は霧に捕らわれ倒れ伏しておるだろうて」


「そんな、すぐ助けにいかないと!」


 まだ手足の感覚がはっきりしていないのか、言葉の勢いを借りて立ち上がった踏御は、縺れそうになった足を、膝に手をつき矯正する。

 されど同様に手の制御もままならないのか、上体を支えていた腕は膝の上から滑り落ち。彼は再び大地へと体を預ける結果となる。


「落ち着け、あの霧は贄が逃げぬ様にするだけのもの。逃げれぬのが分かっておるのなら、仕損じた獲物を先に追ってきよる」


「つまりは俺達が安全なうちは大丈夫って事ね」


「この山を抜けぬうちは、だがの。こうなってはお主らにもてつどうて貰う。その為にも、まずは順を追って話をしよう」


 空も見えぬ殻の中で、丁寧だが手短に語られる事の顛末。

 今異変を起こしているのが、古くは山の神としてこの地を治めていたものである事。

 永い月日を経て、祟り神となり。それを封じる為に天戸が尽力していた事。

 天戸自身も社を無くし、封ずる力が弱くなり。この地を治める長へ、社再建の信書を出した事。


 ありきたりな物語の序章だが、現実に霧の恐怖に捕らわれて、彼女によって助けだされた経緯がある三人にとっては、決して扉向こうの話だと笑い飛ばせる事では無かった。


「ちゃんとした社じゃ無いとだめ?」


「そんな事は無い、立派なものをこさえてもろうた。しかし芯なる信――ようは確りと信ずる心を持って、社を造り祈らねば意味は無い。童どもが悪い訳では無いが、名も知らぬ神を祈り崇めよなど、土台無理な話じゃった」


 天戸の表情や声色から世事や気遣いなどは感じられず、彼女は本当に取って付けたような祠の様な物で満足している様子だった。

 静かに祠へ寄り添い、出来立ての柱を撫でる表情はとても穏やかで、自嘲気味に己が行動を否定する言葉には、節々に滲む寂しさの様なものが汲み取れた。


「俺等はその元山の神様を、もう一度封印する手伝いをすれば良いって訳ですかね」


「残念だが最早うちに封印する力は残っておらん。無論、おぬしらをこの結界から逃がす力もな」


「だったら、倒す――ですか。神様を?」


 神を倒す――頭を過っても、おおよそ人の価値観ではそれを神の眼前で言葉にし、実行に移そうとするなど、英雄か愚者の二択でしかないのだが、しかして件の同類である天戸は、驚くことも悲しむことも、また怒る様子など微塵も無く。ただただ少女の姿からはかけ離れた笑みを携えたまま、ゆるりと否定した。


「永き月日であやつも死に体。だからこそ一人でも多くの贄を欲しとる。おぬしらを喰えぬままこれほど大きな結界を張り続けていれば、いずれ自ら死を迎える」


「倒せずとも手負いの獅子。勝手にくたばるまでここで静かにしてろと?」


「まって、それじゃあまだ霧の中にいる皆は?」


 手伝いに来た多くの生徒は、未だ殻の外に漂う霧の中。いかに多くの贄が必要とはいえ、自身の死が近づけば、いつ捕まえられるやも知れぬ獲物よりも、まず間違いなく捕らえた獲物を喰らうだろう。

