Packet 4‐1.隣人は衣の威を借り夢を見るか?
「昨日は悪かった! 本当はもう少し早く片付く予定だったんだけどな……」
挨拶代わりの第一声を、一限目の準備を始める踏御の耳が音の波から拾い上げる。授業中の教室なら注目を集めるであろう声の大きさも、
「別に気にしてないよ。むしろ俺一人でも動いた方が良かったんじゃないか? 誘拐事件なんだから悠長にしてると不味いだろ」
「誘拐事件だからこそ、だよ。今のところ被害は女性だけだが、ミイラ取りがミイラって事もある。協力してもらってる身としては慎重にもなるさ」
諭すような物言いに踏御は押し黙った。我妻と出会ってから大小様々な依頼を共に片付けてきた経験が、知らぬ間に自信と慢心を育んでいる事に彼はようやく思い知る。
迂闊とも言えるそれらを彼は呼吸と共に外へ吐き出すと、心情を入れ替える様にして新しい息を取り込んだ。
「それで、今日はどうするんだ?」
「お巡りさん宜しくパトロールだな。街中ってだけで日時も場所にも一貫性が無いらしい」
「じゃあ昨日言ったみたいに車見て回るのか?」
「いや、見るのは車じゃない」
「おーい、みんな席に着けー」
会話の最中に割って入るように、スーツ姿の男が教壇へ登る。厳つい顔して歩く姿はまるでゴリラか何かで、明らかに服の選択を間違えている筋骨隆々の体は、陸上選手を彷彿とさせる。そんな踏御達の担任でもある
近藤は何時ものように生徒たちのからかいをいなして場を宥めると、軽い咳払いの後に口を開いた。
「えー、今日の授業だが急遽短縮授業に変更になった。これから全校集会で説明があるから、全員体育館に集合だ」
「短縮授業とかさすが先生太っ腹!」
「喜んでるところ悪いが我妻。生徒は全員自宅待機だ」
狐泉市を囲うアーケードは商店街としての機能が主だが。その規模は大きく、都心部への玄関口として人だけではなく、車までもその道内へと取り込んでいる。
短縮授業の後。踏御と我妻は当然の如く自宅待機の通告を無視し、街中へと繰り出していた。
学生の姿は殆ど見受けられず、スーツ姿の営業マンやつなぎを着た作業員が、我先にと目的地へ向かう。すっかり少数派となってしまった違反学生が、遊びに出て数秒で補導されているのは、自明の理と言わざるを得ない。
二人は目を光らせる補導員から隠れる様にして、狭い路地から目標となる人物を物色していた。
「こんな真昼間の大通りを探すのか?」
「そんな効率悪い事はしねーよ。俺達が目を付けるのは、あくまで波からはぐれた人間だ。その後をつける」
改めて吐かれたその言葉に、踏御は顔をしかめる。集会前に囮の件は聞かされていたのだが、未だに彼の中では踏ん切りはついていないようだ。
それでも我妻の案を踏御が受け入れたのは、彼にとってこの依頼が、既に街の問題解決ではなくなっていたからだ。
数時間前に開かれた全校集会の内容。それは同校生徒が昨夜より行方不明で、事件に巻き込まれた可能性があるとの事。家族の心配や混乱を避ける為、数日間の休校が決まったという内容だった。
名前こそ公表はされなかったが、昨夜から行方知れずだという事と、昨日の悪寒を思い出した踏御は、我妻に頼んで行方不明の生徒を特定して貰い。そして彼の予感は的中した。
「布津巳先輩だっけ。早く助けたいんだろ?」
知り合って間もない高校の先輩に、そこまで心を寄せるのも妙な話ではあるが、少なくとも昨日別れて間もなく連れ去られたという事実が、彼に自責の念を抱かせているのは間違いないだろう。
踏御は焚きつける我妻の言葉に、もう一度だけ囮の安全を確認した後。意を決して目標を探が、一見して不規則な人の流れは学生達がいない分、遊びが少なく規則的で、零れ落ちる人は見受けられない。
