ボクは二つの死体の狭間にさいなむ――2




 ナミダ先生! うっわ、何という間の悪さ。


 職員用通用口で上履きに履き替え、雨に濡れた衣服をハンドタオルで拭きながら近付く姿は、霜原から全力で侮蔑された。


 他の教師たちも、滝村先生の死因となった無能なカウンセラーというイメージを刷り込まれたせいで、どう挨拶すべきか戸惑っている。


 いや、それだけじゃない。


 ナミダ先生のさらに背後から、わずかに遅れて清田のヒラメ顔までもがひょっこり出現したじゃないか。


 そうか、この二人って同じ大学に居たから、ここに来るのも重なってしまったんだ。清田がナミダ先生の尾行をしていたせいかも知れないけど。


「おんやぁ? どうにも騒がしいですねぇ!」


 そらっとぼけた能天気な清田が、とても腹立たしい。


 おどけた舌鋒は明らかに浮いていたし、一同の神経を逆撫でした。


 ナミダ先生も、金魚の糞みたいに付いて来る清田が疎ましいようだ。横目で軽く一瞥したあと、ボクと泪先生のもとへ足早に歩み寄る。


「何かあったのかい?」


「あっ駄目ですナミダ先生、相談室は今――」


 ボクが止める間もなかった。


 ナミダ先生は眼前の惨状を一望してから、こわばった相貌で廊下に向き直った。視線を泳がせる。ボク、泪先生、教師陣、そして血まみれの霜原に目が移り――。


「君がやったのかい?」


「……とんでもない」


 ――一触即発の空気になった。


 ナミダ先生もどちらかと言えば短身だから、ノッポを見上げる格好だ。


 睨み合う両雄を引き剥がすようにして、泪先生が兄に抱き着いた。いいなぁ。


「お兄ちゃ~ん、私怖かったよぉ。しくしく」


 わ、わざとらしい……。


 さっきまで全然怖がっていなかったじゃないですか。冷静に室内を観察していたし。


 でもナミダ先生は、そんな妹を抱き留めて、頭を撫でてやった。


「よく頑張ったねルイ。よくあるんだよなぁ、相談患者がある日突然命を絶つことって。悲しいけどあるある」


「……それは貴様らカウンセラーが不甲斐ないからだ」のうのうと述べる霜原。「……心理学など……実は全く科学的ではない……同じ言葉でも聞き手によって意味の取り方が変わるように……心は不確かで捉え所がないんだ……そんな世迷言で相談者をそそのかし、惑わせ、自殺に追い込んだ……湯島氏が滝村先生を殺したも同然だ……!」


「あっはっは!」


 さらにヒラメ顔の清田まで入り込んで来た。


 声こそ笑い飛ばしているけど、顔面はちっとも笑っていない。ヒラメ顔にしわを寄せて干物みたいになっている。


「んー、スクール・アドバイザーの自分から言わせてもらえば、その言い分には反発したくなるけどねぇ。自分も心理学・精神医学を修めているんでね、ええ」


「……余計な口を挟むな、アドバイザー……」


「まぁそうツンケンしなさんな」バンバンと背中を叩く清田。「で、あの女性教師、死んじゃったんですね、お可哀相に。ふー、合掌合掌っと。いやぁ残念だなぁ、教職員の相談はアドバイザーの専門だったのに。自分なら死なせることなく解決できたのに、一体誰が彼女を追い詰めたんですかねぇ?」


「……そこのカウンセラーなのは間違いない……」


 霜原が改めて指差した。


 おいおい、ナミダ先生ったら到着早々、周囲から非難されまくりじゃないか。


(まずいな。まだ断定されたわけでもないのに『ナミダ先生のせいで教師が自殺した』という


 まるで、場の空気が誘導されているかのようだ。


 集団の『心理』を意図的に操られている。


 場の環境作りをソーシャルワーカーが、心理誘導をアドバイザーがコントロールしているようにさえ思えた。ナミダ先生を陥れるために。


「ま、自分としては手間が省けちゃいましたけどね! いやぁ残念だ!」


 ヒラメ顔の清田が、再び呵々大笑してみせた。


 手間が省けた、だって?


 さすがにボクも聞き捨てならなかった。


「何の手間が省けたんですか?」


「んー? いやぁ、ここだけの話、自分は女教師を癒す振りして挫折させ、湯島さんのせいにして失脚させたかったんですよ、これがまた」


「何ですって~!」


 泪先生が真っ先に反応した。


 ナミダ先生本人より早いぞ。どれだけお兄ちゃんラブなんだよ。


「お兄ちゃんを失脚させるってどういう了見よ!」


「ほら、自分って大学で湯島さんと対立する学部なんですよ。だもんで、そこの教授に命令されて、湯島さんの邪魔をして来いって頼まれましてね」


 やっぱり刺客だったのか! 黒幕は渦海教授だっけ?