 天戸もその事は重々承知しており、布津巳の言に大きく頷いてみせた。


「左様、じゃから囮が要る。うちが囮をやっても良いが、捕まえられぬと悟られれば、別の贄を喰いに行くだろうの」


「そんな……」


「なればこそ、うちと娘っ子はここであやつを捕らえる為に準備をする。一時で構わん、おぬしら二人で何とか奴の気を逸らしてくれ」


 他の生徒だけではなく、この場に居る三人も、生きて山を下りる術はこれしか無いのだと言われ、ようやく後遺症から解放された踏御は、我妻と共に首だけで肯定の意志を示す。


 その様に満足した天戸は、二人に僅かばかりの激励を送ると、歪な観音開きの祠を開いて、その小さな拳を神体へと叩き込んだ。

 岩か骨か、どちらであれあまり聞き慣れぬ音が響いた後。祠の中に岩の欠片が乾いた音色を奏でて落ちる。

 突然の出来事に驚いて反応が出来なかった三人をよそに、彼女はおもむろに欠片を拾い上げると、殴った拳で強く握り、男二人へと手渡した。


「大した力は残っとらんが、おぬしらを霧から守る程度にはなろう。準備が終わればうちが声を届ける。さすればここへ戻っておいで」


「ちょ、ちょっと待って下さい! あんな先の見えない霧の中で囮になれって言うんですか?」


「安心せい。遠くまでは見渡せぬが、動くだけなら仔細ない。あやつの覇気も、霧をもってしても隠せぬ故。おぬしらが奴の口に逃げ込むようなことも無かろう」


 欠片を落とせばそれで仕舞いと念を押され、互いにジャージの胸ポケットへ忍ばせてチャックを閉じる。

 しばらく待てば、相手の方からやってくると天戸に言われ。二人は霧の影響が体に残っていないか確認するために体をほぐし、布津巳は天戸から何やら質問を受けていた。


「あぁそういえば天戸様。その元山の神様ってのはどんな姿なんです?」


「姿か? そうさなぁ、元が山の主じゃったからの。でっかい猪みたいな姿をしとるの」


「でっかい猪ねぇ……猟銃とかあれば案外フミフミの言う通りやれたかもな」


「いや猪でも十分脅威だろ」


 異常な状態ではあれど、二人の行った柔軟は心の険も解きほぐしたのか、猟銃を構える仕草をする我妻に踏御が突っ込みを入れていた。

 だが見てくれだけの平穏な日常は、再び腹の底を揺るがす地響きと共に終わりを告げる。


 ひとたび、ふたたび、みたび――腹に据える音が等間隔で踏み出される足音だと踏御達が理解できた時には、ソレは大きな影となって霧の向こうから現れた。

 

 二階建ての家ほどの高さと幅。突き出すような頭頂部から、霧に埋もれた臀部までは、おおよそ十メートルはあるだろうか。確かに規格外の大きさを除けば、ソレは四足歩行をしている動物であるとも言える。


「ほう、やはり獲物を盗られてそうとう頭にきとるらしいな。茶釜で湯が沸きそうじゃて」


「えっちょ、これは――イノ、シシ?」


「いやいやこれはいくら何でも、デカ過ぎでしょうよ」


 だがそれは前もって聞かされていればという話。鯨が打ち上げられたのかと勘違いしそうな大きさに、重機と見紛うほどの重量感。体毛の一本一本が鰹節の様に舞い踊っては、体の節々から汚泥が噴き出て地面を汚す。汚れた大地は沼を造るのかと思われたが、叩き付けられた汚泥は、まるで蒸発するかのように、あっという間に姿を消してしまった。


「肉の体などとうに無くしておるだろうに……未だ人の念は、そうあれかしとお主を縛っておるのだな」


 同情ともとれる深い悲しみを携えて、天戸は異形となった同胞を自身の領土で出迎える。

 古き神も、永く付き添った天戸の事を理解した上での反応であったのか、その大きな体を震わせた。


「聞けおぬしら。こやつは最早亡者であって獣ではない。贄の気配は辿れようとも、虚ろな目や鼻は、そうたいして役にはたたん。身を隠し、欺いて上手く逃げよ」


「それって結局。どこまでも追いかけてくるって事じゃん。まじかよ勘弁――」


 半ばやけくそ気味に愚痴を垂れる我妻を叱る様に、地鳴りが彼の声を中断させる。生物のちょっとした動作ですら、その巨体で行えばただそれだけで場を静めた。

 もう待てぬと言いたげな祟り神は、ゆっくりと近づいていた動きを止め。二度三度足を地面へと叩き付ける。


「来るぞ我妻!」


「死ぬなよおぬしら――妃奈子!」


「天戸ちゃん!」


 天戸が下の名前で布津巳へと叫ぶと、祠の近くで待機していた彼女が両手を広げて天戸の体を迎え入れる。

 覆い隠す様に小さな彼女の体を抱きしめた布津巳は、祠の前でそのまま丸く蹲ってしまう。

 そんなあまりにもおざなりな身の隠し方に、踏御達は戸惑いを隠せなかったが、気にかけていたのは一瞬。場を制する強大な咆哮に、彼らは生物としての本能を総動員して足を動かす。

 全速力で霧の世界へ突入する最中。一瞬戻った理性で踏御は背後の憂いに振り返ったが、巨体はまるで二人が見えていないのか、歯牙にもかけず此方へまっすぐと距離を詰めていた。


