ボクは黒幕との決別を看取る――2




 え?


 は?


 はああああああああ?


 ボクは耳を疑ったね。


 ナミダ先生が、推理を外した?


(汐田って、ナミダ先生の恩師だよね?)


 ボクも聞いたことがある。


 この人がナミダ先生を准教授に推薦したという、正真正銘の『味方』のはずだ。


 それをやっかんだ精神医学部の渦海教授が、息のかかったスクール・アドバイザーをけしかけたともくされた。


 それなのに――渦海はブラフで、ナミダ先生の恩師が『黒幕』だった?


 渦海は何も悪くなかったのか!


(じゃあ暴漢どもは、か? 敵対する精神医学部ではなく、汐田教授の部下……ナミダ先生と同門の仲間たちが、妨害工作をしていた?)


 仲間たちが、ナミダ先生に毒牙を――。


 ポスドクは出世に必死だ。例え同門だろうと、ナミダ先生の昇進に嫉妬したのか。


(真相は学部の対立ではなく、だった……!)


 覆面をかぶっていたから、ナミダ先生も気付かなかったんだ。


仲間に裏切られて、ナミダ先生の心境はいかばかりか……。


「色彩心理学において、黒は全てを包み隠す没個性の象徴だ。みんな同じ黒衣と覆面で外見の判別を付かなくさせ、僕に正体がバレないよう振る舞ってたのか……」


 傷心するナミダ先生に、今度は汐田教授が声を張り上げる番だった。


「ワタシはもう五〇歳手前だ。君とは一九歳違いだったかな? 期せずして、フロイトとユングも一九歳違いだったな。いやはや皮肉なものだ。ワタシはユングになりたかったのに、よもやフロイトに見立てられるとはな!」


「僕にとってはまさにフロイトでしたよ! ――『フロイトは私の出会った最初の真に重要な人物であった』――ユングがフロイトに抱いた有名な第一印象です。僕は汐田教授にそれを感じてました! なのに……なのに……!」


「――『ユングはワタシの跡継ぎ息子だ』――フロイトがユングに放った有名な言葉がある。君はこれを夢見ていたのかね?」


「そうです、あなたは僕にとって師匠でした。フロイトでした。ユングではない」


「いいや。ワタシがユングだ。フロイトはむしろ渦海だ。同じ心理学の道を志しておきながらワタシと対立した奴こそが、ワタシにとってフロイトの見立てだ!」


 フロイトとユングの見立て、なのか?


 人の立場によって、見立ては変わる。相談室の交換殺人事件のときも、渦海教授と汐田教授の関係を『さながらフロイトとユングばりにたもとを分かちました』って比喩されてたのは覚えている。


「ワタシはユングになりたかった。ワタシの人生はユングと瓜二つなのだ。誕生日は同じ七月二六日。子供の頃から『ファウスト』を愛読し、二〇歳で父を亡くし、八歳下の幼な妻と結婚し、教え子や相談者と浮気もした。ああ、まさにユングだ」


「いいえ、あなたはユングじゃない。ユングは浮気をしても、妻と別れることはありませんでした。ですが、! ユングになり損ねたんです!」


「何だと……!」


「人間の適応機制に『同一化』というのがあります、あるある。憧れの人物を自分と同一視し、なりきることで、辛い現実から気を紛らわせる逃避の心理です」


 あ、それさっきも聞いたぞ。伏線だったのか。


 確かに汐田教授は、ことで現実を乗り切ろうと焦燥し、テンパっているように見える。


 失敗しているけど。


 放蕩三昧しても家庭を維持できたユングと違い、汐田教授は離婚している。ユングになり損ねたんだ。そのせいで、別れた妻の息子・霜原から恨まれもした――。


「ワタシはそれでも、元・妻と息子を愛していたんだ!」血眼になる汐田教授。「ワタシが二四歳のとき、一六歳の嫁と学生結婚した。当時の民法は一六歳で結婚できたからな。生まれた息子も紆余曲折あったが、今は大学を出て社会福祉士に就職した……ワタシは離婚後も息子を気にかけていたのだ! 愛する息子に殺されるなら、それはワタシの自業自得だ。甘んじて受けよう……だが、それを邪魔する者が居た!」


