《禁》:傷
《禁》:傷
カンカンカンカン。警音器の音。カンカンカンカン。打ち鳴らす。耳障りな音だ。鼓膜に響いて頭が割れそうなほどに。バーが下りていく。
一歩。
一歩、踏み出しさえすれば。
頭の中で何度も何度も反響する。やけに甲高かったはずのその音は、いつの間にかくぐもり重く脳髄を支配した。鋭く痛むこめかみに、慄える両足。奇妙で不快な音だけが自己主張する。結局私は惨めでこれっぽっちの勇気すら抱けない。
そうやって今日も無惨に下りていくレバーを嘆き見つめた。
桜は咲いていない。
「好きだなんて身勝手で罪深くて汚れた表現で彼女を語りたくない」
絞り出した声は空洞。口の中の真黒い闇を隠すような、ほんの少し開いた唇。それが僅かに動くたびに槇原の声がほんの消え入る自己主張と共に現れては消えた。
「彼女はもっと崇高で倒錯で崇拝に値する傾城なんです」
「その彼女が君を殺そうとしたとしてもですか」
「ええ、その通りです。私ぁ別に彼女になら殺されても構わない」
臙脂色のソファに腰掛けた槇原は緑茶の注がれた湯呑みを両手で包み回す。ゆるりゆるりゆる、薄い緑が遠心力に従い斜めに揺れた。槇原の手は大きくも小さくもない、やけに爪の白い手だった。うすらぼんやりとしているのは槇原の雰囲気だろう。漂うそれはどこか不自然で、彼の輪郭をぼかす。不確かな蜃気楼のように。
「むしろどこぞの誰かに殺されるくらいなら彼女のあの白くて細い指で頚動脈を、気道を、圧迫して圧し潰して欲しいくらいです。鋭い爪で掻っ切ってくれてもいい。そしたらば彼女の爪に私の喉に一番近い血が入り込んで鋭く生温く刺さり肌に染み込むでしょう」
まるで昨日食べたご飯について話すような軽さで平然と己の屍体を語っている。己の死に体を語っている。夢を見るような口ぶりでは全くない。それがそうであることに意義を唱えさせない、断固それ以外のものの存在を認めないというような語りである。伏せた目、俯いた顔がやけに白い肌に黒を生んだ。彫りの深い顔には見えないが、病人のようなその白さが影を際立たせる。
「病的ですね」
「ええ、病的です。彼女は彼女ですから」
––––––私の全てだなんて口が裂けても言えません。彼女は彼女のものだから。
「貴方は」
「槇原です」
「………槇原さんは。何故彼女が、あれに殺されると思ったのです?」
「勘としか言いようがありません。なんとなく、あれは悪いものだと思いました。殺すとか、そういう具体的なものではなく、彼女にとって駄目なものである、と」
「駄目なもの、ね」
沈黙。
桜の花びらが地面に落ちるほどの時間。
刹那にも似た永遠だ。
「彼女が望むなら––––––死んでもいい。でも」
雫の滴る––––––
「彼女は殺してはならない、彼女が殺すのは私一人だ––––––彼女の手を汚していいのは私だけだ。彼女の手を汚す者はたとえ彼女であろうとも」
音がした。
「絶対に赦さない」
「君は優しいのだね」
莫迦莫迦しい。
こいつは何を言っているんだ。もうあとほんの一、二を数える内に死ぬ癖に。頭から脳漿を流して、内臓をぶちまけて、よくも口をきいていられるものだ。むしろ感心してしまう。何故そこまでして守る。何故そこまでして想う。お前を突き動かすものは何だ。縁に拒絶され、人に疎外され、それで何を為す。
「ふふ」
何を笑う。
何が愉快だ。
「ふふ」
笑って。
こいつは笑って、
「君は、わからないんだね」
呪いの言葉を吐いた。
それが最期の声だった。
最初の声だった。
《断鋏》を傷つけた者は、いずれ縁で身動きが取れず、縊る。
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