さん。
水族館を出て、いよいよスカイツリーの中へ。四階の個人用入り口フロアでチケットを購入し、専用のエレベーターへ。
「高校生以下で料金書いておきながら、大人は十八歳以上ってひどくない?」
「先輩、誕生日今月なんスか?」
「四日に十八歳になったばっかり。トホホ、私だけ大人料金か……」
地上350mまで一気に上昇。ここが展望デッキで、展望回廊に上がるためにはここでさらにチケットを購入する必要がある。
「すご~い、高~い! 大きな人にペチッてされた時、これくらいだった?」
「う~ん……周りの建物の高さが違うから、はっきり分からないです」
「これからもっと高いところに行くわよ~、私だけ大人料金よ~、やったね♪」
「先輩……御愁傷様っス」
また別のエレベーターを乗り継いで、いよいよ展望回廊へ。高さ445メートル、ここから外に張り巡らされた回廊をグルッと周回した先が一般客が入れる最高到達地点だ。
スマホで時刻を確認する。午後三時五十六分……ほぼ理想的なペースだ。
ちなみにここまでのタイムスケジュールは全て夢が管理している。多才な少女である。
「ここで梅干し食えばいいのか……しかし、実際に何かあるんだとしたら、いったいどこから連絡してくるってんだ?」
「まぁ、やるだけやってみて、何も無いならそれで良し。何かあるなら参拾萬工房の手腕に期待しましょう。何分って指定は無かったけれど、一応四時ちょうどに実行するわよ」
夢がお徳用パックの梅干しを取り出して、一人に三個ずつ渡していく。実に、素敵に、見るからに酸っぱそうなでっかい梅干しだ。口に含むのにも勇気がいる。
「一度に三つも食べるんですか?」
「アップル、酸っぱいの嫌い……」
「いや別にお前らには無理して食えとは言わねえけど、まぁ一応頼む」
「十五秒前……十秒前……五、四、三、二、一! 今よ!」
意を決し梅干し三粒一気に頬張る。同時に夢が梅干しを口に含み、ギュッと目を瞑った
すぐに口の中に梅の香りと強烈かつ甘やかな酸味が広がって……制圧して、支配して、蹂躙して埋め尽くして梅干しナニコレ梅干し酸っぱい! 梅干しスゴク酸っぱい!
「うぐぐぐぐ……!?」
「す、酸っぱい……」
「うう、口の中しゅるしゅるするよぅ」
「ぬ、抜かった。飲み物を用意しておくべきだったわね」
あまりの酸味に耐えかね崩れ落ちる。突然梅干しを頬張って倒れて床の上で苦しむ少年少女たちに、周囲の観光客は思い切り奇異の視線を投げかけていた。
「失敬、まさか三個同時に食べるとは思わなかったのだよ。これを飲みたまえ」
「ど、どもっス」
差し出されたペットボトルを受け取って、口を開けて喉を潤す。酸っぱさで支配されていた口の中を冷涼な清水が駆け抜けて、胃の奥へと流し込んでいった。
一息ついて辺りを見回すと、見知らぬ男が他の三人にもミネラルウォーターのボトルを渡している。それは普通に市販されている、よく見かけるペットボトル飲料だった。
「……誰だ、アンタ」
「君たちが呼んだのではないのかね?」
尋ねると、男は不思議そうに首を傾げた。
「初めまして。僕は参拾萬工房の社長にしてただ一人の職人……サンジェルマン伯爵だ」
どこからともなく突如現れた見知らぬ白人は、四人に向かって軽やかに会釈した。
展望回廊を踏破して、下りのエレベーターで再び展望デッキへ。
その中にあるカフェへ移動した寿たち四人と参拾萬工房の仕掛け人を名乗った謎の白人は、テーブルを挟んで静かに対面していた。
「ここなら少しは落ち着いて話もできよう。さて、聞きたいことはあるかね?」
コーヒーに砂糖を混ぜながら、男は悠然とそう問うた。
三、四十代くらいに見える、小ざっぱりとした男である。しかし一方で老けた二十代にも、若造りの五十代のようにも感じられる。外見の印象が一定しない。
グレーのスーツに黒のシャツというフォーマルな格好。胸元には金細工の蝶。背丈こそ寿……夢より低いかもしれないが、何千年もの時を生きた巨木のような荘厳さがあった。
