結
ボクは黒幕との決別を看取る――1
ナミダ先生、怒っている。
その声色、荒い口調、息遣い。
ありありと、怒号がボクたちの耳に伝わって来た。
建物を穿つ怒気。
力強い靴音。片方は義足だけど。
空気がピリピリと緊張する。
暴漢どもが尻込みしているのが見て取れた。無理もないか、いくら人質を取っていると言っても、つい先刻にナミダ先生の手でコテンパンに叩きのめされたんだもんね。それも余裕綽々と。鎧袖一触とばかりに。
そんな先生が憤慨のあまり本気を出したら、一体どんな目に遭わされるのか……もしかしたら本当に命を失いかねないんじゃないかって、暴漢どもは今さらのように青ざめ、戦慄しているんだ。
こいつらは、決して触れてはいけない竜の逆鱗に触れてしまった――。
「出て来なよ、黒幕も居るんだろう?」
ナミダ先生が、さらに猛る。
旧校舎の門前から呼びかけている。
空室の一つから彼を見下ろすボクたちだったけど、やがて教授がしびれを切らし、暴漢のリーダー格に「行け」と命じた。
暴漢はゴクリと息を呑み、数秒ほど逡巡したものの、引けまくった腰を叩かれて飛び上がり、仲間たちを伴って廊下へ出て行く。
室内には縄で縛られたボクと、それを見下ろす教授、あとは護衛の雑兵が二名残っているのみとなった。
それ以外は皆、出陣する。
ナミダ先生を迎撃すべく、入口で対決する。
「見ているがいい」
教授がボクにあごをしゃくった。
ガラスのない窓枠から、入口の外に立ったナミダ先生を俯瞰できる。
ここは廃屋の二階だった。ナミダ先生がボクを助けるには、並み居る暴漢どもを薙ぎ倒し、旧校舎に入ってここまで登って来なければならない。
「よく一人で来たもんだな!」
暴漢のリーダーが入口から声をかけた。
ナミダ先生の正面に立ち、数メートルほどの距離を保って、せいぜい威嚇している。
リーダーの左右には手下たちも整列し、決戦に備えて目を血走らせていた。中には及び腰の奴も散見されたけど。
「一人で来いという君たちの要望があったからね、あるある」ドスの利いた声で答えるナミダ先生。「そして、僕はこの通り現れた。人質を解放してくれないか?」
「やなこった」
唾棄する暴漢のリーダーが憎たらしい。
ナミダ先生もあからさまに眉根を寄せ、嫌悪感をあらわにした。
「てめぇをボコボコにするまで人質は利用させてもらうぜ。抵抗するなよ? 刃向かったら人質がどうなるか判るだろ?」
「ありがちな三流悪役の台詞だなぁ。情けない」
「何だと!」
「知能が低いと言わざるを得ないね。今日び、もっと考えてモノを言うだろう。感情のまま、気の向くまま声を発すると、こんなにも理性からかけ離れるんだね。そういう意味では君、とても典型的なサンプルだよ」
「サンプルだぁ? 人を馬鹿にするのも大概に――」
「だから、それが愚かな三下だと言ってるんだよ。君たちは本当に
「!」
ずばり明言した。
ナミダ先生はこいつらの素姓を探るべく、かまをかけている?
「医学部の博士号といえばエリート中のエリートだ。世界中から引っ張りだこだろうに、なぜ大学の椅子にこだわるんだい? いつまでも研究室にくすぶってるなんてあり得ないだろう? うん、ないない」
ナミダ先生の物言いに対し、暴漢どもがざわつき始めた。
困惑している。
外に居た連中だけじゃない、部屋でボクを見張っている教授と手下二名までもが、きょとんと顔を見合わせる始末だ。
「おい、何を言い出すんだ、湯島の奴?」
「もしかして、俺たちの正体を
こいつら全員、戸惑っている。
ボクはあいにく部外者なので、彼らの事情は何とも言えないけど。
「僕の所属する心理学部や、他の学部ならまだ話は判るんだけどさ」大手を振って語るナミダ先生。「博士号を取得した後、大学や研究所で任期制の職に就いた人をポストドクターと呼ぶ。そこからさらに助教・講師・准教授・教授へと出世できる者は、非常に限られる。想像を絶する狭き門だ。当然、競争や駆け引きが生じる」
「…………!」
暴漢どもが歯噛みする仕草を察せた。
何か心当たりがあるんだろうか?
「統計では、ポスドクが大学で生き残れる確率は一〇パーセントにも満たない。離職率ダントツだね。途中で解雇される人は、年間に千人単位で存在する。大半の人は、外部の研究施設へ働きに出ないと食って行けない」
千人単位?
生存率一〇パーセント以下?