「仕事中の大人達ばっかりで、全然それらしい人なんて見つからないな……自宅待機が痛いな」
「逆だよ逆。むしろ都合が良いんだ。俺達はなんで今ここにいる?」
「それは誘拐犯を見つける為だろ。今更それがどうしたんだよ」
「そうだな。誘拐犯を見つける為に自宅待機の学生がここにいる。遊びたい盛りの学生がな」
「……成程。そういう事か」
合点がいった踏御は、注視すべき対象を変える。大多数を占める大人達の波から、自分達と同じく元から波の外にいるであろう者達へ。
程なくしてそれは、車道の向こう岸にて見つかった。私服に着替えてはいるが、人目を避ける様にして路地を渡り歩く少女の二人組は、一度見つけてしまえば見失う事など無いほどに浮いている。
「向こう側か。見失う事は無いと思うが、俺達もばれない様に移動しないとな」
二人は追う対象を見定めると、向こう岸で先行する二人に倣って、無理に身を隠したりせず、補導員との間に大人の壁を作る様にして尾行する。横断歩道を警戒する補導員に、別の生徒を割り当て凌ぎ切ると。対象の二人組は、アーケード街から脇道へと逸れて消えていた。
「外は不味い。見失うと追えなくなる。急ぐぞ」
我妻が先導し、半ば強引に流れに逆らってアーケードの外へ出る。満員電車ほどでは無いが、周囲を囲われた空間では味わえない、混じりっけ無しの外の空気と解放感を肌で感じ取ると、二人は立ち並ぶマンションの群れの下で人影を探す。
だが予想よりも相手の足が速かったのか、それとも近くの建築物へと入ってしまったのか、視界の先にはそれらしい人物どころか、動く動物の姿すら見当たらない。
「見失ったか。こっちに出たって事は家に帰る途中かねぇ」
「どうする。戻って他を探すか?」
「だなぁ。まったく、どうせ見失うなら注意くらいさせてからにして欲しいぜ」
「囮にしようとした俺達が言うと本末転倒だな」
踏御の軽口で二人の笑い声が零れて響く。時間帯によるものではあるのだろうが、誘拐の言葉に縛られ、敷地内から出してもらえない姿なき子供の声は、この一帯を異質な空間に作り替え、すぐ近くのアーケードから聞こえる筈の喧騒すら寄せ付けない。
一種の静寂さを感じさせ、街の死角へと変貌しているこの場の圧力が、二人を蹴落とし退ける。体を置いて、意識だけが何処かへ行ってしまいそうになっていると、異質な世界で異常を知らせるくぐもった声が、二人を現実へと引き戻す。
我に返りぶれた焦点を元に戻すと、本来の目的を思い出した体が動く事を確認する。
異界と感じていたその場の雰囲気は、既に影も形も存在せず。主導権を取り戻した体で息を殺し、囚われの声の主を発見すると、二人は目で示し合わせて曲がり角から飛び出した。
「許せよ女子――おらぁっ‼」
我妻が持ってきたカラーボールを高校球児ばりの強肩で、少女を拘束する犯人の足元めがけて投げつける。放物線ならぬ直線を描いて飛来するオレンジ色の物体は、硬いアスファルトに着弾し、軽い破裂音と共に橙色の液体を撒き散らし、組み合う二人に飛び掛かった。
捕まえていた少女と共に、半身に蛍光色を付着させられた犯人は、黒い目出し帽に隠された顔で素っ頓狂な声を上げ、慌てた拍子にずれた手の合間からは、黄色い悲鳴が鳴り響く。
「チッ――おいッ!」
傍らにいた男女もう一組のうち、仲間の男が声を荒げる。我妻の先制で混乱していたとはいえ、傍観者であった男は、飛び掛かろうとする踏御めがけて拘束していた女子を投げつけた。
フリーズ状態だった半身オレンジの男は、仲間の声に我を取り戻し。二人の犯人は捕まえていた少女を置き去りにして、奥の通りへと走り逃げる。
