ボクは職業の競合に辟易する――2
――翌日の午後は、あいにくの雨が降り出した。
とんでもない土砂降りだ。まるで、今日起こるであろう波乱を暗示するかのように。
(朝は雲一つなかったのになぁ……)
ボクは保健室に向かいがてら、廊下の外を眺めて肩を落とした。
今日、ナミダ先生は午後から出勤する予定になっている。彼の居ない午前中は穏やかな空だったのに、午後になった途端この豪雨だ。
(ボクは置き傘があるけど、それよりもバスや電車が遅れないか心配だよ)
なんてことを思いつつ、放課後の日課である泪先生との邂逅に胸を躍らせる。
制服のすそをはためかせて、軽やかに戸口を開けたんだ。
「泪先生、こんにち――」
「ええええ~~まだ大学に残ってるのぉ~?」
「――は?」
入室するや否や、泪先生が金切り声を上げていた。
椅子から立ち上がり、白衣をひらめかせてウロウロしている。
手にはスマホを持ち、誰かと通話しているようだ。
「もしもし、お兄ちゃ~ん? 雨のせいでバスも大幅に遅れてるっぽいけど~、いつまでも立ち往生してたら、今日は欠勤扱いにされちゃうよ~?」
立ち往生?
ナミダ先生、まだこっちに来ていないのか?
雨は意外な所で影響を与えているようだった。
「えっ? 昇進の話が立て込んでるの? バスが動かなくてちょうど良かった? ぶ~ぶ~。お兄ちゃんが来ないと私が寂し……じゃなかった、昨日の連中に出し抜かれちゃうよ~? 今も、お兄ちゃんが居ない隙にノッポが滝村先生の相談に乗ってるし~」
ノッポ……ソーシャルワーカーの霜原か。
抜け駆けしているんだな。女性を見ると助けずに居られない『カメリア・コンプレックス』だっけか?
「アドバイザーはまだ来てないよ~。居るのはノッポだけ。あのヒラメ顔もお兄ちゃんと同じ大学なのよね? 奴も雨で足止め喰らってるのね。ざまぁ~」
泪先生、ボクが後ろに居るのに、口汚い言葉を吐いておられる……。
あ、でも、ボクも一度でいいから泪先生に冷たく卑下されたい。
『さっき学内で顔を合わせたよ、あるある』
スマホの向こうから、ナミダ先生の声が漏れた。
どうやら本当に大学から電話しているようだ。
顔を合わせた、ってあのアドバイザーと? いくら同じ大学でも、違う学部ならめったにすれ違わないと思うけど。
『ご丁寧に、僕の居る汐田研究室まで挨拶に来たよ。どうやら偵察のようだ』
「うわ~、陰険」
『今も建物の角から、遠目にこっちを監視してる。あるある、本人は探偵気取りで隠れてるつもりでも、傍目にはバレバレってこと、よくある』
「気持ち悪っ。ストーカーじゃん! でもいいな~、私もお兄ちゃんを見張りたい!」
『ルイも落ち着け。ま、相手は敵対する渦海教授の手先だからね。しばらく泳がせておくさ…………あっ皆さん、お疲れ様です!』
不意に、ナミダ先生の口調が代わった。背景がガヤガヤと騒がしくなる。
知り合いが通りすがったのか?
『ルイ、待っててくれ。研究室の
「え~、私ってば放置プレイ?」
『いいから…………あっ、そうですね、雨が強くて視界が悪いですね、あるある』
泪先生のぼやきを無視して、ナミダ先生はポスドクとやらと会話を始めた。
スマホの通話はつながったままだから、内容も筒抜けだ。
『えっ、傘を持って来てないんですか? あるある、朝は晴れてたから油断して傘を忘れること、ありがちですよね。へぇ、汐田教授の傘を借りるんですか』
汐田教授の傘?
『教授から許可もらったんですか。でも、あの人の傘って派手ですよ? ほら、これ。ピンク色のストライプ……』
ピンク色の傘かよ。
確かに派手だなぁ。しかもストライプ。男性が使うのは相当きついと思う。
『色彩心理学的に、ピンクは恋愛や人間関係を円滑にする作用があります、あるある。心の調和を重んじる汐田教授らしいですが……うわ、本当に使うんですね』
何やら楽しそうなことになっているな。
この様子だと、ポスドクもきっと男性だろう。なかなか珍奇な絵面に違いない。
『ではお気を付けて…………ふぅ。じゃあルイ、ボクもそろそろ高校へ向かうよ』
「えっ、本当?」即座にスマホへ狂喜する泪先生。「お兄ちゃん急いでね!」
ナミダ先生も雨の中を突貫する決心が付いたようだ。
ようやく通話が終わった。泪先生は兄の到着を待ちきれずルンルンと小躍りしたが、くるりとターンを決めた所でボクと目が合い、ビクッとたじろぐ。
「ファッ!? 沁ちゃん、いつから居たの!」
「えっと、割と最初から」
「居るなら言ってよね~! もう、人の電話を立ち聞きするなんて悪趣味~!」
「すみませんでした。けど今の罵声、もっと浴びたいです、お願いします」
「あ~ん、お兄ちゃん早く来て~」無視されるボク。「早くしないとソーシャルワーカーが滝村先生の悩みを解決しちゃうよ~」
「そんなにピンチなんですか?」
「あいつはカメリア・コンプレックスだから、女性には優しいのよ~。さっき様子を見たら、すっかり打ち解けてたもん。このままじゃ滝村先生を救うのも時間の問題――」
「……うわああああああああ!」
「――よ?」
そこまで述べた瞬間だった。
廊下の彼方から、まさにソーシャルワーカーの叫び声が
ボクは咄嗟に保健室を飛び出した。すると、職員室からも教師たちが顔を覗かせている最中だった。みんな、奥にある相談室を向いている。
相談室のドアから、腰を抜かした霜原が這う這うの
(何だあれ。血痕か?)
見れば、相談室の床からとめどなく流血があふれていた。何だあれ? 誰の血液だ?
「……滝村先生が……死んでいる……!」
「ええっ?」
ボクも泪先生も、全速で廊下を走り抜けた。
校則違反でごめんなさい、なんて謝っている場合じゃない。
「うわ~。滝村先生ってば、首筋をカミソリで切断されたのね~」
泪先生が口許を手で覆い、見たままを語った。
そう――滝村先生は首の右にある頸動脈を携帯カミソリで切り裂かれ、絶命していた。
傍らには小物入れ《ポシェット》が封を開けた状態で捨て置かれ、化粧道具やコスメ用品などが露見していた。恐らくカミソリも、女性が顔のウブ毛を剃ったりするのに使うものだ。
室内一帯が血の海に染まっている。頸動脈の出血は派手だから、そこらじゅう血まみれになってもおかしくない。
「……ほんの少しトイレへ席を外した隙に……まさか自殺されるとは……!」
じ、自殺ぅ?
霜原が愕然と呟いた。女性を救えなくて、悔しそうな語り口だった。
*
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