 ナミダ先生の准教授昇進を阻止すべく、課外活動であるスクール・カウンセラーに茶々入れして、実績にケチを付けようとしたわけだ。


「だからアドバイザーの皮をかぶって、この学校に入り込んだんですよ。湯島さんの手腕に泥を塗れば、推薦も取り消されるでしょ?」


「下らない足の引っ張り合い、あるある」忌々しく頭を掻くナミダ先生。「だから大学でも僕を嗅ぎ回ってたんですね。尾行バレバレでしたよ」


「はっはっは、以後気を付けますとも」ちっとも悪びれないなこいつ。「でもね、くだんの女教師は亡くなってしまわれた! 自分が手を下す必要がなくなったんですよ。正直、ホッとしてます」


「ホッとしてる、だと?」


「だってそうでしょう? 恩師の渦海教授には逆らえない、かと言って女教師を陥れて湯島さんのせいにするのも気が引ける。良心の呵責にさいなまれていたんですよ! でも、もう自分は何もしなくていい! 勝手に目的が達成されたんですから!」


「なるほど、あなたはオレステス・コンプレックスですか。下らないけどありがちだ」


 ナミダ先生がフン、と鼻を鳴らした。


 オレステス?


「語源は、エゴと利害の狭間で葛藤する複合心理だよ」ボクに語るナミダ先生。「例えば父親と母親の方針が不一致で揉めたとき、子供はどっちを選んでも片方に遺恨が残る……そこから転じて、逆らえない目上の人物からの重圧と、それとは別の呵責に思い悩み、進退きわまった心理状況を指すようになった」


 へぇ……この場合は、清田の恩師である渦海教授の命令と、滝村先生の救済が対立軸かな? 上司の命令には逆らえないけど、滝村先生を陥れるのも気が引けた案配だ。


「そうそう! それですよ!」


 清田がナミダ先生の手を握った。


 あいにく即座に振りほどかれたけど。


「いやぁ、社会人はこうした去就に悩まされることが多くて困ります。自分は滝村さんに恨みがない、湯島さんにも恨みがない、心理学部の汐田教授にもない! なのに命令で動かざるを得なかったんですよ、ほんと参った参った」


「なるほど、全て上司の命令だったと認めるんですね、あるある」


 ナミダ先生が心底幻滅した様子で、小さく息を吐いた。


 そんなことのために業務を妨害しに来るなんて、本当に馬鹿馬鹿しいね。


 清田も葛藤していたんだろうけどさ。


「三種の職業が入り乱れた弊害だね」ナミダ先生の私見。「学校の相談業務はただでさえ煩雑なのに、管轄の異なるアドバイザーやソーシャルワーカーが過当競争を引き起こしたせいで、さらに現場が混乱した……お役所仕事によくある失敗さ、あるある」


 スクール・カウンセラーの新たな問題点。


 これは実際の教育現場で日々発生し、しばしば報告されている問題でもあるようだ。


 各職の管理団体が足並みをそろえず、急場のしのぎで導入した結果、本来なら互いを補完し合うはずの三職がぶつかり合い、能率を下げてしまった。


 結局、教職員や生徒たちが割を食わされるんだ。


 その縮図を今まさに体験して、ボクは頭痛に襲われたよ。


「……だから何だ……湯島氏が滝村先生を自殺に追い込んだのは疑いようがない……」


 RRRR。


「あ、僕のスマホが鳴ってる。ちょっと黙っててもらえますか?」遮るようにスマホを取り出すナミダ先生。「何だ、大学からか」


 うまい具合に霜原の口をつぐませた。


 ナイスタイミングだなぁ、まさか狙ったわけではないだろうけど。


 ナミダ先生は廊下の隅に移動しながら、一言二言、電話口に応答した。


 すると――。


「ええっ! うちのポスドクが、大怪我おおけがを?」


 何やらキナ臭い出来事が、向こうでも起こったらしい。


 瞠目するボクたちを尻目に、ナミダ先生がスマホ画面に唾を飛ばす。


「あの、先に帰ったポスドクさんが、帰り道で倒れてた? どうして……え、ナイフですか、お腹を一突き? 大雨で視界が悪い中、人っ気のない暗がりで……通り魔事件でしょうか? あるある……」


 人が刺された?


 そう言えば、泪先生と電話してたとき、雨の中を帰宅するポスドクさんが居たっけ。その人が被害に遭ったのかな?


「どういうことなんだ」


 ナミダ先生が珍しく思案に暮れている。他のみんなも、人の不幸に驚愕を隠せない。


 大学の同僚が事件に巻き込まれたから当然だけど、こんなに狼狽するナミダ先生は初めて見たよ。


 のっぴきならない彼の姿を、さも心地よさそうに見守る清田や霜原が、とてつもなく憎たらしかった。




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