時雨さんには敵わない

小麦

時雨さんには敵わない

「郁、まだ課題やってないのか」


 私が時雨さんの言葉に課題からちらりと目線を上げると、彼は煙草に火をつけているところだった。吐き出した白い煙が生きているように彼の周りでくゆり、霧散する。

 咥えられた煙草から形のいい薄い唇に私の視線が動いて、捕らえられた。

 あの唇で、意地悪を言って、甘やかし、そして私の唇までをも翻弄するのだ。

「時雨さんのクラスは、冬休みどんな感じなの?」

 私がそう問うと、彼はどこか女性らしい柔和なつり目を不機嫌そうに細めた。

「どんな感じも何も…あの校風自体、緩いからな。誰一人として冬休みの宿題なんてやってないんじゃないか?」

 進学校でもないしな、と不機嫌ながらも少し気楽そうに言う時雨さんは、女子校の教師だ。私とは違う高校で現国を教えている。26歳、細身で長身、髪の毛はサラサラミディアム。特別に堀が深いわけではないけれど、すっと通った鼻筋に、吸い込まれそうなダークブラウンの瞳は中性的な清潔感と魅力があって、結構イケメンな部類だと思う。それも気だるげな色気のある男性ともなると、女子校の生徒も放ってはおかないだろう。煙草を吸う仕草も妙にしっとりとしていて、秋の夜雨を思わせるような趣きすらある。

「……みんな宿題やってくると思うよ? だって時雨さんだもん」

「……なんだそれは」

 私だったら。私だったら、こんな格好いい先生の宿題なら、きちんとやって、優等生のフリをしてでもお近づきになるのに。

 私は、それが出来ないのに。

 なんだか胸の中に重い塊があって、流しこもうと思わず頼んだキャラメルラテを飲んだけれど、ただキャラメルが苦く感じただけで大した効果はなかった。


 元々、私と時雨さんの間に接点はなかった。ただ、書いている小説の資料を求めて普段は行かない県立図書館に足を運んだ日、機会オンチな私が図書館の端末に四苦八苦していたところを助けてくれたのが時雨さんだったのだ。その時に彼の持っていた本が私の大好きな本だったので、思わず声をかけたら、意気投合してしまった。そのおかげで今のこうした関係があるというわけだ。

 本当に、爪上の砂つぶのような確率。

 だからこそ、時々、夢なんじゃないかと思う。私より10も歳上の彼が、私なんかを構ってくれることが。

 さすがに自分の生徒には手は出さないと思うけれど、彼の学校には可愛い子もいるだろう。目移りする時もあると思う。

 だから、不安になって、自信が空気のように抜けて萎んでいく。


 私は目の前に座っている彼を見上げた。

 時折、その長い指で煙草の灰を落としながら、片手は私の大好きな小説のページをめくっている。結局、借りるだけでは飽き足らず買ったらしい。

 私がじっと見ていると、不安な気持ちが出ていたのか、柔らかく微笑まれた。

「どうした?」

 甘く、優しい言葉と落ち着く声色で機嫌を窺われる。小首を傾げるように覗かれて、いたたまれない。

 少し気恥ずかしくなって顔を俯かせると、煙草を挟んでいた指がそれをもみ消したのが見えた。

 そのまま指を私の髪に滑らせる。綿菓子で遊ぶように私のくせ毛を楽しまれて、くすりと笑われてくすぐったい。指先からは煙草の香りがして、少し苦くて甘い。

 好きな人に触られているのは誰だってドキドキするもので、それは私も例外ではなく、先程から胸の動悸が激しくなっている。

 ……時雨さんはドキドキしないのだろうか。私に触れていても。

 少し気になって再び見上げたら、イタズラな瞳とかち合った。

 愛しい。可愛い。面白い。

 そう、うっとりと細めた瞳で訴えかけてくる。波のように押し寄せてきて、幸福で息がつまる。

「……時雨さんは、ずるい」

「なんで」

「言葉にしないところが」

「お互い様」

 彼はおかしそうに笑うと、身体をテーブルの上に寄せて、私の頬に唇を落とした。

 誰かが見てるかも。わざと遠いカフェでデートしているけれど、彼の学校の関係者に見つかったらどうしよう。

 そんな私の心配をも、彼は何も言わず笑うのだ。少年みたいなイタズラな顔で、大人びた愛しさを滲ませて。

「もう……懲戒免職になっても知らないよ……」

 苦し紛れにそう言うと、満足そうに微笑んで一言。

「郁のせいなら喜んで」

 きっとそんな状態になっても、この人は悠々と生きていくのだろう。

 本当に、時雨さんには敵わない。

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時雨さんには敵わない 小麦 @sakurakomugi

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