「……じゃあ、まず最初に聞くがサンジェルマン伯爵ってのはなんだ。まさか本物だとかほざくんじゃねえだろうな?」
「ちょっと! どうして
「いや、どうしてって言われても。俺の親父フランス出身なんで」
サンジェルマン伯爵。十八世紀の欧州社交界に突如現れた、伝説の怪人物である。
曰く、不老不死。
曰く、錬金術を究めた。
曰く、バイオリンの名手。
曰く、稀有な才能を持つ画家。
曰く、博覧強記で知らぬことは無い。
曰く、無数の言語を自由自在に操った。
曰く、他人の心を読むことができた。
曰く、ヒマラヤで東洋の秘術を修めた。
曰く、謎の丸薬以外は何も食べなかった。
曰く、かつて古代バビロニアの都を見たと語り、その光景を詳細に語った。
十八世紀後半にドイツで死亡したとされているが、その後も彼は歴史のあちこちに顔を出す。フランス革命を防ごうとした、ナポレオンに助力した、アメリカの独立に関わった……もっとも新しい記録では、二十世紀にも目撃されている。
ヨーロッパ史上もっとも謎多き人物。その正体はただの山師であるとも、狂人であるとも、本物の不死者であるとも、時間旅行者であるとも言われている。
「じゃあ、何百年も昔の人なんですか?」
「コイツが本物のサンジェルマン伯爵だってんなら、そうなるな」
「ちなみにこの人がヨーロッパで暗躍してた頃、パリは昼間からウンコの雨が降るそれはそれはきちゃない街で、ハイヒールはそれを踏まないために作られた……」
「先輩、話の腰を折らないでくださいよ」
「
「なんだと言われても、僕は僕だとしか答えようがない。それともこうすれば満足かね」
何やら懐から取り出して並べ出す。保険証や普通免許証、パスポート……日本において身分証明書として通用する品ばかりだ。どれも本物のようだ。
「あ。これの写真の人、このおじさんと一緒だ」
「日本で暮らしているんですか?」
「もう三十年ほどになるかな。この国は実にユニークだ、見ていて飽きない」
「こ、こんなモンで証明になると……」
「この国ではこれらが身分証明する品になるはずだが」
「しまった! 反論できないわ!」
「ノリで肯定しないでくださいよ、先輩!」
「信じてもらえないのならそれで構わない。僕にすれば証明する必要は無いのだからね。とはいえ疑われたまま夢想玩具の話をしても信じにくいか……こういうのはどうだろう」
言って男が指を鳴らす。途端、周囲の光景に異変が生じた。
ウェイトレスは踏み出しかけた態勢で静止し、隣の席のカップルはサンドイッチを口に運ぶ途中で石化したかの如く凝固する。店内の全ての人と物が動きを止めていた。
あらゆる喧騒が消え去った中、厨房で調理中の食材が宙に浮いたまま停止しているのに気付いて目を丸くする。
「な、なんだ……? 何をした?」
「時間を止めてみた。もう少しばかり続けてみようか」
男が再び指を鳴らす。寿たちが座っているイスとテーブルはそのままに、辺りの景色が一変する。強い日差しと湿気を帯びた空気、見慣れぬ木々……どこかの森の中だろうか。
「ドラゴンだ!」
「きょ、恐竜……?」
屈強な両脚。クジラのような巨体。鋭利な牙が並ぶ大きな頭部。長大な尻尾。しばらくこちらの様子を眺めていたその怪物が、ややあってこちらに近づいてきて――
三度、男が指を鳴らす。気がつくとどこかの湖畔に移動していて、奇怪千万な生き物が目に着いた。足が無く、長い鼻を使って自分の後方に向かって飛び跳ねている。
「もしかして……鼻行類? あれはジョークなんじゃなかったかしら」
夢が語る中、さらに指を鳴らす音が響く。今度は何が起こるのかと身構えれば、見渡す限り岩と砂しかない荒涼とした場所に到着。漆黒の空を見上げれば、青く輝く大きな星。
「……ひーちゃん、あれって地球ですか?」
「じゃ、じゃあここはどこだよ。まさか月面とかそんなわけが……」
テーブルの上にあるアイスコーヒーを手に取る。残っている分量に対して異様に軽い。そういえばさっきからなんだか体がふわふわする。重力が小さくなっている?