「我妻。猪なら直角に曲がろう!」


 並走する我妻めがけ提案する踏御だったが、我妻は怪訝な顔で首を捻る。確かに直進するよりも曲がれば相手の速度は格段に落ちるが、目的はここからの引き離しと時間稼ぎ。拓けた場所でぐるぐると回り続けるよりも、障害物の多い霧の奥へと逃げる方が最適だった。


「え、なにそれギャグで言ってんの? 今ちょっと笑えないんですけど!」


「いやだって、猪って走り出すと曲がれないんだろ?」


 猪ならという同行者の一節に、嫌な予感が彼の頭を過ったのか、冗談であれと思ったが、返って来た言葉は予想を裏付けするに足るもので、我妻は風を受ける顔面を両手で覆って嘆息した。


「踏御さんや、猪が猪突猛進。曲がれまてん! なんて、残念じゃがただのデマですとよ?」


「…………え、嘘だよな?」


「マジ。下手すりゃ小学生でも知ってる」


 長い間。実際には追われ霧に消えるまでの僅かな時だが、異常事態の最中に大真面目で答えた常識が、焼却炉に投げ入れた紙くずよりも可燃性の低いごみだと知ると。彼の頭脳は時間を止めて、業火ともいえる熱い恥辱が、彼の存在を火刑に処した。


「我妻くんのぉ、そういう物知りなところぉ、僕は嫌いだなぁぁぁ‼」


「えっ、そこ嫌うとこなの⁉」


 絶叫か、はたまた照れ隠しか、彼にしては珍しい雄叫びをあげ、二人の姿は霧へ消える。

 次の瞬間には祟り神の巨躯が霧へと飲み込まれ、境にあった幾本かの木々は、その追突に耐えきれず長い体を横たえた。


「本当にばれなかったね」


 静寂を取り戻した祠の間では、岩となっていた女子が体を起こし、童女の神は小さな体で大きく伸びをする。追いかけっこを始めた三者は未だ近くを奔走しているはずなのだが、霧が音までも閉ざしてしまっているのか、残された二人には外界の様子は窺えない。


「おぬしの陰の氣は、元来魑魅魍魎からその身を隠す為に編み出された術だからの」


「これって、解呪とかできないかな?」


「無理じゃな。確かにうちにゆかりあるものだが、人の術だからの。無理に剥がせば、いかな悪さをするのか分からん」


 永らく悩まされた体質に別れを告げれぬ事へ落胆を隠せない布津巳は、体操着に付いた汚れを払いながら大きく息を吐く。

 だが今もなお時間を稼いでくれているであろう友の為に、自分がやるべき事を思い出したのか心機一転。彼女は天戸の前で膝をつき、静かに腰を下ろして正座した。


「さて、それでは始めようか古きかんなぎの血を継し者よ。皆を助けたいと願う、おぬしの望みを叶える為――その魂、貰い受ける」





 霧の中をただひたすら走る、駆ける、跳ぶ。彼らの四方八方を白が覆い、辛うじて肉体の反射神経は視認範囲の木々たちを避けるに至っているが、一度判断と制御を誤れば、たちまち森はその身を喰らうだろう。


「くそッ! 全然振り切れねぇ」


「本当に見えても嗅げても無いのか⁉」


 霧に入ってからは二人に祟り神の地鳴りは聞こえていない。あの巨体でこの森を進むなら、必ず障害となる木々を倒しながら進まねばならないのだが、霧の影響かはたまた人が認識する物理法則では測れぬ何かが働いているのかは、正に神のみぞ知るところだろう。

 追ってくる形跡は無く、前方の状況把握と体制御で手一杯の彼らは、後方の確認などしていない――ならば何故彼らは今なお走り続けるのか?


 それは疾走を開始してから今まで一度も、彼らの体が警報を止める事が無かったからである。

 生物として基本的な生存本能。人類は知識と技術を身に付けた代償として、多くの生物よりも、危険察知能力は眠り劣っているのだが、絶対的な存在を相手に、知識や理性をもって危険を感知するよりも早く、眠っていた本能が二人の体を突き動かしていた。


「どうする。一度何処かに隠れるか?」


「何時まで逃げれば良いのか分からん上に、相手の索敵範囲も分からん。本来なら避けたい提案だが、このままジリ貧になると打つ手が無くなる。それでいこう」


 言うが早いか、二人は直進していた進路を変更し、近場の木の陰に身を伏せる。彼らがすぐ後ろに感じていた祟り神の気配は未だ消えてはいなかったが、待てども待てども姿は見えず。不穏に駆られた二人は、落ち葉に埋まった体から頭だけを持ち上げて、見通しの効かない霧の先をただ凝視する他なかった。