「フミフミその子たち頼む。あと警察!」
「わかった!」
解放された後に来る冷静な思考は、少女二人に嗚咽を吐かせ、そんな二人を宥めながら、踏御は携帯を取り出し警察へと連絡する。
後を追う我妻は持ち前の運動神経で逃げる犯人へと肉薄するが、突然現れた白い車は、両者の間を塞ぐように狭い道路を遮断して、彼の追跡を阻害した。
強制的に足を止められた我妻は、舌打ちの後に追跡を再開しようとするが、未だ道を塞ぐ車と開いた車の窓から劈く野太い声に、弁明の時間を取るしかなかった。
「おい兄ちゃん、危ないだろう! 先行った奴等にもちゃんと言っとけ!」
「さっきのは誘拐犯だよ誘拐犯‼ わりぃおっちゃん、詳しい話は後でするから車退けて通してくれ!」
「お、おう……って、警察はどうした警察は⁉」
「いま向こうで呼んでる!」
「そ、そうか……なら乗ってけ。一緒に追ってやる」
「マジかよおっちゃん。助かる!」
車に飛び乗った我妻は大人の協力を得て、意気揚々と追跡を開始する。
しかし足止めされたのが致命的だったのか、既に視界の先に犯人の姿は見えず。消えたはずであろう道を車で追うも、我妻がもう一度その綺麗な蛍光色を拝むことは無い。
三十分の捜索後。我妻が男と共に犯行現場へ戻る頃には、既に警察が到着しており、被害者の介抱と聴取を始まっていた。
「お疲れ。どうだった?」
「すまん、逃がした。そっちはどんな感じ?」
「あらかた警察に説明は終わったよ。今ちょうど当てたカラーボールを目印に捜索開始するらしい」
「そか……あぁ、あの子には謝んねーとな」
我妻は申し訳なさそうに額に手を当て、パトカーの座席を借り受けすすり泣く蛍光色の少女に目を伏せる。襲われた側にも被害が及ぶのは彼も承知していたとはいえ、やはり罪悪感は拭えない様だった。
「
「いや今回は違いますって。あの子が誘拐犯追っかけてるって言うもんだからつい……」
我妻の背後で小野崎と呼ばれた男が声をあげる。作業着姿で警官に弁解する様は、見ていて滑稽なほどだったが、対する警官は疲れた様子で、ため息まじりに対応していた。
「おいあれ、犯人の車じゃないのか?」
「あーいや、確かに同じ型だけどちげーよ。あのおっちゃんはただの通行人。犯人追うのも手伝ってくれたし」
「…………」
不審がる踏御に対し、我妻は追跡中の話を補足する。出来過ぎたタイミングの話だとは誰しもが思う話だが、ちゃっかり車の中を調べていた我妻の話では、不審に思う様な痕跡などは無かったらしい。
一頻り情報共有を終えると、我妻は事情聴取も兼ねて少女が座るパトカーへと向かっていった。
「まったく毎度毎度。災難なのか呪わてるのか知らないけど、毎回聴取するこっちの身にもなって欲しいよ」
小野崎の聴取が終わったのか、疲れた顔の警官が愚痴を零しながら警官群れへと歩いて行く。我妻の説明を受けてなお何か腑に落ちないままの踏御は、息を吐き出し続ける警官へと声をかけた。
「あの、あっちにいる小野崎って人。そんなに頻繁に事情聴取されてるんですか?」
「ん? あぁ、連絡してくれた学生さんだね。まぁ事件に関係無いから話しちゃうけど。あの人、乗ってる車が例のハイエースでしょ? 当初はよく僕達に止められてるのよ」
「当初は?」
「そうそう。でも最近は呪われてるんじゃって言われてるよ。毎回誘拐現場の近くで見つかるからね」
神出鬼没の誘拐現場で頻繁に同一人物が、犯行車両と同じ型の車で見つかるなど一番疑いがかかるであろう人物の筈なのに、警官は守秘義務なんてそっちのけでべらべらと喋る。
それもそのはずで、我妻と同じく何度警察が調査しても不審な点は無く。車の中で見つかるのは何時も仕事の道具と煙草の吸殻。とはいえ事件現場の近くにいた人物として、警察は聴取せざるを得ないという事だった。