「僕ですか?」


「そうだ! 湯島くん、君は息子の罪を暴いた! 息子は警察に逮捕され、輝かしい人生を台なしにされたのだよ! な!」


「それが、教授の動機ですか……」


「ワタシは後悔した。君のような恩知らずを准教授に推薦してしまった!」窓から身を乗り出す教授。「とはいえ、すでに学内人事で話が進み、君の出世がほぼ内定しつつある。これを取り下げるには、君が失脚するか、辞退するしかないのだよ」


 だから今回、脅迫と誘拐を実行したのか。


(精神医学部とはまた別の、異なる陰謀だったんだ。てっきり同じ黒幕の計略だと思い込んでいたのが、ボクたちの落ち度だ)


 それにしても、ひどい。


 汐田教授の我がままじゃないか。自分のエゴでナミダ先生を翻弄しただけだ。


 霜原が逮捕されたのは、犯罪を犯したからだ。ナミダ先生のせいじゃない。逆恨みだ。


「そんなの勝手すぎませんか?」


 だからボクは口を挟んだ。声を荒げて裏返るほどに。


 久々に女らしいソプラノボイスを叫んだ気がするよ。


「ひどいじゃないですか。ナミダ先生は悪くないのに、あなたの勝手な思い込みで昇進を揉み消すなんて、あんまりですよ。あなたも恩師なら、最後まで責任を持って面倒見たらどうなんですか!」


「知ったことか。ワタシは湯島涙を排除する」


「大人の都合のくせにっ」


「黙れ小娘!」


 汐田教授がボクをはたいた。


 痛っ。


 横っ面を平手打ちされたボクは、よろけて転倒してしまった。


 この野郎、ぶちやがったなっ。


 心は男だから怒りが湧いたけど、体はか弱い女なので力が入らず、へなへなと床にくずおれた。腰が抜けて動けない。


 くそっ、肝心なときにボクは……!


「生徒に手を出すな!」


 ナミダ先生が吠えている。


 それは遠吠えだ。


 ここには手が届かない。


「さぁ湯島くん、辞退せよ」息巻く汐田教授。「ワタシが急に推薦を取り消したら不自然だからな。君が辞退するのが一番収まりが良いのだ」


「やめろ。やめて下さい汐田教授――」


 ナミダ先生の声が先細った。


 失望と絶望。


 敬愛する師が、まさかの怨敵に成り下がる悪夢。


 そんな奴にお願いしなきゃいけない屈辱。


 ナミダ先生から戦意が抜けて行く。棒立ちになり、隙だらけになり、暴漢どもが間合いに寄って来ても身構えない。


 彼の持つステッキだって、今にも手放しそうなほど、力が入っていない。


 フロイトとユングが決別したように、汐田教授とナミダ先生も別れようとしている。


(こんな結末、嫌だよ)


 ボクは首を振る。


(そんなナミダ先生は見たくないよ。ナミダ先生はいつだって不遜で、自信家で、人を食ったように心を見透かして、小馬鹿にしつつも思いやりがあって、相談者を励ましてくれたじゃないか。心が挫けたナミダ先生なんて、先生じゃないよ!)


 元気出してよ、ナミダ先生。


 いつものように暴漢を蹴散らして、偉そうに心を見破って、能書きを垂れて、勝ち誇ってみせてよ……!


「単身でここに乗り込んだのが運の尽きだ」窓の外を見下す汐田教授。「所詮、君は独りなのだ。味方など居ない。足を欠損して引きこもっていた頃と同様、君は孤独――」



「いやぁ、そんなことはないですよ、っと!」



「――だ!?」


 やおら。


 部屋の外から、第三者が主張した。


 場にそぐわない、ひょうきんな軽口だ。


 ギョッとして教授が振り返る。つられてボクも体ごと向き直る。


 そこには、冴えないカーキ色のコートに身を包んだ、三〇代半ばくらいの小柄な男性が立っていた。


 あれ? この人、どこかで見たような――。


「何者だ……ぐあっ!」


 部屋に残っていた二名の暴漢が睨みを利かせたけど、雑魚も同然だった。


 男性は空手のような構えを取って、一人をカウンターパンチで叩き伏せ、もう一人には柔道さながらに懐へ飛び込むや、背負い投げで一発KOしてのけた。


 見事な秒殺だった。


「不肖、この浜里漁助はまざとりょうすけにかかれば、下郎げろうなどお茶の子さいさいだ! 現場の叩き上げで警部に成り上がったノンキャリアを舐めるなよ!」


 浜里……?