博士の世界は厳しい。学者の世界は金にならない。
人材の犠牲の上に成り立つ世界。雇用の安定とは程遠いブラック中のブラック。
「湯島てめぇ、何が言いてぇんだよ!」
「医学部のエリートには判らないだろうけど、ポスドクは報われない。博士号はイバラの道。世間によくある評価はおおむねこうだ。君たちはどんな挫折をしたのさ? なぜ僕を闇討ちしようとした? エリートが嫉妬するとも思えないけど?」
「や、やかましいっ!」
「あまつさえ脅迫して、僕を出世から辞退させようとまで試みた。どうもおかしい。つじつまが合わない。人間の短絡的な攻撃機制は、余裕のあるエリートには発生し得ない」
「攻撃機制だぁ?」
「人間の心理で、嫉妬や欲求不満を抱えたとき、八つ当たり・暴言・暴力的な行動を起こしてストレスを解消しようとする……それが攻撃機制さ」
「…………っ」
「他にも、代替品や第二志望で満足する『代償』、幼児退行して現実から目をそらす『退行』、憧れの人物になりきって現実逃避する『同一化』などがあるね、あるある」
おおー、心理学の講釈が始まったぞ。
こんな状況でもスラスラと能書きが出るなんて、ナミダ先生、ちゃっかり冷静沈着じゃないか? 怒っているのは見せかけだけか。
暴漢のリーダーが歯を食いしばって反論した。
「だから何だってんだ! 俺たちの素姓なんかどうでもいいだろうが! 湯島、てめぇさえ蹴落としゃ、教授が俺らの面倒を見てくれるんだよ! 教授の言葉に一縷の望みを託すしか、もはや大学で生き残る手段はねぇんだ――」
「教授、ね」
「――あ!」
しまった、と暴漢が口をつぐんだけど、もう遅い。
一度発した言葉は決して引っ込まない。
教授。
そいつが首謀者だ。
今、ボクの隣に突っ立っている男性こそが――。
「馬鹿だなぁ君たちは。一体何をやらかしたらそこまで追いつめられるのさ。君たちの面倒を見るだなんて、黒幕の方便に決まってるだろ。よくあるパターンだよ」
「うるせぇ! 貴様らに落伍者の心情が判るか! 実績のねぇポスドクは首を切られたら路頭に迷うしかねぇんだよ!」
「ん? ポスドク? 君たちが?」
――違和感。
ナミダ先生の顔に暗雲が立ち込めた。
「君たちは精神医学部ではないのかい? 前述した通り、医学部のエリートなら首を切られるなんてあり得ないんだけど?」
「てめぇも言ったよな、離職率ダントツ、ブラック中のブラックだと。その通りさ。給料だって研究室の予算にもよるが決して高いとは言えねぇ。学振で高給取りも居るっちゃ居るが全員じゃねぇ。博士課程を出た人材は潰しが利かねぇ……お先真っ暗だ!」
「僕の質問に答えろ! 君たちは何者だ!」
高学歴どうしが言い争っている。
何だ?
何が起こっているんだ?
こいつらはナミダ先生の心理学部に敵対する『精神医学部』じゃないのか――?
「君たちの首謀者は誰なんだ?」
ナミダ先生は一帯を見回してから、旧校舎の二階に焦点を定めた。
そこに居たボクと、ばっちり目が合う。
ボクが捕まっている部屋を察知したんだ。
まぁ、この部屋だけ電灯で明るかったから、見当も付きやすいだろうけどさ。
ナミダ先生はひとしきり、ボクを心配そうに望遠してから顔を横に振った。
「僕を敵視する教授と言えば、精神医学部の
うん、ボクもそう思っていた。
「でも、それにしたって教授どうしの
うん……その通りだと思うよ、ボクも。
「そうなると、いよいよ暴漢たちの実態が掴めなくなる。渦海教授の傘下で、僕の邪魔をしたがる人種とは、一体どこのどいつ――」
「知りたいかね、湯島くん?」
「――だ?」
そのときだった。
ボクの横に居た教授が足を進めて、窓際に顔を出したんだ。
ついでにボクを手で引き寄せ、人質として横に並ばせる。
痛いなっ。そんな乱暴に引っ張るなよっ。
「見るが良い、湯島涙よ。このワタシが誰なのかを」
「なっ……」
言葉に詰まったのは、広場から部屋を見上げるナミダ先生だった。
豆粒みたいに遠く離れているけど、ナミダ先生はボクと教授を視認している。
ボクを見て安堵したのも束の間、続けて目の当たりにした教授の尊顔に、愕然とあごを外しそうになっていた。
ナミダ先生も、あんな顔をすることがあるんだ……。
(何を驚いているんだろう?)
ナミダ先生は、黒幕が渦海教授だと踏んでいた。そこに疑問の余地はないはずだった。
そう――はずだった。
実際はそうではないってこと。
まさか、この『教授』は、渦海ではない……?
「あなたは――」
ナミダ先生が喉を震わせた。
「あなたは――汐田教授!?」
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