「他の車を使って攫われたとかは?」
「んー、近くを通る車も無い事は無いけど、そもそも被害者からの証言があるからねぇ」
「そう言えば確か我妻も被害者からの証言を――それって誘拐された子が戻ってきてるんですか⁉」
「いやいや、あくまで攫われた子と当時一緒にいた子って話で――あぁ駄目駄目! あんまりそういう事嗅ぎまわらないの!」
そう言って警官はそそくさと仕事に戻る。未だこの場の警官に大きな動きが無いのは、犯人が逃げおおせているからなのだろうが、染料があれだけ付着した状態で人の目を盗んで逃げるなど、隠れるか車で逃走する他に考えられない。
だからこそ踏御は他の車も使っている可能性を考えたのだが、関係者の証言もあり。自分の中での食い違いが違和感となって、彼の頭を悩ませた。
「どしたのフミフミ、難しい顔して」
動き出すパトカーをバックに、我妻が怪訝そうな顔で踏御の顔を覗き見る。聴取も終えて被害者の護送も始まった為か、幾ばくか周囲の警官は数を減らしていた。
「なぁ我妻。お前が昨日言ってた被害者からの証言って、あれ本当に正しいのか?」
「どゆこと?」
「さっき警察の人に聞いて気になったんだけど、身代金目的でもない誘拐で目撃者なんて残すのか? 目撃者を残すなんてあり得ないだろ」
「そりゃまぁそうだけどな。何か連れて行けない理由があったのか――」
「目撃者を残す必要があったのか……我妻。その被害者の子に今連絡って取れるか?」
我妻はすぐさま携帯と取り出して、証言を聞いた被害者へと電話を掛ける。数回の呼び出し音の後に聞こえる女性の声に、彼はなるべく落ち着いた様子でとある内容を再確認する。
返って来た返答は案の定。この場にいる全員が見落としていた盲点だった。
「やっぱり車に乗せられた瞬間は見ていないんだな」
「あぁ。だけどこれだけじゃ対象の車が増えるだけで手掛かりにもなんにもなんねーぞ?」
違和感にはあと一手足りないと踏御は再び息を詰まらせる。捜査のかく乱に目撃者を残す目的までは分かったものの、未だ犯人特定までの道には繋がらない。
何より推理を裏付ける別車両の目撃情報がまるで無く、泥沼からは抜け出せないでいた。
「近くで目撃情報があるのは白いハイエースだけ」
「それ以外の車なんてうじゃうじゃあるし、注視もしないだろうからなぁ……毎回同じ車種が見つかりでもすりゃいいんだけど」
「毎回……近くで見つからない……車種……」
ぶつぶつと独り言を呟いていると、突然の鳴き声に体を跳ねさせる。
驚いた踏御が声の方へ振り返ると。警官の制止も虚しく、警察犬がマンホールの上で温まっていた野良猫に吠え続けていた。
「……なぁ我妻。この街の下水道って広いのか?」
「ん? あぁえーと、確か昔からある合流式の下水道を整備しなおして使ってるから場所にもよるけど結構広いはず――お前まさか映画みたいに下水道使って逃げたって?」
「出来なくはないんだな?」
「そりゃそうだけど、場所によりけりで地下ずっと通って遠くへなんて無理だし、下水道にだって人の目はある。とてもじゃないが遠くへなんて逃げられねぇよ」
「いや違う、短距離でいいんだよ――なら試す価値はある」
踏御は吹っ切れた様子で犯行現場を後にすると、跡を追いかけてくる我妻の声を無視して、先程まで居た男の捜索を開始する。
男の聴取が終わってまだ時間も浅く。暫く周囲を走っていると、少し離れた自販機前で飲料水を購入し、車を停めて一服していた。
「小野崎さん、でしたっけ?」
「ん? 坊主は――あぁさっきの兄ちゃんの連れか。どうした?」