 あ、思い出した!


 確か、ナミダ先生と知り合いだっていう、強行犯係の警部じゃないか!


「一人で来たのではなかったのか!」


 汐田教授が部屋の隅へ後ずさりする。


「そりゃあ、警察と一緒に来ましたーなんて馬鹿正直に話す奴なんか居るわけないでしょうに。湯島さんはその点、人の心をたばかるのが上手ですからねぇ」


 そう言えば、警察も水面下では調べているって、ナミダ先生が話していたっけ。


 しかも、援軍はこれで終わりじゃない。


「えいっ♪」


「ぎゃふっ!」


 横から瓦礫が飛んで来て、汐田教授に命中したじゃないか。


 見れば、部屋の入口に新たな人影が立っていた。その可愛らしい声と外見は、大いに見覚えがある。


「泪先生!」


 憧れの女神ともいうべき養護教諭・湯島泪先生が、小さな体と胸を張ってキリリと屹立していた。


 こ、この人も来ていたのか……泪先生は足下の破片を拾っては投げ、拾っては投げを繰り返し、堅実に汐田教授を打ちのめす。


「えへへ~。私も役に立つでしょ? 浜里さん?」


「あなたが付いて来ると言って聞かないから、黙認していただけですよ!」


 浜里さんが嘆息しながらボクを束縛していた縄をほどき、今度はそれを再利用して汐田教授を捕縛した。手際が良いなぁ。


「湯島さーん、人質は不肖、この浜里漁助が保護しましたよー!」


「お兄ちゃ~ん、私すっごく事件解決に貢献したよ~! 後で抱っこしてね!」


 窓外にそれぞれ手を振っている。


 泪先生が居ると、どんな緊迫した場面もお花畑みたいになっちゃうな……。


「……はは。浜里さんはともかく、ルイにまで元気づけられるとはね」


 ナミダ先生が、旧校舎入口で踏ん張った。


 足腰に力を込め、義足を奮い立たせ、相貌に凛々しさを蘇らせた。


 近付く暴漢どもを、眼光だけで立ちすくませる。


 あとはもう、先生の独擅場だ。


 暴漢どもが逃げ腰になったのは言うまでもないね。


「ひいっ!」


「やめろ、来るな!」


「俺らが悪かった!」


 人質という後ろ盾がなくなった連中に、もはや勝ち目はない。


 あっさり観念して平伏する奴まで出たから、さすがにナミダ先生も苦笑したよ。


「あるある。自分の立場が危うくなると途端に命乞いする三流悪役、よくある」


 ――そして、先生の無双が開幕した。


 ステッキを振りかぶり、横に薙ぎ、すくい上げ、突き出す。


 左足の義足を軸にして、円を描くように立ち回り、敵をいなして行く。


 そのつど暴漢が一人ずつ地に伏し、宙を舞い、横倒しにされて、泡を吹いて気絶した。


 流麗な演武でも見ているかのような、素敵な杖術だった。


 まるで舞踊だ。


 暴力の血生臭さはそこになく、ナミダ先生の美しさと猛々しさだけが、この舞台を構成する全てだった。


(かっこいい……って、あれ?)


 ボクはいつしか、ナミダ先生に見とれていた。


 おかしいな。ボクは体こそ女だけど、心は男勝りで、同性の泪先生が好きなのに――。




   *




・使用したよくあるトリック/見立て


・心理学用語/適応機制、攻撃機制、同一化、リビドーの変容と象徴、モーゼと一神教



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