本当に月にいるのか? だとしたら、どうして息ができるのか、話ができるのか。急変する状況に理解が追いつかずに困惑する中、またも男が指を鳴らした。
一瞬にして周囲の風景が東京スカイツリーのカフェの店内へと戻り、当たり前の喧騒が耳に届く。手にしていたアイスコーヒーも、相応の重量を取り戻していた。
「帰ってきた……の、か?」
「見て見て
「い、いつの間にそんなモンを……」
「だって、集団幻覚見させられたって可能性もあるでしょ? 何か回収してそれが手元に残れば、実際にどこかに行ったんだって傍証になるじゃない」
「これはこれは、聡明なお嬢さんだ。さて、どうかな? 僕がサンジェルマンであるかは別にして、夢想玩具の仕掛け人という話……少しは信じる気になってもらえたかね」
鼻先でカップを揺らして香りを楽しみ、男――サンジェルマンがコーヒーを口に含む。立て続けに体験した異様な光景の全てに、今さら手品や幻覚だといわれても納得できないような臨場感があった。どう過小評価しても尋常な人物だとは思えない。
「……とりあえず、アンタが只者じゃないのはよく分かった。そうだと名乗るなら、遠慮無くサンジェルマン伯爵と呼ばせてもらう。それより夢想玩具だ、本当にお前が仕掛け人なのか? いったい何が目的で、これからどうするつもりなんだ」
「目的か……それを答える前に、一つ僕から質問させてもらおうかな。純粋な知的生命体の最大の天敵はなんだと思うね?」
「知的生命体って、人間のことですよね? ……煩悩だと思います」
「年だよ、きっと! 鏡見ながらママがよく言ってたもん、年は取りたくないって!」
「えぇと、病原菌とかそういうのか?」
「人間の天敵は人間よ。百年後も千年後も、きっと人間同士で殺し合ってるわ」
「どれもなかなか興味深い意見だ。だが申し訳無い、どうやら前提条件を伝え損ねたようだ。ここでいう純粋な知的生命体とは人間のことではない。不老不死を得て、無限の知識を蓄え、あらゆる苦しみから解放された知的生物のことと定義している」
「それはつまり、あなたのような……ということかしら?」
「その通り。病気など論外、時の概念もすでに超越した。僕にすれば煩悩などというものは一種の娯楽に等しい。僕と同じ知識を持つ不死者がいればなるほど恐るべき強敵となりうるかもしれないが、とりたてて戦う理由も無い。よってこれまた天敵にはなりえない」
「じゃあ、アンタの言う純粋な知的生命体の天敵ってなんなんだよ」
「――“退屈”だよ。信じるか信じないかは任せるが、僕は無限に存在している平行世界の一つの出身だ。そこで魔法を究めて不死を得て、その後も様々な苦難を越えてこの世の叡智の全てを手に入れた。しかし、まったく予想していなかったよ。究極の真理、そして不老不死……その二つの先にあるのが、これほどまでの虚無と空漠だったとはね」
「もしかして、あなたが歴史の裏でいろいろと暗躍していたのは……」
「まさかテメエ、夢想玩具なんて迷惑なモン作りやがった理由は……!」
さすがに理解し切れないらしく、
大方の事情を察して唖然とし呆然とし愕然として、それらを包み込む巨大な怒りに身を震わせる寿と夢の前で、名高き伝説の紳士はあっさりと言い切った。
「察しが良いね。ただの退屈凌ぎだよ」
東京スカイツリーを激震が襲ったのはその時だった。
「「わああっ!」」
「アップルのパフェがああ!?」
衝撃は一瞬で終わる。地震ではない。それならいったい? 飛行機でも突っ込んだ?