「…………」


 一向に姿を見せない大物の姿に、逃げ切る事が出来たのかと勘違いしそうになりながらも、やはり消えぬ気配に体制を崩せず、感覚が麻痺する時間だけが過ぎて行く。

視界の悪い山中を走った体が息をあげ、近すぎる大地から沸き立つ緑のにおいに、むせ返りそうになっていると、ようやく彼らが走って来た方向から、ゆっくりとだが音が大きく近づいてくるのが二人の耳に届く。

 近づく音の正体が、木々が軋んで倒れる音だと気付いた時には、大木と見間違うほどに大きく黒い物体が、二人が潜む木のすぐ傍に振り下ろされた。


「――ッ!!」


 声をあげそうになった二人はゆっくりと頭を地面に落とし、眼球だけで黒い影を見上げる。眼前に君臨する白を凌駕する巨大な黒は、その全身から生える黒い体毛をなびかせて、霧の流れをかき乱していた。


「探してる、のか?」


「みたいだな。どうやらあっちの神様が言ってた通りらしい」


 動き出せばその風圧だけで二人を隠す木の葉が舞い散ってしまいそうな迫力だったが、大きな体を支える足は、予想に反して地面から持ち上がる事は無く。汚泥を撒き散らす頭だけが、何かを探す様に忙しなく動いている。

 祟り神は贄のおおよその場所までは気配で追えても、正確な位置までは、その頼りない濁った瞳と腐った鼻で探らねばならなかった。


「じゃあどうする。罠にでもかけるか?」


「道具でもありゃ考えるんだが、素手じゃあこんな大物相手はなぁ」


「じゃあ崖にでも落とせないか? 殺せはしなくても時間は稼げると思うんだが」


「そりゃそうだけど崖なんて何処に……いや待てよ、そういえば途中で崖じゃないにしろ、一か所崩れてるところがあったな」


 二人が逃げていた道中。昔地崩れでもあったのか、地面が大きく抉れ、その先には急斜面が続く場所があり。踏御の提案でその事を思い出した我妻は、身を反らせて黒い塊の後ろを凝視する。

 だが現在の視野限界では、当然ながら霧と巨躯で先まで見通す事は出来なかったが、黒塗りの胴付近に倒れた原木を捉える事ができた。


「一か八か。フミフミ、何とか一人であいつの気を引いてくれないか? その間に俺はあそこに戻って罠の準備をする。ある程度時間を稼いだら、今みたいに奴を撒いて、倒れた木を目印に戻って来てくれ」


「オーケー。ただあんまり期待するなよ?」


「わかってる。ヤバいと感じたらこっちは気にせずすぐ戻って来てくれ」


 力仕事を伴う罠作りを我妻に任せ、踏御は一人静かに立ち上がり、獣の正面へと向かって行く。体格差が凄まじい為、動く頭蓋に見つかる事は無さそうだったが、曲がりなりにもこの巨体。ふとした切っ掛けで倒れようものなら、彼は手の中の蚊と同じ運命を辿るだろう。

 踏御は怖気を感じながらも陽動開始地点にたどり着くと、十分な間を開けて大きく息を吸った。


「おーい! こっちだ、腹減ってるんだろ? 食ってみろよ!」


 詰まった耳でも一応の役割は果たすのか、彼のこれ見よがしな挑発は、濁った瞳をそちらへと誘導する。

 贄の姿を捉えた祟り神は、霧から現れ霧へ追いかけた刻と同じようにして、二度三度前足で山を踏み鳴らした後、既に霧の奥へと消えた踏御を追いかけて行く。


 その行く末を見守りつつ、気配が遠ざかるのを確認した我妻は、押し潰されていた胸ポケットにある小さな欠片を服の上から探り当て、砕けていない事を確認して、抑え込んでいた肺の空気を吐き出した。


「さて、そいじゃ急ぎますか。手ごろなのが倒れてると良いんだがなぁ」


 気配で獲物を追い続ける山の主は、いずれ贄が別れた事に気付くだろう。

 自分と違い、体力に自信の無い心強い友の安全を強く願い。彼は自分達を真っ直ぐに追いかけてきたであろう並木道を逆走する。


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