「小野崎さんはこの車で何時もお仕事されてるんですよね。お一人で?」
「いや、うちの作業員数名と一緒に仕事してるぞ。まぁ最近は不景気で大変だがなぁ」
そう言って中肉中背の体を揺らしながら苦笑いをする小野崎に、愛想笑いを返しながら後ろに握った手を強く握りしめ、踏御は我妻と自分の息が落ち着くのを確認する。
「――実は、警察の人に頼まれて小野崎さんを探してたんです」
「え、また俺にか? もう話せる事なんてなんも無いと思うんだがな」
「いえ、小野崎さんにではなくて、一緒にお仕事してる作業員の方に、です。もしかすると、他にも目撃情報が拾えるかもしれないからだって」
「あ、あぁそういう事か。なら後日改めて警察に――」
「今すぐに、だそうです」
踏御の一言に小野崎の動作は一瞬止まり、笑い顔は僅かに崩れる。だがそれも束の間。すぐに元の体裁を取り戻すと、買ったばかりの飲料水で喉を潤し、今度は困った表情で頭を掻いた。
「いやぁ、そりゃー困ったな。あいつら今日は非番で連絡がつくかどうか……ましてや今すぐは難しいんじゃねぇかなぁ」
やんわりと躱され、踏御の方が切り返しに詰まる。咄嗟についた嘘だった為に、彼の脳では次への対策が間に合わない。焦り思考を巡らす踏御に対し、小野崎の方が先手を打って警察へ宜しく伝える様に話を切ってくる。
「ま、待って下さい! そこは……なんとか、して貰わないと」
「なんとかって言われてもねぇ」
「おっちゃんそこを何とか! こいつの知り合いも誘拐されたみたいなんだ」
「俺が出来る事ならなんとかしてやりたいけどねぇ。あいつ等の都合もあるだろうからなぁ」
飲み干した飲料水の容器を捨てて、いそいそと車に乗り込もうとする小野崎に対し気持ちが逸り、踏御の手が男へ伸びようとした瞬間。背後から届くしゃがれた声が、全員の動きを停止させる。
「突然お呼び止めして申し訳ない」
「あんたは?」
「失礼。私、警視庁から来た
現れた津賀と言う刑事は、少しくたびれた鈍色のスーツから手帳を取り出し開いて見せる。中には顔写真付きの身分証明書と、警察関係者である事を示す警察章が誰にでもわかる形で取り付けられていた。
「先程の件ですが、私共の方から伺わせて頂きましょう。少しお話を伺うだけですので、お時間は取らせません」
「い、いやいや! 流石にそれは申し訳ないですよ。それに、何名かは市外へ旅行にいってまして」
「事件解決の為です。こちらの苦労などお気になさらず。えぇと、小野崎さんでしたか。貴方にはお手数かけますが旅行先へのご同行をお願いしても宜しいですね?」
捲し立てる様な刑事の物言いに、今度は小野崎の歯切れが途端に悪くなってゆく。しどろもどろになりながらも何とか会話を続けていた彼だったが、知らぬ間に後ずさっていた体が、背後の自販機に背中がぶつかると途端。恨み事を吐き捨てて、その場に膝から崩れ落ちた。
「君たちのおかげだ。ありがとう」
夜も深い警察署の休憩スペースで、津賀は両手に持った缶コーヒーを踏御と我妻に渡しながら、労いの言葉を投げ掛ける。
あの後追い詰められた小野崎は犯行を自供し、暫く後に集められた作業員達は、服こそ着替えていたものの、そのうちの一人からカラーボールの痕跡が見つかった。
犯行手口は概ね踏御の予想通り、下水道を使った別車両での誘拐だった。
だが予想と違い、囮に使っていたハイエースは最近になって買い替えた物で、以前の車両は実際に誘拐車両として使われていたとの事だった。
「それにしても何であんな場所まで追って来てくれたんですか? それにあんな嘘に乗るなんて……」