「ちょっと! 見て、窓の外!」
夢が叫ぶ。彼女が示した先に、空を悠然と飛翔する異形の姿があった。
末端は紺、中心部は藍色。そんな不思議な配色の、人型をした絵具の塊のような怪人。数十メートルはあろうかという同じ色合いの翼を広げ、窓の外にふわりと静止した。
「む、夢想童子……!?」
誰かが呻く。間違いない。あんな化け物、それ以外にはありえない。
夢想童子が人差し指と中指を立てる。その間に何かが挟まれている。大きく息を吸い、その何か棒状のものを口に押し当て――
「伏せて!」
夢が叫んで手近にいた
夢想童子がケタケタと笑って、また場所を移動していく。先ほどの衝撃は別の方向からこれをやったためであるらしい。寸前で直撃を避けた夢がガバッと跳ね起きた。
「逃げるわよ! エレベーターに!」
「りょ、了解!」
サンジェルマンに聞きたいことはまだあるが、今はそれどころではない。夢が
「押すな! 押すんじゃない!」
「まだ着かないのか!?」
寿たちが到着した時、エレベーターホールはすでにスシ詰め状態だった。次々に人々が殺到する中、三度目の衝撃が襲う。あの夢想童子は塔そのものを破壊するつもりなのか?
「エレベーターはダメだわ、途中で動かなくなるかもしれない。非常階段に!」
即断即決して夢が駆け出す。
床に叩きつけられてゴロゴロ転がる。強制的に肺から空気が漏れる。一瞬遅れて、全身を痛苦が苛んだ。
「ごほっ……」
近くに
「ひーちゃあん! ひーちゃあああん!」
「
名前を呼ばれて顔を上げ、ギョッとする。どこからか飛んできた瓦礫が非常階段の入り口を塞いでいた。少しだけ空いた隙間から、
あのサイズ……子供一人くらいなら通れるか?
気を失っている
お互いにほとんど無言で、瓦礫の隙間から
「先輩、
「そういう断りにくいお願いの仕方はどうかと思うよ、卑怯者」
「ひーちゃん、ひーちゃんはどうするの?」
「他にも非常階段の入り口があるだろ、それを探す。じゃあな!」
簡潔に説明してその場を離れる。
後は夢に任せるしかない。彼女ならきっと切り抜けてくれると信じよう。
案内パネルに目を走らせて、他に非常階段の入り口は無いかと展望デッキを駆け回る。その間も謎の夢想童子の攻撃は続き、スカイツリー全体が衝撃に揺れる。
焦燥が募る。心臓が耳の側にまで移動したように鼓動の音が大きく聞こえる。時間感覚が分からない、三人と別れてから何分経った――一分か二分か、それとも十分くらいか。
ようやくそれらしい案内パネルを見つけ、指示に従って走る。そこで寿を待っていたのは、どこぞの瓦礫で非常階段の入り口を封鎖している、あの夢想童子の姿だった。
「なっ……!?」
足が止まる。絶句する。息を飲む。絶望という言葉が眼前をチラつく。考えが甘かった……あの夢想童子は展望デッキに残っている全員を閉じ込める気だ!
どうしてそんなことをする? いったい、そうして何になる? 様々な疑問が浮かんでは消え、思考を束縛する。立ち尽くす寿に気付いたか、夢想童子がこちらを振り返った。
「よう、寿じゃん。何慌ててんだ?」
藍色の絵具の頭の部分がぬるりと垂れる。中から現れたのは、翁市で寿が何かと面倒を見てやっていた家出少女だった。
「……ナゴミ? お前、ナゴミか!? なんでこんなところに――」
「今ちょっと忙しいんで、後でな」
言いながら距離を詰めて腕を薙ぎ払い――寿が覚えていられたのはそこまでだった。
○ ○ ○
一時間後。片手で
腕がだるい。足が重い。腰が痛い。体力の限界はとっくに突破しており、気力もすでに尽きていた。それでもここまで歩き通すことができた理由は、単に
「よ、よくがんばった私。えらいぞ私。少しだけ休んでいいわよね、うん」
自分で自分に言い訳して倒れ込む。すでに夢想童子の襲撃のことは通報されているようで、救急隊員が駆け寄ってきて飲料水と酸素ボンベを渡してくれた。
水を飲み、ぜいぜいと肩で息をして、数分ほどしてようやく周囲の状況を確認しようと思える程度に体力が回復する。傍らでは
「ひーちゃん……ひーちゃん……っ! 夢想玩具があれば……!」
寿の名を口にして、小さな肩を震わせる。どんな言葉をかけてあげればいいか、夢にも分からなかった。
「
東京スカイツリーを見上げる。破壊された展望デッキが、無残な姿を晒していた。
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