「刑事の感――なんて言えれば格好良いんだろうけどね。残念ながら追いかけた理由は我妻市長のお孫さんで、嘘に乗ったのは元々小野崎には嫌疑が掛かっていたからなんだ。まぁあれだけ頻繁に現場で見つかっていれば当然だね」
我妻への挨拶がてら向かった先で大手柄だと、無精ひげが目立つ顔で津賀は笑い。一頻り笑い終えた後に、急に真顔になったかと思うと二人の頭を小突く。
「もう一つ君たちを追いかけた理由は釘を刺すためだ。今回はたまたま穏便に事が済んだが、犯罪者は自分に害のあるものにどんな手段を講じるかわからん。小野崎が刃物を持って襲い掛かって来たら、一体どうするつもりだったんだ!」
もっともな正論を並べられ、ぐうの音も出ない二人は粛々と説教をくらう。
連行される前の小野崎は犯行に対し悔いており。良心の呵責もあって自供したのだと言われていたが、仮に罪の意識が薄い犯人ならば、強硬手段に出る可能性もあったのだろう。
「――ともかく。危ない行為だったとはいえ、君たちの活躍で事件解決が早まったのも事実だ。だからこれ以上は責めはしないが、くれぐれも無茶な行動は慎む様に――以上!」
「すみません……あの、怒られついでに誘拐された人達の事、聞いても良いですか?」
「そうだった、津賀のおっちゃん。こいつの知り合いが誘拐されてるかもしれないんだ」
二人は津賀へ布津巳が行方不明な事を伝え、今回の一件に関するあらましを話す。津賀は淡々と内容を聞き終えた後に、二人に目線を合わせ肩を叩く。
「二人の事情は分かった。実はこれから誘拐された人達の救助に向かう所でね、その布津巳って子と我妻君の探し人については、確認次第私が連絡しよう。だから絶対に大人しく待ってるんだぞ」
「わかりました……俺、連絡が来るまで待ってますから」
小野崎の供述によれば、誘拐された人達は厄介な団体に捕まっている為、準備を整えて踏み込むらしく、踏御は力強く頷き返すと、津賀に別れを告げて我妻と共に警察署を後にした。
我妻は我妻で、依頼主である被害者の一人だった女性への経過報告を行う為に、夜の街へと消えていく。
残された踏御は津賀の部下に送られた。彼の両親は揃って驚き心配していたが、元々両親揃って大らかな性格のおかげか、家に帰って三十分ほどの説教を受けた後、踏御家には普段と変わらぬ日常が戻っていた。
「…………」
事件は解決に向かい、あと数時間もすれば恐らく津賀からの吉報が聞けるだろうと思うも、踏御の心は落ち着くことが無い。
事件に感じていた違和感も既に解け、犯人は捕まり大勢の大人達が動いている筈なのに、胸のどこかに小骨が刺さる感覚が消え去ってはくれず、今もチクチクと彼の中で自己主張を止めはしない。
――あの視線が、消えはしない。
「――ッ!」
閉じた思考をこじ開ける様にして、電子音が頭を殴る。逃げる様にして、怯える様にして自分の殻に籠っていたからなのか、踏御は知らぬ間に自室ベッドで横になり、気が付けばカーテンの向こうからは、朝を告げる白く淡い光が網目を抜けて部屋の中へと入りこんでいた。
「――もしもし」
『朝早くに済まない。警視庁捜査一課の津賀だが』
津賀の声は踏御の耳へと朝の始まりを伝えてくれる。昨日の夜に聞いた時より、幾分老けて聞こえるのは、機械を通すことによるものなのか、不眠で事件解決に当たっていたからなのか、あるいはその両方なのか。そんな事をまともに思考が出来ていない脳で漠然と踏御は考える。
津賀はそんな踏御に取り留めない話を幾度か持ちかけて。長い間の後、ようやく本題を口にした。
『君が探していた布津巳と言う女子高生についてだが……此方で助けた人達の中には――残念ながら見当たらなかった』
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